千尋の問いに答えることもせず、柴野は千尋の背中を押して家の中に突っ込んだ。ムンとしたカビ臭いにおいである上に、中が暗くてよく見えない。位置がかわっていなければ、入り口左手に、縦に廊下が走っているはずだ。この部屋自体が、長方形の建物から突き出た格好になっている。廊下側の部屋の入り口にかつてドアがあったが、その後取り外して直接廊下とつながる格好になっていたはずだ。この、エイジが寝止まりしていた部屋は、二階の外から入る玄関すぐ、今千尋が立っている位置から、ノンステップですぐに部屋になっていた。胸ほどの高さのサイドボードで仕切った向こう側に、ベッドや生活用品が並んで丸見えだが、日常家にいるときでも施錠していたので、こちらから開けない限り、突然誰かが入ってきてのぞかれるという心配もなかった。
部屋の奥に窓が一つ、そして天井にも明かりとりがあった。それでもそれぞれの窓が小さいので、部屋は天気のいい日でも明るいということはなかった。
千尋が目を凝らして仕切りになっているサイドボードの前まで歩を進めると板張りの床がその度に、ギシリ、ギシリと音を立てる。後ろでバタンとドアの閉まる音がして、それから何かガッタン、と外で大きく倒れる音がした。
見ると柴野が施錠している。
千尋はドアに走りより、柴野を体で押しのけて、錠を解いた。すると、鍵は開いてノブは回ったが、開けようとすると外で、ドアの下の方が何かでつかえる。閉めた拍子に外で何かが倒れて、ドアが殺された格好になっているのだ。
千尋は薄暗い中で、柴野の方を振りかえった。柴野は千尋に一瞥をくれると、ドア側の壁に手を伸ばし、明かりをつけた。少し広めの部屋に、百ワットの裸電球なので、電気をつけてもそれほど明るくはならない。
部屋の中の様子が見える。
すべて、そのままだった。エイジが死んだあの夜のままなのだ。それはまるで、部屋ばかりが昨日の出来事のように変わっていない。変わっていないどころか、チリひとつ落ちていないのかと思われるほど、美しく掃き清められている。
サイドボードの向こう側に置かれているベッドだけが、シーツも布団もなく、むきだしの状態だった。エイジが生きていたあの日、あのベッドに腰かけて、二人よく話をしたものだった。一番よく覚えているのは、「SOMETIME」の話をはじめて聴かされた夜のことだ。
エイジは、千尋に初めてあった日に、そしてライブで、エイジは曲をやってみせたが、本当はめったに歌わない曲なのだとも告白した。なんで歌わないのかと千尋が尋ねたら、元曲の「Let it be」は有名すぎるからね、と話した。自主製作のアルバムに入れるにしても、著作権の問題があるし、と。
それから、彼はギターを持ち出して、「Let it be」の楽曲を奏ではじめた。
「目を閉じ祈りつづけるきみ、記憶の奥に、かすかに響いてる声を
もういいってみんなきっと、なぐさめるけれど、罪の深さがゆらぐ
哀しい記憶に、さあもうドア閉じよう、お願い笑ってみせて」
一番を歌い終えたところで、エイジはギターの伴奏を止めた。伴奏を止めると、千尋は申し合わせたように拍手した。
「本当はね、この歌詞ちょっと歌いにくいんだ」
「へえー、聴いてる感じはそうでもないのに?」
そう千尋が言うと、エイジはふっと笑って、
「聴いてる感じ歌いにくそうだったら、へただってことだしね。」
千尋は「あ、そうか」と口に手をあてた。そんな千尋を見ながら、エイジは話し続けた。
「それでも、この歌詞で行きたかったんだ。実話だからね。」
「実話?」
「そう、ある人に送った詞なんだ。」
「送った? プレゼント?」
千尋の脳裏にふと、死んだ両親の遺体に再会した時のことが過った。それから、歌詞をもう一度頭の中で追って、
