water

 忙しさに追われた平日の埋め合わせをするかのように、休日になると昼までも寝て、なすすべもなく夜を待ち、そんな生活ではいけないと、夕方、手持ち無沙汰に近くの川べりを歩くようになったのは、ちょうど二年前のことだった。
 近くの川は大河川で、決して清流とはいえなかったけれど、流れはゆるやかで、街路のアスファルトの道をただ漫然と歩くよりは、ゆったりとした気分にさせてくれたのだった。
 選んで夕方にしたわけではなかったが、夕方にしたのは正解だと思った。わけても、その散歩を始めたのが秋口だったということもあり、秋の夕暮れ時の景色は、ただそれだけで十分彼の心を癒す力があった。
 一人暮らしのマンションの階段を下り、住宅街の中、アスファルトの道を北へ向かって歩く。すると、堤防がわりの土手に行き当たる。彼はその土手につけられたアスファルトの階段を上り、てっぺんへ立った。
 下流までずっと見渡せる、広い川の景色を一望できるのだ。
 土手の上の道は、土道だった。土道というより、刈り取られた草の上を人が歩くためにすりへって出来た道という印象だった。
 彼はそこで少し立ち止まって川の景色を眺める。町並みを渡るのとは違う風を体に受けて、海へと続く広い川下を見渡すのだ。
 初めてきたとき、まず目に入ったのは、ずいぶん西に傾いた大きな太陽と、空にまばらに散らばり、その夕日の光を下から受けて朱に染まる雲だった。川の果てには海があるはずだが、見えない。
 風は、川をのぼるように、ふきあげてくるらしかった。
 静かに歩を進めた。土手の上の道は、人の行き交いが出来るだけの広さはあるものの、ところどころ地面が大きくへこんでいて、雨が降ってはいただけないだろうな、などと思いながら歩いた。
 川沿いに、景色がゆっくりと流れていく。
 川は、実際水が流れているのは、河川の幅半分ほどで、残りは陸になっていた。陸のかなりの部分が広場のようになっていて、黄色の地面をさらし、野球やゴルフに利用されているらしいことが見てとれる。ところどころに葦も生えていて、群生している辺りは夕日の色を映して美しかった。
 その散歩を始めて、それほど回を重ねることもないうちに、彼は一人の女と出会ったのだ。
 いや、女というには幼すぎた。まだ少女の面影の残る、そんな人だった。
 彼女は犬の散歩で来るらしく、彼とは反対の方向からやってくる。犬はよくいる雑種犬で、しかし金の毛並みが美しく、顔も体もひきしまって、利口そうな印象を彼に与えた。
 女は美しかった。目立ちもせず、派手さもなく、押し付けがましくもなかった。注意していなければ、そこにいても存在すら気付かれないかもしれない、控えめな女だった。
 でも、美しかった。
 彼女は、下へと歩く彼と、もちろんすれ違ったわけだが、すれ違い様、あまりに彼がじろじろとみつめていたためか、少し視線を落とした固い表情をしていた。
 いまどき流行りの女ではない。だから、よけい、いけなかったのかもしれない。
 何気なく通り過ぎた後で、彼は家に帰るまで、ずっと、いや、家に帰ってからも、ずっと、彼女のことが頭から離れなかった。
 休日の意味のない生活を変えるための、散歩だった。しかし、それは、意味のない日常すべてを変えるものとなった。
 期待して、次の週も同じ時刻に行ってみた。しかし残念ながら、彼女は現れなかった。失望して、一週間をすごしたが、それでも諦めきれず、結局、会った日の同じ時刻をねらって、もう一度きっかりに家を出た。
 現れない。
 声をかけておくのだったと思った。名前とか、住所とか、ききだせなくても、つまらないことでもいい、話しかけておくのだったと。
 それでも、諦め半分で家を出て、期待しないでと言い聞かせて、でも、どこかで期待しながら出かけて、四回目、ようやく彼女は現れた。
 彼女は、どうみても、ただの犬の散歩らしかった。
 すれ違い様、彼は犬を見るふりをして彼女を盗み見た。声をかけることなどとうに忘れて、会えた喜びでいっぱいになって、通り過ぎた。
 それからまた、別の意味で休日が恋しくなりながら、一週間をすごし続けた。その後も何度か失望と期待を繰り返したが、後になってわかったことには、彼女は必ず、第二日曜にだけ、あの時間、犬をつれて歩いているらしかった。
 それからの第二日曜の夕方は、彼にとって外せないものとなった。
 ただすれ違う、それだけなのだ。
 それ以上に、何もできなかった。それでも、ただそれだけで満足だった。
 月に一度、週に一度、たったそれだけのことを実行するには、楽な様でなかなか難しい。
 いつもその時間をあけておかなければならない。実家に帰ることもなく、友人の結婚式からは飛んで帰り、電話は一時間も前から留守番電話にセットしておくのだ。
 時間を空けるだけではない。冬至も近くなると、同じ時刻では、ほぼ夕闇に沈んでしまう。帰る頃は真っ暗だ。二月の寒さに川べりを歩くのは、あまりに厳しい。しかし、それでも、第二日曜、同時刻に彼は行き、女もやってくるのだ。
 
