愛の破片(2)―アイノカケラ2―

 僕にはいつも、心に描く風景がある。
 何か新しいことを始める時、気分がいい時、いつも心をよぎる景色だ。
 それは夏の野原、よく晴れた日、青草の大地の上をばたばたと足音をさせ、草とその下の土の感触を確かめながら、裸足でかけていく。
 その心の中でかけていくのは、いつまで経っても――二十を過ぎようとも、三十の歳を越そうとも、少年のままの僕で――衣服もランニングに短パンと、いかにも少年らしい姿なのだ。
 僕は海風をうけ、髪をなびかせながらかけていく。
 上からは照りつける太陽――見上げればきっと眩しいだろう――走り続けた先に、断崖がある。
 目前に豊かな水をたたえた大海原が広がる。
 ここで、大海原が見えたところで、僕の夢想はエンディングを迎える。
 飛べないからだ。
 夏の野原をかけぬけて、かけぬけた先は大海原の見渡せる断崖絶壁――しかし、その夢はその先の景色を見上げたところで果てるのだ。
 ただ僕は、断崖の高みから、夏の空と、海と、潮風を感じ、背後に、夏の野原の青々とした広がりを感じ、景色にとけ込めず、一人取り残されたのを感じて、ただ、そこに立ち尽くし、夢想は終わる。
 続きは全く存在しない。
 果たして、この景色は僕の記憶の中のものだろうか、と、記憶の中に想いをめぐらすが、記憶の中にはさっぱりその憶えがない。
 もしかしたらこれは、僕の憧れかもしれないし、心の中の何かを象徴してるのかもしれないし、遠い過去の僕の原風景なのかもしれない。
 裸足で夏の野原をかけていくのが、僕を決定づける何かなのか、夏の大空と海原を前にし、断崖の上でただ立ち止まるしかないのが僕なのか、それはわからない。
 ただこの風景は、いつも心の中にある。
 いつも僕の中にあって、明るい色彩を放ち、今日も僕を何かから救っている。
 不思議な光景なのだ。


 家のドアを出てしばらく歩いたところで、薫は軽く身震いした。
 部屋の中で感じたよりも今日はずいぶんと気温が低い。
 このままでかけては寒すぎると思い、家へと引き返した。
 玄関を開け、階段をかけのぼり、部屋のクローゼットまで走り、上着をとってひっかけると、また慌てて玄関へと戻って外へ出た。鍵を掛ける。
 そこで「薫さん」と呼び止められた。
 振り返ると、初老の女性が荷物を持ってよたよたした足取りで駆け寄ってきた。
「まあ、よかった間にあって。意外と時間がかかっちゃって。ごめんなさいね、ギリギリだったわ。」
 薫はそこで、あっと思った。
 今日でかけるついでに、涼のところへ届け物をする約束をしていて、すっかり忘れていたのだ。
 彼女は上着を取りに戻ってよかったと思いながら、苦笑いを浮かべた。
「いえ、私が早めに声をかければよかったんですけど。」
「いえいえ、ちょっとお客様がきてぐずぐずしてたものだから。じゃあ、お願いしますね。」
言って、紙袋を一つ手渡された。いつものように少し重い。
 彼女は婦人に「じゃあ、いってきます。」と頭を下げ、その場を足早に後にした。
 歩きながら、手に提げた紙袋をちらっと見て、ロッカーに荷物を預けて街を歩こうと考えた。
 涼の母親は自分が都心へと出かける時、いつも下着や服や手作りの料理を自分に預ける。しかし、これは本当に涼にとって必要なものなのだろうか。
 重いからいやというわけではない。面倒だからというわけでもない。しかし、涼の収入ならおそらく、もっといいものを自分で買うことができるだろう。
 母親の手料理も、それほど喜んでいるようには思えない。
 それよりも、何かが涼を喜ばせることがあるのか、ということが最大の疑問だ。
 快活に笑った姿もあまり見たことはなかった。
 笑わないわけではない。性格が、暗いわけでもない。冗談だってたまに言う。でも、なんだろう――あの事件以来、もう十年以上になるけれど、彼の中には何かわからない「影」が入り込んでしまった。
 それでいて不思議と、黙っていても妙な艶がある。
 あれも、あの事件のせいだろうか。
 すべてをあの事件のせいにしてしまうのは危険だけれども、とにかくあの事件以降、彼といるとどこか気まずかった。自分には関わりのない事件ではあるけれども、彼の中にさす「影」と「艶」が、何か彼女に居心地悪くさせる。
 涼ははずかしがりなのか、めったに目を見て話さないし、たまに見て話すとドキリとするぐらいにみつめるし、早い話、面倒くさいのでも、重いからでもなく、涼という人そのものに面会することが、涼の母親からのおつかいを彼女に躊躇させた。
