高速道路で西へと向いながら、思い返せば、心当たりがないわけではない、と森本は思った。
柴野はたぶん、最初から、千尋には冷たかったように思う。彼女の出生も過去も知らないはずなのに、貧乏くさい、だとか、情熱だけが一人前などという言い方をした。
彼女が千尋のキャストに反対したのも、そして昨日、STCの裏で千尋めがけて植木鉢が降ってきたのも、決して偶然ではなかったのだ。
それではなぜ、彼女は福生でわざわざ、「000」に接触したのだろう。千尋が記憶を失ってからの会合は、全く偶然だったとしても――いや、たぶん偶然だったとしても、そんな因縁を持つ千尋に、どうして柴野は近づいたのだろう。
もしくは、最初から、あの二人は何かあったのだろうか。親を介して、何か、関係があったのかもしれない。それで、千尋がいる「000」にいるエイジに目をつけて、
森本は首を振った。
情報が少なすぎる中であれこれ考えても、頭が混乱するだけだ。それよりも、冷静に、早く、福生につかなければいけない。
車は高速のインターチェンジをおりた。
そこから一般道に入る。
最初の信号にひっかかって、森本は思わず舌打ちした。
いらいらと、気ばかりが焦る。ただ運転しているだけなのに、息苦しかった。
なぜか、さっきから悪い予感ばかりがする。もし、柴野が思い余って取り返しのつかないことをしてしまったら? もし、千尋の身に何かあったら?
信号が青に変わった。
森本はもう一度首を振ると、息を大きく吸い込んで、アクセルを踏んだ。
そこへ、後ろから突然、パトカーのサイレンの音が聞えてきた。
あまりに近く大きな音だったので、森本は度肝を抜かれた。バックミラーを見ると、パトカーはどうやら葛西刑事らが運転してきた覆面パトカーらしい。パトカーはすぐに追いつき、森本の横に並びながら助手席に乗った葛西がパワーウインドウを下げ、森本に「ついてきなさい」と怒鳴った。
脇で運転している若い方の刑事は、無線で何か話しながら運転している。車はすぐに森本の車を追いぬき、前を走り始めた。
森本は車のアクセルを踏み込んだ。
国道16号を北へ向かう。
時計を見ると3時半が近かった。
思い返してみれば、この道は、ほんの数時間前走ったばかりの道なのだ。CD店で、「000」とエイジの存在を知り、それから柴野有里が千尋の父親の実子だったと、ついさっき知ったばかり。柴野は新宿のスカウトのことで警察に追われていて、千尋は家に電話をしても、携帯に電話しても、でなかった。柴野は行方不明、千尋も行方不明、――福生だと直感したのは、森本だった。
パトカーを追いながら、ハンドルを握る手が汗を握っているのが気になる。
それで手の内を乾かそうと手を浮かした。少し体を動かしたので、腕がガクガクする。緊張のせいだと森本は気付き、もう一度大きく息を吐き出した。
東福生駅の下を走り抜けた。
葛西らは、どこまで走るというのだろう。
さっき来た時は、つい先日、千尋の二度目に記憶を失う原因となった福生のそれが何かわからなかった。でも既に、葛西らは何かをつかんでいる。
都心を出る時に、こちらの警察に連絡をとったのか、と、ふと森本は思いついた。
そして思うように進まなかった、自分の千尋に関する調査と比較して、唇をかんだ。
走るうちに、たちまち消防車のサイレンの音が近くに聞えてきて、すぐにその音は止まった。前の葛西らの車が減速し始め、車の量が増えてきた。
森本は悪い予感に襲われた。
そのうち、前のパトカーは路上で左につけ、停車してしまった。中から葛西らが降りてきて、歩道に出て走り出したので、森本も路上駐車してそれにならった。
外の空気が冷たく感じる。
葛西らの走る姿を目で追いながら走った。あたりがどこか騒然としている。右手の道路はなぜかこんなところで変に渋滞していた。森本は先ほどから、前を走る葛西らが、左方向ばかりうかがっているようなのでそれにならって走っていたが、前方に、赤い影がゆらぐのを認めたような気がした。走るうちにそれは炎だと確信に変わった。まもなく、二階だての、古くて黒い影が視界に入ってきた。
ああ――――!
