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 山間を渡る川沿いの道を歩きながら、西の空を見上げた。
 この道が果てる頃には、日も暮れているだろう。
 できるなら日が暮れる前にはバス通りに出たい。
 電車の駅に向かうのに、川沿いの一本道だからそのまま歩けばいいと思って歩いていた。でも一向に駅につかずどんどん民家がなくなり山が深くなる。途中ようやく出会った道端の農婦に尋ねると、反対方向に向かって歩いていることがわかった。
 しかし引き返すよりはそのまま歩き、他の電車の路線を目指した方が目的地への到着は早いだろうと言われ、そのまま歩き続けることにしたのだ。
 ――この道をまっすぐに――
 農婦は黒い腕抜きをした右腕を上げ、川下へ人さし指を向けた。
 ―― 一本道だから、迷いません。
 農婦はいかにも農婦という格好でほっかむりの中から彼女をのぞいた。目の奥が深く、色黒の顔の皺は深いが、それらしい悪意は感じられなかった。
 こんな姿で寒くはないのかと疑うほど、薄着だった。
 山間の道に突然現れることを考えあわせても、これは現実に存在する人かと疑うほどに。
 風が強い。
 山あいだし、道路の脇は川が流れているし、とにかく吹き抜ける風がたまらなかった。
 彼女はコートのフードをかぶって歩いていたが、あまりの風の強さにくじけそうになった。
 タクシーが通る気配もなく、ヒッチハイクするのもためらわれる。
 知らない人の車に乗って、どこに連れていかれるかわからない――そんな気がしたからだ。
 足を止めた。
 見渡すと、山ばかりの景色なのだ。道は車が対向できるだけの広さはあって、脇は川が流れているし、風は吹きすさんでいる。
 なんだかみじめで寂しい。
 なかなか先へと進めないのは、向かい風のせいなのか、それとも、疲れて足が重いのか、寒さのために体が重いのか。
 それとも――
 また、歩き始めた。
 風が、また、強く吹き付ける。
 ビ、ユ、ウ、ウ、ウ、と音を立てる。
 せめてこの風がなければよいのに。
 歩いているうちに、どこかで止まないものか。
 あの脇を流れる川があるために、風は余計に強いのだろう。
 さっきちらりと見たけれど、だだっぴろい川だ。岩がごつごつあって、岩肌が恐ろしいほどむき出していた。
 この川がこれほど広くなければ、この道はここまで風が強くないのかもしれない。
 川はきっと、「ざあざあ」と音を立てて流れているのだろう。
 風が吹きすさぶフードの中だから、全く川の音は聞こえないけれど、きっと「ざあざあ」と音を立てて流れているに違いない。
 
 
 あの夜も、部屋の明かりは消しておいた。
 ワンルームの部屋の真ん中で、部屋から入り口のドアを隔てるものは何もなかった。
 部屋ではテレビをつけていたから、外の音は聞こえなかった。おそらく街の音が外では響いていて、窓を開けていれば聞こえただろうが、季節柄、窓もドアもすべて締め切っていた。
 外からは、音もしない。
 声が聞こえるわけでもない。
 かといって、誰かがドアをたたくわけでもなかった。
 しかし、気配が――
 ドアの向こうから、人の気配がする。
 こちらへ問うべきか、問わざるべきか、意を決しようとして、ためらい、――そこにいる。
 彼女はテレビから、ドアの方へと振り返った。
 いったいこれで、何度目だろう。
 静かに立ち上がった。
 足音を忍ばせ、息を殺し、ドアの方へと歩いていく。
 テレビはつけっぱなしだった。
 テレビの薄暗い明りの中、ゆっくりとチェーンを外す。
 音を立てないように、ドアの鍵を静かに回して開けた。
 いち、に、さん!
 勢いよくドアを開けて外をのぞく。
 部屋の前にある階段へと靴下のままで向かう。その前を、おそらく駆け下りていく、気配――気配?
 階段をのぞいたが既に姿はなかった。三階の廊下から階段の下をのぞく――見えない。
 マンションの外の道に現れるかと、廊下の端へと移動して、目を凝らし、一瞬、何かがよぎる――暗い。
 暗い――。
 既に気配の消えた三階下の街路をじっとみつめたが、何も動くものがない。
 ようやく耳の奥に、街の音が蘇って、はあっと息を吐いた。
 血流の音が、どくどくと響いている。
 息が乱れる。
 はあっ、あっ、と切れそうになる呼吸を必死につないで、押し切らずに逃げたその気配に、激しい苛立たしさを感じた。
 攻撃するでもなく、近づくでもない、この、もどかしい、気配――
 
 それは、きっと、「彼」なのだ。
 いつかあの日、あの場所で、あのまなざしを向けていた、「彼」なのだ。
 なぜその証を、つかませてはくれないのだろう。
 
 
 山間の道を歩きながら、頭の中から思考が消えていく。
 疲れすぎているのかもしれない。
 一度ゆっくり休んだ方が、効率はよいかもしれぬ。
 立ち止まって空を見上げた。
 フードの中から髪が乱れ出て、視界の中で踊っている。
 晴れるでもなく、雲の多い空だった。
 いったいどれぐらい歩いたことだろう。
 このまま歩くこともできなくなって、日も暮れるのではないだろうか。
 彼女は顔を上げたままぎゅーっと目を閉じた。
 携帯電話でタクシー会社を調べて、呼んだとして、いくらになる?
 ここはそこから、どれぐらい離れているのだろう。
 なんだか情けなくなった。
 だからといって、この街道の人に手を借りるわけにもいかない。
 だってここは、知らない人ばかりなのだ。
 顔を上げたまま、閉じた目を開けた。
 もし、ここに残されたらどうなるのだろう。
 いや、少し休めば、また歩き出す気にはなるだろう。
 しかし日が暮れ、闇夜の中、再び、この道の果てをめざし、歩き…
 果てがどことも知れぬのに、ゴールの見えない道を歩き続けるのだろうか。
 いつ終わるのだろう。
 一体いつ、終わるのだろう。
 いつかこの姿も失い、影となってさまようのではないだろうか。
 急に目頭が熱くなって、上げた顔をうつむかせた。
 ほとと、と、涙がこぼれる。
 判然とせぬ思いばかりがそこに残り、月明かりに照らされながら、行方を求めてさまようのか。
 想いが物の怪となり、影をひきずりながら、出口を求めてさまようのではないだろうか。
 
 とおい…
 君はどこにいる。
 確かに、そこにいるのだろう?
 なぜ、その姿を現してはくれぬのか。
 
 川音は聞こえぬけれど、確かにそれは「ざあざあ」と音を立てて流れているのだ。
 いや、川に近づき耳をすませば、もしかしたら川は「ざあざあ」と音を立てていないかもしれない。
 それでも、川は「ざあざあ」と音を立てて流れていると、思ってしまう。
 聞こえぬけれど、確かめたわけではない、けれど。
 川は「ざあざあ」という音を立て、この胸の中を流れている。
 たとえ誰が違うと言っても、それは揺るぎない、「真実」なのだ。
 風が吹きすさび、音はかき消されても――

(2013.12.15)