十月も末になって、雨の日が続いていた。この頃は、すっかり、日の暮れるのも早くなっていて、雨のせいでことさら、日暮れは早かった。
駅前から少し奥まったところに、彼お気に入りの喫茶店「vision」があった。フローリングに間接照明で、店内の落ちついた趣が彼は好きだった。なじみの常連客がいくらかいるらしかったが、彼はその中に混じろうともしなければ、誰も彼に話しかけてこない。たまにマスターと二人っきりの時は、簡単な身の上話もしたが、それ以上彼の中に誰かが入ってくることもなかった。
それが心地よかった。
それで買い物帰りや何か用事があってでかけた時は、ふらりと立ち寄った。その日も、ひどくなった雨宿りを兼ねて、その店に立ち寄ったのだった。
ところがその日、駅前の本屋で取り寄せた本が意外と興味深く、ちょっと長居をして読み込んでいたせいか、アルバイトの女の子が、彼の顔をのぞきこんできたかと思うと、「沢村さん」と声をかけてきた。
彼がはっとして顔を上げると、彼女は、「沢村涼さんなんでしょ?」と言葉を続けた。
邪気のない顔だった。
元気のよさそうな目をしている彼女は、ストレートの美しい黒髪を、ポニーテールにして結んでいた。大きなロゴ入りのトレーナーにジーンズをはいて、エプロンをした彼女は、トレーを両手で抱えて、ジロジロと彼をみつめた。
彼女の視線に彼がだじろいでいると、
「さきほどから熱心に本を読んでいらっしゃいますが、コーヒーのお代わりはいかがですか?」
彼女はそんなふうに言葉をつないだ。
「これ、香住さん、お客さんの邪魔しちゃいけないよ。」
カウンターの中からマスターの声が飛んでくる。彼がカウンター前にあるいつもの指定席のテーブルでたじろいだまま、店の中を見まわすと、客はいつのまにか彼一人になっていた。そういえば通勤客の帰る時間には早く、仕事中に足を休めるサラリーマンや主婦が立ち寄るには、もう遅い時間だった。
「ああ、すいません、おかわり、いただけますか。」
おどおどしながらそう言うと、彼女は
「かしこまりました、少々お待ち下さいませ」
と姿勢を正してかしこまり、マスターに振りかえって、「ホット追加です。」と言葉を発した。
マスターに注文を出して、それなのに、彼女はそのまま彼の横に立ち止まったままだった。目があうと、顔をニコニコやらせた。愛想のいい子だと彼が恐れ入っていると、彼女は体を曲げトレーで半分口を覆って、
「いいわあ~」
と、また彼の顔をのぞきこんだ。
「何?」
彼は言葉を返すと、
「何て美しい顔なのかしら。」
と、夢見るようにうっとりとしてそう言った。
沢村は思わず体を正しくした。彼女を恐る恐る眺めていたが彼女の視線が離れることがないので、持っていた本で顔を覆いながら、ズズズと体を後ろにひいた。彼をみつめる彼女が、
「脚本家の沢村涼さんなんでしょう? 『ONE』とか、『朝が来る前に』とか書いた。」
「え?」
彼が、何でこの子がそんなことを知っているのかと思ったが、マスターの方にチラリと目をやり、そういえば以前そういう話をしたことがあるということを思い出した。
「沢村さん。」
「うん。」
「違うの?」
彼女がいぶかしげな顔でのぞき込んでくるので、彼は思わず首を横にふって、
「ううん。」
「ううんってどっち?」
「沢村です。」
「ほらね。」
彼は彼女が話すのをききながら、なんてきれいな目でまっすぐ人を見る子だろうと思った。ウロウロと視線を横に流していくと、「だってね」と彼女は言葉を続けた。
「どう見たって三十代なのに、こんな時間にいつもそんな格好で本読んでるんだから、サラリーマンじゃないわよね。」
彼女にそう言われて、彼は思わず自分の格好を見た。ポロシャツの上に、セーターを着ているいつもの格好だった。
「脚本家ってそんなに暇なの?」
彼はそれでムッとした。
「きみ、僕の作品見たことあるの?」
「あ、今ムッとした。」と彼女は面白そうに笑った。
やりづらい子だと思って視線を本に戻そうとすると、「香住さん」とマスターから声がかかった。お代わりが入ったという合図の声だった。
「は~い」と元気に言いながら、カウンターへと戻って行った。店は歩くとフローリングのため、普段は歩くとコツコツと音がしたが、彼女のはいているのがスニーカーなので、ミシミシと音が動いた。