 駅へとの道を急ぎながら、寒空を見上げ、今日彼は家にいるのだろうかと思った。
 忙しいといっても、仕事柄家の中の仕事が圧倒的に多い。
 たまに打ち合わせや買い物などで留守にしていることがある。今日も願うことなら、いなければいいと思った。
 嫌いなのではない。居づらいのだ。
 それをあの涼の母親にもいいかねて、それでも断れずに荷物を運んでしまう。
 彼のそばにいて感じるのは、あの事件のときのわだかまりか、それとも、凡人にはわからぬオーラのせいか。
 あの事件の後は、まるで何事もなかったように、日々の生活に戻り、一浪して大学へ進学すると、以前から続けていた創作活動を当然のごとく再開し、当然のごとくその道の人とまじわり、ごく自然に脚本の仕事へと就いてしまった。
 そんな人を、凡人の感覚でとらえようとするのが、無理な話なのかもしれない。
 彼は、普通の人とは違う。
 そう、だから、近づきすぎてはいけない。
 でないと、惑わされてしまう。
 普通ではいられなくなってしまう。
 彼と事件を起こした、あの少女のように――。


 活字の羅列の海におぼれてしまいそうなほど、「世界」に浸りこんでいた沢村涼の視界に、若い女の白い、華奢な手の甲がにゅっと入り込んできた。本の上部から、つややかな丸みのある爪先が、下へと向かって入り込んでいる。
 それでふと我に返った彼は、その手の主を確認するかのように頭をもたげた。
「セーンセ!」
頭をもたげると、見覚えのある顔が見えた。
 笑っている。
 香住ちよだ。
 とっくりのセーターにジーンズ、エプロン姿が今日も愛らしかった。
「セーンセ。ねえ、ちょっとお茶しない?」
そう言われて、思わずテーブルの上の自分のコーヒーカップを見た。もうなくなったかと手にとって中をのぞいてみようとしたところで、
「あん、違う違う。」
とちよに制された。
 彼はまだぼんやりとした頭で周囲を見回した。
 喫茶「vision」の店の中だ。
 いつもと同じように、カウンターに近い窓際の席に腰を下ろしている。
 ぼんやりとした彼に、ちよは言葉をついた。
「前にすわって、ちょっとお話していーい? ねえ、センセ。」
「あ、うん。そう、きみ、仕事は?」
「やっだあ、先生のほかに誰もいないのなんて、見たらわかるじゃないですかぁ。こぉんな寒い日に、みんなノコノコおでかけなんてしませんよぉ。」
 彼はハハと笑った。
 ノコノコおでかけしてる自分はどうなるんだ、と思いつつも、前のいすに浅く腰を下ろすちよの姿を見守っていた。
「ねぇ、先生。」そう言いながら、ちよは恥ずかしそうにうつむきかげんになった。それからさらに恥ずかしそうにモジモジとうつむくと、エプロンのポケットから何ものかを取り出して、彼の前の机の上にカチンと音を立てて置いた。
「これ、あげます。」
言われて机の上のものをのぞきこむと、平たい小さなプラスチックのケースが見えた。
 MDだろうかと思って、手にとろうとすると、
「是非! センセ!」
と、両手を組んで「お願いポーズ」のちよが乗り出してきた。
「是非! センセ! きいてください!」
見るとちよの顔、特に目が、異様にキラキラしている。
「これは、何?」
「ゆいちゃんの曲ですうー。」
「ゆいちゃん?」
「そうでぇす。先生、是非是非きいて下さぁい。」
ちよが甘えるようなあまったるいしゃべり方でねだる。なんだか気持ち悪いなと沢村は思った。
「何で僕が。」
「是非!」そこでちよが乗り出してきた。
目はきらきら光ったままで、むき出すかと思うほど見開いていた。両手は組んだままだ。ちよはその格好で続けた。
「次のドラマの主題歌に!」
 そこまで聞き終えると、突如として沢村に倦怠感が訪れた。
 新人のものを主題歌に使って下さいとのお願いはよくある。たいがいはレコード会社や所属事務所からテレビ局あてに送ってくるのだが、どこから聞きつけたのか、無名のシンガーが、直接彼の自宅へMDを送りつけてくることもあった。
 もちろんどれもほとんどきいていない。
 最初の頃は一応律儀にきいていたが、数が多過ぎてきいてもキリがないのと、無名なものに限って箸にも棒にもかからないようなどうしようもないのが多いので、もらっても、プロデューサーから進められない限りはきくこともなかった。
 有名どころはさすがに趣味があえばきくことはあったが、ほとんどはきくこともない。
「主題歌は僕が決めるんじゃないよ。」
