仕事が片付かなくて一人で残業をしていると、さっきまで会議をしていたはずの部長が部屋に戻って来た。
まだ三十代後半の彼は、大学時代は登山部にいたとかで、色黒でいい体格をしていた。しかし現在は仕事が忙しくて朝から晩まで会社にいることが多く、どうやらそれは地黒かとも思えた。会社では独身で通っているのだが、娘が一人あるらしく、奥さんと離婚したとか、死に別れたとかで、噂はあってもはっきりしたことはわからない。が、妻に逃げられるような人にもみえず、人格も柔和で、尚子は勝手に死別したのだと思いこんでいた。
その部長が部屋に戻って来て、一人で仕事をしていた彼女をみつけると、入るなり、「残業ですか」と声をかけた。彼女は手をとめて「はい」と返事をしたが、彼はふんふんと小さくうなづきながら、何か考えるように視線を自分の席の方に泳がせると、自分の机へと歩いて行った。会社が節約にうるさいから、彼女の机の辺りを残して部屋の明かりは落としてある。だから部長の席は暗い。それなのに、彼はそれを気にもとめず、ガタンと椅子をひいて腰をおろした。何か話し掛けてくるかと仕事の手を止めたまま見つめていると、彼はその様子にも気づかないで、ただ椅子の背もたれに体をもたせかけ、考え込むように黙然と腕を組み併せた。彼女は不審に思って席を立った。それから部屋の明かりをつけに、部屋の入り口の電源へと行き、部長の様子をうかがいながら、そちらの方の明かりをつけた。
彼はうたれたように顔を上げ、彼女の方を見た。彼女はその部長の反応に戸惑って、
「あの、電気…。私一人だったので…」
しどろもどろ言うと、彼は、
「ああ、すまない。ちょっと、考え事してたものだから…」
差し出たことだと思いながら、それでも遠慮がちに、
「会議で何か…」
そう尋ねると、彼は穏やかに笑って、「いや」と答えた。それから、
「榊原くんは、仕事まだおわらないんですか。」そう尋ねた。
「ええ、あの、そんなに急いでいるものじゃないんですけど、ついでなので…」
「そう、ですか。いや、よかったらこれから一緒に飲みにいきませんか。僕おごりますよ。」
尚子は部長の言葉に困ったように笑って「はあ」と答え、軽く首をかしげた。彼は、彼女の様子を見て苦笑すると、
「いや、最初は一人で行くつもりだったんですが…おじさんと飲むのはイヤですか。」
そうつけたした。
「いえ、ご迷惑でなかったなら、お供しますけど…」
そう言うと、彼は体の疲れを吐き出すようにため息をついて、
「じゃあ行きましょう。」
立ち上がった。
外は、雨だった。春の雨はしっとりと、ことさら冷たく感じられる。部長が傘を開きながら、どこか静かなお店を知りませんか、と尋ねた。
「おじさんは、居酒屋ぐらいしか知らないんですよ」
笑いながらそう言うので、彼女は会社の近くのショット・バーがどうかと問うた。小さいけれども感じのいい店で、酒も料理もおいしく、価格も手頃、彼女のいきつけの店となっている。ビジネス街を少し外れた裏通りにあるので、穴場といえば穴場かもしれない。それでも週末はよくこみあっていて、入れないこともしばしばあった。
部長はそれはいい、行ってみましょうと賛同したので、二人でそこへ向かうことにした。
「感じのいいお店ですね。」
ビルの地下にあるその店のドアを開けるなり、彼はそういった。
「会社の近くにこんな店があるなんて知らなかった。よく来るんですか。」
そう言いながら、ボーイに案内され、二人でカウンターの席へとつく。
「ええ、たまにです。友達と一緒に…」
店の照明は落としてある。こういう店に来るには早い時間のせいか、客の数は少なかった。二人で適当に酒と料理を注文すると、カウンターの中からマスターが、
「今日はいつもより早くお見えですね。」
と尚子に声をかけた。すると部長が、
「ぼくがどこかいいお店を紹介してくださいって彼女に頼んだんですよ。おじさんと飲むのはいやだろうけどってね。いいお店ですね。」
そういうと、マスターはカウンターの中で、その恰幅のいい体をピンとのばし、笑みを浮かべ、右手を胸に添えてお辞儀をした。二人はマスターのその「敬礼」を見て顔を見合わせ、笑った。
「すいませんね。つきあわせたりして。ぼくは今日お酒を飲みたかったもので――家にも、帰る気がしないし…」
「あの、お嬢さん、いえ、」