「罪の深さが、ゆらぐの?」
と、口元に笑みを浮かべて問うた。
「それなのに、哀しい記憶にドア閉じていいの?」
千尋は眼差しを上げた。その眼差しに、エイジは眼差しをまともに受けて、
「これは、おれの知り合いに送った歌なの。そいつね、誤って人をころしちゃったんだよ。」
千尋の胸に痛みが走った。
「人を?」
「そう。すごくやんちゃな奴だった。暴走族に入って走りまわる、薬はやる、悪いと思うことは何でも手ぇ出してた。それをボランティアで更正させる親父がいてさ、熱心に説き伏せたんだ。それで一度は立ち直った。立ち直ったと思ったら、すぐにまた悪い方へと走ってしまう、何度も何度も繰り返す。本当は、そいつ自身もなんとかしなきゃいけないと思ってた。でも、やめられないんだな。両親との折り合いも悪かったしさ。ところがだ、ある日、そう、事故だったんだ。夜、その親父が止めようとするところを、階段の上から勢いで振りきった時、下まですべり落ちちゃったんだ。」
千尋はエイジの目を見て、問うた。
「しんじゃったの? そのおじさん」
エイジは千尋の言葉にうなずいた。
しばらく千尋は、エイジの目をみつめた後、
「その人は今?」
「真面目に働いてるよ。将来は、その親父と同じ仕事するって」
「その人に送った歌?」
「そう」
「罪に目を閉じてもいいの?」
「いけないよ、本当はね。」
「でも、歌詞は…」
「でも」とエイジは千尋の言葉をさえぎった。「生きるためなら、しょうがないじゃないか。」
「生きるため?」
「そう、生きるため。」
「記憶は、どんなに忘れようとしたって、完全に消えるものじゃないよ。でも、それに囚われて、ちゃんと生きれなければ、おっさんの死の意味がないじゃないか。」
「それでいいの?」
「だめか?」
千尋は答えなかった。答えないかわりに、エイジに別の質問を投げた。
「でも、その詞は、あたしの心にも響くのよ、なんで?」
すると、エイジはふっと笑って千尋の目をみつめると、「知ってる?」と尋ねた。
「え?」
「この詞は、書いたオレの心にも響くんだよ」
千尋は思わず、ふーっと吹き出した。
「おれに限らないよ、人気あるんだぜ、この詞。誰に送ったか知らなくっても、ライブでやるとみんな自分に送られるもんだと錯覚してくれる。『あ、エイジ、今日あの曲やってくれるんだ、ラッキー。』」
「錯覚?」
「うん、錯覚じゃないかもしれないね。本当かもしれない。一人一人の心の中に、大きな大きな宇宙があって、それでみんなつながってるのかもしれないよ。だから、込められた本当の気持ちが、詞にのりうつって、皆を感動させるんだ。」
「だから、心に響くの? そんなもの?」
「そんなものじゃない? 第一、みんな感じるところが違っちゃったら、物語のクライマックスなんて星の数ほどつくらなきゃいけないじゃないか。」
エイジは眼差しを離さなかった。千尋は少し目を泳がせて、笑うと、
「そうかもしれない。人間って単純なのね。」
「えー、そう来るかなあ。」
言って、エイジは大きな声で笑った。
千尋がふと我に返ると、柴野は千尋の横をすり抜けて、サイドボードの横から部屋の内側まで歩いて行った。それから、壁際に立てかけてあった空の本だなを、こちらに立てかけてふさいでしまった。
「柴野さん?」
柴野に声をかけてみる。が、柴野はその後、本棚の裏側に荷物を置いて、千尋にバリケードを作る格好になってしまった。
「ねえ、柴野さん、何してるの?」
千尋がそう問いかけると、それでも柴野は黙々と荷物を積んでいる。
「ねえ、千尋さん」
今度は柴野の方から問いかけてきた。
「エイジが死んだ夜のこと覚えてる?」
