第十章

 千尋がマンションに戻ったのは、二時少し前だった。
 病院からまっすぐこちらに戻った。他によるところも思いつかなかったせいもあるが、体のひどい気だるさに堪えられず、家で仮眠したいと思ったのだ。
 昼食は外で取る気がせず、駅からの道沿いにあるコンビニエンスストアでサンドイッチを買ってきて、家について手荷物を片付けると、冷蔵庫からジュースを取り出して食べた。
 食べ終わるとそのまま、二階のベッドルームには行かず、リビングのソファの上に横になった。体が重いと同時に、目のだるさがひどかった。
 寝転がって天井の明かりをみつめながら、そんなに重労働だったろうか、と思い返してみたが、体の疲れよりも神経が参っているのだと思いついた。あの、先日の金曜日の喪失から丸三日、考えてみれば、記憶を取り戻すための作業を幾つもした。知っているはずのそれは、全部知らないもので、失った記憶は、やはり取り返せいものだった。
 記憶を失うことによって、傷つけたはずかもしれない人、傷つけられたかもしれない人、――それは覚えもない罪科にさいなまれているような気持ちだった。それでも戻らない記憶――一体、何が足りないのだろうと思いをめぐらせる。めぐらせる背後から、睡魔が襲ってきた。彼女は一生懸命考えねばならない、と思うのだが、その度に意識が朦朧として、きちんとモノが考えられない。
 そうだ、思い出さなければいけない。何か、大切なことを忘れている。とても大切な、忘れてはならない何かを、忘れているのだ。

 前の方の席で千尋は、高校の制服を着てパイプ椅子に座っていた。葬儀場は、千尋一人を残してとても雑然としていて、目の前の高い祭壇は、変に状況に似つかわしくない、とさえ思った。祭壇の上には、父親と母親の写真が並べられてあって、二人はとても幸せそうな笑顔を浮かべていた。
 その笑顔は、少し若かった。
 そうだ、二人の結婚式がすんで、まもなくに撮ったものだもの。だから、少し若いのだ。
 あれは千尋と三人で、夏休みに伊豆に温泉旅行に行った時のものだった。あの頃はまだ、池野のおばあさんも生きていて、温泉方々伊豆のそのおばあさんの家に寄ると、おばあさんは親切に出迎えてくれたのだ。
 楽しかった――。
 ふと、後ろから千尋の肩を叩く人があった。
 千尋が振りかえると、池野の父親の友人で、有馬という男が千尋に話しかけている。
「千尋ちゃん、千尋ちゃん、もう始まるよ、いいかい?」
有馬は返事をしない千尋の顔をじっとみつめた。
 千尋は有馬の顔をぼんやりと見上げた。
 そうだ、この男は、表情はいつもおだやかで優しげなのに、体からかもし出される空気は、いつも、とても冷たい。一緒にいるのがいやになるくらい、本当に、どうして池野の父親は、こんな人に後見を頼んだのだろう。
 いつも事務的で、冷たくて、表面ばかりが親切なのだ。
 そうだ、この人は、母に対してもいつもそうなのだ。誉めているのか、けなしているのかわからない言葉を投げかけては、よく母を困らせていた。表面誉めているのだから、相手をけなすわけにもいかず、本当に、感じの悪い人だと思った。
 千尋は有馬にコクンと一つうなずくと、有馬の顔から目をそむけて前を向いた。
 少し雑然とした会場の中で、ヒソヒソと話し声がきこえてくる。声の主の中に、有馬の声が混じっていた。千尋の、斜め後ろ、葬儀委員の席にいるらしい。何やらあまりいい話ではないのだ。向こうは、話している内容など、千尋にはわからないと思って話しているのだ。
 こんな豪華な葬式しなくて良かったんじゃないか、などと話しかけている。贅沢じゃないか、とも。確かに生前の池野の交友を考えれば、これぐらいのことをしてもいいけれど、あの死に方じゃねえ、などと言う。すると、有馬が、いや、これぐらいしなきゃ、困るんだよ、と言葉を足した。何も後ろ暗いところはないんだからね。でも、これじゃあ、前のカミサンが、と誰かが言ったところで、その声の主は声を落とした。
 耳を澄ますと聞えてくる。
 有馬が言うのが聞えてきた。
 いいんだよ、カミサンもユリちゃんも、来やしないさ。はっきり言ったんだ、もう関係ありません、全ておまかせしますって。××××――からって、実の娘が来ないことがあるかよ。××××の娘は、その辺が難しいところなんだよ。―――――――も、因果な子だねえ、父親の葬式を、――も経たないうちに二度もするなんて×××××××あの父親は、××さんにしてみれば、いなくなってもらった方が――が良かったんじゃないの?