 
 初めて会ってから半年後の春だった。
 すれ違い様に注意してみていると、今まで化粧気のなかった女の顔の、唇に、赤い紅がさしてあったのだ。
 「盛りの時」なのだから、素顔でも美しかったが、彼はその赤にみせられてしまった。
 心の奥まで、支配されそうな赤だった。
 「きれいだよ」と心の中でつぶやいた。
 その後気をつけていると、彼女とすれ違うとき、彼が緊張しているからそうとばかり思っていたが、どうやら緊張しているのは彼だけではなかったらしかった。
 彼女もどうやら、緊張していたのだ。
 彼は思った。いや、期待した。
 では、彼女も、このすれ違いを、待ち望んでいるのだろうか。月に一度の、この「逢瀬」を。
 そしてすれ違った後には、喜びに、満ち溢れているのだろうか。
 そうであってほしい。
 たとえ自分が思うほどではないにせよ、そうであってほしかった。
 
 
 しかしその後、何の進展もなかった。
 二人はすれ違うだけでお互いがお互い何とか平静を装うことに懸命になって、何もかわらない。
 彼は次第に、失望し、会えない時間の苦しさに耐えがたくなった。何も変わらない自分と、もはや何も変えられない自分に耐えがたくなった。
 耐えられず、夏の盛りにはその散歩もやめてしまった。
 声をかける勇気もない代わりに、彼女の身辺を調べようという勇気もなかった。どこの誰なのか、と、さえも。
 伝えられない苦しさと、通わせられないもどかしさと、そして思いの果てない恋情と。
 いつしか、ほとんど何も知らない女に、心のすべてが奪われてしまったのだ。
 自分の勇気立たないふがいなさと、募るばかりの思いに、女を憎みそうにさえなる。
 一体なにをしているのだろう。
 いい大人が、一体何をしているのだろう。
 
 
 耐え難い思いに耐えかねて、やめたはずなのに、今度は会えないことに耐えかねて、また、例の散歩を始めたのは、冬至も近付いた十二月だった。
 ほぼ夕闇に沈んだその中を、やはり彼女はやってきたが、表情はほとんどうかがえなかった。どこか、無表情か怒っているのかわからぬ顔に見えたので、彼は思わず軽く頭を下げて会釈した。しかし、女からの反応はまるでなかった。
 怒られる筋合いはまるでないし、まして第一そんな間柄ではない。
 しかし彼は考えれば考えるほど、女の不機嫌が、嬉しかった。
 嬉しかったのだ。まるで、自分への想いを確かめたような気がして。
 身の内から立ち昇るような、そんな幸福を、今まで彼は知らなかった。胸のうちが熱くなり、その人を思えば甘い気持ちにつつまれて、目頭が熱くなる。
 好きだ。
 ただその一言が伝えたくて、伝えられないだけなのだ。
 次に女に会釈をすると、今度は女も返した。
 二人のすれ違いは、それから会釈が伴うようになったのだ。
 