千尋はその言葉に、ぐっと言葉をのみこんだ。柴野は手を止めて千尋の方をみつめると、
「ねえ、エイジの死んだ夜のこと、覚えてる?」
もう一度、ききかえした。
「あたしね、あの日後悔したのよ。なんで、あたしはあの夜、エイジと一緒にいなかったのかしらって、どうして、あなたのそばで死なせてしまったのかしらって。」
「どう言うこと?」
「ねえ、千尋さん、あたしとあなたの関係って、どこから始まっているか、ご存知?」
柴野はサイドボードの向こう側から身を乗り出して尋ねてきた。
「どこから始まっているか? あなたが、エイジをスカウトしてきたところでしょ?」
ふん、と柴野は鼻で笑った。
「お幸せね、あなた。あなたたち親子。私だから何度も思ったのよ。父が死ぬ前に、何であなたに私、会っておかなかったのかしらって。」
「あなたのお父さん?」
「そう、池野正博。私の実父よ。」
千尋は一瞬、柴野の言った言葉が理解できず、頭の中で柴野の言葉を口の中で繰り返した。
イケノマサヒロ、ワタシノ、ジップヨ
「え?」
たじろぐ千尋の顔めがけて、柴野はするどい視線を投げた。
「なんて不公平なのかしら。私は、あなたたち親子の名前を何度も何度も繰り返しては、あなたたち親子を呪ったのに。片岡千尋さん、どうして、私の存在に気付かなかったの? 神様ってどうして、こんなにも不公平なのかしら、ねえ?」
言葉をなくしてたたずむ千尋の姿を見て、柴野は楽しそうに笑った。
「あの瞬間まで、本当はあなたのことなんて、どうでもよかったの。あなたに再会しなければ、きっとこんなことにならなかった、あなたを恨んだりしなかったわ。」
千尋は柴野の言葉が理解できず、首を振った。
「あの瞬間?」
千尋の体がおびえるように震えた。柴野の目が、射抜くように千尋をにらみつけている。
「あの瞬間? どの瞬間? ねえ、柴野さん、何言ってるの? あなたが、池野の父の、離婚する前の、奥さんの子供だったってこと、でしょ? いつ…?」
「何言ってるの? あなたに再会した瞬間よ。それからずっとあなたのことを見つめ続けてきたのよ。でも、あの夜以来あたしは、あなたの存在が許せなくなった。あの夜以来。」
「あの夜?」
「エイジが死んだ夜よ。」
千尋は思わず、何かに打たれたように目をつぶった。
そうだ、そうなのだ。この人は知っている。千尋が、エイジを死なせてしまったことを、この人は、知っているのだ。
「だから、復讐しようって言うの?」
千尋は恐る恐る、柴野の顔を見上げた。
「私があなたから池野の父を奪って、エイジを死なせてしまったから、それで今から、復讐しようって言うの?」
柴野は千尋の言葉に、身を乗り出し、目に怒りの色を含ませて、千尋をみつめた。
「何?」
柴野は眉をひそめて首を傾げた。
「何言ってるの? あなたがエイジを死なせたって?」
千尋は返事をせずに、柴野の顔をみつめた。柴野は口元に怒りとも、軽蔑ともつかぬ色を浮かべて、
「何言ってるのよ、エイジを殺したのは、私よ。」
柴野の口元が、はっきりと、怒気を帯びて動くのがわかる。
「あなたが殺した、ですって? エイジを殺したのは、私なのよ。ふざけたこと言わないで。エイジをあんたが死なせるだなんて、そんな幸福なことを、誰が許すもんですか、もしそうなら、あたしあなたを殺してるわ。」
未だ理解しきれぬ頭で、千尋は柴野の言葉をきいていた。頭の中で彼女の言葉を繰り返していた。理解できない。
千尋は言葉を震わせながら、首を傾げて、
「何? 何言ってるの? 柴野さん? 殺した? 殺したって? エイジを? エイジを、あなたが殺したって言うの?」