言いかけて、ふと、立ち入ったことだと気がつき彼女が言葉を止めると、彼は言葉を止めた尚子に、「え?」と聞きかえしてきた。彼が平然としているので、榊原は少しとまどってから、
「お嬢さんがいらっしゃるって、きいたんですけど、よろしいんですか。」
いうと、彼は「ああ」と打たれたように得心してから、にっこりと笑って、
「ええ、僕の母と同居してるんで、多少遅くなっても、心配いらないんですよ。」
では妻がいないというのは事実なのだと、彼女は思った。しかしそこから先話を進めるのもためらわれて黙っていると、カウンターの上に酒と料理が並べられた。部長が彼女のグラスを見て珍しそうにのぞきこむと、
「それ、何ていうお酒ですか。おもしろいですね。」
「ええ、ああ、『ブルームーン』っていうんです。ここのはグラスの底にちゃんと三日月が入ってるんです。」
「へえー、その月は何で出来てるんですか。レモンの皮ですか。」
「みたいですよ。」
「ふーん。」
部長は妙に感心している。彼女はこの実直な人が微笑ましくて、こっそりと笑った。彼は彼女のその笑みに気がつくと、照れくさそうに笑って、
「いや、おじさん丸だしですね。ごめんなさい。」
彼女は顔を改めた。
「いえ。そういうわけじゃないんですけど。」
言い繕うと、彼はハハと笑って、
「じゃあ、乾杯しましょう。」
グラスを上げた。チンと小さな音を重ねると、彼はすぐには口をつけず、考えこむようにビールの泡が蒸発していくのをみつめた。それからカウンターに肘をついて頭を抱えると、「いや」と小さくつぶやいた。
「僕は何をしているんでしょうね。こんなところで…」
彼女はグラスに少し口をつけたが、部長のその言葉に手を止めた。それから彼の方に目をやり、彼の顔をのぞきこんだ。
「いや、何のために乾杯したのだろうと思って――僕は――」
彼は強く目を閉じた。それから眉根を寄せて、カウンターに肘をついたまま、その寄せた眉根を軽くしごいた。それから、深い息をつくと、頭を何度か振って、
「明日、ぼくは妻を殺すのに――七年前、失踪した彼女を――」
驚いて、女は彼をみつめた。
息を殺して次の言葉を待っていると、彼は細く目を開けて、
「きいてもらえますか。」
そう尋ねた。
彼は七年前のあの日を、今でもまざまざと思い出すことができる。七年前、まだ彼が係長に昇進して間もないころ、異動で転勤してきた社員のために、歓迎会をしたのだった。帰りの電車待ちに入った本屋で、三つになる娘に絵本でも買って帰ってやろうと思いつき、小さな本屋のわずかな児童書の棚の前で絵本を吟味していると、ふと目についた本があった。日本の昔話というシリーズになったその本の背の中にあったのが、「雪女」だった。
――男は雪山に迷い込み、雪女に一人命を奪われなかった。私のことは誰にも話してはいけないと約束させた彼女は、どこへともなく姿を消してしまった――
彼にとって、それには苦い思い出があるストーリーだった。そしてその「物語」は、御伽話そのままに、懐かしいものへと変わっていた。彼は絵本を手に取って目を細めると、レジへと持って行った。
2DKの狭い家に帰ると、もちろん娘はもう眠っていて、絵本を彼女に渡すことなどは出来なかった。食卓と寝室の境の襖をそっと開けて薄暗い中をのぞくと、あどけない顔つきで眠っている。
「いつ寝たの?」
妻に尋ねると、
「ついさっきです。あなたが帰るのを待っていたんですけどね。」
そう答えた。
「そう。」
妻が台所から、「おなかすいてませんか」と問うた。
「軽くお願いします。」
妻とは今の会社で知り合った、社内恋愛だった。入社仕立て、高校を卒業したばかりの彼女をみつけ、二年あまりの交際を経て結婚したのだ。彼が、彼女を見初めた。色白で華奢な彼女は、他の新入社員よりも数段彼の目をひいた。それは美しい容姿のためではなく、あまりにも、似過ぎていたからだった。昔、雪山で出会った、あの女――。
「何を買ってらしたの? 絵本ですか?」
妻は彼の持ち帰った包みを手にとって、彼に尋ねた。
「ああ。」
彼は過去を思い浮かべ、状況があまりにその昔話と似ていると思って、思わず一人笑った。そうだよな、そんなはずはないんだよな、と、一人納得して、今まで誰にも話さなかったその「昔話」を、妻に話そうと思ったのだ。
「『雪女』だよ。昔話の。」
「まあ、『雪女』ですか?」
「そう――。」
彼は妻の出したお茶漬けをかき込みながら、話を続けた。