 最初の出会いから、もう二年経つ。
 二年目の秋には、言葉を交わさなければいけないと彼は思った。
 そう、交わさなければいけない。
 現代社会で恋をするのは、大変なことなのだ。独身である限り、常時誰かに「特別な」関係の誰かはいないのかと問いただされる。「彼女いないの」と気にかけられる。いるかいないかの基準がまるで人格そのものの基準のように、問いただされる。別に問いただす相手は自分に恋情を持っているわけでも何でもない。生涯の恋人になる人でもなんでもない。それどころか同性のことが多い。
 でもまるで、当人以外他の誰にも関係のない、特別の関係にいる誰かがいるということが、まるで法律ででも定められたかのように、彼らに迫ってくるのだ。
 現代社会において、恋は偶然ではなく、必然なのだ。
 いつもそこにはどこか、「でなければいけない」という言葉がつきまとう。
 一体誰が、そんなルールを作ったのだろう。
 黙って静かに、一人密かに思い続けるということが、果てしなく難しい。
 心通わせているだけでは「恋人」ということさえ許されない。
 だから彼も、彼女と言葉を「交わさなければいけない。」のだ。
 友人たちは、「彼女いないの? 誰か紹介してあげようか」などという。しかし彼は、あの女でなければ嫌なのだ。
 断ると、「彼女いるんだったら紹介してよ」とも言う。でも、そんなことできるはずがない。
 できることなら、静かに、密かに、誰にも見られず、川底を流れる水のように、思っていたいのだ。
 あふれ出る愛は、秘め事だからこそ深いのに、どうしてこんなにうるさい、恋のしづらい世の中になってしまったのだろう。
 ゆっくりでいいのだ。
 会釈をして、言葉を交わし、静かにゆっくりと、思い続けていたいのだ。でもそれは、世間が許さないのだ。言葉を交わすにも、「こんにちは」と声をかけて微笑みあうだけでは、「いいお天気ですね」と何気なく進めるだけでは、だめなのだ。
 たとえそこに、「カノジョを所有する」以上の幸福があったとしても。
 だから彼は決心した。
 それは、十一月の第二日曜日だった。景色も秋の色に染まり、ムード満点だった。彼は思った。「こんにちは」と声をかけよう。ちょっとその後で立ち止まり、「いつもここでお見かけしますが、どちらからこられるんですか。」と話を続けてみよう。それは、緊張せず笑顔で、相手も話しやすいムードを、自分から作らなければいけないのだ。
 彼は戦闘体勢に入った。
 いつもよりも念入りに、鏡に向かった。カジュアルを装いながら、とびっきりに男前に仕上げた。鏡の前で「よし!」という。時間きっかりに表に出た。住宅街の中のアスファルトの道を歩き、土手へとたどりついた。土手の上へと階段を上ると、川を見渡した。
 きれいじゃないか。
 少し上気した頬に、川の風が気持ちよかった。そしていつものように、川下へ向かって、夕焼けの空へと歩いていく。しばらくすると、いつもの位置――彼女が見え始める位置までやってくる。「こんにちは」と頭の中でつぶやいた。「こんにちは」と頭の中で繰り返した。顔はなるべくさりげない表情でと言い聞かせた。言い聞かせるけれど、自分でも自分が緊張しているのがわかる。
 ふと遠目に見える彼女が、立ち止まっている。後ろを振り返っているようにも見えた。すると、彼女はふとこちらを向き、いつものように近付いてきた。なぜか、彼女の顔が少し上気しているように見える。そして、お互いの顔が見分けられる位置まできて、その目を見止めると、彼女は途端に、花が開いたように笑顔になった。
 彼は思わず全身がしびれたようになって、すべてを失念してしまった。
 さらに、彼女は彼の前まで近付くと、今までになく自分から勢いづけて頭を下げ、彼が条件反射で頭を下げると、そのまま通り過ぎてしまった。
 立ち尽くす。
 今のは一体なんだったのだ。
 彼女の笑顔をもう一度頭の中で思い浮かべてみる。
 初めて見た、まだあどけなさの残る、きれいな笑顔。
 思わず自分も笑顔になった。
 嬉しい――ちがう。
 