彼女はすぐ彼の元に舞い戻ってくると、カウンターから運んできたコーヒーを彼の前に置いた。
「ないよ。」
突然言葉が飛んできたので、「え?」と彼がつぶやくと、
「見たことないよ。あたしあんまテレビ見ないもん。」
彼は無言のまま、ジロジロと彼女の顔を見返した。邪気がないのもほどがあるのではないのだろうか、と思いながら、「そう。」とだけ答えて、本に視線を戻した。
「ねえ、」彼女はテーブルに両肘をついて彼の顔をのぞきこみながら、「飲まないの?」と尋ねた。
彼は本から視線を外し、ちょっぴりだけ彼女の顔をうかがってから、彼女が運んできたカップに手を伸ばした。
それでも彼女がカウンターに戻る気配がないので、ここは無視を決め込もうと思っていると、は~とため息をつき、
「美しいわ。」
と言葉をついだ。
「ねえ、なんでそんなキレイな顔してんのに、表に出る仕事とかしないの? もったいないじゃん。」
と言ったところで、マスターから、
「ちよちゃん!」
と声が飛んで来た。と、突然、彼女はギャ――ッと声を上げた。
「もう、マスター、下の名前で呼ばないでって言ってるじゃないですかあ。」
「お客さんの邪魔しないで。」そう言った後、彼に顔を向けて、「すいませんねえ、今週からアルバイトで入った子なんですけど、どうもひとなつっこすぎて。」
「あたしも忙しかったらお客にちょっかい出したりしませんよぉ。それにこの人、あたしがおつかい行って帰ってくる前からいるじゃないですか。」
そう言われて反射的に壁の時計を仰いだ。
「そういうお客さんだっているもんだよ。すいませんねえ、沢村さん。」
「いや、僕も長居しすぎたかな?」
「いいええ、そんなことないんですよ、お気になさらずに。」
と言う横から、また彼女がテーブルに肘をついて、
「いいの、美形は何時間いてもかまわないのよ。」
と、うっとりした顔で彼の顔をみつめる。
「『ちよちゃん』?」
彼がそう呼びかけると、彼女は手で口元を覆って、
「いや、その名前で呼ばないで!」
「え、でも。」
「カスミって呼んで。」
彼の胸がチクリと痛んだ。
「え?」
「香住、名字なの。こっちの方がかっこいいでしょ?」
「いいじゃないか、ちよちゃんでも。」
「いや!『ちよ』、なんて、『ちよ』なんて、ロマンチックのかけらもない!」
彼女は両手で口元を覆ったまま、やけに大仰な動作で体を起し、後ろに下がった。ドラマ女優でもこんな大袈裟な演技はしないと思いながら、
「いいじゃないか。ちよ、カスミチヨって言うの? チヨはどんな字?」
「ひ、ひらがなで…」
「ふ~ん。」
「いや! 下の名前で呼ばないで。」
「なんで、いいじゃないか、かわいらしくて。」
「いやよ、おばあちゃんみたいじゃない。」
「そんなこときいたら、全国のちよさんが怒るよ。」
「あなた、だって、脚本家ならわかるでしょ? ロマンが。」
「ええ?」
「『ちよ』にはロマンのかけらもないのよ。この名前で愛をささやかれたら。」
「いいじゃないか。」
「だめ! だめに決まってるでしょ?」
さっきまで押され気味だったのも手伝って、名前一つでここまで引いてしまう彼女を面白いと見上げた。
「文豪の妻と同じ名前だよ。」
「え?」
「文豪の妻。谷崎潤一郎の最初の奥さんと同じ名前だ。」
「その人チヨっていうの?」
「そう。」
「最初の奥さんって何? 次の奥さんがいたわけ?」
「うん。」
彼女はためらうように彼をみつめた。
「作家の佐藤春夫が横恋慕したんだ。」
「寝取ったの?」
「寝取ったって」彼は呆れた。「そんな物騒なことはないよ。ただ、好きだったんだ。二人の文豪に愛された女性として、結構有名だよ。」
「え、で、結局最初のだんなさんとは、離婚しちゃったの?」
「そう、離婚しちゃったの。」
「悪い女ね。」
彼女のその言葉に、彼はハハハと笑った。説明の仕方が悪かっただろうかと考えて、
「悪いのは、どっちかというと谷崎の方だな?」
「谷崎って?」
「最初のだんなさん。きみ、谷崎潤一郎も知らないの?」
「コンピューター学院の専門学校生だもん。」
そういう問題かな、と彼は考えながら、
「その谷崎潤一郎は、妻の妹とできてたんだ。」
「きょ、姉妹できょうだいだったの? だめよあたし、そういう激しい世界は!」
なんだそりゃ、と彼は心の中でつぶやきながら、
「いや、それもまた、ロマンじゃないか。」
「どこが?」
