病院の中央玄関に入ると、外の暑さで温められ、汗ばんだ首筋に、クーラーの風がゆるくあたって、爽快な心地よさを感じた。玄関の中は、外の日差しのせいか入ってすぐは薄暗くさえ感じられたが、二、三度瞬きすると、目はすぐに慣れてきた。土曜日の中途半端な時間だけあってか、玄関の中の、人はまばらである。入ってすぐにエレベーターホールがあって、右手に二台、左手に三台、エレベーターがあった。奥まって右手に花屋があり、天井からぶらさがった案内で、通路の奥に食堂があるらしいことがわかる。手前のエレベーターホールの前に看板が立ててあり、外来の場所、受付時間、等々の案内が書いてあった。外来の受付は終了していても、薬局はまだ開いていて、先生の居場所を尋ねられるかもと千尋は思いついた。掲示に薬局は三階と書かれている。千尋はエレベーターの上行きのボタンを押してから、到着を待った。
面会時間に早いせいか人がまばらで、千尋はどこかホッとした。花屋の方を盗み見たが店員の姿は彼女の位置からは見えない。待っている間に医師らしい若い男が入り口から入って来て、足早に千尋の後ろを、建物の奥の方に通り過ぎた。周りが知っているかも知れないのに、自分は知らないのだという状況に、彼女はひどく緊張した。うつむいて、張り裂けそうに張り詰めている胸の苦しさを、ギュッと目を閉じることで押さえ込もうとした。強く息を吐いて、それから、駅から歩いて来る途中、何度も復唱した言葉をもう一度、頭の中で繰り返していた。
こんにちは、お久しぶりです、実は私、先日ふとしたことが原因で、記憶を失いまして、現在自分の過去を探して、今日こうして――
エレベーターがチンと音を立てたので、彼女ははっと我に返った。扉が開いて、中から三人ほど人が降りてくる。ドキンドキンと胸の鼓動を感じながら降りる人を待った。その中の看護婦の一人が、彼女の姿を見送りながら横を通りすぎ、いきなり、降り切るのを待った後で乗り込もうとした千尋の肩をぐいとひいた。
「ねえ、ねえ、ちょっと待って、あなた…」
千尋はギクリとして振り返った。見ると、看護婦は焦った様子で千尋の顔をジッと見つめ、
「え、誰だっけ、ほら、えー…イケモト? 違うなあ、何だっけ、ほら、何とか…何とかチヒロ」
その言葉に、千尋ははっとして、
「池野です。池野千尋。」
「ああ、そうだあ。池野千尋さんだあ。」
そう明るく答えてから、はっと我に返り、「ちょっ、ちょっと…」と言いながら、千尋の腕をつかんで、エレベーターホールの奥の通路に引っ張って行った。看護婦は声を落として、
「あんた今頃ここに何しに来たのよ。まさか、内科行くつもりじゃないでしょうね。」
千尋はえ?と顔色を曇らせた。
「その、つもりですけど…」
「やだやだ、やだやだやだやだ、何言ってんのよ。吉本先生もうここにはいないのよ。内科の先生であんたの顔覚えてる人もいるんだから、そんな地味な格好してたって、わかる人にはわかるわよ。だいたい今頃、何しようっていうの。」
千尋は地味だと言われて、思わず自分の服装を見た。腰で切り替えのある、シャツカラーの紺のワンピース、極めてオーソドックスな格好だ。千尋はもう一度顔を上げると、看護婦はじっと顔を寄せて真剣な眼差しを向けている。小さな目、細くひかれた眉、厚くて少しだらしない印象をもたせる唇、色白の顔に、彼女は覚えがなかった。
「あの、申し訳ないんですけど…」
「何?」
相手の気迫におされながらもオズオズと、
「吉本先生は、ここにはもういらっしゃらない」
「そうよ。」
「どこに、行かれたんですか?」
「きいてどうするのよ。」
「あの…実はですね」
言いかけて、千尋は言葉を置いた。
「あなた一体誰ですか?」
途端に、看護婦は眉ねを寄せて顔をちかづけてきた。千尋は相手の顔が見ていられなくて、思わず視線を下げた。それからチラチラと相手の顔をうかがったが、相手は言葉がきこえないという風に、「何?」とあごを突き出す格好で、千尋の返事を待っている。ずいぶん柄の悪い看護婦だと思った。もしかしたらこの人に、自分の知らない過去で、どうしようもない迷惑をかけたのではないかと、いぶかる程に――。