そう言いながら、大急ぎで記憶の糸を遡った。エイジが死んだ夜を、大量の睡眠薬が、酒で、千尋を見る、疲れたエイジの目、寂しそうに、すがるように――エイジ、エイジは――
千尋はもう一度首を振った。
「柴野さん、何言ってるの? エイジは、エイジは、睡眠薬で死んだのよ。睡眠薬の大量摂取で亡くなったの。それは、マネジャーのあなたが一番よく知ってるでしょう? あたしが、その夜そばにいて、それから、その薬を飲むのを止めなかったから…」
柴野の気配はやはり怒りを含んでいた。皮肉な笑みを浮かべたまま、
「そうよ、だから、あたし、思ったの。どうして、自分の手で殺さなかったのかしら、首をしめるでもいい、刺すのでもいい、どうして、あたしは彼の感触を確かめながら、死なせなかったのかしら。」
柴野の言葉に、千尋は何度も頭の中の記憶をたどった。呼吸を整えながら、目をウロウロとさせると、
「ねえ、柴野さん、エイジは睡眠薬が原因でなくなったんでしょ? 大量摂取による、ショック死って… あたしが、あたしがそばにいながら止めなかったのが」
柴野は、サイドボードを大きく手でたたいて、癇に障る声で千尋の言葉をさえぎった。
「あたしが殺したって言ってるでしょう? なんで、あなた、いつまでもそんな勘違いしてるのよ? ふざけないでよ、どうして、そんな幸福を、あなたに上げるもんですか。」
「幸福?」
「幸福、そうでしょう? あの人を殺したのはあたしなのよ。何度言ってもどれだけ言っても、あなたの元へ帰っていくあの人を、このあたしが、殺したのよ!」
柴野は自分の胸を手で叩きながら、念を押すようにそう言った。
「な、でも、警察の発表は…」
「そうよ。」
おびえて後じさる千尋に、柴野は逆光の顔に不敵な笑みを浮かべて、
「だから、言ってるでしょう。そのエイジをショック死させた薬に入れ替えたのは、他でもない、マネージャーのあたしなのよ。」
「いれかえた?」
「そう、普段飲んでた睡眠薬は、ちょっとやそっとじゃ死なないのよ。薬局で売ってたのをそのまま渡してただけ。でもあの夜は、どうしてもあなたのところに行くって言うから、薬をね、入れ替えたのよ。以前から祖父にもらっておいたの、こんなこともあるかと思って。あれなら大量摂取すれば、死ねるもの。『お酒と一緒に飲めば、薬の不快感は残らないわ。そうよ、ちょっとぐらい過ぎたって、今市販されている薬は、昔と違って多少過ぎたって死なないの。だからね、安心して。きかなくなったって、大丈夫。ホラね。私が言ったとおりでしょ? 安心して、いいのよ。』」
柴野のゆがんだ口元がブルッと震えて、涙がこぼれ始めた。
「睡眠薬は母が父と離婚した時服用してたから、よく知ってるの。そのたびに、祖父が説明してたわ。してはいけないこと、過ぎてはいけないこと。それが、どうしてあんなところで役に立ったのかしら。エイジも、あんなに素直にあたしの言うこときくことないのに…」
千尋の耳に、あの日のエイジの言葉が蘇った。
――いいんだ、この方が、よく効くってマネージャーも言ってたんだ。効きが悪くても、多少量が過ぎたって命に別状ないって――
――そう。彼女のおじいさん、お医者なんだ。だから、こういう薬に詳しいんだよ。これも、彼女にもらったんだ。――
千尋は、目の前で肩を抱いてなく柴野をみながら、「なぜ」と言葉を発しようとして、ふいに言葉をとめた。
「柴野さん、エイジのことが好きだったの?」
千尋の言葉に柴野はビクリと体を震わせた。それからまっすぐに千尋を見詰めると、笑い泣きしながら、
「知らなかったのよ。」
と言葉をついだ。
「知らなかったのよ、彼が死ぬまで、あたし、彼のことをどれだけ愛してるのかって、知らなかったの。どこから、どこからが間違い? いったい、どこから?