「昔、ぼくも雪女に会ったことがあるんですよ。雪山でね。」
ご飯をかき込んだ口でしゃべりながら、鼻でふふと笑った。
「まあ、雪女にですか?」
妻の顔もほほ笑んでいた。そしてそれが彼女の癖でもあるかのように、いつものように伏し目がちになって口の端を小さく微笑ませ、表情をはっきりとは見せなかった。四年近く連れ添い、既に二十六になる彼女は、所帯やつれすることもなく、ますます艶を増していた。親のない天涯孤独の彼女の人生が身につけさせたものなのだろう、控えめなしぐさは、出会った頃からかわらない。
「そう、あれは、いつだったかなあ」
彼は食べる手を止めて、目を細めた。それからふと、思い出したとでもいうように、
「ああ、そうそう、僕が、大学に入った年だよ。登山部に入ってね。冬、雪山合宿ということで、近くに初心者向けの手頃な山があって、みんなで登ってみようということになったんだ。下位学年中心にね。ところが」
彼は言いながら飯をかき込んだ。
「山の天気は変わりやすいもんで、――ぼくら、なめてたんだね。こんな低い山って。上で吹雪になってね。テントは使えない、小屋はない、日は暮れて真っ暗だし、とりあえず山かげに退避した。ところが、そんなところにそう何時間もいられるわけがない。」
「まあ、たいへんでしたのね。」
「そう、で、地図を見ると下の村と連絡のつながる電話線が通っている場所があるはずだから、余力の残っているぼくら二、三人が、そこまで行くことになったんだ。ところが――」
言いながら、彼は最後の飯をかき込んだ。
「道に迷ってね。視界も雪でほとんどゼロだったから、一緒に出た仲間ともはぐれちゃったんだ。で、僕はとうとう力つきて途中で気を失って倒れちゃったみたいなんだ。気が付くとね、どこか知らない小屋の中にいたんだ。」
妻はその時、何も言わなかった。黙って、彼のためにお茶を入れていた。彼も彼で、そんな妻の様子を気にも止めていなかったし、残った酒の勢いで話しているというふうだった。
「そしたらね、雪女が」
「信じません、そんな話。」
妻は笑いながらそう言った。
「いや、雪女、みたいな女がね、いたんだよ。こう、色の白い、やせた――でも、なかなかいい女でね。」
彼の頭の中に、あの日の情景がよみがえった。小屋の中はろうそくの明かりしかなく、世が明けても吹雪は続いた。女は弱った彼の世話をした。降り続く吹雪が止んだのは、二日後のことだったろう。女はその明け方、小屋を出る前に彼にこう言った。
――この山で見たことも、私に会ったことも、誰にも話しちゃいけないよ。もし話せば――
「何だっていうんですか。まさか、お前の命はないって言ったんですか。」
それまで話をきいていた榊原は、おそるおそる彼にそうきいた。
「そう、そう言ったんだ。」
榊原は、目の前にいるこの男が、自分をからかっているのではないかと一瞬疑った。が、目の前にいる深刻な彼の様子から、また、普段の彼からも、とてもそんな突飛な冗談が出るはずもないと思って、口をつぐんだ。
あの日、仲間と外れ、もうろうとした白い吹雪の中をさ迷いながら、彼は確かに、その雪道で、見たのだと思う。真っ白な景色の中にいた男と女――でも次の瞬間、女が手を伸ばした時、そこにはもう男の姿はなかった。まるで、吹雪の中にかきけされたように、瞬時にして男は消えたのだ。
「それで、その何年後だったかな、新聞記事に、三面記事だよ、その山の崖の端の木にひっかかって、男の白骨体が発見されたのを読んだんだ。死後何年も経っていたわけではないけれど、場所が場所だから、さらされた分、白骨化が早かった。しかもまさか、遠くからひっかかっているのを見て、それが人間だとは思わなかったらしいから、ほったらかしにされちゃったんだね。」
彼はその日、妻に寝物語でこう言った。
「女が話してはいけないというのはきっと、そのことだったんだと後から思ったよ。ぼくが吹雪の中で見たのは確かにあの女だったし、女が小屋で口止めしたのは、そのことだったと思うんだ。――結局、その女に会うことは二度となかったけれど、ただ――」
彼はまどろみの中で、妻に話し続けた。
「きみを初めて見た時、驚いたよ。あの女に、そっくりなんだ。もちろんきみは、あの女よりずっと若いし、そんなはずはないんだけど――」
彼はそのまま眠りに落ちていった。
