sketch

 画面の向こうで言葉を返す女の顔をみつめながら、まるで鏡を見ているようだと思った。
 でも、その動き、話し方――確実に、違う。
 それは自分のようで、自分とは全く違うのだと思いながら、言葉を交わした。
 いつものことだ。
 定期的に行われる、彼女と自分との会話。
 お互いの近況を報告しあう、それは義務だった。やがては私もそちらへ――それが、画面の向こうにいる女の夢なのだ――こちらへ来るということ、唯一無二の夢、そして、約束なのだ。
 今日もまた、近況と軽い雑談の後で、こちらから同じことを問いかけた。それはほとんど、さよならの挨拶と変らないものなのだ。
「まだ、こちらに来る気はないの?」
そう問いかけると、相手は少し困った顔をした。でも、口元は微笑んだまま。
「そうね、行きたいけれど、もう少し、こちらにいるわ。」
「一体、いつになったらこちらに来るの?」
また、問うと、彼女は微笑を含んだまま困ったようにうつむいて、それから頭を横に振った。
 じっとみつめて、
「そう、では、その気になったら教えてね。いつでも、待っているから。」
そういうと、相手はいつも通り笑って「ありがとう」を言うと、交信を切った。
 
 ヘッドフォンマイクを外して、パソコンの電源を切った。
 パソコンを置いてある机の椅子を、床のフローリングをごとごといわせてひくと、立ち上がった。寝室を兼ねたその部屋は、窓が小さいのが欠点だった。昼間でも少し薄暗い。換気をよくするため、天井で大きな羽を回すようにしていた。彼女は部屋をドアへと歩み、ドアを開けて窓のある廊下へ出た。
 廊下から、玄関へ。
 玄関の扉を開けた。
 ログハウスでできたその家の外は、一面、青い草原が広がっている。草と、土のにおいが鼻腔をついて、清涼な感覚が彼女を包んだ。玄関の前に立っている一本の大きな楠が枝を揺らしているから、微かに風があるのだろう。
 彼女は玄関の扉を閉めて、板張りのステップをおり、通路を通って、草原の真ん中を通過している一本道へと足を進めた。振り返ると、高い山がそびえている。その山へと、小さな集落になっていて、家を二、三十件ばかりのぞむことができた。
 彼女の住むログハウスは、その集落のはずれにあった。玄関の先に草原を見渡せるこの場所を選んで、この家を建てたのだ。
 ここに越して、もう何年になるだろう。
 彼女は、草原の道を歩いた。
 草原の周辺に遠く、四方を山が取り囲んでいるのが見える。
 高原なのだ、ここは。
 空は、晴れている。
 ここの空は、この季節でも色が少し薄い。――薄い青だ。
 草原の中を、静かな風に吹かれながら、彼女はゆっくりと歩いていた。すると、背後から遠く、何かブーンという音がきこえてくる。その音はすぐに彼女に近づいて、大きなバタバタと言う音を立てた。「ともちゃーん」という男の呼び声で、彼女は振り返った。振り返って呼びかけた相手の顔を認めると、彼女はにっこりと笑った。
「今帰り?」
そう話しかけると、相手は乗ってきたバイクを止め、エンジンをとめた。
「そう。今日は珍しいなあ、こんなとこ歩いて。」
「あら、そう? この時間はいつも、ここ散歩してるわよ。」
「へえ? 本当に? じゃあ、俺この時間ねらって走ろうかな?」
「やあね、別にねらって走らなくても、家に来ればいいじゃない。」
「いや、だって仕事の邪魔したら悪いしさ。」
「別にいつも仕事してるわけじゃないわよ。」
「じゃ、たまには外出てるんだ。」
「うん、まあこんなふうにね。」
「もっと外でなきゃいけないよ。こもりっきりじゃ、健康に悪いから。」
そういわれると、彼女はうふふと笑った。それから、空をあおいで、
「そうねえ、今度一度海でも見に行ってみようかなあ。」
「お、いいねいいね、それって誰と行くの?」
「一人でよ。」
「俺と行かない?」
「行かない。」
「ちぇっ、そっけないなあ。」
そういいながら、彼はバイクのエンジンをかけた。
「よう、ともちゃん、俺と結婚しないか?」
ふいに彼がそういうと、彼女はアハハと笑って、
「またそれえ?」
「そう、またまた。」
彼女は少し考えるそぶりを見せて、
「そうねえ、気が向いたらねえ。」
「気が向いたら? 一体いつ気が向くんだか。」
そういうと、彼はバイクをゆっくり発進させた。
「気をつけてねー」と彼女が声をかけると、「待ってるよー、愛してるよー」と彼が返した。
 草原の中の道を、バイクが遠ざかっていく。影は小さくなって、そして、視界から消えていった。
 一人になる。
 かぜに吹かれながら、草原の道を少し歩いた。
 立ち止まる。
 また、空を振り仰いだ。
 かえっておいでよ。
 ねえ、かえろうよ。
 ほら、ここに、未来があるよ。
 かえろう――きっとここからはじまって、そして、ここへ帰るんだよ。
 時折、静かに海にでかけるのもいいだろう。山へのぼって、世界を見渡すのもいいだろう。
 両手で風を集めて、胸に抱え込んだ。
 世界は、ここから始まるだろう。
 君から、私から、すべてを描き、色を染めていくだろう。
 今日も、昨日も、昔から、果てしなく、いつも、ここから始まるだろう。

(2003.1.1)