赤――赤い炎が激しく揺れている。
森本は火事の様子を詳しく見ようと、走るスピードをあげながら、さらに目をこらした。
火は建物の二階右側から上がっていた。家全体が燃えているわけではなく、その一角だけが燃えている。
消防隊の消化活動が既に始まっていた。
前の葛西らが、出来た小さな人垣をかきわけて敷地の中に入りながら、何か叫んでいる。森本も、その後にならって、敷地の中に入った。途端に、森本は柴野が乗っていた白いボルボが駐車されているのが目に入った。
葛西が、制服姿の警官らと何か話している。
警官がかけつけた時に屋根から火柱が上がったこと、火が上がってから既に七分が経過していること、中に誰かいたらしいこと、それから、と言って、警官は付け足した。
「火元はあちらの」と指をさして、建物の二階右側をさした。「部屋かららしいんですが、ここについた時に、あちらの」と言って今度は建物の二階左側をさした。「方でもの音をきいたような気がするんです。」
「きいたような気がするということは、中にまだ誰かいるということですか?」
葛西は問い返した。
千尋だ――!
森本は直感的に思った。
「ええ、それで、救急隊員が今建物の構造を調べているのですが、正面の階段から上がっても、もうドアに既に火がついていて入れません。今消化活動に入っています。それで、火元の下が修理工場の後なんですが、その下からも入り口があって、今隊員が入ったんですが、中から二階に上がるのは難しいんで、それで二階の窓、雨戸でたてきってあるんですが、それを壊して入ろうと、今車を横付けして足場を作っています。」
「中に――中にいるのは、何人ですか? 一人?」
森本が話にわって入った。
「この方は?」
と、警官は葛西に尋ねた。
「中にいるお嬢さんの婚約者の方です。」
それで警官は納得した表情をして、
「わかりません、もの音をきいただけで――声はかけたんですが、返事がないので」
そう答えた。
森本は、黒くて古い、その建物を見上げる。
左手にはまだ火が移っていない。でも建物自体が密封されているので、中は煙が蔓延しているだろう。恐いのは、煙だ。火元から離れていても、煙にやられればおしまいだ。
森本は警官らを押しのけて、前に進もうとした。それを葛西刑事に腕をつかまれ止められた。
「危険だからここにいなさい」
「でも」
「これ以上ケガ人がでちゃかなわん。きみの気持ちもわかるが、じっとここで待っていなさい。消防にまかせて。」
葛西は落ちついた目で森本をしっかりと見据えている。つかまれた腕が痛いほどだ。森本はその葛西の目をみつめて、それから急く心で建物を見上げた。消防のはしご車が建物に横付けされたところだった。それから上に救急隊員が乗ると、窓のあったらしきその位置を確かめ、雨戸を触ってみている。中から錠が下りているらしく、下にいるものと連絡して、雨戸を壊しにかかった。
「火のまわりが早い」、と葛西がつぶやいた。若い刑事が「灯油か何かまきましたね」などと返事をしている。警官の数が増えて、野次馬の整理が始まっているのがわかった。
森本は、建物をみつめ、意識しないうちに、千尋の両親に、そして神に、千尋の無事を祈り始めた。
その日、小学校のグランドは、夕暮れの色をしていた。
千尋はその時、飼育係りをしていて、放課後、うさぎの世話でいつも一緒に帰る友達と別れ、一人校庭の隅にあるうさぎ小屋へと向かった。
すると、なぜかいつもいるはずのうさぎが、その日に限ってうさぎ小屋にいなかったのだ。
変に思って千尋が振り返ると、クラス委員の山本さんが、後ろに立っていた。そして何でもないというふうに話しかけてきた。
「ねえ、片岡さん、その沼ね、見た感じ汚いでしょ? でも、中はきれいなのよ。あたし知ってるの。」
言われて、千尋はまた振りかえった。
すると、背後には言われた通り沼がある。混沌とした色をたたえ、見るからに汚そうに、いや、気持ち悪そうに見えた。灰色でどんよりとにごり、ところどころ緑色に変色している。
「え、あたしこんなのに入るのいやよ。」
そう千尋が言うと、
「あら、片岡さん、自分で入るって言ったのよ。でも決心がつかないから、あたしに手伝ってって言ったんじゃない。」
千尋は心の中で、「そうだった」と思った。
この沼に入らなければ、掃除当番をかわってもらえないのだった。それを千尋は思い出し、山本に振りかえった。
「ごめんね、じゃ、手伝ってくれる?」
そういうと、山本はうなずいて、千尋に手を伸ばした。
彼女の肩をぐいぐいと押しつけると、千尋の体は傾き、沼へと後ろ向きで落ちた。
しかし、沼の中は、山本が言ったとの違って、やはり表同様に汚かった。水草が体にからみつき、浮き上がろうとするのに、体はもがけばもがくほど、どんどん、後ろ向きに落ちて行く。
助けて――!