 ク―――と笑いをこらえる声が聞えてきた。
 椅子に腰掛けながら、前を見据えながら、千尋は、体をこわばらせていた。聞えないと思っているんだ、あの人たちは。聞えたって、わからないと思ってるんだ。わかっても何も言えないと知っているから、平気であんなことを噂できる。そうだ、聞いていた。さっきだって、あいつらは、ひどいことを言っていたのだ。とてもひどいことを言っていたのだ。
 実質上、池野を殺したのは、あの女じゃないか――
 ひどい、母さんは、殺してない。事故だって、言ったもの。カーブを切り損なったって――それだけでも、二人が逝ってしまったことだけでも、とても哀しいことなのに、信じられないことなのに、どうして、この人たちはその上、そんなひどいことを言うのだろう。どうしてそんな悪いことを言うのだろう。
 かあさ……ん、かあさ――ん、お願い、帰ってきて、それは嘘だと言って。悪い冗談したわねって、笑って、いつもみたいに笑って、帰ってきてよ、母さん、母さん、かあさ
 ブルンと揺すられて千尋はハッと目を覚ました。
「ちいちゃん? 大丈夫?」
女の顔が、千尋をのぞきこんでいる。この巻き毛、お人形さんのようなキレイな顔。誰だっけ、誰だっけ、誰――
「すごく苦しそうな顔してたから、泣いてるだけならいいんだけど、今にも息が止まりそうな顔で…大丈夫?」
女は心配そうに、千尋の顔をのぞきこんでいる。女は千尋の額をなで上げて、「ひどい汗よ?」と聞き返した。
「またお母さんの夢みてたの?」
「え、うん。」
目の前の女はため息をついた。それから立ちあがると、何か冷たいものいれるわね?と言って目の前にある台所へと歩いて行った。
 汚い部屋だ。雑然として、どこか薄汚れた感じがする。
 自分はどうしてこんなところで寝テイタノダロウ――。
「あたしなんでこんなところにいるの?」
と千尋は女に問い掛けると、女は振りかえり、
「やあね、ちいちゃん、昨日カラオケの帰りうちに泊ったんじゃない。忘れちゃったの?」
女は冷蔵庫を開けてポットを取り出した。ガラスコップに茶色い液体を注ぎ込むと、片手でポットを冷蔵庫の中に仕舞って、冷蔵庫を閉じた。それから、千尋の方まで歩いてくると、彼女にそれを差し出した。
「飲みなよ。」
女の顔は優しかった。仕草さえも、優しかった。夢の中のあの男、有馬という男、比べ物にもならない――
 千尋はガラスコップに口をつけながら、ボロボロと涙をこぼした。
 そんな千尋を見て、女は千尋の体に手を伸ばし、彼女を抱き寄せた。
 人肌のぬくもりを感じながら、千尋の中に寂しさがこみ上げた。寂しさがこみあげて、涙になってこぼれ落ちる。
 さみしい、さみしい、わたしは、さみしい――――
「ねえ、ちぃちゃん、ちぃちゃん、もう、忘れなきゃ、もう、森本さんと結婚して幸せになるんだから、哀しい過去は、全部忘れなきゃ。」
 忘れる――?
 千尋が不思議に思って女の顔を見ると、それは母親の顔だった。
「そうよ、大丈夫。お母さんがまもってあげるわ。全部忘れていいのよ、あの秘密も、あなたの秘密も」
「だめよ、おかあさん、あたし、だって」
その時、ドアが激しくノックされた。
 ドドドドンッ!、ドドドドンッ!
