yellow moon

 つないだ手からじんわりと伝わるぬくもりに、もう、そんなことはどうでもいいじゃないの、と彼女は思った。
 もう、そんなことはどうでもいい。
 ここまで来る道のりの中で、いろんなことがあった。醜いこともあった、つらいこともあった、悲しいこともあった。
 でも、もうそんなことはどうでもいいじゃないの。
 今確かなのは、つないだ手から伝わるぬくもり。
 今までの道のりからたどりついたこのぬくもり。
 今このひととき、それが永遠でなくったって、それでもいい。
 苦痛もやがて通り過ぎてしまうものならば、幸福だって、その時にしか味わえない。なら、味わえるときに味わいつくしてしまわないと、後悔する。それは、苦痛から逃れる努力を怠ったときのように、ひどく後悔する。
 だから、もう今は、この手を感じているだけでいい。
 手をつないだまま、ひきあげる。その先に見えるのは、まだ開けきらない夜に浮かび上がる海沿いの国道。車の通りさえろくにない、夏の早すぎる朝。
 このまま二人並んで歩けば、あの砂浜にたどりつくだろう。
 苦しみも、悲しみも、痛みも、すべて、あの上にあった。あの上にあったから、今度は、それを別の色でぬり替える。
 見上げた空には、薄い薄い三日月が浮かんでいる。薄明の空に、淡い淡い、溶けそうなほどに淡い、黄色の三日月。
 歩くうち、視界が開けて、砂浜が見えた。
 彼女はつないだ手を離すと、さっと駆け出し、彼にふりかえった。
「走ろう!」
微笑み返す顔は「そんなに急がなくていいよ」という。彼女は「走りたいのよ」と言った。それから、幼い子供のように軽くかけ、堤防の切れた砂浜の入り口で立ち止まった。
 砂浜に向き直る。
 もうすぐ、あの沖に見える水平線から、太陽が昇るだろう。海は穏やかで、波打ち際に静かに打ち寄せている。砂浜に、人はいない。昼間の海水浴の後がわずかに残るばかり、決して、美しい砂浜とは言えないが、それでも早朝の澄んだ空気の中で、その景色は美しかった。
 堤防に手をかけ、砂浜をみつめると、彼が追いついて、彼女に並んだ。
 どこかから、朝を告げる鳥の声がきこえている。
 その顔を彼女は見上げた。彼が見下ろす。
 彼女は、海に向き直り、砂浜の上を歩き出した。
 海からの風が、彼女の髪をかきあげる。ほたほたと、思わず涙がこぼれて、その涙さえ風になびいた。両手で目頭を抑え、涙をふきとると、東の水平線をみつめて、後ろから来る彼に、
「ねえ、まだ昇らないかなあ。」
と声をかけた。
 ややあってから、「さあ、もうすぐじゃないか? これだけ空が明るいんだから。」と声が返す。
 まるで、何かをはらんでいるかのように、朝が、生まれそうで、来ない。
 光が見えたら、世界が変わる、と、彼女は思った。
 すると、一条の光が、彼女を射た。思わず目を閉じて、目を手でおおうと、水平線の彼方に太陽が、顔をのぞかせている。
 振り向くと、そこにしゃがみこんだ彼の姿があった。両手で顔をおおっているのは、光がまぶしいせいではない。
 泣いているのだ。
 きっと、景色があまりに美しくて、空気があまりに清涼で、波の音があんまり優しいから―――
 彼女は彼に歩みより、向かい合って腰をおろした。彼の前でおおわれた、その手をほどくと、涙がぼたぼたと落ちて、思わず微笑んだ。
 立てひざになって、静かに、額にキスを――
 それから、小さく唇にキスを――
 彼はぬれたままの目で彼女の目をみつめると、両手で彼女を抱き寄せた。なんだか初めて、抱きしめられたような、初めてだきしめたような、でも、しっかりと、体の感触は、確かにあった。もう一度、彼の方から寄せる唇、そのやわらかい唇から感じるやさしさに、胸の奥にほとほとと、ぬくもりが落ちるようだった。
 何度も、苦しかった。
 何度も、痛かった。
 何度も、切なかった―――。
 でももう、いい。今は、胸の中は、あたたかいから―――。
 交わして―――何度も―――もう一度―――やわらかくて、あたたかい、肉の感触、歯の固さを微かに感じて、触れるたびに、甘くなる、深くなる。
 いろんな人に、ごめんなさいを。
 いろんな人に、ありがとうを。
 この時を、ありがとう。
 命を、ありがとう。
 あなたに、私がもてるすべてのよろこびを―――。
 
 国道をはさんで向かいにある駅で、朝一番の電車を待って、二人乗り込んだ。朝日が少しまぶしくて、寄り添って目を閉じた。乗客は他になく、電車の音が、車内にガタゴトと響き渡る。
 つないだ手から、じんわりと伝わるぬくもり。
 幸せだとか、そんな言葉は、もうどうでもよかった。
 空にはまだ、あの月が浮かんでいるだろうか。
 たとえはかなく消えてしまっても、確かにそれは、あの空に、浮かんでいるだろう。
 このときを、覚えていよう。
 あの、淡い淡い月に、また、であえるように―――

(2002.8.7)