「どこがって。」
「あたし、一人を愛してくれる男じゃないといやよ」
「まあ、そうかもしれないけど。」
「ちゃんと愛をささやいてくれて、」
うんうんと彼はうなずいた。
「美形なの。」
え?と彼は改めて彼女の顔を見上げた。
「お金持ちで。」
彼女は胸で手を組んで上を見上げていた。
「背が高くて。」
彼は笑いだしそうになるのをじっとこらえた。
「はげてなくて!」
ぶ――っと吹き出す声がカウンターの中から聞えてきた。その声に二人がカウンターの内側に視線を送ると、中には人が見えず、マスターはカウンターの内側に座り込んで笑っているらしかった。
「ちょっとマスター、なんで笑うんですか?」
彼女がムキになってカウンターまで走って行ってその内側をのぞき込もうとすると、入り口でカランとベルが鳴った。スーツ姿の男性客が雨をぬぐいながら入ってくる。その音で、彼が店の時計をもう一度見上げると、五時を少し回ったところだった。
「あ、香住さん、お客さん、お客さん。」
マスターがそんなことを言いながら誤魔化そうとしている。彼が彼女の後ろ姿を見ていると、口をおおきく膨らませているらしいのがわかった。が、ふと振りかえった顔は、元の顔に戻っていた。「いらっしゃいませ~」と入ってきた客に声をかける。声をかけながら、足はすでにおしぼりのケースへと向かっていた。
彼女の動作を見守りながら、そういえば、ファンレターを送ってくる子の中に、よくいるタイプだと思った。ドラマの世界など、所詮スタッフと作り上げた夢なのに、夢に食われているようだ、と話したものだった。
夢は放映している間に終わらないと、とも思いながら、それを送り出している自分は何なのだろう、などとも思う。見せるために、その世界にひたらせるために、書く夢なのに――。
その日の夜になって、プロデューサーの矢野から電話がかかってきた。次回作のうちあわせを、二人でしたいから、明日局まで来てくれないかという話だった。
一つ目のヒットを飛ばしたのは、この男とだった。が、その後ドラマ界が低調を続けるにしたがって、これといったヒットも生み出せず、彼だけでなく、誰もが出口のない迷路に四苦八苦するばかりだった。人気俳優の人気に頼り、大金をかけるだけ。ストーリーでの視聴率はなかなか稼げない。いい作品を生み出そうとすると、イメージだの他局との競争だの、さらに使う役者のために事務所やスポンサーから制限がかかるから、出来ももう一つな上に、視聴率もとれない。
視聴率のとれないドラマは評価されないのと同じといっていい。どんなにいいものを作っても、数字にならなければ意味がない。理想ではそうではないとはいいながら、現実は結局そうなのだ。それでも沢村はまだ当たっている方なので、好きなようにやらせてもらえている方かもしれない。脚本家自身の固定ファンもいるから、「沢村涼脚本」である程度のネームバリューもある。頼めば回してもらえる役者だっている。
その日、矢野が電話をかけてきたのは、例によって例のごとく、「次のいいネタ浮かんだんだ」ということだった。浮かんだといって、実際は、とっかかりの設定を思いついただけ、オチまで話はできていない。それでオチまで書けそうならゴーサインが出せるけど、所詮ネタから始まったものなど、勢いがどこかでつきる。最後でつきればいいが、最後でつきた試しはあまりない。
沢村も用事があって都心にでかけたかったので、約束はとりつけた。三クール先のドラマ枠なので、特にまだ急ぐ必要もなかった。
約束をとりつけて、それで電話での用件が終わるのかと思ったら、ふと矢野が、言いためらって、「今度はさあ…」と切り出した。
「何?」と沢村が問うと、「いや…」と相手がいいためらうので、「何? はっきり言ってよ。」と問いただすと、相手は「ン…」と言葉を置いて、
「誰も死なんやつ作ろうや。」
沢村の胸にチクリとささった。
「誰も死なない?」
「うん、だってさあ、沢村脚本で今度は誰が死ぬかって、ドラマ特集組んでるの見ると、やっぱ。」
「そんなに気になるかな。」
「いや、俺はいいんだけどね。」
いいんだけどね、と言いながら、声はよさそうではなかった。
「じゃあ、いいじゃん。」
「いや、うん。」
「殺そうとして死なせてるわけじゃないよ。筋が、そう、選ぶんだ。」
それで相手は黙ってしまった。その反応に、彼はちょっとためらって、