「でも、先生が後押しするだけで随分違うでしょう?」
「うん、さあ…。どうかな。」
「ゆいちゃん最初のシングルがスマッシュヒットして、ファーストアルバムもオリコンチャートに入ってるんですぅ。ねぇ、先生、お願いしますぅ。」
ちよの話をきいて、なんだ、全くの新人というわけでもないのかと、テーブルの上のMDを手にとってみた。見ると、タイトルやアーティスト名が丸字のゴシック体で極彩色にカラー印刷してある。これを俺が持つのかよ、と思いつつ、目で文字を追った。
 アーティスト名が「YUI NATSUNO」と書かれている。
「グループ名はないの?」
「は? グループ名?」
「うん。」
ちよは少し考えるそぶりを見せてから、
「TMレボリューションみたいに?」
「TMレボリューション?」
今度は沢村の方が少し考えた。
「一人か。」
その言葉にちよは合点がいったというふうで、
「ああ、そう。一人ですよ。なんだ。あ、言われてみれば、名前だけ見てると、ゆいちゃんとなつのちゃんの二人組みに見えるかも。ていうか、先生、ゆいちゃんマジ知らないのぉ?」
「マジ知らないなぁ。」
「TMさんは知ってるのに? ひどぉい。」
「だって西川君は僕とも年が近いし、…ああなるほど、なつのゆいさんだ。」
その言葉にちよはぎょっとした。
「違います! ゆいなつの。ゆいが名字、なつのが名前!」
なぜか目の前のちよはいつの間にか怒り顔になっていた。
 沢村は慌ててMDに書かれた「YUI NATSUNO」の文字を見た。はっきり言ってこれではどちらが名字でどちらが名前か、知らないものにはわからない。ちよの表記の仕方が悪いのではないかとも思ったが、目の前の彼女は怒り顔になっているので、責めるのも気後れした。
 それで仕方なく、
「ゆい、なつの。なるほど。どんな字を書くの?」
と言葉を足した。
「結ぶっていう字で『結』に、ひらがなで『なつの』。」
「あぁ、なるほど。変わった名字だ。本名?」
「本名は、下の名前は漢字で夏の野原で夏野なんですけど、芸名はひらがなで。」
「ふーん。詳しいね。」
「先生が知らなさすぎです!」
 沢村は苦笑した。
 こんなことにいちいちムキになって怒らなくてもいいだろうにと思いながら、鼻をふくらませて怒るちよの顔をみつめ、笑い出すのをこらえた。
「まぁまぁ、そんなに怒らなくてもいいじゃないか。可愛い顔が台無しだよ。」
 ほんの軽口のつもりで言っただけだった。
 しかしちよはその言葉で、イスの背もたれに体を預けると、両手で両頬を覆って目をキラキラとさせた。心なしか顔が瞬時に紅潮する。そして、
「まあ! か・わ・い・い?」
それからウフフ、と笑うと、
「やっだぁ、先生、そんな正直なこと言ってー。キャ――ッ!」
「いや、まあ、うん。」
「キャ――ッ、先生ったら、やっだあ。もう、照れるじゃないですか、そんなこと言っちゃ。それとも、もしかして、今の、愛の、コ・ク・ハ・ク? キャ――…。」
ちよは「キャ――」という言葉にのけぞりそうになった。それから姿勢を戻して、ふうとため息をつくと、
「ああ、美しすぎるって、罪だわっ。」
「いや、そういう意味では。」
 カウンターの向こうから案の定、マスターの忍び笑いが漏れてくる。
 沢村は一方的にまくし立てる香住ちよを見ながら、なんだこの大阪のおばちゃんみたいなノリは、と思った。
 ちよはどちらかというと丸顔で、目の大きなかわいらしい顔をしているが、美しすぎるというほどではない。
 少なくとも「美人顔」にはほど遠かった。
 とりあえず、ちよの機嫌は直ったが、目の前で一人ウフウフしていられるのがやりきれないので、話題を変えようと、さっきちよにもらって、今手に持っているMDのケースを眺めた。
「おススメの曲はある?」
その言葉にちよは真顔になると、
「最後に入ってる、『あいたくない夜に限って』って曲あるでしょ? それ今週出たばっかりのシングルなんです。きいてみてください。」
ケースに付されたタイトル表のタイトルを順に目で追っていくと、確かに右側の一番下に『あいたくない夜に限って』とある。ネガティブな言葉をよくタイトルに選んだものだと思いながら、曲一覧にザッと目を走らせた。
「曲は自分で書くの?」
「そうです。詞も曲も、全部。」
「ありがとう。まあ、きいてみるよ。」
「はい、是非、きいてみて下さい。」
熱心に薦める彼女の顔をみながら、きみはゆいちゃんの広報活動でもしてるの?と尋ねそうになったが、やめた。
 ファンなどというものは、みんなこんなものなのだろう。