 ドアが激しく、音を立てるたびに揺れる。めまいを起しそうになりながら、千尋は消えてなくなりたいほど、激しくおびえた。
 ああ! 来てしまった。
 迎えが来てしまったのだ。
 あたし、連れていかれるのよ、ドアを開けると、あれは警察で、連れて行かれるの。
 みんな知ってるわ。忘れたふりしてもだめなのよ。あたし、人殺しなのよ。
 あたし、ヒトゴロシなのよ――!
 ヒ、ト、ゴ、ロ、

 ドンッ! と激しい一撃で、千尋は目が覚めた。激しく鳴らすチャイムの音が聞えている。
「千尋さん、千尋さん、いないの? 千尋さん!」
ドアの向こうから女の声が問う。
「は、はい。」
千尋は無意識に返事した。すると、ドアの向こうから激しく叩く音はやんで、
「開けて! 大変なのよ!」
叫ぶ声が聞えてきた。
「千尋さん、きいてるの?」
「い、今あけます。」
寝ぼけた頭のまま、玄関へと走った。部屋の時計を見ると、まだ二時半にもなっていない。ほんの十五分か二十分、寝ていただけなのだ。それでもわずかの睡眠から覚めた心地よさを感じながら、千尋は玄関の扉を急いで開けた。
 扉を開けると、そこに立っているのは柴野だった。
 少しギクリとしたが、ただならぬ形相に、千尋は何か緊急の事態が起こったことを悟った。
「森本さんが!」
女は開口一番にこう言った。
「森本さんが、出先から戻って来る途中に事故にあったって。あなたに連絡つけようとしたんだけど、――どこ行ってたのよ!」
「あ、すいません。え…」
「もう坂城さんたちは病院の方行ってるわ。あなたにだけ連絡が取れないから、あたしが直接きてみたのよ。早く、出かけるわよ」
そう言って柴野は千尋の手をひいた。
「え、待ってください、あたし」
「何を待つのよ、緊急事態なのよ、待ってる暇なんてないわよ!」
「え、あ、」
「大丈夫、車だから。さっ!」
柴野は千尋の手をひいた。
「す、すいません、戸締りだけでも…」
そう言うと、柴野は少し躊躇して、千尋の手を離した。千尋は慌てて食卓の上においておいた鍵を取ると、それから慌てて玄関の方へ戻ってきた。
 外へ出ると、玄関の鍵をかけ、それを見た柴野はまた、千尋の手を掴んで、それから走り出した。
 走りながら、千尋は何が何やらわからなかった。どうして、森本が、事故になどあったのだろう。そんなに、運転の荒い人ではなかったような気がするのに?
 症状は、どうなんだろう、と思ったが、柴野の流行る気配に押されて、そこまで考えることも、聞くことを思いつきも、しなかった。エレベーターが下へ行く中でも、柴野はランプを見あげてイライラしている。着いたとたんに彼女はまた走りだし、マンションの入り口に停めてあった車に到着すると、千尋を助手席に乗せ、彼女は運転席に乗り込んだ。 
 白い左ハンドルのボルボだ。
「あの」
千尋は車が動き出したので、柴野に話しかけた。
「森本さんの容態は、どんなふうなんですか? 一体、どこで事故に…」
「話しかけないで、気が散るわ。」
柴野は怖い顔をして前を向いている。道は生憎の混雑ぶりだった。ふと、これなら電車で移動した方が早いのではないかと思ったのであるが、千尋は手持ちの物が何もないのだということに気がついた。
 身一つで出てきてしまった。
 そうだ、せめて携帯があれば、坂城か誰かに電話をかけて森本の容態をきけたはずなのに――。
「あ、あの」
「何?」
「携帯電話、お持ちでしたら貸していただけないでしょうか?」
「何するの?」
「坂城さんに電話をかけて、今の容態でも…」
千尋はそう言いながら、柴野の顔をみつめた。柴野は答える風もなく、千尋に一瞥をくれると、また前を向いた。
「あ、あの…」
千尋は柴野の顔をみつめ続けた。
 そうだ、昨日から、何かおかしくないだろうか?