結局看護婦はお昼を取りに行く途中で、千尋もまだだったので、一緒に食堂に向かうことにした。セルフサービスでそれぞれ食べ物を回収すると、机に向かい合わせて腰をかけた。
「なるほどね、」看護婦――真崎祐子は、スプーンを手にとりながら、言葉を続けた。「記憶喪失か、それじゃ、何も覚えてなくて仕方ないわね。」
千尋はいただきますと手を合わせる。お冷やに口をつけてから、カレーを食べ始めた。
「じゃあ、あの事故の時に記憶喪失になったんだ。」
「え、事故?」
千尋は思わず手を止めた。
「そ、あんたが運転してたんでしょ? その事故の後、先生気がついた時にはもういなかったらしいし、そん時に記憶喪失になっちゃったんだねー。こっっちはそんなこと知―らないじゃん。てーっきりあんた結婚いやんなって、逃げ出したとばっか思ってたのよぉ。なぁんだ、そっかー、そぉれじゃあ仕方ないよねー。」
「え? え? 事故の後ですか?」
「そうよ、違うの?」
千尋は返す言葉がみつからなくてご飯を口に運んだ。真崎は「何?」と小さくつぶやいてから、
「何、何? 違うの? その時記憶喪失になったんじゃないの?」
千尋の手はまた止まった。しばらく手元をみつめて考えて、
「あたしがきいたのは、昨日の夜って…」
「へ? じゃあ、その前は?」
千尋は真崎の顔をみつめて首を傾げた。
「そっか、どっちにしろ、全部忘れてんなら、仕方ないよねー。どっちもわかんないか。」
それからやや二人は考えるように無言で口を動かした。ふと、真崎が、
「でも、先生に会いに行って、ちゃんと話きいてくれるかどうかわかんないよー。すっごい傷ついて病院かわってったんだもん。」
「かわった? え…どこに…」
「んー、先生の大学の先輩がつとめてる総合病院。ちょうど空きがあってね。いや、ほら、あんたと結婚するってんで、ここでもあっちこっちから反対されてたから、寸前で逃げられて、いづらくなっちゃったんだよねー。」
「え、反対されてたんですか?」
「え、う、ん…」
千尋は顔色を曇らせた。その色を見て真崎が慌てて、
「ホラ、ホラ、医者っていいとこの坊っちゃんが多くて、みんな頭固いじゃん」
「どうして反対されたんですか。」
真崎の言葉もろくにきかず千尋が問い返したので、真崎はぐっと息をつまらせた。千尋の真面目な顔に、真崎は目をしばたたかせ、目を宙に泳がせてから、ふと無理に笑顔になって、
「今仕事何してるの?」
尋ねた。
「え、何でですか?」
「いや、何してるのかなあ、と思って。」
「え、インターネットの放送局、で、働いてるらしいです。」
「へー、格好いいじゃーん。じゃあ、もう、足洗ったんだー。」
「え? 足洗った? 足洗ったって何ですか?」
「え、いや、いや、えー、んー、ね、ねえ、本当に覚えてないの? んー、ないのね。そう、あんたホステスだったのよ。新宿のクラブでね、いつだったか、外来であんた来てから先生あんたにイカれちゃってさあ、そんな開業医じゃあるまいし、お金なんてあるわけないじゃん、馬っ鹿みたいに無理して通ってさぁあ、結婚前も騙されてるのどうのって言われてたんだけどぉ、逃げられて余計、騙されたんだって、何でも親御さんにも大分反対されたらしいんだけど、無理押し切ってとりあえず式だけでもあげようって、先生地方の出身でさあぁあ、実家の連中家も古けりゃ頭も古いってんで、ねえ、ねえ、きいてるの?」
千尋は呆然として真崎の言葉をきいていた。
「あんたもホステスなるまで随分ややこしいことあったみたいよぉ? あたしも詳しくは知らないけど、ねえ、ねえ、きいてるの?」
千尋はふと我に返った。
「あ、ごめんなさい。」
真崎は苦笑いした。
「別に、そんなショック受けなくっていいわよ。金の割りにはキツクて、あたしもこんな仕事やめて、そういう仕事つこうかって、よく考えるもん。ネ、ホラ、あんたの過去じゃない。今気に入らないからって、消したりできないんだから。」
真崎の言葉が消化せずに通り過ぎていく。それからぼんやりと、自分に言い聞かせるように、頭の中で、そりゃあそうよね、とつぶやいてみた。それが、自分の過去?――でも、何か、しっくり来ない。それで記憶の糸をたどったら、何か出てくるのではないかと頭の中を探ってみた。が、どうしても、何も、出てこない。今真っ白な過去なら、どんなものが出て来ても当然じゃない、と思う。でも、と千尋は思う。
