第十一章

 車は、千尋の惑乱を気にもとめず国道を西へと走り続けた。
 先ほどから時計を気にしていた柴野は、チッと一つ舌打ちをすると、交差点で車を右折させた。高速道路へと移動するのだろう。
 千尋は前を見据える格好で、汗もしとどに震えていた。
 そうだ。
 そうだ、エイジ――
 五十嵐英二――そうだ、決して忘れてはいけないはずなのに、どうして記憶は消されてしまったのか――
 両手で口を抑えて震える千尋の目の前に、あの、白い錠剤の山が蘇る。
 ギターを持つ太い腕――ギターをひく、厚い皮の指を持つ、手の平に、英二は白い錠剤をざらざらと出して見せた。
 あの量は多すぎたのだ。
 どう考えても、尋常ではなかった。
 それを彼は、ラムネでも飲むみたいに、瓶からざらざらと手の平に広げ、それから、缶の水割りで流しこんで行った。
「そんなに飲んで大丈夫なの?」
と問う千尋に、
「いいんだ、この方が、よく効くってマネージャーも言ってたんだ。効きが悪くても、多少量が過ぎたって命に別状ないって」
「マネージャーって、柴野さん?」
「そう。彼女のおじいさん、お医者なんだ。だから、こういう薬に詳しいんだよ。これも、彼女にもらったんだ。」
 瓶をジャラジャラと音を立てて振る英二の顔は、楽しげなのに、ふつりあいに疲れてすさんだ色をしていた。
 そうだ――そうだ、柴野――柴野有里。
 あの時、劇団でも千尋のキャストに難癖をつけたという、この女――劇団でのあれは、再会だったのに、何も知らなげに、千尋に声をかけてきた。どうして、忘れてしまっていたのだろう――この女はどうして、こんなに千尋の前に現れるのだろう――。
 千尋は、運転席の柴野に目をやった。
 相変わらず前を見て、イライラとしながら運転を続けている。高速道路の料金所に差し掛かったところで、前の車に続いてスピードをゆるめながら、柴野はサイフに手を伸ばした。
 するとようやく、千尋の視線に気付き、一瞬ギクリとした顔を浮かべると、視線をウロウロとさせて、フッと笑った。
「そう」
柴野はそう言って、サイフを取り、中から千円札を取り出すと、サイフを元のところに返し、パワーウィンドウを下げた。
「思い出したの?」
窓が下がるのと同時に、風が車内に吹き込んでくる。ねっとりと湿気を帯びた、息のつまりそうな臭い風だった。柴野の長い髪が顔の前で風に暴れ、彼女はその髪を手でよけ、後ろに流した。
 車の番が回ってきて、料金を支払う。高速道路の係員は金を受け取ると、領収書とおつりを差し出し、柴野は受け取って窓を閉めた。
 車内が比較的静かになると、車は次第に速度を増した。
 外の空気から解放された柴野は、一息つくと、
「それで?」
と言葉を発した。
「どこまで、思い出していただけたのかしら。劇団『絶対零度』あたり? それともサムタイムのマネージャーだった頃かしら。」
「どうするの?」
冷静に話す柴野の言葉を切って、千尋は声を震わせ尋ねた。
「英二の死んだ場所なんかに連れていって、どうしようって言うの? 復讐? それとも」
「復讐? 別に今更改めて復讐なんかしないわよ。私はね、あなたにちゃんと知ってもらいたいだけなのよ。」
「知る? 知るって何? 思い出せってこと?」
柴野は千尋に一瞥をくれた。
「違うわ。私があなたを、なぜ憎んでるのかってことをよ。」
千尋はその柴野の言葉に、虚をつかれた。
「憎む?」
柴野は答えなかった。
 車は、西に進路を取っている。八王子インターチェンジで下りて、一路福生へと北上するのだ。

 それは、冷たい雨の振る日だった。
 その日、千尋は食料の買出しにでも行かなければいけないと思ったのだ。両親が死んだからと、いつまでも部屋で一人泣いてたって仕方ない、永遠にこうしていられるはずもない、とりあえず、何か食べよう、生きなければ、と外に出たのだ。
