第四章

 ドアを叩き開けて入って来た黄色い声の主は、千尋の姿をみつけるなり、カバッと彼女に抱き着いた。
「うっそー、うっそー、元気だった元気だった元気だった? ああ、会いたかった会いたかった会いたかったーッ!」
度肝を抜かれた。突然抱きつかれ耳元でまくし立てられた千尋は、訳が分からず呆然とした。相手は千尋の顔をよく見ようと抱き着いた体を千尋から離す。じっと彼女の顔をみつめて、
「アレエ、千尋ちゃん。」まつげの長い大きな目は、キラキラと輝いていたが、みるみるうちに光を失って、首をかしげる。「別の国の人みたい。」
 カウンター上のアイスコーヒーのグラスに、千尋の肘が触れて、ガチャン、と音を立てたので、ふと、二人は我にかえった。
「え、別の国の人?」
千尋がそう聞き返すと、カウンターの中からよしこママが、
「馬鹿ねえ、別の国の人じゃないでしょう? 別の世界の人でしょう?」
千尋の体から離れてきちんと立った未散は、戸惑うように千尋を眺めて、
「うー…ん、そうなような、違うような…。」
しょぼんと肩を落として立つその人は、素顔で、パーマのかかった巻髪をポニーテールにした毛先が、うるさそうに肩にまとわりついている。一目見た時、千尋はお人形のようだと思った。お人形のように現実感のない、かわいらしい容姿の人。
「あの、ミチル…さん?」
千尋がそう声をかけると、未散の顔はたちまち歪んだ。
「やーん、やっぱり千尋ちゃん、どうしちゃったのお?」
目の中がうるうると潤んでゆく。カウンターの中からママが、
「だから、電話でも言ったじゃない。記憶喪失なんだってさ。」
「記憶喪失ー? 記憶喪失って、あたしのことまで忘れちゃうのー? えー、だから千尋ちゃん、いなくなっちゃったんだー。」
「いえ、あの、それは…」
「あたしちぃちゃんがいなくなってからも、ずうっと持ってたんだよ。ホラ…」
未散は開襟になったポロシャツの胸元を探った。それからジャラッと鎖の音がして、引き出された銀のネックレスの先から十字架が顔を出した。
「ホラ、ちぃちゃんにもらったクルス。ずぅっと大事に持ってたのに、どんな時でも離しちゃ駄目、どんな時でもしてなきゃ駄目、神様のことを忘れなければ神様はずっと、あたしを守ってくれるんだって言ってたから。…ちぃちゃんのは?」
睫の長いお人形の顔が、千尋に何かを要求するようにみつめている。でも、千尋には、何を言っているのかよくわからなかった。薄暗い照明の中で、そのお人形のような顔をじっとみつめかえした。とたんに彼女は、千尋の胸元、ワンピースの襟元に手をつっこんだ。
「え、キャッ、え、や…」
と千尋が抵抗する間もなく、
「あ、ないよー、ないよー、何でないのー?」
「ミチル、おやめよ、困ってるじゃないの。記憶喪失だって、さっきから言ってるのに…」
だだっこのように振る舞う未散に、よしこママが横から声をかけた。
「だって、だって忘れるわけないわよ。どんな時だって必ず、日曜になったら教会に通って、ロザリオだってちゃんと持ってたじゃない。ねえ、千尋ちゃーん。」
「あ、ご、ごめんなさい、あたし…」
千尋はすわったままの姿勢で膝に手をおいて恐縮した。すると目の前の未散の目から、ホタホタと涙がこぼれた。ギョッとして顔を上げると、
「じゃあ、千尋ちゃん、事故の後に記憶喪失になっちゃったんだ。」
手の甲で涙をぬぐう未散の顔をじっとみつめた。
「だって、吉本先生言ってたもの。『主よ、やはりお許しにならないのですね』って、言って、千尋ちゃんいなくなったって。千尋ちゃんずっと言ってたじゃない。『もう、幸せになっていいのかしら、もう、許されるのかしら』って。千尋ちゃん、事故が起こったから、神様に許されないと思ったんでしょ? だから、結婚やめたんでしょ?」
千尋は息を飲んだ。未散はじっと、千尋の顔を立った姿勢で上からみつめている。
「何、を、許される、の?」
店の中がしんとしている。千尋はガクガクと震えそうになるのを、手を握りしめることでこらえた。
「何を許されるのかは、千尋ちゃん全然話してくれなかった。でも、あたしはとても大きい罪を背負っているから、それが許されるまでは、幸せになっちゃいけないんだって、きっとそうだって…」
「幸せになっちゃ、いけない?」