 この女は、何かがおかしい。
 ずっとそうだ。何か、よくわからないけど、何かが、おかしいのだ。
「携帯…」
千尋はつぶやいてから、ハッと我に返った。
 今日はずっと、携帯電話はバックに入れて、持ち歩いていたのに、どうして千尋と連絡がとれない、なんてことがあるだろうか。
「す、すいません、でんわ、電話を貸してください。」
「持ってないわ。」
「じゃあ、そこで下してください。公衆電話をかけに行きます!」
「お金持ってるの?」
千尋は言葉を飲んだ。
「じゃあ、どこかで電話を借りて…」
柴野は千尋の言葉を聞きながら、フッと鼻で笑った。そして、くすくすと笑い始めた。
「な、何がおかしいんです?」
柴野は千尋に、楽しそうに、
「ごめんなさいねえ、千尋さん。私あなたに、嘘ついちゃったぁ。」
「嘘?」
それからまた、柴野はくすくすと笑った。
「ごめんなさいね、私、どうしても、あなたに話したいことがあったのよ。それで、そんな嘘ついちゃった。」
「じゃあ、森本さんは?」
「知らないわ。ピンピンしてんじゃないの?」
そこで千尋は少しホッとした。その千尋の様子を横目で見ながら、柴野は続けた。
「私ねえ、あなたに話があってきたのよ。片岡千尋さん。二人っきりで、大切なお話があったのよ。」
柴野は真顔になって、千尋の方に視線を投げた。
「かたおか、ちひろ?」
「そうよ、片岡千尋さん、あなたにお話があったの。それでね、病院でなくて、あるところまで一緒に行っていただきたくて、嘘ついちゃったのよ。ごめんなさいね。」
「あるところ?」
「そう、あるところ。」
「どこです?」
それで柴野はまた、クスクスと笑った。
「福生。」

 森本が、千尋たちがねぐらにしていたというバラックの位置を確認して、福生を出発し、途中食事をすませて事務所「ミル」に到着したのは、既に三時が近かった。
 事務所に到着するとすぐ、森本はアルバイトの村井絵津子に、午後の仕事の確認をした。それから自宅に電話を入れたが、留守番電話が出ただけで、千尋は留守のようだった。携帯電話にもかけようかと思ったが、そこまで電話することもないだろうかと躊躇していると、事務所のインターホンがなった。
 村井が出ると、村井は、インターホン越しに「え? 警察?」と声を上げた。
 その言葉に、森本は思わずインターホンの前にいる村井に振りかえった。村井は、「少々お待ちください」とだけ言うと、インターホンを切った。
「警察?」
森本が村井に話しかけると、
「ええ、なんでも、森本さんにお話がききたいとかおっしゃって…」
「ああ、じゃあいいよ。俺が出るから。」
そう言うと、森本は村井を制し、自分から玄関ドアへと歩いて行った。
 スタジオ兼事務所のこの部屋は、一階が店舗になっていて、その二階だった。ワンフロアぶち抜きで使おうと思えば使えるのだが、奥に撮影場所、表に事務所という風に間仕切りしてあり、キッチンや水回りのものも一応そろっている。常時いるのは主婦のアルバイト村井絵津子で、そこに入れ替わり立ち代り人が出入りしている。しかし、今日は幸いにも、森本と村井の二人きりだった。
 森本がドアを開けると、初老の刑事らしき男が前に、それに従うかっこうで若い刑事がついていた。初老の男の方が、「森本武臣さんでいらっしゃいますか?」と尋ねるので、森本は「はい、そうですが」と答えた。男は胸ポケットを探ると、手帳を出して、
「新宿西署の葛西と言います。少し、お話をうかがいたいのですが、よろしいでしょうか?」