何かがひどく、哀しかった。彼女自身、何がこんなに哀しいのか、どうしてこんなに哀しいのか、よくわからなかった。
「失望」――違う、「衝撃」――いや、とにかく、哀しいのだ。理由のない哀しみが彼女を襲って、口に入れて咀嚼したカレーを水で流し込むのと一緒に、込み上げて来そうな哀しみを、無理やりに、流し込んだ。ゴツゴツと喉を通り過ぎる飯の感触が、妙にこびりついて、容易に消えそうになかった。
千尋は病院を出ると、駅まで歩いて、中央線を引き返した。電車の中で、真崎の書いてくれたメモを広げる。吉本広二の現在勤めている病院とその電話番号、千尋が以前働いていたというクラブの名前、真崎はメモを書きながら、病院の所在を説明してくれた。それから千尋が働いていたというクラブの名前を書いて、おおよその見当を話してから、
「どこにあるかはあたしも知らないのよ。この不況でね、もしかしたらつぶれてるかも知れないけど、でも、一応その辺できいてみたら? 先生のとこ行ってきいた方が早いかもしれないけどね。」
それから最後に、自分の名前と電話番号を書き足した。
「どうしても思い出せなかったら、電話しといでよ。うちに、催眠のいい先生がいるんだ。内科の先生にバレないように、口きいたげる。」
にっこり笑って千尋にメモを渡してくれた。
最初に病院の方に行こうかとも思ったが、乗り換えが多い上に千尋の働いていた店よりもずっと遠い。自分が結婚前に逃げてしまったという気後れも手伝って、彼女は自力で探さなければいけない、店の方に行くことにした。駅の近くに交番ないかしら、交番で教えてくれないかしら、と考えて、歩いている人にききながら行く方が確かかもしれないと思いついた。いや、それとも、と千尋は思う。自分の知らない自分が、独りでにそこまで運んでくれないかしら? 記憶は失っていても、曲がる角、行く道を、体が覚えていて…。
駅についてから時計を見たが、まだ夜の店が開く時間ではなかった。空を見上げると、梅雨には不似合いな日差しが照りつけるばかりだった。だいたいこちらかと見当をつけて歩き始める。歩くうちに、店の看板が繁華街の色を帯び始めた。ああ、思い出して、思い出してと頭の中で繰り返す。自分がどこの誰だったか、一体何をしていたのか。すると、歩いていてすれ違った男性が、ふと彼女を振り返った。あ、と思って彼女も振り返る。ドキドキしながら男性の顔をみつめる。男はゆっくり手を頬に当てると、
「ねえ、」と嬉しそうに笑顔になった。「あなた、ねえ、どっか、どっかで見たことあるわ。」と、大柄な体から、低い声の女言葉が飛び出した。
「待って、待って、ねえ、そう、『ミリオン』のチヒロちゃんじゃあなーい? ねええ、そうよ、ねえ、そうじゃ、なぁい?」
「え、そ、そうです。」
「やだあ、お久しぶりぃ。やだ、ねえ、結婚したんじゃなかったのお? ミチルちゃん、寂しがってたわよぉ、あなたいなくなってから。ね、ね、元気だったあ?」
千尋は相手の勢いと、ガタイのデカイ体から出る思わぬ女言葉に押されながら、苦笑いをつくった。すると相手も同じようにニッコリと笑う。千尋は相手が言葉を接がぬうちをねらって、「あ、あの…」と言葉を発した。
「その、あたし、久しぶりで、『ミリオン』の行き方忘れちゃって、あの、よかったら、教えてもらえないかしら。」
そう言うと、相手は「あらあ、いいわよお」と快く承知してくれて、行き方を教えてくれた。記憶を失っていることを気づかれたくなくて、急いでいるふりをして、
「あの、あの、あたし急いでるんで、どうもありがとう、感謝します。」
そう言って、相手がおしゃべりを続けようとするのを遮った。「あらあ、残念ね」、という言葉に、「ええ、じゃあ、また」、と笑顔を作ると、相手もにっこり笑って、「またね、さよなら」、と笑って行ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、確かによく見ると若干腰を振りながら歩いているのが見てとれる。「大ラッキー」と小さくつぶやいて、彼女は教えてもらった通りに道を進んだ。