 一人その場にとり残されて、全身の力が抜けそうだった。顔が上気しているのがわかる。それを、冷たくなった両手で押さえつけた。
 あまりにも高揚した心のやり場がなくて、心のやり場を探す。
 引き返す気にもなれなくて、進む気にもなれなくて、彼は、土手を川岸の広場の方へと下りた。
 土手には所々、下りやすいようにセメントで階段がつけてあるが、思い立ったそこから下りたために、すべりやすい草の上を歩かなければならない上に、下りた場所が葦原で、結局葦原をぐるりとよける格好で広場になっている岸へと出、水辺へと歩いた。
 彼は水辺の土の上へと腰を下ろした。
 そして、暮れなずむ夕日の色を映し、ゆったりと流れる川面へ、視線を移した。
 ふと、あの時彼女は何を見ていたのだろうかと、土手の方を振り返ったが、それらしきものも人影もない。方向からすると、見ていたのは空だ。おそらく、空の美しさに、みとれていたのだろう。
 彼は川面へと視線を戻した。
 何だか泣きたいような、よくわからない気持ちだった。頭の中で、さっき反復していた「こんにちは」が、自然と繰り返される。
 こんにちは――好きです――愛しています――こんにちは――
 
 
 目の前の川は、流れている。
 流れているはずなのだが、目の前にあるのはただの水の固まりに、少し線をひいただけのようにしか見えなかった。しかも川面はまわりの景色を映して、移動することもない。
 試しに彼は、手にさわった石を川面めがけて投げてみた。石はぽちゃんと音を立て、斜めに流れて沈んでいくので、確かに流れているようだ。
 川は海へと続いている。
 やがて海から空へ昇り、雲となってたれこめ、雨になって地上へと帰ってくる――小学校で習ったことだ。
 自分はどうしたいのだろう。
 彼女を欲しいと思う――強く。時折怒涛のように押し寄せて、逃げられなくなるほどに。
 周りにせかされるまでもなく、自分が強く望むことなのだ。
 しかしこれは、どこにでもある想いで、どこにもない、ただ一つの想いなのだ。
 その気持ちは確かなのに――
 日々、時間に追われ、ラッシュの通勤電車にゆられ、デスクに向かい、わずかの時間で飯をかきこむ。家に帰っても趣味に時間を費やすこともほとんどなく、むさぼるように眠りにつく――そんな日々の中で、時折思い浮かべるだけで心が豊かで幸せになる、そんな、想いなのだ。
 多くを望まない、ただ今あるものに満たされながら進んでいく――
 それは、時代遅れの恋だろうか。
 
 
 彼は立ち上がった。
 川風に随分体が冷やされてしまった。
 夕暮れの陽は、建物の影に消え去ろうとしている。風は冷たいが、広場の土や葦原の穂波がたそがれに染まり、空は濃紺を微妙に織り交ぜながら、あざやかな赤をしっとりとたたえていた。
 天空にはうっすらと、三日月が浮かんでいる。
 彼は土手へと歩を進めた。
 広場を通り過ぎ、葦原に近付くと、穂波がサ――ッと風に音を立てて揺れる。
 穂波の向こうに、先ほど下りてきた土手が見えた。すると、彼の脳裏にさきほどの花開いたような女の笑顔が蘇り、彼を深く、満たした。

(2004.1.31)