と丁寧な口調で尋ねた。森本は、「どういうご用件でしょうか」と尋ねてみると、葛西という男は、
「婚約者の池野千尋さんのことで、お邪魔したのですが…」
「千尋の?」
森本が問い返すと、男は静かにうなずいた。森本は少し考えて、
「こんなとこじゃなんですから、どうぞ、中へ」
と言って招じ入れた。男二人はお邪魔しますと言って部屋の中に入り、森本の進めるままにソファに腰掛けた。
 森本はすわらずに、ソファの横に立っていたのだが、葛西が、
「いや、一度ご自宅の方に行ってみたのですが、お留守のようですので、こちらの方にうかがわせていただきました。千尋さんは、今日は、どちらに?」
一体何が目的で来たのだろうと、森本はいぶかみながら、二人の刑事を見下ろしていたが、
「所要がありまして、でかけています。今日はこちらにはおりません。」
刑事二人はため息をついた。
「そうですか、それは、残念なことをしましたな。いや、こちらも急いでいるもので、出来れば早急に居所をつきとめて、お話をききたいところなんですが…」
葛西が話している横から、村井がお茶を出した。いやいや、おかまいなく、などと葛西は礼を言いながら、立っている森本を見上げ、
「あなたもおかけになったらいかがですか。別に我々は、とって食ったりはしませんよ。」
こう言われて、森本はようよう向い合わせで腰を下した。
「千尋は千葉の方にでかけてまして、そろそろ自宅に戻っているはずです。いったい、どういうご用件でしょうか。」
そういうと、葛西はため息をついた。それから、胸ポケットから煙草を取り出すと、「よろしいかな?」と尋ねた。
 どうぞ、という森本の言葉に、葛西はテーブルの上の灰皿を引き寄せると、煙草を取り出しライターで火をつけた。一服吸うと、
「ワニブチタカシ――という人物は、ご存知ですか?」
葛西はそう尋ねた。
「ワニブチタカシ? いいえ。」
「本当に?」
「ええ」
「千尋さんからは、何も?」
「いえ、知りません。園山隆史なら知ってますが。」
「園山? 誰です?」
「うちの実質上のオーナーです。」
刑事はふん、と鼻をならして、また一服吸った。
「十日ほど前のことなんですが、新宿の雑居ビルから、男が一人転落死したのをご存知ですか?」
「いえ。」
「ふん、その男、まだ大学生なんですが、クラブやキャバレーなんかの女の子をスカウトするアルバイトをしてましてな、学生の身分で荒稼ぎをしていたわけなんです。失礼ですが…千尋さんが以前クラブで働いていたことは…」
「ええ、知ってます。」
「結構。千尋さんもその男にスカウトされて、クラブに入ったわけです。その男が、先日事故とも自殺ともわからない様子で転落死しましてな、我々は自殺事故事件で調べていたわけですが、その男が死ぬ前に、銀行口座に多額の金額で、数回にわけて多額の振り込みがあったわけです。もちろん、アルバイトの金ではありません。私の言っていること、わかりますかな?」
「それと千尋が何の…」
森本は震えそうになる手を抑えた。
「まあ、最後までお聞きいただきたい。その振り込み相手というのが、偽名でしてな、なかなか人物が割り出せなかったわけです。ところで。」
葛西は灰皿に煙草の灰を落とした。
「柴野有里、という人物をご存知ですか?」
「え、柴野?」
「そうです。芸能コーディネーターをしている女性です。年は…」
「知ってます。その、柴野さんが何か?」
「昔、池野さん、とおっしゃった、ということは?」
「え?」
イケノという言葉が森本の脳裏をゆっくりとすべった。池野――有里?