「じゃあ、今度はギャグにでもする?」
「何? コメディ? いいねえ。でも俺の持ってるネタはさあ。」
出た出た出た出た、「俺の持ってるネタ」、と沢村は心の中で苦笑しながら、矢野の言葉をきいていた。
受話器の向こう側と会話しながら、書きたいわけでもないのに筋を無理矢理はめていく作業に、時に激しくやりきれなくなる。パズルを埋めていく作業は楽しいこともあるけれど、この世界はあまりにもがんじがらめだ。
せめて一つぐらい、自由でさせてくれてもいいだろうに。
そう思いながら話していると、電話の向こうから、「よう、今度の製作発表の時には出席してくれよ」という言葉で、ふと我に返った。
「え?」
「だから、今度の製作発表の時だって。もうちょっと表に露出してもいいじゃんかよ。」
「ヤですよ。」
「なんでだよ、出たって減るもんじゃないだろう。」
「減ります。」
「何が。」
「僕の神経が。」
受話器の向こうからク――ッと吹き出す音が響いてきたかと思うと、途端に爆笑に変わった。
「ア――、そぉんな堂々と言える余裕がありゃ大丈夫だって。なあ、沢ちゃん本書きにしとくの惜しいくらいのルックスなんだからさあ、出たらいいじゃん。またファン増えちゃうよ、それで。」
「そういうファンは要りませんよ。」
ふと、今日の「vision」での香住ちよの顔が浮かんできて、顔がほころんだ。
「何で? 『あたし今度も絶対先生のドラマみます~』って子が出てくるかもしれないよ。」
「そんなんで視聴率とれて嬉しいんですか?」
「きっかけは何だっていいじゃんよ。要はそっから掴んできゃいいんだろ?」
掴めればいいんですがね、と言おうとして、止めた。やる前からそんな弱気でどうすんの、という次の言葉が想像できたからだ。
考えといてよ、という矢野の言葉を聴きながら、うやむやに返事をした。相手は沢村のうやむやにはかまわず、明日の約束を繰り返して、それで電話を切ってしまった。
電話を切った後の静寂の中で、矢野の言葉が浮かんでくる。
――誰も死なんやつ作ろうや――
そう願っているのは、実はいつも自分なのだ。なのに、最終回にたどり着く頃には、いつも誰かが死んでいる。必ずといっていいほど、それは女だった。母親であり、姉妹であり、恋人であり、友人だった。時に悲劇的に、時に滑稽なほど。
どれだけ努力しても、いつも誰かが必ずどこかで死んでいく。
目を背けようとするけれど、その背けようとする目に敏感に、見る側が探って見つけだすのだ。
残酷なほど、胸が痛む。
理由なんてない。ただ、彼の持つプロットが、その展開を選んでしまうだけなのだ。
最寄駅に着いて、切符を買う前に券売機の上にある時刻票を見上げると、急行が行ったところだった。次の急行は十分ほど先で、仕方ない、ホームのベンチででも待つか、と切符を買って改札を抜けると、「セ―ンセ!」と言いながら誰かに背中をたたかれた。若い女の声だと思って振り返ると、それは喫茶「vision」のアルバイト、香住ちよだった。
「や、やあ。」
「せーんせ、どっか行くの?」
彼女の進むのに押されるように、ホームへと歩いて行った。
「ああ、ちょっと。」
「ふ~ん。」
「きみは? 学校?」
「そうでーす。遅刻しちゃった。」
「はあ。」
時計を見ると十時を過ぎていた。どういう遅刻なんだろうと思ったが、沢村は専門学校のシステムをよく知らない。大学と同じならば、選択式で、朝から出なくてもいいのかもしれない。
時間が時間だし、急行電車が行ったばかりなので、駅のホームはガランとしていた。今朝降っていた雨がやんで、薄曇りだったが、夕方の予報も雨だったので、二人とも傘を持っていた。
「せんせ、見たよ。」
と、唐突に彼女は切り出した。今日は髪を下して、さらさらとした長髪を細いヘアバンドで止めている。セーターとジーンズの黒いロングスカートにGジャンというのは、今の流行りなのだろうかと眺めながら、「何を?」と尋ねた。
「先生の書いたドラマ。レンタルビデオで借りて。まだ途中までしか見てないけど。」
「ふぅん。」
「面白いねえ、どうやったらあんな話思いつくの?」
「え?」
「どうやったらあんな話」
と大きな声を出したので、彼は慌てた。
「いや聞えてるよ。」
彼女はそれで、大きく開けた口を閉じたが、疑問の目を彼に向けたまま、彼の顔を見上げた。