 部屋は一部屋の、トイレだけがついたアパートだった。電気をつけなければ、昼間でも暗いうっとおしい部屋で、学校の担任教諭がたまに顔を見せる以外、訪れる人もまばらだった。
 外に出なければ、みじめな思いは益々増すばかりだった。しかし、外に出てもみじめな思いは消えそうにないほど、寂しく、冷たい雨が降っている。
 千尋は、買出しに出たものの、結局スーパーにでかける気にはならず、駅前の喫茶店に入った。喫茶店に入って、コーヒーを一杯注文したが、運ばれてきても上の空だった。
 運ばれてきたものに手をつけることもなく、ただ呆然と窓の外の雨模様を見つめていた。
 フローリングの施された店内は、落ちついた雰囲気の間接照明で、ジャズが流れていた。曲はホリー・コール・トリオ「TRUST IN ME」。千尋以外に客は何人いたのか、それさえもよくは覚えていなかった。
 千尋は店の席に座りながら、心は夢の中をさまよっていた。
 頭の中で繰り返す、それは哀しい情景ばかりだ。
 葬式の後、荼毘にふされた両親の遺骨を拾い、二つの骨壷が千尋に渡された。千尋はその二つの骨壷をもって、池野正博の故郷である伊豆の墓所まで骨を収めに行った。
 その時は有馬が一緒だったが、その日の彼は口数が少なかった。
 千尋は寺の住職と、この有馬とでさびしい納骨をすませると、あまりのわびしさに涙がこぼれそうだった。いや、実際彼女はここ数日泣き通しだったのだ。顔を赤く泣きはらし、見るも無残なありさまだった。
 伊豆に納骨に行ったからといって、訪れる親類もない彼女は、その日のうちに東京に戻った。
 一生分の不幸を背負わされている気分だった。
 その日から、まだ一週間も経っていない。学校には葬式の後一度も行っていなかった。
 何も信じられない。この世の何も、信じられるはずが、ないのだ。
 ふと、目の前の席に誰かが腰かけた。
 それで千尋は我に返ると、目の前の人物に焦点を定めた。
 青年だった。
 それは初めて見る青年だった。千尋より、二つ、三つ年上のように見えた。彼は、手にギターを持っていた。どこか照れくさい様子で、千尋の顔をみつめると、ギターをポロンとかきならし、
「『LET IT BE』って曲知ってる? ビートルズの。」
千尋はなぜそういう話が、見たこともない目の前の青年によって持ち出されたのかわからず、青年の顔をまじまじとみつめた。
 青年はにっこり笑うと、そのリズムをギターで弾き始めた。サビに指しかかる前にもう一度、
「知ってる?」
と尋ねるので、千尋は「うん」とうなずいた。すると青年はサビに入る前に曲のテンポをゆるめると、口ずさむように、サビの部分にリズムを合わせ、「哀しい、記憶に、さあ、もう、ドア閉じよう」と歌い始めた。「お願い、笑って、みせて」と歌い終わったところで、青年は恥ずかしそうに顔を下げてギターのコードをみつめながら、引き続けた。
 千尋は突然現れたこの青年の行動に、目を白黒させた。目の前の青年は、やはり恥ずかしそうに、千尋をみつめ返した。
「だってさっきからさ」
と青年は口を開いた。
「ずっと泣いてんだもん。見ててほっとけなくて、コーヒーのおかわり持ってきても、クッキー置いてみても、全然動かないんだから、ちょっと、パフォーマンスでもと思ってね。」
そう言われて、千尋が目の前に視線を落とすと、かなり前に注文して既に冷たくなっているはずのコーヒーは、微かに湯気がたっているし、注文した覚えもないのに、クッキーが二枚小皿に入れて置かれていた。
 それで改めて青年のかっこうを見てみると、そのエプロン姿はどうやらこの店のアルバイトらしい。
「今の曲、気に入ってくれた? って言っても、俺の作曲じゃないけどね。詞変えて、アレンジして、たまにライブで歌ってんだ。これ。『サムタイム』って曲なの。」