 もしかしたら自分も、自分の知らないところで、自分の知らない誰かが、自分の書いたものを誰かに薦めているのかもしれない。昔の作品のビデオが未だに売れ、レンタルビデオが回るのも、あながち出演している俳優のせいばかりとも言えないかもしれない。
 彼が次の言葉を言おうとした時、入り口でカランとベルが鳴って、スーツ姿の男が二人入ってきた。すかさずちよが「いらっしゃいませぇ。」と言いながら席を立って行った。「先生、あとでね。」と小さい声で振り返りながら言うと、いそいそと水とおしぼりをトレーの上にのせ、客二人が座った席へと歩いて行った。水とおしぼりをテーブルの上へ置いていると、客はすかさず「ホット。」「僕も。」と続けた。ちよが元気に「ホットツーでーす。」とマスターに声をかけると、マスターは伝票に注文を書き込んで支度を始めた。
 沢村が時計を見ると、五時少し前だった。
 意外と長居したものだと思い、帰ろうかとも思ったが、「あとでね。」というちよの言葉を残して行くのもためらわれた。
 しかし、特に用事はないだろう。
 彼は荷物をしまうのに、もう一度手の中のMDケースを見た。
 YUI NATSUNO――結夏野
「是非」と言いながらちよが歩いて近づいてきた。二人の客への給仕が終わったらしい。沢村の手元を見ながら、ちよは続けた。
「是非、主題歌に。ね、先生。」
その言葉をききながら、彼は思わず苦笑した。
「約束はできないよ。いろんな力関係もあるしね。」
「あら、そうなんだ。」
「とりあえずきいてみるよ。ん、でも彼女、何で本名の表記にしないのかな。」
「本名? 夏の野原の方?」
「そう。」
「さあ、バランスが悪いとかじゃないですか? 名字が変わってるし、一字だし。どうして? 夏の野原の方がいい?」
「うん。」
そう言って彼は口ごもらせた。
「裸足で、かけていけそうだ。」
その言葉にしばらく、ちよは真顔になって沢村をみつめていた。沢村がその場を取り繕おうと、「いや、僕の勝手な感想なんだけど」とごにょごにょと付け足すと、突然ちよの目がきらめき瞬いた。そして、いつものように胸の前で両手を組んで指と指を絡ませると、
「先生! 詩人!」
「いや、僕は脚本家なんだけど。」
「きゃく、ほん、かっ!」
クーッという笑いを抑える子が、カウンターの中から響いてくる。
「もう、マスターったらまた笑って」
ちよがカウンターの中へ向かって声をかけた。
 ちよは沢村に向き直ると、
「えー、でも、夏の野原で『裸足でかけていけそう』なんですか? あたしそんなこと思いつかない。」
「え? そうかな。」
「んー、だって…。」
ちよは考える素振りを見せた。手を組んで視線を上に上げて考えていた様子だったが、ふと気づいたという様に、
「そうよ先生、裸足だと、熱いわ。」
「は?」
「いくら草の上でも、裸足だと夏は熱いと思うの。」
「はあ…。」
「だから、走るなら、早朝ですね。それか、夕方。」
「そう?」
 そんな具体的なことなど考えたことはなかったと、沢村は思った。
 確かに都会の草原なら草の上もある程度熱いだろうが、夏の田舎――たとえば海辺までも、熱いだろうか。
 沢村が言葉を言いあぐねて言葉を探すような素振りを見せたので、ちよは黙って次の言葉を待っているふうだった。
 それで、沢村は次の言葉をついた。
「いや、僕の原風景にね、たぶん、原風景だと思うんだけど、夏のよく晴れた野原を、裸足でかけていくという情景があるんだ。僕の記憶か、何かで見た映像かはわからないけれども。それを思い浮かべるといつも、爽快な気持ちになって、心が楽になる。」
「ふーん、その妄想の中では、足熱くないんですか?」
 妄想といわれて、沢村はがっくりときた。
「妄想ねぇ。せめて空想と言おうよ。まあ確かに、熱くないよ。気持ちいいぐらいだ。」
「ふーん。」
「海辺だから、海風がふいて熱くないのかもしれないし、草のおかげで地面が熱くないのかもしれない。その野原をかけ抜けると、海なんだよ。断崖絶壁になってて、その断崖の向こうに、夏の青い海と空が見える。」
「へー。」
 立ったままの香住ちよと、座った沢村涼の間にしばし沈黙ができる。ちよはちょっと首をかしげて、
「それで?」
と尋ねた。
「それでとは?」
「その続きは?」
「ないよ、そこで終わり。絶壁で行き止まり。」
「えーっ、なんじゃそりゃ。」
「なんじゃそりゃって、それじゃあ、いけないの?」
「いけなくはないですけど、断崖で立ち止まって終わりなんですか?」