あたし、出身の福生に、同郷バンドを探しに来ただけなのよ。地元から、いいバンドを出せたらいいって。それなのに、福生で評判だってバンドを訪ねたら、なんで? あなたがいたのよ。あなたがメンバーに入ってた。
そのうち、エイジがあなたの恋人だって知ってよけい、この男を奪ってやれって思ったの。あなたなんていらなかったのよ。父を奪った女の娘から、男を引き抜いて、奪ってやれ、ちょっとした、意地悪だった。なのに、エイジはちっともなびかない。どころか、やっぱりあなたの元へ帰って行くの。これは、何? どういうこと? あの女は父を奪えて、あたしには出来ないっていうの? ふざけないでほしい。」
「だから、殺したって言うの? なびかないから? ふざけないでほしい? それだけで」
「そうよ、一体何が違うって言うの。父もエイジも、どうしてあんたたち親子にばかり、ひかれるのかしら。許せなかったのよ、あたしのプライドが許せなかったの。そのうちに、エイジを殺すことが、あなたたち親子への復讐だと思った。父を奪って死なせてしまったあの女への、復讐だと思ったのよ。だからいい、殺してしまおう、次、エイジが千尋の元に走ったら、次、エイジが千尋の元に走ったら、何度も何度もそう思いながら。そうしたら、あの日、彼、何て言ったと思う? 休みぐらい家でゆっくりしてればいいのにって言ったら、でも、今日は、千尋にとって大切な日なんだ。何の日なの? って聴いたのよ、そしたら、フフフ…」
柴野は泣きながら、鼻で笑った。
「池野の父と、あなたのお母さんの結婚記念日なんですって。毎年みんなでお祝いしてたから、今年もやるって。笑わせないで、二人はもう死んでるのよ? それ、どういうイヤミなの?」
千尋はあの、儀式のような「幸福の日」を思い出していた。楽しかった思い出、母が幸福を手に入れたジューンブライドのあの日、そのお祝いに、毎年毎年繰り返していた儀式を、その年も忘れられずに――。
「あたしが、あんな男に嫉妬するわけないじゃない。あたしが、あんな男にどうして嫉妬しなきゃいけないの? まだ売れない、青臭い子供――繊細で、弱々しくて、こんな汚いところから出てきたのよ、大学だって出てない、歌うこと以外何が能があるっていうのよ、そうだ、これは、父を死に追いやった女への復讐なんだ。母から父を奪って、死に追いやった女への復讐なんだ。事故ですって? あんな、誰が見ても、保険金を目当てにした、心中じゃない。」
「柴野さん。」
「それでエイジが死んでくれたの。死なない確率だって、あったのにね。そうだ、そうよ、これでよかったのよ、これで、母の苦しみも救われる、父の、魂も報われる――ねえ。あたしは正しい、間違ってない。」
「柴野さん、母は、あれは、母なりの責任のとりかたなのよ。母は一人で死ぬつもりだった。それを、池野の父が、自分から道連れになった、母が父を殺したわけでは」
「どうだっていいのよ、そんなこと。」
柴野は千尋の言葉をさえぎった。
「あたし、彼が死ぬまで気がつかなかった。あたし欲しくて欲しくてたまらなかったのよ。本当は彼を欲しくて欲しくて、たまらなかった、ただそれだけ。あなたの元に帰っていく、あの人が、許せなかった、どうしても、許せなかった。」
柴野はサイドボードの影から、何か重いものを持ち上げた。それから、
「どうして繰り返すのよ、あなたの母親と、私の母親。あなたと、私。どうして…!」
その時、柴野が何かを肩の辺りまで持ち上げた。白い灯油缶だと認めた瞬間、かけられる、と千尋は両手で頭をおおった。と、柴野はそれを部屋の中央に向かって投げつけた。
開いた口から灯油が部屋に撒き散らされ、部屋の中央にドンと音を立てて落ちた。落ちた口から、灯油がトクトクと流れ始める。灯油缶の投げられた方向をあっけにとられながら千尋がみつめていると、柴野はその灯油缶のところまで歩いて行って、部屋中に、残った灯油を撒き散らした。