そう言ってエプロンのポケットから紙切れをとりだした。そして机の上に広げ、文字に指さしながら、
「近くのライブハウスで、今度の金曜日に演るんだ。このゼロ三つのスリーオーってのが、俺のバンド。よかったら見にきてよ。」
「え?」と千尋は声を立てて、彼を見上げた。
「五十嵐英二っていうんだ。来たら楽屋に声かけてよ。ね。」
そう言って、彼は立ち上がった。
 え、あの、と言葉を継ぐ間もなく、彼は手を振り行ってしまった。
 英二が千尋に声をかけたのは、もちろん店が暇なせいもあったのだが、泣いている少女を見るに見かねて、声をかけたのも確かだった。
 それが千尋にとって、惨めな日々の中、微かに色を落とした最初の出来事だった。これが五十嵐英二と、千尋との最初の出会いだった。

 車は、八王子インターチェンジを降りた。この道を北上してまもなく、福生市に入る。町自体の標高差が少なく、平坦な印象を受ける所だ。米軍横田基地があって、日に何度も飛行機の発着陸が見える。
 それが、千尋の生まれた町だった。
 道を北上するにつれて、覚えのある町並みが展開する。
 そうだ、あの朝、英二が死んだ朝、千尋はこの道を、南へ向かって歩いていた。ちょうど、二年前の今ごろで、あの日英二は「明日は千尋にとっての大切な日だから二人で迎えよう」と言って、呼び出されたのだ。
 呼び出されたのは、国道の道沿い、英二が父親に残してもらった修理工場の二階で、英二が亡くなった後閉鎖された。その前でゲリラライブをよく行ったし、呼び出された二階の部屋というのは、英二が暮らしていた部屋だった。粗末であるが水回りのものは揃っているし、ベットも冷蔵庫も備え付けてあり、暮らすにさほど不便はなかった。
 英二はそこで死んだのだ。
 あの時、千尋は知らない間に、英二と共に眠ったはずのベットから落ちていた。落ちていたということに気付かなかった自分も奇異なことだが、眠る前に確か英二の持っていた睡眠薬を数個もらって飲んでいたのだから、熟睡していて気付かなかったのかもしれない。
 目が覚めて、ベットの上の英二に、千尋は驚愕した。
 もともと悪い顔色は、もう取り返しがつかないほど色を失っていたのだ。
 「英二、英二」と千尋は何度も声をかけて揺り動かしたが、既に体は冷め始めていることがわかった。
 千尋は目を見開いたまま、英二の顔をじっとみつめた。
「英二?」
声をかけたが、返事はない。
 千尋の目から、涙の粒がこぼれた。
 眠る前に飲んだ、あの薬のせいだということは、すぐにわかった。さほど苦しんだ様子もなく、穏やかな顔をしている。そこで、死を疑ったり、死を受け入れられなくなるには、彼女は、これまであまりに多くの遺体を見すぎていた。だから、すぐに、英二の死を理解できたのだ。
 千尋の目から、また一つ、また一つ、と涙がこぼれた。瞬時惑乱しそうに気持ちが高ぶったが、両手で口を抑えることで堪えることができた。
 彼女は、ベッドの上で乱れた英二の体を整えると、そのままその部屋を後にした。
 昼間の日が長くなる時期だけあって、まだ四時すぎだというのに、外はもう薄明かりがさしていた。涙目で見とおした道は、それでもやはり薄暗く、街灯の明かりの方が目立っていた。千尋は英二の元を後にすると、国道十六号をまっすぐ南へ歩き始めた。始発電車にはまだ一時間もある。アパートに戻る気にはなれなった。ただ、誰にも気付かれぬようにそっと、町を出なければいけないと、彼女は思った。
 だって、英二を死なせてしまったのは、自分なのだ。
 英二を殺してしまったのは、私なのだ。
 涙が後から後から流れて、頬を伝う。
 彼女は福生の町を振り返った。明かりが幾つか灯っているのが見える。