叫ぼうとしたところで、千尋は、山本さんは小学校の時の同級生ではなく、高校の同級生だったことを思い出した。クラス委員をしていた彼女はしっかりもので、でも、千尋と特に仲がいいわけではなかった。しかし、さっきの山本さんは、確かに小学生だったような気がする。
おかしい、おかしい、と頭の中で混乱しながら、息苦しさに耐えられなくなってきた。水草が、激しく腕にからみついて、腕の自由を奪って行く。後ろ向きに落ちて行く落下の気持ち悪さが、我慢できない、
た、す、け、
胸のつかえるような痛みで千尋は我に返った。
ごほん、
咳き込んだ。
それから、朦朧とした意識で、また二、三度咳き込む。
目を開けて確かめようと目をこらすと、まず床が見えた。
板間のほこりがつもった古い床。自分の動いたところだけ、降り積もった埃が波打っている。
体を起すと、足元の方でガタンガタンという音がして、全体が何かごうごうとひどく騒がしいのを感じた。
目の先が、煙に覆われている。暗い中で、向こうの方が赤く光っている。
千尋は、瞬間、自分がさっきのエイジの部屋から逃げてきたのだと悟った。ここは、建物を真中で東西にたてきっている二階の廊下の、一番西の端なのだ。
さっきの、柴野の姿が目に浮かぶ。マッチをすった瞬間ではなく、あの、叫ぶように訴えていた彼女の姿が――
千尋は、混乱した頭で考えた。
自分は、どうしてここにいるのだろう。さっきのあの部屋から、どうして逃げてきたのだろう。
自分がここにこうしているなら、柴野も無事なのではないかと思い当たった。
千尋は煙の苦しさに咳き込みながら、考えをしっかりさせようと額に手をやろうとして、瞬間、腕に激しい痛みが走るのを感じた。
腕に激しい、痛み、熱いの、痛いのか、わからない、激しい、衝動。
叫びそうになったが、叫びさえ声にならなかった。
もがく、うずくまる。しかし、千尋は腕に目をやるのを恐れた。
それがやけどであることは、おぼろげながらに自分でもわかる。ただれた皮膚を見るのは、激痛にみじめをさそうだけだ。
今、手を動かすまで、その痛みに気付かなかったのだ。
千尋は咳き込みながら、柴野を助けなければ、と思った。
火が、柴野の前でゆらいだ瞬間から、記憶をたどる。なのに、その後どうやってここまで来たのか、少しも覚えていない。
「しばのさ」
叫ぼうとしたところで、目の前で、ガタン、と音がして、細い光が指し込んだ。
それで、千尋は、それが救急隊員なのだと悟ると、せきこみながら、起きあがろうとした。
腕に激痛が走って顔をしかめたが、
「あたしより先に、柴野さんを」
言おうとすると、体を起した千尋の肩にふと、温かいぬくもりがあった。
見ると、それは見覚えのある手だった。
厚くてがっしりした手、その手の主を、目でたどって行くと、見覚えのある、優しい顔。優しい、目――。
池野正博だった。
父は、ロマンスグレーの優しい微笑みを浮かべながら、千尋の体を制していた。そして、千尋の顔つきを認めると、優しい顔をさらに微笑ませ、首を振った。
その微笑みに、千尋は、彼の顔をみつめた。
死んだはずの父がそこにいる。それなのに、不思議と、彼女は少しも奇異に感じなかった。
彼は、千尋から手を離すと、彼女に背を向けて、火の手の方へと歩き始めた。
歩いていく、後ろ姿を見送りながら、その背中はあの頃と少しも変わらなかった。死んだ、あの頃と――
がっしりとした、後ろ姿。ロマンスグレーの髪、ゆったりとした、歩き方――
千尋は、懐かしさに思わず目を細めた。
「お父さん。」
ガタン、
廊下の途中にある雨戸がはずされ、光が指し込んだ。
途端に、父の影は消え、窓越しに人影が映った。人影は、何か叫ぶと、パリンとガラスを割り、それから窓の錠に手を伸ばし、窓を開けた。救急隊員の顔がのぞく。隊員は千尋の姿を認めると、「大丈夫ですか?」と問うた。
それからすばやく窓から中へと乗り込んでくると、その隊員の後から、また別の隊員の顔がのぞいた。
隊員の近づく姿を認めながら、千尋は父の姿を探した。
だってさっき、そこにいたはずなのだ。はっきりと、この目で見たのに――?
