shadow

 車の後部座席から見える景色は、既に夕刻の色を見せていた。車は、一面に広がる田の中を帯のようにのびる国道の広い通りを走る。その国道に並行して、遠く連なる、そう高くはない山々が、夕日の光をゆるく反射していた。
 そのまま走り続ければ海へと出るだろう。
 それでも彼はタクシーを降りた。
 降り立つと、少し冷気を含んだ風が、彼の体をゆるりとなでて行く。
 なんでもないような田舎の景色の中を、車が何台か通り過ぎた。
 空は、夕刻の朱を放ちながら、どこか大気の中に水の青を含みもっていた。
 彼がいま乗ってきたタクシーと、車が一台走り去る。
 立ち止まる。
 歩行者信号があるが、目の前の赤信号をそのままわたっても問題がなさそうなほど、車の通りは少なかった。
 目的地は、目の前にある山々を越え、その向こうの海岸近くにあった。
 タクシーでそのまま乗っていった方が早い。
 それでも彼は歩きたかったし、歩いていかねばならなかった。
 その目的地の前でことさらに、車を停めて、日の元で誰かに見られることは、避けねばならなかった。
 それでなくても、人の出入りの多い時間なのだ。
 だから、裏の林で待ち合わせしましょう、と彼女は言った。
 そこなら誰にも見られないから、と。
 その女の唇と、甘い声を思い出し、陶然とした思いにとらわれる。
 ――その時だった。
 風が――いや、鳥たちのざわめきか――国道沿いに設けられた並木の、その高い樹々に、一斉に百羽――二百羽――数はわからないが、その樹の陰に吸い込まれるように、ザーッという音を立て、小鳥の大群が一斉にピイピイと鳴きながら舞い降りてきた。
 夕刻の陰の中へと舞い降りるそれは、どこか陰鬱な気配を生みながら、彼の心へと問いかける。
 不吉なことなど、何もないはずなのに――不安なことなど、何もないはずなのに。
 景色が招くイメージがあるのだと、彼は思った。
 どんな明るい気分にもそぐわない、暗い情景が――。
 信号が青に変わり、目の前の横断歩道をわたる。
 田舎で、車の通りがそれほど多くないわりには、立派な国道だった。両側二車線の道路で、わたり切るには少し時間がかかる。
 彼は歩道をわたりながら、タクシーが去った方角へと目を向けた。
 まっすぐに海へと向かっているのだろう。視界の果ては空しか見えない。両側も稲刈りを終えた田が広がっていて、視界の開けた気持ちのよい通りだった。
 そして空には今や、沈み切っただろう太陽が、雲に隠れ、その明るい色を映じ、ところどころに陰を作っている。
 寒々しくてせつないのに、どこかに、情熱を帯びた景色だと彼は思った。
 その情熱を帯びた景色を横目に、彼は田の中をゆく細い農道へと進路をとった。あの向こうに連なる山々の方向へと田の中を歩けば、旧国道の道へと出る。
 旧国道もまた、海へと続く道だった。
 新しい道からは隠れるように山際をはい、海へと続く峠を、彼は越えていくのだ。
 一時間はかかるだろう。でもそれは、彼には苦痛ではなかった。
 ゴールの先には彼女が待っている――そして、それと矛盾するかのように、ここからの道程、一人でいることを望んだのだ。
 少しの時でいいから、一人になりたかった。
 都会の喧噪を離れ、誰の訪問にも、電話にも、おびやかされることなく、ただ一つの影となって、地上を行きたかった。
 普段の日常は、あまりにも周囲に人が多い。
 だから、自分の中のすべてを、秘匿しなければならなかった。
 誰にも彼が知られない場を作らなければ、自分が誰なのか、誰が自分なのか、わからなくなりそうだから――せめて、自分の中に自分を囲いこんで――いろんなことを素直に感じられる場所を作って、生きて行かなければ窒息しそうだから――だからせめて、誰にも知られず秘匿する場所を――時を――彼は必要とするのだ。
  