 それは、彼女が生まれて育った町だった。そして、父親が死に、母親が死に、養父が死んだ、哀しい哀しい思い出しかない町だった。そして、今、英二が死んだ。
 どこへ行こう。
 彼女は道を南へと下りながら、ぼんやりと考えた。
 どこへ行こう。
 もう、居場所など何処にもないのだ。千尋は始め、英二に居場所を求めた。そして今度は、英二が千尋に居場所を求めるようになった。
 千尋にはそれが、重荷でしかなかったのだ。
 千尋は英二がいとしいと思った。思ったこともある。しかし、それは恋ではなかった。英二を、愛したわけではなかったのだ。ただ、寂しくて、誰かが欲しかっただけだった。
 涙が、後から後から、頬を伝う。
 明けきれぬ町の、通りの少ない道路を、オープンカーが一台、ステレオを大音量にして走り過ぎた。車は、青いポルシェだった。少し走って信号で停車したが、信号が青に変わっても動き出す気配がなかった。千尋が構わず歩きつづけると、信号のところに停車していた車はステレオを切り、歩道にそってをそろそろと後退させて来た。そして歩く千尋と車が交差する。
 運転手の男は、随分派手なかっこうをして、見るからにやさ男だったが、千尋とそう年が変わらないようにも見える。男は千尋をじろじろと見つめると、千尋はほとんど気付かない様子で歩みを進めるので、後ろから、大きな声で、
「ヘェーイ、彼女ぉう! かぁなしーねー! どうしたのお? 彼氏にふられたのぉ?」
と声をかけた。
 それでも千尋は歩き続けるので、男は車を進めて千尋の横をついてきた。
「ねえねえ、かあのじょう! どこまで歩いて行くのよぉう! なんなら僕が、のっけてってあげようかあ?」
千尋は歩き続けていた。答える気力もなかったのだ。
「ねえ、ねぇえ! どこまでだってのっけてってあげるよーん! どこ行こっか? 天国までだって、ドライブしちゃうよーん! ねえねえ彼女―!」
千尋は振りかえった。それで、少し皮肉っぽく笑うと、
「本当?」
と問い返した。男は「おっ!」と体を乗り出すと、
「もっちろんじゃーん! どこまでだって連れてったげるよ。ね、乗りなよ。歩いてないでさあ、さみしいじゃーん、こんな道!」
「あたし、東京がいいな。」
「おっけおっけ、東京ね。ここも一応東京だけど! 俺もちょうど戻る途中だったの。じゃ、乗りなよ!」
千尋はオープンカーの隣りに乗り込んだ。男はニヤニヤと笑いながら、千尋の顔を見つめていた。
 その男が、鰐淵崇、スカウトのタカシだった。

 タカシには随分経ってその日のことを聴かれたことがある。
 それでそのことを話す時、千尋はようやく他人に両親が死んでから後のことを話せたのだったが、彼女はタカシにその話をした時ひどく酔っ払っていたから、そんなことを話せたのかもしれない。
 あの日は、クラブ「ミリオン」に一人で残って飲んでいた千尋と、店に忘れ物を取りにきたタカシが偶然、遭遇したのだった。千尋は最初の頃はよく隠れて酒におぼれていた。彼女はその時も相当飲んでいて、タカシに酒を強要したのだが、ちょうどその時間帯が、二人が会ったあの日、千尋が国道をさまよい歩いていた時間だったのだ。
「あたし、あの日ねえ、男殺してきたのよ」
と、千尋は言った。
「ふーん、チヒロちゃんは、酔うと物騒だねえ。」
千尋は酔った目をタカシに投げて、「あぁんた信じてないわねえ」などとからんだ。
 彼女は遠い目をすると、
「あたしねえ、そいつ、英二ってんだけど、べっつにさあ、殺す必要もなかったわけよ。でぇもさぁあ、英二が死にたかったんだから、仕方ないよねえ。」
「何、チヒロちゃん、殺したんじゃなかったの?」
「そうよお、殺したのよお、あんた、何聴いてんのよ。」
「いや、だから、男殺したんでしょ?」
「そうそう」
「で、何? その英二って奴が、殺してくれって言ったわけ?」
「言うわけないじゃーん、そんなの。」