救急隊員に体を抱きかかえられる感触を感じ、気が緩んで意識が遠くなる。遠くで誰かが言葉を交す声が聞こえている。
意識が遠くなりゆく千尋の目から、涙が糸をひいた。
「しばのさんが」と彼女はつぶやいたが、誰の耳にもきこえていそうになかった。
目の裏に残る、父の後ろ姿。彼は、どこへ向かって歩いていたのだろう。
目を閉じた、千尋の涙は、意識を失ったまま、とまりそうになかった。
そうだ、確かに、エイジは言っていたのだ。
仕事をしていると辛い、と。
たくさんの人の中で動かされて、時々、誰のために歌っているのか、まわりのために歌っているのか、自分のために仕事しているのか、まわりのために仕事しているのかわからなくなる時がある、と。
それでも、周りが期待している分、辞めるわけにはいかない。自分でもよくわからない渦の中に巻き込まれて、身動きできなくなっているようだ、と、そう言った。
千尋はいつものあの部屋で、エイジのベットの上に寝転がりながら、遠くで彼の言葉を聞いていた。
なにげなく、グループ名が悪いんじゃないの?などと言ったことがある。
「SOMETAIMEなんて、いつかわからないじゃん。いつか売れるでしょう、いつか、売れるかもしれません。一体、誰がその名前にしようって言ったの?」
そう千尋が言うと、エイジは皮肉な笑みを浮かべて、
「千尋は言うことがきついな。」
「だって、そうじゃない? なんでスリーオーじゃいけないのよ。」
千尋がむくれた顔でそういうと、エイジはクーッと吹き出して、
「いつまでもゼロのまま進まなかったら困るからだって。」
「え? 誰が?」
「柴野さん。」
「マネージャーの?」
「そう。」
エイジがそう言うと、千尋はむくれたまま黙ってしまった。そんな千尋を笑いながらエイジはみつめ、
「SOMETAIMEは、柴野さんが一番好きな曲なんだって。いつかもっと売れたらCDに入れようって言ってた。」
「え? 柴野さんが?」
「うん、そうだって。」
千尋は目を泳がせて、柴野の顔を思い浮かべてみた。
「へー、あの人、好きとか、嫌いとか、言いそうな顔してないのに。」
「へえ、そうかな?」
「そうよ。だってそうじゃん。いつだってシレっと何でもわかってます、みたいな顔しちゃってさ。今の仕事だって、お金持ちの道楽でやってるんでしょ? でないと、人の下で働くって感じじゃないもん。」
「いや、そんなことないだろう。まあ、マネージャーはうちのバンドが売れるまでって言ってたし、また本当は企画の方に戻りたいんじゃないかな? でも、何で? あの人千尋が思ってるほど悪い人じゃないよ。」
「へー? そう? 恋人だってブランド嗜好って感じだよ。」
「んなことないって、千尋ちゃん。」
「やけにかばうじゃない。」
千尋が意味ありげな視線を送ると、エイジは嬉しそうに笑って、
「なんだ、千尋ちゃん、やいてんの?」
と抱きついてきた。それでエイジの腕をよけながら、
「やあね、何言ってんのよ。思ったことを言っただけ。エイジなんでそんな肩もつの?」
「おれ肩持ってる?」
「うん。」
千尋がそういうと、エイジは少し考える素振りを見せた。それから、
「でもあの人、ただ単に、不器用なだけなんだよ。」
「うっそだあ、あんなに何でもさっさとこなしてんじゃん。」
「いや、そういう意味じゃなくってさ。あんまり、感情とか表に出せない人だし。悲しい、とか、寂しいとか。
そういう弱い人に見られるのも、いやなんだろうな。」
「へえ、本当かな?」
「うん。」エイジはギターを持ってベットの上からいすに移った。「本当。だって、オレと同じだもん。」
「え、エイジと同じ? どこが。」
ギターを抱えながら、エイジはそれを爪弾いた。
「すぐに平気ぶるところ。」
その言葉に千尋はギクリとした。
ギクリとした千尋に気付かない素振りで、エイジは話し続けた。
「そうかなあ、バンド名悪いのかなあ。」
そう言って、「SOMETIME」をつまびき始めた。
「目を閉じ祈り捧げるきみ」と歌いはじめたところで、千尋はすぐに、「二番がいい」と言った。この頃の千尋は、一番のサビの部分を動揺なしに聴くことができなかった。だから、すぐに「二番がいい」と注文を出す。この時もエイジはOK、というと、二番から歌いはじめた。