「終わりだよ。行き止まりだしね。空と海に溶け込めないと思いつつ、焦がれた気持ちをかかえて終わる。飛べたらいいのにとは思うけどね。」
「飛んじゃえばいいんですよ。」
この言葉に思わず沢村は面食らった。
「身投げかい?」
「違いますよぉ。飛ぶんですよぉ。どうせ妄想でしょ? だったら、走って来たんだから、いっそのこと飛ばなきゃあ。えいって。」
 ちよの「えい。」という言葉に、沢村は思わず断崖のところでぴょん、と飛び上がる姿を想像した。しかも飛び上がった姿はいつもの空想の中に出てくる少年の姿の自分ではなく、大人の姿で、普段しているような服装で飛び上がったのを想像してしまった。
 沢村は思わず、右手で頭を抱えた。
 彼女を知って一ヶ月になるが、未だに香住ちよワールドにはついていけないところがある。
 飲み込めない。
 沢村は気を取り直し、顔を上げた。
「そうだな、飛行機みたいに飛べたらいい。」
沢村のその言葉に、ちよは右手の人差し指をたてて、ちっちっちっという舌打ちと共に指を左右に動かした。
「やだなあ、先生。どうせそこで飛ぶなら、鷹か鷲でしょ? そんな飛行機なんて固いもの持ってきちゃダメ!」
 なるほど。
 思わず沢村は感心した。
 夏の野原をかけぬけて、飛び立つ時は少年から鳥に変わる。心に思い描くと、その姿は確かに鮮やかだった。
「これは、一本とられたかな。」
 ちよはウフフと笑った。
 それで、その時を機に「僕はもうお暇するよ。」と立ち上がると、店の入り口のベルがカラランと音を立て、新しい客が入ってきた。学生らしい若い女の二人づれだった。
「いらっしゃいませー。」とちよが声をかけた。沢村が出口へ向かおうとすると、ちよが、
「あ、先生、MDちゃんときいて下さいよー。よろしくお願いしますねー。」
というので、笑いながらちよに向かって右手を上げた。
 店のドアを抜ける時に、店の中にいたサラリーマン風の客が、「何、香住ちゃん、またゆいちゃんの布教活動してんの?」とちよに声をかけているのがきこえてきた。それに対しちよが、「布教活動なんて、そんな人聞きの悪い! 私はいいものを薦めてるだけです!」と返しているのが聞こえてきた。
 布教活動か、と、それを遠くで聞きながら、沢村は一人笑った。
 ファンというものは純粋だと思った。その裏で、市場の原理に基づいて、どれだけハードなやり取りがなされているのか、彼らは知らない。
 沢村は鞄の中のMDを確認すると、歩き始めた。


 沢村は店を出て歩きながら、何かが違う、と思った。
 香住ちよが描いた夏の野をかける「夢想の続き」は、何かが違う。
 あの続きをつけられても、やはり自分の中では、断崖を前にして立ち止まるしかないと思ってしまう。
 青い海と空を前にして、立ち止まるしかない。
 それが性格の差なのだろうか、と思った。
 確かに、空想なんだから、続きはいくらでも続けられる。どんな空想であろうと、自由だろう。
 この夢の話をして、確かあの「佳澄」も、続きの話をしたように思う。
 あれは、高校の教室、放課後だった。
 二人のほかに誰もいなくて、窓も扉も開け放たれていた。
 教室の中から見える夕暮れの街の景色が綺麗だと思いながら、教室で二人きりですわっていた。彼女は授業のノートを写しているのだったか、よく覚えていない。会話をしても大丈夫な書きものの何かをしていて、佳澄は言ったのだ。
「沢村君らしいよね。」
「何が?」
「立ち止まって、指くわえて見ているの。」
「指くわえてって。」
「せっかく走ってきたのに行き止まり。することないから、見てるだけ。」
「でも断崖なら仕方ないじゃないか。」
そこで彼女は手を止めて、左手を頬にあてた格好で頬杖をつき、流し目で沢村を見た。黒目がちの形の良い目にみつめられると、いつも沢村はドキリとする。動くたびにサラサラと揺れるロングの黒髪の、その髪の動きを見ているのが好きだった。
「飛び込めばいいのよ。無理を承知で。進めば何か手に入るかもしれないじゃない。」
佳澄の、意味あり気な黒い瞳に射すくめられて、言葉よりも先に空気にのまれそうになる。
 その瞳は存在感がありながら、どこかいつも生気がなかった。やる気がないのか、生きる気力がないのか、彼女がよく口にした「だるい」と言う言葉にとても似合っていた。
 飛び込めばいいじゃない、の言葉に、その時彼は、「君ならそうする?」と問うた。