「柴野は母親が再婚した相手の名字でしてな、元は池野という姓なんです。父親は医師で池野正博――故人です。柴野有里の実母とは十年ほど前に離婚しまして、そう、千尋さんの、お母上と再婚されたわけです。このことは千尋さんからは?」
「きいてません。」
「このことは、千尋さんはご存知でしたか?」
「知りません。」
「二人の接点はそれだけではなくてですな、福生で活動をしていたバンド、えー…」
「スリーオー!」
森本は思わず声を上げた。
「そうです、いやご存知でしたか。」
「さっき知ったんです!」
「千尋さんは、そのスリーオーのキーボードを担当していたわけなんですが、ここのボーカルだけがプロデビューしているわけです。これをプロにスカウトした本人が、この柴野有里でして、」
森本は立ちあがった。そして電話の方に走って行きながら、昨日の劇場STCの裏で起こった、植木蜂の落下現場がまざまざと頭の中に浮かんできていた。電話の受話器を上げて、自宅に電話を入れる。しかし、短いコールの後、出たのは留守電のメッセージだけだった。
 慌てて受話器を置くと、今度は千尋の携帯の電話番号を押した。
 長いコール…長い、長いコール――
「出ない。」
森本は刑事たちに振りかえった。何か確信があったわけではなかった。しかし、先ほどから、森本の脳裏に昨日の、地面に打ちつけられて割れた植木蜂の像が浮かんで離れない。
「何でもっと早くそれを言わないんですか?」
森本は思わず叫んでいた。森本の声に、刑事は二人は思わず立ちあがると、
「どうしました?」
尋ねた。
「昨日ですよ。昨日の夕方ですよ。千尋は、柴野に植木蜂で頭を割られそうになったんですよ。」
「え、昨日?」
「そうです。」
森本は自分の机に戻って、車のキーとかばんを手に取った。それから、慌てて玄関の方に歩きながら、
「柴野が今どこにいるかわからないんですか?」
そう刑事に尋ねると、
「ああ、まあ、森本さん、そういきり立たないで。ちょっとお待ちなさい、すぐ調べられますから。それで、千尋さんは?」
もう一人の刑事がポケットから携帯電話を取り出すと、ダイヤルし始めた。
「自宅にもおりません。携帯にもでません。あいつもう帰ってる時間なんですよ。外にいるなら携帯持って出てるはずだし…」
森本はイライラと、もう一人の刑事が電話の向こうとやりとりするのを聞いていた。刑事は携帯電話からふと耳を離すと、
「一時間ほど前、東京環状から外れて、そこで見失ったままだそうです。現在その跡を、必死で探しているそうで、」
その声で、森本は事務所の入り口を目指して歩き出した。
「森本さん、どこへ行かれるんです?」
葛西は尋ねた。森本はドアに手をかけて振りかえると、
「福生です。」
そう答えた。
「何か思い当たることでも?」
森本はドアを開けたまま、
「勘ですよ。失礼。」
そう言ってドアの外へと出ていった。
 森本がドアを閉めると同時に、二人の刑事は顔を見合わせ、村井にそれぞれ「失礼」と挨拶をして、ドアの外へと駆け出した。
 
「千尋さん、あなたまた、記憶喪失になったんですって?」
柴野は助手席にいる千尋に話しかけた。千尋は答えずに、柴野の顔をみつめた。
「坂城さんにきいたのよ。先週の金曜日に、また記憶喪失になったって。あなた、きっといつもそうなのね。自分に都合が悪いことが起こると、忘れるように、脳みその回路ができてるんだわ、きっと。」
 千尋は柴野をにらみつけた。
「福生に、何をしに行くんです? なんで、嘘をついてまであたしをつれだしたんですか?」
千尋が身構えているのは、雰囲気としゃべり方で十分わかる。そんな千尋に柴野はまた流し目をくれながら、クスクスと笑った。
 この笑い、さっきからどこか癪にさわる。独特の、人を小馬鹿にしたような笑いなのだ。
「それはね、千尋さん、私あなたにどうしても、思い出してもらわなけりゃいけないからよ。なるべく早いうちに。でないとどうして、私があなたをこんなに憎んでいるのか、わからないでしょう?」
「憎む?」
「そうよ。」
「なんで、私があなたに?」
「そう、だから、それを説明する前に、あなたにすべてを思い出してほしくて、あの場所に行くのよ。エイジが死んだ、あの場所に――」
「エイジ?」
その言葉に、千尋は激しい戦慄を覚えた。
 記憶は、鮮明ではないのに、何か激しい感覚が、千尋の体を襲ってきた。
 千尋の歯がガクガクとなった。
 寒い――!
 それなのに、汗が――汗が体の中から、じわじわとにじみ始めた。