「じゃ、何で死にたがってたってわかるのよ。」
「そんなんわかるわよ。だって、薬をよ、こーんな大量に、ガーッて飲んじゃったのよ、ガーッ。」
言いながら千尋は、手のひらに薬を受ける真似をして、それを何度も手に運んだ。
「薬? 何の薬?」
「さあ、睡眠薬でしょ?」
「チーヒーローちゃーん。」
「なーにーよー。」
「あんた今自分で殺したって言ったじゃん。何? じゃあ、自殺だったの?」
「なーに言ってんのよ、自殺だったら、あたしの目の前でガーッて飲むはずがないでしょう?」
「チヒロちゃん。」
「ん?」
「筋通そうよ。」
「ああ。」
タカシは既に相当キコシメシテイルこの酔っ払い相手に、どうにか会話を整理しようとした。
「だからさあ、最初っからもう一回行くとだよ、薬は誰のだったの?」
「英二」
「英二は自分の意志で薬を飲んだわけでしょ?」
「そうよ。」
「で、それがチヒロちゃんの目の前だった。」
「オーケー。」
英二はしばらく考えてから、言葉を探し、
「わかった、じゃあチヒロちゃんが死ぬほど薬を進めた。」
「なんであったしが死ぬほど薬すすめなきゃいけないのよ。」
「じゃあ、英二は何で目の前でガブガブ飲んだのよ。第一チヒロちゃん、それ止めなかったの?」
「止めなかった。」
英二は思わぬ答えに、「え?」と言葉を発した。
「何で止めなかったの? 何の薬か知らなかった」
「知ってたわよ、あたしももらって飲んだもん!」
「じゃあ、何で止めなかった…あ…」
タカシが気がつくと、千尋は両手で顔をおおっていた。
「死んでしまえばいいと思ったのよ。」
タカシは肩を落として千尋を見つめると、千尋が言葉を吐いた。
「ううん、はっきりそう思ってたわけじゃないのよ。でも心のどこかでね、死んでしまえばいいと思ってたのよ。だって始めっから、信じられないぐらい平和な顔してたんだもん。この世の不幸なんて、何にも知らないって、思えるぐらい、夢一筋に追いかけて、人生それで駄目になっても、親が残してくれたものだってあったし、なんて、気楽な男なのかしらって、何度も思ったのよ。ライブに招待して楽屋に行ったあたしに、ピアノが弾けるってだけでメンバーにしちゃって、何てお気楽で簡単な男だろうって…。そしたら、」
千尋はうつむいたまま髪をかきあげて、フッと笑った。
「一人だけよ、最初はどうでも三年も、皆でがんばってきたのに、一人だけ、スカウトされたのよ。芸能プロダクションにね、プロデビューしないかって。」
「断れって言ったの?」
タカシの問いに、千尋は首を振った。
「ううん、チャンスじゃない、あたしたちのことは気にしないで、一人でがんばっておいでよ、英二は才能あるんだからさって」
うつむいた千尋の目から涙がこぼれた。
「いつも、いっつも嘘だったのよ。元気付ける言葉も、勇気付ける言葉も、全部嘘だった。羨ましくて、妬ましい――それなのに、英二、帰ってくるのよ、福生に。あたしに会いに、帰ってくるの。売れ出してからもね休みみつけて、帰ってくるの。それで、言うのよ。『ここしか、逃げ場がないんだ。どこにも…』って。つらい、つらいって」
タカシは黙ったまま、酒のグラスを口に運んだ。千尋はそのまま話しつづけた。
「でもねそんな言葉あたし本当はよく聞こえなかった。だって、今まで苦労してないから、今がそんなにつらいだけじゃないって。あたしの不幸なんかとは、比べものになんない。だから、心の底でずっと、死んでしまえばいいと思ってたのよ。だから、止めなかったの、『そんなに飲んでいいの?』ってきいたら、いいんだ、この方が、よく効くってマネージャーも言ってたからって。利きが悪くても、量が過ぎたって命に別状はないって」
「マネージャーって?」