時々きかれる質問だけれども、そんなことわかるわけがない。ネタは、自分のどこかから涌き出てきて、それがとうとうと流れてくるものなのだ。ドラマの場合枠があって、枠の中にその涌き出たネタをはめ、ストーリーが出来あがって行く。決まり事は幾つもあって、話が進めば進むほど広がる展開の可能性は減っていき、結末の可能性もわずかになる。
そんなパズルのピースを一生懸命、搾り出しながら、ただ書いているだけなのだ。
彼が言い淀んでいると、かまわず香住は続けた。
「いっぱいいろんな経験したら、書ける?」
「え?」
「先生あんな経験、したの?」
そう言われて、彼は思わず笑った。
「しやしないよ。あれは全部、つくりごと。」
「つくりごと?」
「そ、幾つものネタがあって、それをふさわしいように話に組みたてて行くんだよ。作文書いてるわけじゃないし、自分のこと書いてたらネタなんてすぐにつきちゃうよ。」
「じゃあ、あの話は、全部先生には関係のないこと?」
香住は熱心な顔で尋ねる。彼は困って首を傾げ、
「全然ってわけじゃないと思うけど、その通りじゃないよ。でないと誰が書いたって同じになってしまう。」
「先生の特別って」
「きみ面白いね。」
「え?」
「先生だって。昨日は沢村さんって言ってたじゃないか。」
「あ、そうか。」
「沢村さんでいいよ。誰も先生なんて呼ばない。」
「ふ~ん。でも昨日インターネットで」
「え?」
「ホームページみたら、先生の、あ、」と彼女はそこでしまったというような顔をして、「沢村さんの」と言い直してから、「書いたドラマのページみつけたの。そこで、」と言いかけて、また言葉をつまらせた。
じっと彼女は彼の顔をみつめ、それから視線を落とし、また見上げた。
「特集してたページがあったの。掲示板でもその話してた。」
「何?」
「沢村さんのドラマって、必ず女の人が死ぬの?」
その問いに、彼はドキリとした。
「命をかけた恋ってあるよね。沢村さんのドラマって、どれも恋愛ものなんでしょう? いっつも女の人が死んで、だから、あたし沢村さんが、そんなすごい恋愛しょっちゅうしてるのかと思っちゃった。そうよね――、かっこいいし、三十代でまだ独身だし――。結構遊んでるのかな――、とかって、心配になっちゃった。」
「遊んでるのに、命をかけたすごい恋愛するの?」
「なんで? 違うの?」
彼女はポカンとした顔で彼を見上げた。
彼は、彼女のまだあどけなさの残る表情をみながら、フ、フ、フ、と笑う。
ホームでは、次の電車が入るアナウンスが流れ始めた。
「あ、電車来る。先生乗るの?」
「うん、きみ乗らないの?」
「あたし普通だもん。三つ先。バイクで行けたら乗ってくんだけどねー、禁止なんだ、うちのガッコ。」
「ふ~ん。」
電車の来る方向を二人で眺めていると、線路の先に電車の先頭が現れた。電車の近づく音が響きはじめる。二人で目で追いながら、沢村が、
「一度だけしたよ。」
「え?」
「命がけの恋。」
彼の突然の言葉に、彼女は驚いて思わず彼の顔を見上げた。
「一度で十分。」
と、彼は言葉を足した。
「激しくはなかったけどね。」
電車がホームの中に速度を落としながら、やかましく音を立てて入ってくる。
「うっそお。」
停車した。
線路のきしむ激しい音が止んだホームで、ガッタンと扉が開いた。いつの間に、ホームに人が増えたのかと思うような喧騒が響く。それでもラッシュ時と違ってその音は、すぐに収まった。
「君の想像にまかせるよ。じゃあ」
といって、電車に乗り込もうとすると、慌てて香住が彼の腕を両手でつかんで、
「先生!」
必死の目で言った。
「またお店来てね。」
彼はその言葉に笑った。発車の合図がホームに響いて、彼女がさっと手を離した。途端にドアが閉まって電車が走り出す。
彼は、ドアの窓ごしに彼を追う彼女の顔をみつめた。必死の顔をしている。
わからなかった。
お店に来て、なんて、あんなたわいもないセリフを、どうしてあんな必死の顔で言えるのだろう。彼女に何か、心にひっかかることでもあったのだろうか。「命がけの恋」に、何か撃たれることがあったのだろうか。
それも、作家の作り話とは思わないのだろうか。
セリフは、カメラの前で、俳優たちだけが、必死の顔をして言うものなのだ。カメラの中で、激しく演じるものなのだ。
それとも香住のあれもまた、演技なのだろうか?