未散の唇をみつめながら、また呆然とした。そして、ああ、まただ、と思った。理由のわからない、哀しみ、理由のわからない、不安。両手の指をからませて口元で祈るように受け止めた。震えそうになる体を、噛み締めることでこらえようとする。握り締めた両手を未散が両手で上からつつんでくれた。未散の体温で、自分の手がひどく冷たいのだということに、千尋は気がついた。
 
 店の裏手の細い通りを少し歩くと、未散が住んでいるというマンションがあった。部屋は二室あって、最初しばらく千尋も一緒に住んでいたのだと、未散は話した。見れば何か思い出すかもしれないと、未散に連れ出されたのだ。店の中のクーラーがきいていたせいか、外のムンとした熱気が鼻をつよく押した。暑さのせいだろうか、それとも何かにおうのだろうか、息苦しさに慣れ始めた頃、マンションの入り口に到着した。しかしエレベーターの中に入った途端、強い香水の残り香に鼻を射られて、また千尋はたまらなくなった。エレベーターの疲れた色、けだるい空気。エレベーターを降りて、廊下を歩く。建物自体がどこかけだるい。それでも、暑いにかわりはないが、空気が自由になっただけ、まだましだと思った。
「ちぃちゃんはね、歌がすごく上手だった。」
「え? 歌?」
「うん、歌。よく二人でカラオケ行ったの、覚えてない? 休みの日もだったけど、店が終わってからでも言ったのよ。朝からカラオケって言って、ゆうちゃんのお店にね」
「ゆうちゃん?」
「あ、ここなの。」
と、未散はドアの前に立ち止まった。ポケットから鍵をジャランと取り出すと、カチャンと解錠する。ドアを開けて「どうぞ」と中に招じ入れた。「おじゃまします」と玄関を入ると、すぐ板の間のダイニングになっている。マンション自体が古いせいもあるのだろうか、くたびれた感じの雑然とした部屋だ。未散は椅子に腰掛けることをうながすと、対面して自分もすわった。
「ああ、うん、そう、ゆうちゃん。『SWEET ROCKET』のゆうじ。ゆうちゃんはね、元」
「あ、ここ来る時に店を教えてくれた人かしら。えっと、おかまの…?」
「あ、そうそう、そうよ、その人。ゆうちゃんはね、元おかまバーで働いてたんだけど、だんなに見初められて、おかまバーやめて、あの店もたせてもらったの。」
そこで未散はクーッと吹き出した。
「あたし、あの店の名前でゆうちゃん目茶苦茶怒らして、出入り禁止になった時があったのよ」
そこで未散は耐え着れずに、アーハッハッと笑い始めた。
「あたしは覚えてなかったんだけどね、店引けた後に、グデングデンに二人で酔っ払って行ったら、そしたらゆうちゃん、『もうー、あんたたちっ、何で閉める頃になって来るのよ!』ってここに、ここに」未散はひとさし指でこめかみの当たりを押さえた。「青筋たてて怒んのよ。それがまた、おっかしくってサアア。」
未散は話しながら、まだ笑っている。それでも二人は「女友達」だそうだ。悪友なのだろう。いじめて喜ぶのは未散の性格なのか、この人の持つ生まれ持った性癖なのかは分からなかったが、出入り禁止になった経緯を、酔ってつぶれてすっかり忘れた未散に、千尋が翌日語ってくれたという。その口様を、物まねいりで話してくれた。
「ゆうじー、ゆうちゃーん、うったいに来てやったわよー、おっきゃくさっまの、おっこしー」
店のBGMも途切れてしんとした中に、入り口で未散の酔っ払った声が響いた。普段から酔っ払っているのではないかと思うような素振りなのに、酔うと輪をかけてひどくなる。意味もなくゲラゲラと笑いながら入り口付近でフニャフニャで立っている二人の所に、ゆうじが怒りながら走って出て来るのだ。
「もうー、あんたたちっていっつも、何で、今日はもう閉めようかって時にばっかやって来んのよ!」
「なあんだとーお? おっきゃくさまに向ぅかって、そぉのセぇリフわあ、何っだあ! ヘン、あったしたち、あったしたちってば、あーさまで、カ、ラ、オ、ケなんだもんねーえ」
「なあーにが、あーさまでカラオケよ! もう夜が明けちゃうわよ!」
千尋の肩につかまった未散が、ふん、と鼻で息をはいた。
「じゃーああー、あたしたちぃー、あっさかーらー、カ、ラ、オ、ケー」
ギャーハッハッハッと未散が笑い転げた。
「もう、もう、この酔っ払い、どうっしょうもないわねー」