深夜、彼は首に何か重い感触があって、目が覚めた。最初酔いが残って苦しいのかと思ったが、そんなものではない。グッとのしかかるような強さに、彼は気が遠くなりそうになった。小さくもがきながら、薄目を開けると、妻の姿が目に入った。
自分の首を締めている。
彼は驚きのあまり、思考をなくした。それから、全身の重みをかけて絞める、細い妻の手から逃れようともがき、あがき、もう駄目だと思った瞬間、妻はふっと手を離したのだ。
彼は空気を求めようと、あえぎ、あえぎ、咳をし、何とか妻の方を目で探すと、妻も髪を振り乱して荒い息をしている。何がどうしてそんなことになったのか、混乱した頭で妻をみつめた。そして、粗い息を整えながら、妻は彼の方を見据えると、哀しそうな瞳で、
「その女はいいませんでしたか。そのことをしゃべったら、命は――」
彼女は粗い息の中で、彼にそう言った。
妻は唇をわななかせた。乱れる髪、頬には涙がこぼれている。そして、後ろじさりながら首を振ると、熱い息を吐き、
「私には、できない。」
そうつぶやいて、部屋をかけだしたのだ。
それっきり、妻は姿をけした。
彼にはわけがわからなかった。妻はなぜ、彼が体験した雪山の話で、彼を殺そうとせねばならなかったのか。そして、姿を消さねばならなかったのか。
彼は突然の出来事に、我をなくした。思い当たる方々を尋ね歩いたが、妻の姿はどこにもなかった。元々、妻は孤児なのだ。名前も、記憶もなくしていたところを保護されて、施設に預け入れられた。だから、帰る家などあるはずもない。しかし、だからこそ、当時子供だったはずの妻と、あの雪山の事件がどうつながるのか、彼にはさっぱり見当がつかなかった。もしや狐に化かされたのではないかと疑うほどに、彼にはすべてが信じられなかった。
しかし、妻の経歴をあたっているうちに、妙なことに気が付いた。確かに、彼女が発見、保護された現場は、あの雪山から遠く隔たっている。しかし、日時が符合しすぎている。まるで、あの雪山の事件が終わった後、わざわざその地を離れ、そして発見されたとでもいうように――。
それから彼はもう一度、あの白骨体の発見された新聞記事を探し、てがかりを探しにあの雪山のある村へと向かった。しかし、白骨体の身元を知るものは何も残されておらず、これといった手掛かりはつかめなかった。
ただ彼がその時、雪山でのあの日のことで、はっきりと悟ったのは、あれは殺意を持った事件だったということだ。彼は、その現場を目撃してしまった。そして、女に口を封じられた。それから、妻はあの二人に何らかのかかわりを持っていたのだ。たどたどしい記憶の中で、彼はあの事件の現場を思い出す。果たして、あの現場にいたのは、突き落とした女と、突き落とされた男と、そして自分の、三人だけだったろうか。小屋で気が付いた時、彼の体力はさほど衰えていなかった。一日の睡眠で回復する程度のものだった。しかし、頭の後ろに残った鈍痛――彼が気を失ったのも、もしかしたらこの鈍痛のせいではなかったか――つまり、現場にもう一人誰かがいて、目撃した彼を、後ろから――
それが妻か、それともあの女だったのか、はっきりとはしない。そして突き落としたのも、妻なのか、それとも、あの女なのか――。
彼は吹雪の中で、女の顔を見た。女は男を突いた後、彼の存在に気がついて、ギクリとした目を向けたのだ。小屋で彼が気付いた時、彼のそばにいる女を見て、あれは確かにこの女だと思った。
そして、女は、彼の口を封じたのだ。
二日目の夜、吹雪の聞こえる薄明の中、女は横たわる彼の前で、豊満な女の肉体をさらした。女は彼の口の中に深く舌を突き入れて、激しく探った。彼の体をまさぐっては、激しく揺れた。彼はその時、ぼんやりとした頭の中で、これはこういう女なのだと思った。これは、こういう女なのだと直感した。しかしそれは、口封じの代償だったのだ。女は、明け方吹雪がおさまる頃、彼の耳元でこう告げた。
「この山で見たことも、私のことも、誰にも話してはいけないよ。もし話せば、お前の命はないから――」
娘が男を殺した。そして、母親がその目撃者の口を封じた。そう考えれば、すべて納得が行く。
では、一体妻はいつから、彼がその時の目撃者だと知っていたのだろう。あの日、地元の村からは不明の彼のために捜索隊が出された。彼は衰弱してはいなかったが、念のためにと病院に運ばれた。その日の足取りを探せば、彼がどこの何者か、すぐに調べはついただろう。
妻は一体いつから――?