 田中の景色は、彼の一足ごとに、夜が迫った。
 視界は藍を含んで深くなり、次第に閉ざされ、あのあざやかな夕暮れの色を映した山も、今はもうその色を失っている。
 彼はこの夕暮れを、海辺で眺められなかったことを惜しんだ。
 そして心の中に、見るはずのない海辺の夕暮れの景色と、 風が吹き抜ける。
 しかし、彼の惜しむ心をさらにかきたてるかのように、旧国道に入ったあたりで景色はさみしさを増した。
 まだ山には今少し距離があるせいか、民家もまばらにある。そのわずかな民家からの明かりと、外灯が、彼の視界を照らした。
 風が冷たい。
 この通りを抜ければ、旧国道は、外灯ばかりの暗い山道へと入りこむ。
 すると、後ろから大きな車の音が響いて来た。
 大きな、けだるい明かりを背負って、路線バスが彼の横を通り過ぎる。
 その明るい窓の中を見ていると、背中から光を負った少年の瞳が、彼の視界をよぎった。
 窓の外、遠くを一心にみつめている。
 まっすぐな瞳は、その一瞬を彼にやきつけた。
 夕暮れの景色にでもみとれていたのか――
 バスは瞬く間に後ろ姿となり、その少年の瞳とともに、暗い山道へと姿を消していく。
 あの暗い山道を抜ければ――そう、この暗い山道を抜ければ――
 君が待っている。
 裏の林で落ち合うと約束した――約束をたがえたことはない女だった――だから、ホテルの明かりをわずかに頼り、静かに自分を待っているだろう。
 それを頼りに、暗い山道を抜ける。
 二人で、月夜の海に出会うために、山道を抜ける。
 一人を欲しているはずなのに、やはりなんだか矛盾しているようだった。
 でも彼女自身が、彼には秘匿の存在なのだ。
 彼自身の、秘匿の部分だった。
 誰も知らない自分の中の一部でもあった。
 それを、あの女だけは知っている。
 それがなければ生きて行けない。
 まぶしいほどに光があふれる日常で、時に彼は目がくらみそうになる。
 ここはどこなのか、自分は誰なのか――何度も、己自身が消えてしまいそうになりながら――それでも、その光からは離れられず――
 一体自分は、どこにいるのだろう。
 たまにわからなくなる。
 どこかに足をつけていないと――どこかに自分をおいていないと――
 
 道は勾配を帯び、上りに入った。
 中央線さえない狭い道に入り、民家もまばらになりはじめる。
 山の冷気が、少し呼吸の粗くなった彼ののどに押し寄せた。
 湿気を含んだ深い「気」が、辺りを覆っている。
 沢が近いのかと歩みを進めていると、やはり道の脇から沢のサーッという音が耳に響いてきた。
 何やら真っ暗ではないと空を見上げると、日が暮れた天頂に、月が――
 彼は思わず立ち止まり、ほほ笑んだ。
「ああ、月か――」
 一つ息を吐くと、白くけぶる。
 また坂道を上りはじめた。
 地上にふりそそぐ、月の光を背負いながら、足元にできた自分の影を、追っては、踏み、追っては、踏みしめ――
 深い沢の音がより強く響き始めた。
 道路が湿っているように感じて、顔をあげると、道も少し広くなり、深い渓谷へと行き当たった。
 強い水の気配と月明かりに、思わず彼は立ち止まる。
 谷を形作る岩山は、滝を擁しているらしい。しかし滝は、深い暗闇の中に沈み、よくは見えなかった。
 月を見上げた。
 ここにも一人――
 なんだかそんな句があった。ここにも一人月の――なんだったか。
 彼は目を閉じた。
 沢の音、樹々の気配、ああ、あの喧噪が、嘘のようだ――
 現実にいる自分は、本当に本当の自分なのかと、疑いたくなるときがある。
 ただ姿ばかりを、求められるがままに働かせ、本当の自分など、この胸のうちにいる自分など、どこにもいないのではないかと。
 彼らが接している自分は、自分が接している自分さえも、すべてがニセモノではないのかと。
 ではそこにいるのは誰なのかと問われれば、間違いなく自分なのだけれども、何かが違う。
 何かが、違う。
 彼は、暗い沢の中へと視線を投げた。
 外灯や月明かりを濡れた岩肌が反射して、暗い中で光を放っている。
 暗い光を、放っている。
 ホンモノの自分はどこにいるのだろう。
 もしかして、あの暗闇の中にいるのだろうか。
 おそらく、幾万という己の影は、この世に落ちて、あらゆる人の中に、あらゆる己となっているに違いない。
 あの暗闇の中の光のように、そこにいるのに違いない。
 そしてそれは、ほとんどが己の知るところではないのだ。
 
 彼はその光から目を離した。
 男は、この道の先で待つ、林にいる女を思った。
 そして、月を見上げた。
 彼女もおそらく、この月を見上げているだろう。
 真実の自分は、ただ一つ、君の中に。
 君の中にいる自分をみつめて、自分をみつけて、生きて行く――。
 なぜとはきかないで。
 それがただの、ひとりよがりでもかまわない。
 ただ君を、みつめていたい。
 
 彼は歩きはじめた。
 誰にも知られぬ秘匿の海は、すぐそこで待っている。
 すぐ、そこに―― 

(2008.12.09)