「命がけの恋」も、「激しい恋」も、そう滅多とあるものではないのだ。
それは、物語の中で演じられるからこそ、正しい。
沢村も一度だけ、「命がけの恋」をしたことがある。命はかけたが、それは少しも激しくはなかった。とても、静かな恋だった。
もう十年以上も前になる。まだ高校生だった二人は、恋に落ちたのだ。
それは、二人が互いに落ちた恋だったのか、それとも、恋に憧れていた、そういう恋だったのか、未だにわからない。
わかっていることは、二人は死ぬことを夢見て恋に落ち、そして、確かに、少女は死んだのだ。
二人で死んだはずなのに、彼が残って、彼女は死んだ。
そろって睡眠薬を飲んで、手足を縛り、夜の川に身を投げたのだ。
「玉川入水みたいね」と、少女はまるで夢のように言った。
「じゃあ、ぼくは太宰治で、」
「あたしが山崎富栄。」
「結核なんてわずらっちゃいないよ。」
彼がそういうと、少女は楽しそうに笑った。
次に気がつくと、病院のベッドの上で、少女のみ、眠ったまま溺れ死んだことを知らされた。
呵責の念さえなく、心には何も残らなかった。
彼には少女の死がとても幸せそうに見えた。だから余計、その両親に責めたてられても罪悪感すら感じなかった。
時が経つにつれて、心中までのプロセスも、心中の前の情事も、心中の結末も、よくある心中事件の筋書きとおりだったことを思い知らされて、滑稽さと、羞恥のみが残ったのだった。
香住のあの様子では、帰りにでも寄ってみないと後になればなるほど気まずく感じるのではないかと思い、少し遅くはなったが、その日の帰り、「vision」に寄ってみた。
案の定ドアを開けて入っていくと、香住のホッとしたような顔で迎えられた。
「いらっしゃいませ」
そう言いながら、席までわざわざ案内してくれた。雨はまた降り始めていたので、客足はさほどよいわけではなさそうで、彼のほかに二組あるだけだった。大学生のカップルと、サラリーマン。
お手ふきとお冷を目の前のテーブルに並べて、ご注文は、という声にホット、と返すと、カウンターに振り向いた彼女が声を出さないうちから、マスターがウインクを返してきた。
「今日はごめんなさいでした。」
彼女が昼間のロングスカートにエプロンをかけた格好で、さすがに髪は後ろに結んでいたが、トレーを両手で抱えて肩身が狭そうにいう。それで彼はキョトンとして、
「何が?」
と尋ねた。
「い、命がけの恋をした話。冗談でもきくことじゃないよね。でも、まさか、あんな答えが返ってくると思ってなくて」
「え?」と彼は聞き返した。それから、
「だって、そう思ってきいたんじゃないの? ドラマを見て、もっとすごいのを、予想してたんだろう? ぼくとしちゃ、期待を裏切ったかなと思ったぐらいで」
横に立つ彼女を見上げると、間接照明のせいか、彼女の顔が薄ぼんやりと暗く見える。彼女の口が小さく「え?」と開くと、
「だって、普通そんな恋、めったにしないでしょう?」
と言葉が返ってきて、彼はギョッとした。
「そんな恋愛、ドラマとか映画の中でしか、ないもんでしょう?」
そう言われて、彼は愕然とした。
震えそうになる手を、お手ふきを取ることで誤魔化そうとした。お手ふきの濡れたシートを包んだナイロンを破りながら、
「そう、だね」
と言葉を返した。
「でも、今日ホント、悪いこときいちゃったなあ、なんて思って、先生に謝らなきゃいけないって思ってたんだ。よかった、来てくれて。」
彼女がそういうと、後ろから「香住さん」と呼ぶ声が聞えて、彼はまたドキリとした。マスターがカウンターの中から、注文が出来たから運ぶように目で合図を送っている。「は~い」と言いながら、彼女がいったんカウンターまで帰って行くと、そのコーヒーをトレーに乗せて帰って来た。
彼女がテーブルにコーヒーを置いた。自分でもよくわからず、胸が高鳴るのを感じながら、
「なんで悪いこときいたなんて…」
「え?」
「なんで悪いこときいたなんて思ったんだい?」
震える手を抑えながらそういうと、彼女は小さく首を傾げ、
「だって、思い出したくないことなんでしょう?」
「なんで?」
「なんでって…」彼女はわかりきったことをなぜ聴くのかという具合に、少し困ったように笑いながら、
「先生、顔、つらそうだったよ?」
「いつ?」