柴野は振りかえると、
「千尋さん、覚えていて。私は、あなたのせいで死ぬのよ。」
瞬間、千尋の鼓動がドクンと音を立て始めた。
柴野は部屋の真中で、天井にある明かりの下に立ち、涙をしとど流しながら、そこに立っていた。明かりの真下に立ったその形相は、顔に明と暗をくっきりと生み出し、どこか異様に見える。
彼女は荒い息をつきながら、スカートのポケットに手を伸ばした。それで、柴野にみとれていた千尋が我に返ると、
「ちょ、ちょっと、待って、柴野さん。なんで、あなたが、死ぬ必要があるの? そんな、あ、あたしのせいで死ぬの? どうして…」
下唇をかみ締めて、柴野は千尋をにらみ上げている。そんな彼女の顔を探りながら、千尋は、そうだ、柴野の父と似ているだろうか、などと柴野の父を思い浮かべた。なんでこんな時にそんなことを考えるのだろうと、自分でも不思議に思いながら、柴野がどう考えても本気らしいので、彼女をとめる言葉を頭の中で探し続けた。
「ね、そんなバカなこと、やめてください。私、きっとそんなこと言っても、すぐに忘れてしまうわ。また、記憶を失って、あなたのことなんか忘れてしまう。」
サイドボードへと千尋はゆっくりと歩み寄った。激しい混乱の中で、息が荒くなるのを感じる。湿度のせいばかりではない。じっとりと、体に汗がにじみはじめた。
「そんなの、復讐にならないわ。ね、あなたが、エイジを殺してしまったことの罪を感じて、それで苦しいなら、そんなの、生きて償わなければ、駄目よ。し、しばの、さ」
「駄目なのよ。」
柴野は千尋の言葉をさえぎった。
「もう、駄目なのよ。もう、こうするしかないのよ。あたしはこうするしかないの。」
混乱で何をどう言っていいのかわからないのに、さらに柴野は理屈の通らないことを言う。そうだ、落ちつこう、落ちつかなければ…。
「し、柴野さん、落ちついて、ね、落ちついて。そんなやり直せないなんてこと、あるはずないのよ。人間は誰だって、罪を――そう、エイジだって言ってた、大きくたって小さくたって罪を、持ってる。罪を罪と認めた時に、罰を受けて、償いは始まってるんだって」
サイドボード越しでも、灯油の匂いのひどさが鼻をついた。火気があればたちまちに発火する。混乱した千尋の頭でも、それはわかった。
柴野はきゅっと目を閉じると、息を一つ吐いて、
「あたしはもう、駄目なのよ。追われてるの、警察に。」
千尋はビクリとした。
「スカウトのタカシをビルから突き落としたのは、あたしだもの。」
千尋はえ、と小さくつぶやいた。そうだ、ミリオンのママが言っていた。タカシがビルから転落死した。それを、未散がいったのだ。「殺されても仕方がない。」と。しかし、スカウトのタカシと、この柴野とどういう関係があるのだろう。
「待って、柴野さん。なんで、そこにタカシの名前、出てくるの? タカシは、クラブの、スカウトで」
「あなたが話したからでしょう。」
「話したって、何を」
「エイジが死んだ夜のことを、彼に。あの男、ある日会社にあたしを訪ねて来て、おかしい、って言ったのよ。あんたが薬を入れ換えたんだろう。それをチヒロのせいにするなんて、たいした女だよなあ。それが、最初のうちはあなたの無実を明かすつもりで来てたみたいだったのに、あたしの祖父や今の父のことを調べて、このことが表ざたになっていいのか、世間に言いふらしていいのか、警察に届けていいのか、それでそのうち、お金を」
「タカシが? おどし? 恐喝を?」
千尋はタカシの姿を思い浮かべた。普段味方にしてしまえばいい奴なところもあるけれど、確かに金には汚かった。
「それで、ビルの上からつき落としたの?」