「そうねぇ、」と言って、彼女はしばらく考える素振りを見せると、「それ以前にあたしは、野原があっても走らないわ。熱いし、しんどいし。沢村君だから走るのよ。無邪気に。」
 彼女は言って、ノートに視線を戻した。
 背中に流された髪が、サラリと前に流れ落ちて揺れる。彼はその髪の動きを見ながら、確かに佳澄ならそうするだろうと思った。
 体が弱いらしいでもないのに、いつも体に倦怠感がまとわりついている。
 何故かいつもやる気がない。
 そのせいか、世界を少し斜めに見ているところがあって、皮肉屋だった。
 心中の直前、彼が太宰治で、彼女は山崎富栄と言ったが、案外性格は男女全く反対だったかもしれない。
 より、死に近かったのも、その死に誘ったのも、彼女だった。
 行き当たりばったりで死を選び、彼女につきあった彼とは、随分と違っていた。


 マンションにたどり着き、入り口横の集団ポストの中を見ると、新聞の夕刊と一緒に大家からのメモが入っていた。
 ――お荷物をお預かりしています――
 宅配かと、管理人室のドアを叩くと、紙袋とメモを渡された。メモの主は〝薫〟となっている。
 一瞬ドキリとした。
 心の動揺を知られまいと取り繕い、メモを紙袋に放り込みながら、管理人に礼を言うと、管理人室を出た。
 急いでエレベーター室に向かう。エレベーターホールでエレベーターが来るのを待ちながら、先程の紙袋に放り込んだメモを取り出し読もうとした。しかし、読もうと取り出す間もなく、エレベーターがやって来た。即座にエレベーターに乗り込むと、目的階を押してもう一度メモを取り出そうと試みた。紙袋から取り出し最初の「涼君へ」という出だしを読んだところでエレベーターはあっけなく着いてしまった。
 エレベーターをおり、エレベーターホールで続きの文字に目を走らせる。華奢な女文字は、少し小さくひかえめながら美しく読みやすかった。

「涼君へ

 ご飯ちゃんと食べてますか? お母さんが心配していらっしゃいました。
 近くまで来る用事があったので、お母さんに頼まれたものを持って来ました。
 忙しいでしょうけど体には気をつけて下さいね。

薫 PM.4:50」


 彼のところへやってきて、時折留守の時に置いていくいつものメモと大差なかった。そこには余計なことも、何の色艶さえも含まれていなかった。
 彼は会わずに済んでホッとしているのと、メモの内容があまりにもそっけないので、少し気落ちした。気持ちを整理できなくて、しばらくエレベーターホールに立ち尽くしていたが、エレベーターの動く音で我に返り、部屋へと廊下を歩き出した。
 歩きながら小さなメモを右の手の平の中に包み込む。包み込んだまま、右手で胸元を静かに押さえた。そっと、残り香を試しにかいでみたが、その香りは残っていなかった。ただ華奢な女文字に、華奢な女の後ろ姿を思い浮かべるだけだった。
 いくつになっても――母となっても、その華奢な姿と、少女のような清潔感は変わらない。昔から、今も、その本質を保ったまま、そこらの女優にもひけをとらず、いや、そこらの女優の俗っぽさを排し、ただの女なのに、ただの主婦なのに、ただの母親なのに、なぜか誰よりもうつくしい人だった。
 彼は開錠して、部屋のドアを開けた。
 室内の廊下を歩き、南向きのリビングダイニングへと向かう。
 入り口で、もう薄暗い部屋に明かりをつけると、食卓の上に荷物を置いた。
 電話をみると留守電が点滅している。再生ボタンを押すと、母親からの声だった。
「涼、お母さんです。今日薫ちゃんに荷物を預けました。家にいてください。それだけです。また電話します。」
 そういって電話は切れた。かかってきたのは昼過ぎの時刻になっている。
 一応携帯電話を取り出してみたが、母親からの着信記録はなかった。
 電話はでかけている間にかかったらしく、いつもながらに遅いよとは思ったものの、母親の少しルーズなところに感謝し、自分が留守の時に彼女が来たことに、改めてホッとした。
 しかし本当は、会いたかったのかもしれない。
 でも居ずらかったのも確かだろう。
 ――沢村君らしいわよね――
 さっき思い出していた佳澄の声がよみがえる。
 ――立ち止まって、指くわえて見ているの――
 ほざいてろよ、と、心の中でうそぶいた。
 ――せっかく走ってきたのに行き止まり。することもないから
 彼は佳澄の声を心の中で無理矢理断ち切った。
 あの女は、もう、十年以上も経つのに、一体いつまで俺の心の中に侵入してくるのだろう。
 しかもいつまで経っても年をとらない。自分は一方的に若いままで、この世にいないくせに、いつまでも語りかけてくる。