「だから、一度だけ、命がけの恋をしたって言った時。だからあたし、悪いこと聴いたなあ、って思って。すごい真剣で、すごい、辛かったんだろうなあ、って思ったら。か、軽がるしいよね、そんなこときくのって。」
彼は、彼女の言葉をききながら、運ばれてきたコーヒーに手を伸ばし、ミルクを入れた。かきまぜて口に運び、一息ついたような顔をして、
「そう? 気にすることないよ。」
「そう、かなあ。」
「うん。」
それで彼はまた、カップに口をつけた。
カップの温かさがそれを持つ手に伝わり、雨の中傘をさして歩いていたせいか、自分の手が意外に冷されていることに気がついた。
「あたし、だから、先生の、それが、ドラマの元かなあ、と思いなおしちゃったんだ。う~ん、うまく言えないけどね。」
「そんな自分の過去のことなんて、考えないさ。書いてる時はね。」
「え、そうなの?」
「そのドラマの中には、そのドラマの中の、主人公たちの人生がある。ぼくの人生でもなければ、誰が生きた人生でもない。必要な枠の中に、用意された登場人物がいて、人物たちが、エピソードを選んで、それをはめてストーリーを作っている。それを、役者たちがセリフで言ってもっともらしくしてくれるだけさ。夢を見ながら、その夢を記述できないだろう? それと同じだよ。ひたってて、人をひたらせるものなんて書けないよ。」
「ふ~ん。」
彼女は、ちょっと納得がいかないというふうに口を突き出した。
「でもさ」彼女は言葉を継ぐ「でも、何にもないところから、あんなセリフとか、出てこないよね。先生だから、出てくる言葉なんだよね。あたしレンタルで借りたの、『ONE』ってドラマだったんだけど、あのセリフ、頭に残っちゃってさ。」
そう言いながら、トレーを小脇に挟んで、両手を組み、
「『幸福の意味なんて要らない。あなたさえそばにいてくれたら、それで良かったのに。』」
「そのセリフ、僕も好きだよ。」
カウンターの中からマスターの声が飛んできて、ドキリとした。
「キャー、そうですよねー。」言いながら、フローリングの床をスニーカーでギシギシ言わせて彼女ははねた。「で、また、あの俳優がかっこいいの、これまた。そこらのバカが言っても何バカ言ってんだよ、って感じなんだけど。ね――。」
キャッキャという声に、彼はどこかホッとした。当たり前の視聴者にあったような気がして、少しホッとしたのだ。
ふと、マスターに向かっていた彼女が彼に振り返った。
「あれが、先生の『愛のカケラ』だと思った。」
「え?」
「愛のカケラ。先生の中のレンアイが、ああいう破片で出てくるのかと思ったの。あたし昨日夜寝る前ず――と、ず――と、すっごいステキなレンアイしたんだろうな、なんて、勝手に想像してたんだよ。一体誰とラブラブだったのかな――って。ちょっと妬いちゃったー。だって先生カッコいいんだもーん。」
キャッキャと嬉しそうな声に、彼は思わず苦笑いを作る。急いでコーヒーを飲み干すと、少し熱さが体から吹き出し、慌てて水を口に含んだ。
ガタンと椅子を引くと、彼女ははっとしてウキウキした動きをとめた。一瞬空気が気まずくなったかと思って彼は慌てて「いや」と言うと、
「ごめん、ちょっと、今日は仕事があって本当は早く帰らなければいけないんだ。」
と早口でそんなふうに言った。それから立ちあがり様の姿勢を正して、
「打ち合わせの帰りに寄ったんだ。君がすごい顔でお店に来てっていうから、ちょっと心配になって。」
急いでそんなふうに言葉を探し、説明すると、ふと彼女が上目遣いになって、
「なんだ」
とニッタリ笑った。
「やっだなあ、センセ――。逢いたいなら逢いたいって、そう言ってよ。やぁーっだああ、うっれし――い。あたしのこと心配してくれてたなんて。やあだなあ、照れるじゃん、そういうの。キャ――!」
彼女は両方を抑えて笑顔で照れた様子を見せている。
「いや、違う、いや、別に逢いたいわけじゃ。」
「やーねえ、せんせ。照れなくっても。あたしそんな大丈夫よ。今フリーだし。先生だけよ。ホーント」
「違うって、どうしてそう」
「わーかったわかった。もー、やだなー。はっずかしーい。」
カウンターの中から、激しく吹き出す声が聞えた。カウンターを振りかえったが、さっきいたはずのマスターが見えない。また、うずくまって笑っているらしかった。