「うぅうっさいわねー、だいたい、こぉんなスゥイートロケットだなんて、くぅっさい名前の店、あたしたちぐらいのもんっじゃなーい、来て上げるのお。感謝しなさーい、感謝あ!」
「なあにが、くっさい名前よ。だいたいねえ、だいたいねええ、この名前はねえ、この名前はねええ、」
言いかけた途端にゆうじがふと言いよどんだ。そこにすかさず未散が、
「なあによおー」
とつっこむ。横で千尋が、ねえ、ミチル、もういいじゃない、もういいじゃない、帰ろうよー、というのに、未散はまだ「ン? ン?」とあごを突き出してあおっている。
「この名前は、あー、あたしのダーリンのねー、ダーリンのねー、あ、あ…」
と言いかけた所で、ゆうじは真っ赤になって、キャッと両手で顔を覆った。「え? 何?」と千尋が聞き返そうとした時、横で未散が千尋の肩につかまったまま大きくのけぞり、ギャーハッハッと放った。
「アーハッハッハッハッ」「え? 何何? どうしたの?」「アーハッハッハッ」「ちょっと、ミチル! 何よその笑い方は!」ゆうじが真っ赤になって怒り出した。「ヒィーッヒッヒッ」「あなた失礼よ!「ケヘケヘケヘ」んなに笑うことなの?」「ギャーハッハッハッ」「ごめんなさい、ゆうじさん、この「ヒィーヒィーヒィー」上戸で」「そういう問題な「アー、アッハッハッハッ」未散が壁をげんこつで叩いて笑い始めたので、「ちょっとやめなさいよ、あんたの怪力で壊れちゃったらどうすんのよ!」手をパーにして叩き始めた。「ごめんなさい、この子B型で」「アー、アーハッハッハッハッ」「あたしだってB型よ!」「ヒィ――――ッ!」「ミチル、ミチル、駄目よ、そんなに笑っちゃあ、そんなに笑ったら、」真剣な千尋の口調に、ふと二人が千尋に目を向けた。
「うなぎ犬の末路をたどるわよ」
「ギャーーハッハッハッハッハッ!」
「何よ、うなぎ犬って。」「え、だから赤塚不二夫の」「それは知ってるわよ!」「え、だから、笑い過ぎて死ぬっていう」「もうー、ミチルだけじゃなくって、チヒロちゃんまであたしのこと馬鹿にするのね!」「え、そんなつもりじゃ…」
未散が静かになったので、ふと彼女の方を見ると、壁に手をついて何かを必死でこらえている。
「ねえ、どうしたの? ミチル? ミチル?」
「う、気分悪…」
「え? 気分悪い? 気分って?」
「吐く」
「ちょっ、ちょっとミチルちゃん! こんなトコで吐かないでよ! ここは店の」
グウッと音がしたかと思うと、たちまちのうちに、ゆうじの顔がムンクの「叫び」へと変じた。
「ギャ―――――ッ!」
 ダイニングテーブルの前に腰をかけていた千尋は、顔を真っ青にして未散の話をきいていた。
「え、でも、親切に教えてくれたわよ、ゆうじさん。」
いうと、未散は、キッチンの横にある冷蔵庫から麦茶のポットを取り出した。
「すぐに忘れちゃうのよ。バカだから。」
顔はお人形でも、なかなかキツイと、千尋は静かに驚いた。未散は、二つ並べたグラスに、トポトポと麦茶をつぎながら、話し続けた。
「ちぃちゃん何でも上手に歌いこなしてたな。昔何かやってたのってきいても、いっつも、うん、ちょっとね、しか言わなかった。声がね、おなかから出てるのよ、ちゃんと。それでも、うん、そうね、あの頃は、五時間連続とか、平気でカラオケやって、で、とうとう喉痛めて、それであの先生のいる病院行ったのよね。吉本先生のいたとこ。」
「え? のどをいためて?」
千尋がそう言うと、未散は笑いながら、
「そうそう、そうなのよ。ただのどが痛いだけじゃなくて、熱も出たから、これはおかしいぞってお医者に行ったの。そしたら、気管炎だって。たんがひどくってね、すごい苦しそうだった。で、」未散はそう言いながら、千尋の前に麦茶のグラスを置いた。「冬でもないのにのど痛めるなんて、一体何のお仕事ですかって吉本先生きいたんですって。チヒロちゃんが名刺渡して、一度遊びに来て下さいね、なんて社交辞令で行ったら、本当に来ちゃったの、吉本先生。もうー最初からきっとその気になってたのね。最初はさああ、なーに、このダッサダサの兄ちゃんって思ったの。髪ボサボサだし、メガネはこおんな」言って未散は手で目の回りに型をつくってみせた。「黒の額縁ビン底メガネでさああ、シャツはヨレヨレ、ネクタイだっていつかえたのよって感じで。最初っからチヒロちゃんご指名で、あんた何者?って、知ぃらないのよねぇ、こんなトコぼく来たことありませんって顔に書いてあるお坊ちゃんで、――でも先生、元が良かったから。」