 好きではなかった。
 魅かれたけれど、好きではなかった。
 好きではなかったと、言っている。愛していなかったと、言っている。それなのになぜ、しつこく立ち現れるのだ。
 お前だって俺のことなど、たいして好きでもなかったくせに。
 彼はまた、この考えをも断ち切った。
 相手は既にこの世にいない。考えても仕方のないことだ。
 彼はそこで、テーブルの上に置いた荷物の、薫の持ってきた紙袋の中身を調べた。
 下着、シャツ、煮物、つくだ煮…持ってくるのが重かったろうなどと思いながら、中のものを改めた。こちらで買えば揃うものばかりなのに、それでも渡したがるのが親というものなのだろう。最初は拒み続けたが、彼の方が根負けして――いや、断るのも面倒くさくなったというのが正しいか――受け取るようになった。
 彼は紙袋を机の脇の床の上に置くと、自分の鞄の中の今日買ってきた本を取り出した。すると、カチャンと音を立てて机の上に何か落ちた。
 MDだ。
 ちよを思い浮かべて、思わず笑顔になった。
 是非!という言葉が頭の中で連呼されると共に、ちよの「お願いのポーズ」が頭に浮かぶ。
 彼はMDの曲一覧の文字に目を走らせると、食卓横のソファの前にあるオーディオ機器のところまで歩いて行って、電源を入れ、MDを機器にすべり込ませた。ちよがおススメだと言った最後の曲にリモコンで曲順を合わせる。
 彼はソファに腰を沈めると、リモコンのスタートボタンを押した。
 機器が動き始めると、まもなく曲がかかり始めた。途端に、前奏もなくアナログ加工した声で「なぜ」と力強い女の声が響きはじめた。
  なぜ あいたくない夜に限ってあなたはやってくるのでしょう
  ひどい顔してるのあたし みせたくない こんな顔 ねぇ
 女の声だけで曲が始まり、出だしが終わると、オケが入り始めた。
 新人にしてはパワフルな歌声、しかも低い。そのMDをもらったちよのイメージもあったせいか、沢村は少し度肝を抜かれた。
 流れてくる歌声で、その歌詞を追う。
 彼に会いたくないほどひどい顔になった理由は、父親にしかられたのでも、上司に怒られたのでもない、問題の彼が、他の女の子と仲良くおしゃべりをしながら歩いているところを目撃してしまった。確かに自分は恋人でもなんでもない。だから文句を言う筋合いはない。けれど、彼は自分の気持ちはなんとなく知っているはずなのに。
 勝手に見てしまった自分が悪い。でも悲しくてずっと泣いてたの。だからひどい顔…。
 出だしのアカペラの部分が曲全体の中のサビにあたる部分だった。この部分を中心に曲も詞も構成されている。
 なるほど、ストーリーがあって面白い歌詞だと思った。名前のさわやかさとは裏腹――いや、さわやかだと思っていたのは彼一人かもしれないが――パワフルなボーカル、ネガティブな言葉選びのサビの歌詞、そのギャップも面白いと思った。
 残念ながら、この「結なつの」というのがいかなる人物なのか、写真もなく、歌詞カードすらもない。いや、香住ちよにきけばわかるかもしれない。
 きいたら喜ぶだろうか。
 ――ね、先生、やっぱり良かったでしょう。ねぇ、主題歌に、是非!――
 この台詞までに考えが思い当たって、彼はちよにきくのはやめようと思った。
 ネットで検索するか、CD店に行けば住むことだ。
 彼は今の曲で、リモコンのリピートボタンを押した。
 ――なぜ あいたくない夜に限ってあなたはやってくるのでしょう――
 薫のことのようでもあった。
 今日、佳澄のことを思い出した後で、薫に会いたくはなかった。いや、会いたくないと言えば、いつも会いたくないのかもしれない。会いたいといえば、いつも会いたいかもしれない。
 でもいつも会いたいとすれば、それはこの世界に二人を隔てる余計なものが何もなくて、心が通いあっていれば、の話なのだ。


 もしかしたらあの日、自分と佳澄を殺したのは、あの女かもしれない。
 繰り返す疑問。
 繰り返す謎。
 あの日、佳澄と沢へ下りた。台風が通り過ぎた後の夜で、空はすがすがしいほど晴れ、月明かりも星明りもあったけれど、沢は両岸を木で覆われているせいか、暗かった。側道にある外灯のあかりを頼りに、岩場の上、ロープでお互いの手首を縛り、足にロープをまきつけて、ありったけの薬を二人で分け合って飲み込んだ。
 この場面を思い浮かべるといつも、沢におおいかかるように両岸からのびた木々と、ザーッという雨音にも似た川音、ひどい湿気にまみれた冷たい空気と水の気配を思い出す。