「うん、柴野さんって言った。英二のマネージャーだったの。その人英二をプロにスカウトした人だったんだけど、おじいさんがね、お医者さんで、薬に詳しい人だったんだって。あたし、英二のその言葉をいいことにして、止めなかったのよ。心のどこかで、いけないと思ってたくせに、どうしても――。」
千尋は息を止めて両手で顔を被い、手で涙をぬぐった。それを見ながら英二は、
「でもチヒロちゃん、それは、チヒロちゃんのせいじゃないよ。奴も、きっと死にたかったんだよ。そんなに自分責めちゃだめだよ。」
タカシのその言葉に、千尋はまた首を横に振った。唇をぎゅっとかみ締めて、
「だってあたし」泣き出しそうになる目を、ぎゅっと閉じた。
「だってあたし、救われたのよ。あの時、両親が車の事故で死んだ後、ボロボロだった、本当は、救われたのよ、英二に。もう、どうなってもいい、もうどこにも帰る場所なんてない、一人ぼっち、それなのに、英二が一人の時は、あたしはただ、ただうっとおしいって、死んでしまえばいいって――!」
閉じられた千尋の目から、涙が細く伝い落ちた。手で口を抑えると、唇が小さくわなないた。
「優しくないわけないじゃない。」
千尋は叫ぶように言った。
「ろくに苦労もしない人が、あんな優しいわけないじゃない。それなのに、あたし、自分ばっかり不幸だと思って…!」
千尋はまた両手で顔を被った。
 たった一夜――それは、取り返しのつかない夜だった。
 英二は、その日は死んだ両親の思い出の日だということを知っていた。その前年も、記念日だと言って千尋は過ぎた日の幸福を一日中繰り返していたからだ。
 そうだ。
 この日に死ねば、千尋は決して彼のことを忘れないだろう。一生、どんなに、時が経っても。
 だから彼は、この日に自分の死を選んだのだ。
 それでもあの日、千尋には見えたのだ。
 彼の、救いを求めてやまぬ手が、確かにあの日、千尋に向かってのばされていたのだ。

 車は東福生駅を通りすぎ、まもなく荒れた建物の前で停車した。それが、二年前、千尋が逃げ出した英二の部屋だった。
 柴野は車を停車させると、千尋に「降りて」と声をかけた。
 彼女は先に車を降りると、降りる気配のない千尋の方のドアに回り、ドアを開けて「降りなさい」と手をひいた。
 ほとんどひき下されるように車から降りた千尋は、降りながら、
「今更どうして、柴野さんがあたしをこんな所に連れてきたの? あたしに、何をしろっていうの? 償い? 懺悔? 英二が死んだのは、あたしのせいだからって――」
叫びながら言う千尋を、柴野はぐいぐいと建物の方へと引っ張って行った。二階への階段は、外からも通じている。一階部分は元作業所で英二の父親が体を壊して店を閉めてから閉鎖されたまま、千尋がここを知った時は、既に二階の入り口が通用玄関として使われていた。
 元々古い建物だったが、二年間、人が出入りせず、相当くたびれた様子だった。
 柴野は外から二階へと上がり、ズボンのポケットから玄関の鍵を取り出すと、錠に鍵を差し込んだ。
「柴野さん! 今更…!」
ドアを開けて入ろうとする、そのドアの向こうから、湿気たかび臭い空気が立ち込めて押し寄せた。中に踏み入れようとしたところで、柴野は立ち止まり、千尋に振りかえった。
「ねえ、千尋さん」
そう言って千尋の目をのぞきこんだ。
「あたし後悔してるのよ。どうしてあたしたち、父が生きている間に、お互い会っておかなかったんだろうって。どうしてあたし、あなたにあたしの姿を見せておかなかったんだろうって。そうしたら、あたし、英二を知ってこの四年の間、あなたを追い続けずに済んだのよ。間違いを犯さずに、済んだと思うの。」
柴野はそう言うと、千尋が先に中に入ることを促した。
 千尋は、柴野の言った言葉の意味を理解しようと、必死で頭の中を探していた。
 父が生きている間に―――?
 それは一体、どういうことなのだろう。