「魔がさしたのよ…。もうこれっきりにしてほしい、そう交渉するつもりだったの。人の弱みにつけこんで、何度も何度も。バラしたいならバラせばいいわ、証拠なんてない、好きにしなさいよ、そう言ったら、ふん、オレに金を払ってたのがいい証拠になってんだよ。それで、彼が背中を向けた瞬間」
柴野の話をききながら、千尋はどうにかして、彼女を思いとどまらせようと、あたりを目で探った。灯油のにおいで鼻がイカレそうだ。しかも、柴野がポケットから取り出したのは、マッチなのだ。
「でも、でも柴野さん。だからって死ぬことないのよ。人生って何度もやり直せるじゃない。人生って」
自分で慰めの言葉をはきながら、自分自身が露見してつかまることにおびえていた日々を思い出した。柴野の気持ちが理解できる、それなのに、どうして、柴野にこんなセリフを吐いているのか。
「いやよ。もうこれ以上、」
「でも、柴野さん、死んでどうなるって言うの? あたしへの復讐? 嘘よ、そんな警察が恐いって、死ぬよりマシよ。きっと。どうして、死ぬ必要があるの? お願い、どうか思いとどまって」
「あたしはあなたと違うのよ。」
「違う? 違わないわ。同じでしょう? 誰だって裁かれるのは恐いけれど」
「違う、あたしは、あなたとは、違う。落ちた生活なんて、送れないわ。それに」
それに、と千尋は頭の中で柴野の言葉を待った。
「あの人がいないのよ。」
柴野の目から涙があふれている。千尋は、柴野のゆがんだ口をみつめながら、あの人? と頭の中を探った。
「あの人がいないのよ。どこを探しても、この世のどこにも、もう、あの人がいないのよ。」
エイジのことだ、と瞬間千尋は悟った。
「どうしてあの時、あなたのそばで死なせてしまったのかしら。あたしが、彼を刺せばよかった。あたしが、彼の首をしめればよかった。あたしは、遺体につきそっただけ。遺体から墓場までつきそった、なのに、あの人は、死んでないのよ。生きてる。死んでない、のに、この世のどこにも、あの人がいないのよ。会いたいのに、声をききたいのに、もう二年も経ってしまった。あの人が――」
千尋は思わず息を飲んだ。
「彼は、何? あたしの、何? どうして、こんなことになってしまったの? どこから始まってるの? ――あんたの母親が、あたしの父親に出会ったところからじゃないの?」
「だから、だから、あたしの目の前で死ぬっていうの?」
千尋はサイドボードの上に手をついた。体を乗り出してその上に乗ろうとすると、
「こないで!」
柴野は後ろにじさった。箱からマッチを取りだし、そのまま構える。
「ねえ、柴野さん、あたし、きっと忘れる。あなたのことなんて、絶対、忘れる。覚えていたら、生きていられないもの、だから、また、忘れるのよ。だから、復讐になんてならない。バカなことはやめて」
そう言いさとそうとする千尋に、柴野は首を振った。
「お願いよ、千尋さん。」
ゆがんだ顔のまま、笑顔を見せた。
「そこから、入らないで。ここで、死なせて。」
それは柴野が始めてみせた、媚びるような目だった。
微かに、遠くから、パトカーのサイレンが聞えているような気がする。それもまた、今の状況が招いた幻聴なのだ、と、千尋は思った。ひどい緊張で、気が狂いそうだ、気が…
「世界で誰も、あたしをあんなに安心させてくれる人は、もういないのよ。そばにいてくれれば、それでよかった。生きていてさえいれば、それでよかった。それで…何でもっと、早く――」
柴野がマッチとマッチ箱を再び構えた。
「すごく、さみしい。」
それで千尋が、打たれたように前に飛び出した。
「さみしい? さみしいから、何? 孤独? みんなさみしい。あなただけじゃない。そんなふうにエイジをしてしまうの? お願い、彼を、不幸の呪文にしないで、それは、もう」
柴野の視点が箱に集中した。
「やめて―――――ッ!」
一瞬、時が止まる。そして音もなく、赤い陽炎が、ゆらいだ。