「もう、マスター、やだ、何笑ってんですか。ちょっと、失礼じゃない?」
カウンターの中で、ヒ―ッヒヒヒ、悪い悪いという声が聞えてくる。「す、すいませんね、沢村さん」と、笑い顔のままマスターが立ちあがった。「悪気はないんです。」
彼もひきつった笑顔になったまま、彼にいいよという意味で手を上げた。
「じゃ、また」と荷物を持って立ちあがると、「また来てくださいねー」という香住の声が返ってきたので、振りかえって手を上げた。
入り口のドアをあけると、カランとドアにつけているベルがなる。ドアを境目にして外の冷気を感じ、自分の体が温められていることを知った。背後にいつの間にか香住ちよが歩みよっていて、「降ってますねー」と、声をかけてきた。空を見上げたが、既に真っ暗で、雨ばかりが落ちてくる。秋の寒さを呼ぶような雨だと思った。
もうこのままでは、今年は秋を感じずに冬が来るかもしれない。
彼が傘をさして外に踏み出すと、「気をつけて帰ってくださいねー」と香住が声をかけてきたので、彼は振り返って手を振った。
店の入り口で、温かい色の照明を背後に立っている彼女を見ながら、憎めない子だ、と彼は思った。
同じカスミでも大違いだと。
彼と心中したあの少女もカスミと言った。しかしそれは、名字ではなく名前だった。香住ちよは、ちよを嫌ってカスミと呼ぶことを求めたが、心中した女はカスミという名を嫌っていた。「佳澄」と書いた。清らかな心であることを願ってつけられた名だろうということはすぐ想像がついたが、彼女は、「私の存在自体、意味がないようだ」といって嫌った。
僕も、あんなふうならば良かったと、彼は思った。
香住のようであれば良かった、と。
あの年代、あんなふうだったら、生きるのもきっと楽だったろうに。
そう思ってから、彼はふと、あの後の人生で、自分に何か生きる上で支障があっただろうかと思い返した。
楽ではないことが、あっただろうか。
恵まれているのだ、今の地位も、生活も。売れっ子脚本家で、食うに困らず、好きなことがやれている。何も、苦痛なことなどない。何も、困ったことも出来していない。そうだ、楽でないことなど何もないのだ。
では何が、心にかかるのだろう。
「佳澄」は罪悪でも何でもなかった。そこには愛さえなかった。ただ二人で、現実からの逃避行を夢みていただけだった。彼の言葉を「愛の破片」と、あの「香住」は言ったが、言葉たちは、ストーリーの中から必要に応じて出てくる言葉なのだ。そこに彼自身のセンスはあっても、人生まで含まれているはずなどない。
「愛の破片」ではない。もしそういうのなら「氷の破片」だ。
その冷たい言葉に、彼らはなぜあれほどに感じるのだろう。
それは、やはり、役者の力だろうか、それとも、組み込まれたストーリーの力なのだろうか。
彼はそう考えながら、駅前の通りを通りすぎ、雨をよけて商店街に入った。
華やかな温かい空気と明るさが、パッと彼を包んだ。音楽と商店街独特の夕方の活況が、少し彼の気分とはかけ離れて感じる。
その時だった。
彼は商店街にすえつけられたスピーカーから流れる音楽に、足を止めた。
しばらくその歌声にききいると、そうだ、と思い出した。
流行歌じゃないか。
あんな子にしては、「愛のカケラ」なんて気のきいたことを言うと思った。今、そういう歌が流行っている、それに乗せられて、あんなことを言っただけなのだ。
フフと彼は笑った。
歩く彼の目から、涙がにじんできて慌てて手で顔を被った。
情けなかった。
羞恥にも似た感情が湧き上がる。
確かにあの時、少し、彼は「救われた」ような気がしたのだ。
救われた――――何に、何から?
自分で問うてみても、答えはなかった。
商店街の中を、うつむいて、足早にとおりすぎる。
何もない。
ただ枠の中にエピソードを入れて、ストーリーを練り上げるだけ。
パズルを組みたてるように――。
そこに個人的な感情など一ミリだって入りはしない。その人生は、登場人物たちの人生であって、彼の人生ではないのだ。
彼は、雨の中、家への道をひたすらに、歩き続けた。
愛などない、夢など見ないと、頭の中で繰り返しながら。
そしてまた、ただひたすらに彼は、その無機質なストーリーの中で、きっと、女を、殺しつづけるのだ。
愛の破片で―――。
(2000年10月30日 2007年5月12日加筆)