「あたたかいスープ、たったひとさじの愛が、君を優しく、包むだろう
いてつく寒い闇の中、歩くとしても、君は一人じゃない、わかるだろう?」
途中で千尋も歌い出した。エイジは途中で、「お、『一人じゃない』が歌えたな」、などと口をはさんだ。
「遠くつづく、道の果てに、いつか君のゴールが見えるよ」
間奏をエイジはひいた。よく、ライブでやるときは、千尋もキーボードをひいた部分だ。自然と指が動く。
「いつか、であう、笑顔のぉために、きみは生ぃきぃるんだ、さむたーいむ」
千尋はふと、自分の歌声で我に返った。指が動いているのが、自分でもわかる。
目の前は、あの、暗く古い部屋の中ではなかった。
白いシーツ、白くて、明るい病室。
まぶしいほどに――。
脇に、見覚えのある男がすわっている。一人、二人――うち一人が、もう一人に何か言って、病室を出て行った。
残った一人が話しかける。
「おはよう。ぼくが誰か、わかりますか?」
千尋はぼんやりと考えた。
なぜこの人はそんなことを言うのだろう、と思いながら、
「じょうきせんせい」
と答えた。男はその言葉をきいてほっとすると、
「そう、そうだね。じゃ、きみは自分の名前、言えるかな?」
千尋は少し考えると、
「かたおかちひろ」
と答えた。その答えに、常喜医師が「え?」というと、千尋はまた少し考えて、
「いけの、ちひろ」
そう言いなおした。
「そう、きみは、どうしてここにいるか、わかるかな?」
医師がそう尋ねると、千尋は横になったまま小さくうなずいた。
それから、薄目を開けてぼんやりとしている千尋の目から、ふと、涙が筋をひいて流れ落ちた。
常喜医師はそれを指で受けると、
「もう、今考えなくていいんだよ。後でゆっくりとね。
少し、眠るかい?」
そう問うと、千尋はまた、小さくうなずき、そして、目を閉じた。
翌日、きちんと目が覚めて、千尋は森本から、千尋は腕の火傷が思ったよりもひどいために一週間は入院すること、またそのために、結婚式は延期することになったと聴かされた。その森本の言葉に、千尋は「そう」と答えただけだった。
「刑事さんが、きみが話せるようになったら、話をききたいって言ってたよ。」
森本がそう言うと、千尋はまっすぐ彼へと視線を返した。
しかし、千尋は何の言葉も発しなかった。ただ、静かに、森本をみつめただけだった。その目が意外と、弱弱しくもなく、また強すぎもせず、ただただ黒く澄んでいるので、かえってドキリとしたのは森本の方だった。
「話、できそうか?」
と慌てて森本が尋ねると、千尋はうなずいた。
その午後、葛西刑事がやってきて、千尋に話を聴きに来た。
体に触るから、少しずつでいいと言ったが、千尋は平気ですと言って、葛西の質問を受けた。
周りが本当に心配したのは、千尋の体ではなく、心の方だった。しかし彼女は周りの心配もよそに、いや、まわりが返って心配するくらいに、落ちついた様子で刑事の質問に答えていた。そこには、いつものように激しやすい千尋も、戸惑う彼女もなく、森本が驚くほど、穏やかだった。
そしてその刑事に話す以外、誰にも、柴野のことは語らなかった。また、誰も、柴野のことを口にはしなかった。見舞いのものも、森本も、そして、千尋も。
柴野がその後どうなったのか、誰も千尋には話していないのに、千尋はまるで、すべてを知っているかのようだった。が、話を聴き終えた葛西刑事が、最後に、本件に関しては被疑者死亡のまま書類送検になりそうだ、と伝えると、
「柴野さんは、何も悪いことはしていません。」
と、眼差しを上げてはっきりそう言った。
「でも、君、殺されそうになったんだろう?」
葛西がそう尋ねると、
「柴野さんは、あの時、私を殺すつもりはなかったと思います。」
そう答えた。
「なぜそう思うんだい?」
と問うと、千尋は首を傾げただけだったが、
「じゃ、なんで柴野はあそこへ君を連れて行ったのかな?」
と、問うと、千尋は少し考えてからフッと笑って、
「一番、遠い、身内だから」
そう答えた。
六月十九日、その日、千尋は一週間の入院を待たずに、病室から消えた。
森本と暮らしたマンションに慌てて森本が帰ってみると、必要な荷物だけがまとめられて持ち出され、テーブルの上に「ごめんなさい」とただ一言、書き置きだけが残されていた。
「ごめんなさい」と。