なぜあの会社に入ったのか、そして、なぜ、彼と結婚したのだろう。
すべてが、信じられなくなった。
彼が妻を愛したのは、あの女に似ていたからではなかった。きっかけはどうあれ、その背負っている影ごと、彼は愛したのだ。
幼い日、妻は、保護されたあの時、一体何を考えていたのだろう。あるはずの記憶を隠して、名前をなくして、――それから? わずか十ばかりの子供が、理由はどうあれ犯してしまった罪――罪悪感におびえながら、それが彼女を彼の元へと呼び寄せたのか? そしてそれがバレたから、子供も捨てて、夫も――自分も捨てて、行方をくらましたのか?
「たとえ――」
彼は言葉をついでから、口をつぐんだ。榊原は部長の姿をみつめながら、次の言葉を待った。
「たとえ、どんな罪を犯していても、良かったんだ。どんな――」
彼は視線を落とした。榊原はそんな部長から視線をそらせると、ぬるくなった酒に目を落とし、その中に浮かんだ月をみつめた。それから、
「七年目――『失踪宣告』ですね。戸籍から抹消される、それが、明日なんですね。」
榊原の問いに、彼は答えなかった。七年前のあの日、おそらく妻はもう帰らないだろう、心のどこかでそう確信しながら、彼は手続きをしたのだ。妻にとってその二十年ばかりの時間は、いつわりの時間なのかもしれない。
あるはずのない――
「奥様は――」
榊原は言葉を続けた。
「奥さまは、部長のことを愛してらしたのですわ、きっと。最初はどうであろうと。――でなければ、首を締める手をゆるめたり、姿を隠したりはしません。いっそのこと、知らないふりをしてらしたら良かったのに、それさえもできないなんて、なんて純粋な――それから、部長も――」
彼は顔を上げ、皮肉な目を榊原に向けた。
「今でも奥さまのことを、愛してらっしゃるんですね。」
榊原は顔を上げ、真っすぐに彼の目を射た。彼はふっと鼻で笑うと、
「どうしてそんなふうに思うんですか。」
そう尋ねると、榊原は目を伏せて、口の端を小さく微笑ませた。女はどうしていつも、こんな表情を隠す顔をするのだろう、そういえば、妻が姿を消したのは、ちょうど榊原くらいの年齢だった。榊原は大卒だから、入社してまだ三年目だが、年は――
「何だかこうして、話を聞いていて、部長のためにそれ以上何もできないのが、とても、罪悪に思えて――」
彼は撃たれたように、顔をこわばらせた。それから、それを取り繕うように視線をそらせると、震える手で、目の前のグラスを握りしめた。
既にぬるんだビールは、消えてしまった泡のわずかな残りがグラスをめぐらせている。
何かが間違っていた。どこかから、間違っていたのだ。それがどこからか、彼自身にもわからなかった。すべてが、最初から、間違っていたのかもしれない。それとも――。
彼にはわかっていた。妻には、話せない、何かがあったにちがいない。
彼はカウンターに肘をついて、頭を抱えた。
何も知らなければよかった。
何も、見なければ良かったのだ。
あの雪山のわずかな瞬間の目撃が、今、妻を殺そうとしている。
あの日の約束が、彼のささやかな幸福を、打ち砕いたのだ。
女は帰らない。
(1996年5月執筆)