歩きながら、さっきの彼が言った言葉を思い返す。ミチルって誰? と思い起こしてみたが、これという何ものも浮かばない。さっきの彼、いや、彼女につられて、どこかウキウキしながら道を進んだ。
ビルの二階にあるそのドアの中をのぞいてみたが、店の中は暗くてよく見えなかった。ドアを押す。簡単に開いた。誰かいるだろうかと中をのぞくと、カウンターの中からこちらに目を向けた人がいる。店の中の照明を落としているのか、中の暗さに目が慣れない。目を細める。とたんに、
「チヒロ!」
という女性の声が飛んで来た。目が慣れてカウンターの中を探るようにみつめると、そこにいるのは中年の女性で、驚いた顔でこちらをみている。
「まあ、どうしたの、今頃。あんた、一体今までどこにいたのよ、ちょっと…」
千尋がオズオズとドアの所に立っていると、
「あんた、あんた、まあ、また、そんなことどうでもいいわ。いいから、そんなとこで立ってないで、入りなさいよ。さあ。」
と声をかけた。カウンターの中の女性は、どうやら営業用の姿ではなく、ゆっくりとしたシャツに、化粧は薄く、髪もぞんざいに束ねてある。目も口もたっぷりと大きい、美人だ。カウンターの中で新聞を読んでいたらしく、手元でガサガサと音を立てている。
「あの、実は…」
千尋はそうして切り出した。
千尋は今日ここに来るまでのおおよその事情を、カウンターの中にいた女性に説明した。女性は北島良子、通称は「よしこママ」だと自分で説明した。千尋が「北島さん」と言いかけると、よしこママは大笑いして、
「よしこママか、ママさんっていっつも呼んでたよ。でも、変な感じよねえ、まるで他人みたいな口の聞き方するんだもの。」
笑いながら話す彼女に、千尋は変に恐縮した。カウンターの席に腰掛けて事情を説明する千尋の言葉に聞き入って、向かい合わせでカウンターの上に肘をついたまま煙草を飲んでいた彼女は、ふと気がついて、
「ああ、悪かったわ、何か入れるわね。コーヒーでいいかしら。冷たいの。」
そう言ってカウンターの中から体を起こした。千尋は、
「あ、お構いなく…」
そう言って右の手の平を向こうに差し出すと、よしこママはグラスを取ろうと後ろにある棚に手を伸ばしていた動きを止め、キョトンとした顔を向けた。それから、フーッと吹き出した。
「アーッハハハハッ、アッハハハハッ、アー、ハッハッ」
棚の置かれた台の上に手をついて笑うので、次にキョトンとしたのは千尋の方だった。
「ごめん、ごめん、ごめんねえ。いや、笑うことないわよねえ。でも、昔のあんたからじゃとても想像つかなくて、そうか、お構いなくか…」
ママは笑いが治まると、ハアと小さく息をついて、
「そんなことを、なにげに言っちゃうんだ。あんた本当に変わっちゃったねえ…」
そう言って、よしこママは眩しそうな目を向けた。それから、グラスをとってカウンター下の冷蔵庫を開け、作業を続けながら、
「ゆうじだろ? さっきの。」
「え?」
「ここに来る道あんたに教えた、ホラ、」
「ああ、そうなんですか?」
「まあ、ラッキーといえばラッキーだったんだろうけど、あんたよくミチルとつるんでたから、ここいらであんたの顔覚えてるの、結構多いと思うよ。」
「あ…!」そこで千尋が声を上げた。
「その…ミチルさんって、誰なんですか?」
千尋がそう尋ねると、ママは寂しそうに下を向いて微笑みながら、
「本当に何も覚えてないんだねえ。あんなに仲良かったのに。まあ、あんたもどっかこういう所に似合わないトコあったけど、あれもまたあれで、ちょっと変わってるからねえ。ミチルってのはね、ああ、本名なのよ。小此木未散って言うの。変わってるでしょ? 双子の姉が美咲っていうらしいんだけど、面白いからそのまま源氏名で使っちまおうってことになったんだけど、うちで一番人気のある子。あんたとタメはるぐらいの、そう美人ってのとちょっと違うかな、かわいい子で、ねえ、普通、人気取られそうな子が入ってくると、そんな仲良くなんないもんなんだけど、よっぽどあんたと気があったのか、店が終わってからでもいっつもつるんで…そうだ!」
ママは何か思いついたように顔を上げた。
「呼んで上げるよ。」
そう言って明るい顔を向けた。