「玉川入水みたいね」と、佳澄はまるで夢のように言った。
「じゃあ、ぼくは太宰治で、」
「あたしが山崎富栄。」
「結核なんてわずらっちゃいないよ。」
確かに、結核はわずらってはいなかった。麻薬にも手を出した覚えはない。その上、これから死地へ赴こうというのに、どこか楽しげだった。
 増水した川の浅瀬部分を二人でぎこちなく歩き、腰までつかるところまでやってくると、あの晩、斜め前を歩いていた佳澄は、彼に振り向いて――振り向いたか――本当に振り向いただろうか――なぜかここからの記憶があいまいなのだ――長い髪が川風に揺れていた――顔の表情は、はっきり見たのか――いや、見えなかったのか、確かに、あの黒目がちの目でじっと、彼の目をみつめたような気がする。気のせいか、それは問いただすような目で、あの時彼女はこう言ったのだ。
「そんなに、あの人のことが好きなの?」
 心の中で、愕然としたのか、なかったのか、それさえもよく覚えていない。その台詞と共に、強い力で深みへと引き込まれ、その先の意識は――
 やはり、よく覚えていない。
 あの人とは、誰なのだ。
 佳澄にとって、あの人とは誰なのだ。
 誰も知るはずがないではないか。自分以外の誰も。
 この世界の誰も、知るはずがないではないか。
 佳澄がなぜ知っている。
 いや、あの姿自体も、睡眠薬が見せた、幻なのかもしれない。
 自分自身が作り出した、幻かもしれない。
 沢を渡る水音も、決して静かではなかった。増水しているとはいえ、上流だったし、流れは決してゆるやかではない。
 台風が去った後でまだ風も少し出ていたし、こずえを揺らす音もあったかもしれない。
 ロープでつないでいたから、さほど離れていなかったとはいえ、あの距離で、あの声がきこえただろうか。
 あの暗さで、本当に、佳澄の目が見えただろうか。
 そして何より、佳澄のいう「あの人」とは、誰なのか。
 いくら考えても、どれだけ考えても、もはや答えのない問いなのだ。だから、考えても仕方のないことなのに。
 仕方のないことなのに、繰り返す。
 心の中に焼きついて、離れることを許さない。


 ふと、また曲が鳴り止んでいることに気がついた。
 なぜ、あいたくない夜に限って、あなたはやってくるのでしょう。
 あいたくなくても、記憶の中の彼女は、容赦なくやってくる。
 彼は両手で顔をおおって、それから目頭を押さえた。
 そもそも今日、佳澄を思い起こすその元は、なんだったろう。
 彼は今日の記憶を思いめぐらせた。
 そう、夏の野原だ。
 このネガティブな言葉を並べたサビを歌う女が、夏の野原の名を持つという、そういうことだった。
 佳澄の記憶と共に、夏の野原の夢想も彼の中から消えることはない。
 救われたいのかもしれない。
 何から――何に?
 それは彼自身にもわからない。何が苦しいのかもわからない。
 〝飛び込めばいいのよ。無理を承知で。進めば何か手に入るかもしれないじゃない。〟
 佳澄のこの言葉を思い出すたびに、「今ひきとめているのは、お前じゃないのか?」という問いがやってくる。
 想いに整理をつけるのは、自身の中でその想いを殺すことか、無理にそれを遂げることか、それとも――
 それとも、ほかに?
 何か方法があるのだろうか。
 彼は自身が作る物語の中で何度もそれを問い続けているような気がする。しかし、答えは出ていないらしかった。
 ストーリーテラーとして、脚本の才としてのそれは、神から与えられたものかもしれない。制約と型どおりに言葉をはめていく作業も、その制約にしたがっているだけなのかもしれない。
 しかし、選ぶ材は、生まれてくる言葉は、彼自身のものだった。
 佳澄と、それにまつわるすべての、この坂をのりこえねば、どこへもたどりつけないような気がする。
 野原をかけぬけ、断崖を前にして、それから?
 その向こうに、青空を、海を、前にして、それから?
 彼は、リモコンボタンを押して曲を再生させた。先程の結なつのの曲がかかり始める。
 この女なら、断崖を前にして、その先何というだろうと思った。
 鳥になって飛ぶだろうか。
 無理を承知で飛び込めというのだろうか。
 指をくわえて見ているだろうか。
 それとも―――


 オーディオデッキのデジタル表示が、曲が進むにつれて時を刻む。彼はその表示をみつめながら、詞の世界を表現しようとするその声に聞き入っていた。

(2007年5月12日)