「会いたいだろ? ミチル。あの子あんたがいなくなってからねえ、寝言みたいに、あんたに会いたい、あんたに会いたいって言ってね。ちょっと待っててよ。電話したら今日はいるはずだよ。」
「え? いるはずって?」
「あの子まだこの裏に住んでんのよ。ちょっと待って、電話してみるから。」
そう言うと、ママは入れたアイスコーヒーやフレッシュを千尋の前に置くと、カウンターの中から携帯電話を取り出して、ボタンを押した。ややあって相手が出たらしく、「チヒロが来てるよ」と言うと、途端に携帯の受話器の向こうから、けたたましい高い声で、キャ――ッという声が、千尋にまで聞こえてきた。ママは思わず電話から耳をはずして、顔をしかめた。続けざまに、電話の向こうから、「ホントに? ホントに? チヒロちゃん、来てるの?」という言葉がきこえてくる。ママは耳の穴に指を入れてから、電話の向こうをたしなめた。それから千尋が記憶喪失である旨を簡単に説明してから、電話を切った。
「すぐに来ると思うよ。ホント、その裏だから。」
千尋はモジモジとしてから、所在無げにアイスコーヒーにフレッシュを入れ、ストローを挿してかきまぜた。
「いただきます。」
「どうぞ。」
わずかに口をつけてから、店の中をぐるりと見渡した。
店の中は予想外に美しかった。床は黒い大理石のようだし、壁はじゅうたんであろうし、ソファとじゅうたんの色も統一されていて、照明も品が良かった。
「みんなね、もしかしたらあんた逃げたんじゃないかって言ってたのよ。あの後先生、ここまで探しに来たからねえ。」
「あの後って、事故の後ですか?」
「そう、自動車事故の後ね。運転してたのはあんたで、先生が気がついた時にはもういなかったっていうから、事故も実はわざと起こしたんじゃないか、なんて、噂したりしてね、ミチルだけは、あんたここに戻ってくるんじゃないかってしばらく待ってたんだけど。そうそう、先生が脳しんとう起こして意識がなくなる前の、あんたが言ったっていう最後の言葉っていうの? きいてよけい…」
「最後の言葉?」
「そう、先生もぼんやりした中できいたって言ってたけど、確か…」
「何て、何て言ったんですか?」
「そう、確か…ミチルの方がちゃんと覚えてたよ。そう、確か、〃やはりお許しにならないのですね〃」
千尋はえ?と眉をひそめた。
「やはり、お許しにならないのですね、ですか?」
「うーん、確かそうだったと思うけど、ミチルが来てから尋ねてみれば? あの子にきいた方が確かだから…」
よしこママは考え考え言って、自分もアイスコーヒーを入れ始めた。千尋は一人首を傾げて、
「誰が、許さないんですか?」
「さあ、誰がだったかなあ。」
「何を、許さないんですか?」
よしこママは、黙ったまま、グラスにストローをさした。
「ママさんは、あたしのこと、知ってるんでしょう?」
千尋がそう言うと、ママはうつむいたまま千尋の方へチラリと目だけ向けて、
「あんたのことは、ミチルが話す限りしか知らなかったのよ。あんたここにいたの、一年もなかったし、それ以前は…ああ、あと、タカシがね」
「タカシ?」
「そう、タカシ。元はタカシがあんたをどこだかから拾ってきたってのよ。」
「そのタカシって、誰ですか?」
「タカシはタカシ…ああ、スカウトマンよ、アルバイトでね、まだ大学生のくせにやり手でねえ、荒稼ぎしてたのよ。だからかねえ、あんな…」
「え、タカシさんって今、どこに…」
千尋の胸は高鳴っていた。自分はここに一年ほどもいなかった。それ以前のことは、どうだったかわからない。もしかしたら、そのタカシという人が…。
千尋の言葉に、ママはマジマジと千尋の顔を見た。それから、ああ、と一人納得して、
「そう、そうか、昨日記憶喪失になったんだっけ。じゃ、覚えてるわけないか。でも、新聞にも載ってたのよ。小さくだけどね。」
「え? タカシさん、タカシさん、どうされたんですか?」
「タカシねえ、死んだのよ、一週間、いや、十日前だったかな。ビルの屋上から落ちて。」
途端に、目の前で何かが砕け散ったような感触を覚えた。瞬間、後ろでドアがガランと乱暴に開いた。振り向く間もなく、
「キャ――ッ! チヒロちゃ――ん!」
弾むようにけたたましい女の声が、店の中に響き渡った。