「へー。」
「だいたい上背あったでしょ、メガネも細い金縁にかえて、フレームレスになって、髪も短く揃えちゃって、ちょっとの間にすっごくオシャレになっちゃった。最初は皆笑ってたけど、これが愛の力かしら、とか思ったら、あんまり一途で、うらやましくなっちゃった――ねえ、飲んで。」
未散は自分もグラスを手に取ると、千尋の前に置いたグラスを指さした。千尋は言われたままに手に取ると、チラッと部屋の中を見回した。お世辞にもきれいとはいえない。雑然としていて、新聞や雑誌は適当にそこらへんに積んであるし、ドアの開いた奥の部屋は、ベッドの上に服が脱ぎ散らかしてある。窓にも服がかけられていて、折角の日当たりが遮られていた。
「あの先生の面白いトコはねえ、酔うと、口説くのよ。口説き上戸っていうのかな、すっごいセリフ吐くのよ。あたし一度チヒロちゃんにきいて、暗記したの。ええとね、こう」そう言って未散は自分の麦茶のグラスをおいて、グラスを持った千尋の手を握った。それから、千尋の手元のグラスをみつめると、ハアー、と深いため息をつき、じっと彼女をみつめた。
「ボクはこのグラスの中の氷がうらやましいよ。ホラ、見てごらん、この、ウイスキー、これはボクを酔わせるきみの××なんだ。なめて口づけて味わって、こんなふうに、メロメロに、溶かされてみたい――なーんちゃって、ギャーハッハッハッハ!」
机をバンバン叩いて笑う未散に、「ハ、ハハハ」と千尋はひきつった笑いを浮かべた。
「だからあたし、先生に言ってやったのよ。女を口説くんだったら、もーっとムードのある言葉えーらばなきゃあ、そおんな初っ端からまんまのコト言っちゃいけないって。でも、シラフになったら、もう恐縮するばっかで、すいませんすいません、そういう時の僕は、僕じゃないんですぅーっ。」
「な、何かよく、わからない人」
「いい人よー、ホント。羨ましかったぐらい。きみの過去は、どうでもいい、今ここにいるきみが必要なんだ、そう言ってね、プロポーズの言葉だったかな、チヒロちゃん、すごく悩んでたけど、結局オーケーしたのよ。それ以来、男の方も全然」
未散はハッと我にかえった。
 しまったというふうに千尋の顔を大きな目でみつめると、ふっと視線を外して横向きになるように体を動かした。ウロウロと視線を泳がして、急いで他の言葉を探す。その様子を見た千尋は、未散の顔を探るようにみつめると、
「何? 何なの、あの…」
千尋が言葉をつぐと、未散は千尋の方を見て、あ、と口を開けたが、またいけない、という風に言葉を探した。
「何? 何? ミチルさん。どうしたの?」
「どう、どうもしない。ねえ、ねえ、チヒロちゃん。ミチルさんって呼ぶのやめて。全然知らない人みたい。ミチルでいいよ。ね。」
「ねえ、今、何か言いかけたでしょ、何? 何かあったの?」
千尋がそう言うと、未散はキュッと口を結んだ。それから眉ねを寄せると、
「だって千尋ちゃん、今幸せそうじゃない。だったら、」
「幸せそう? 幸せそうだから、何? 幸せそうだから、知らなくていいことがあるの?でもそれってずっと、忘れていられること?」
話しながら、またひどい哀しみが心の中に押し寄せた。未散が一瞬なきそうな顔をして、それから、
「タカシが悪いのよ。」
そう言った。
「え、タカシ? タカシさん? タカシさんって、あたしをここに連れて来た人?」
「そう。そうよ、タカシ、あいつ――」
「タカシさん? 亡くなられたって…」
「死んで当然よ! あんな、あんなゼゲンみたいな、ショバ荒らしして、殺されたって文句も言えなかったのよ。うちの店はそういう店じゃない、信用落とすから、馬鹿な真似はさせないでくれって、ママさんもオーナーも、ずっと言ってたのに」
「ゼゲン?」
「だってそうじゃない。あいつ仲介料いくらもらってたと思う? お店のお客がしつこく言い寄るから、チヒロちゃんはボランティアだって言ってたけど、タカシが口利いて、お金、欲しくもないのに。チヒロちゃん、自分で言ってた、あたし、マグダラのマリアかなあ。こうしたら、こうしたら、救われる、か、し…」
後の言葉は涙声でかき消された。
 感情の起伏の激しい人だと、千尋は彼女をぼんやりとみつめた。
 温かい感触が頬を伝って、テーブルの上にホタリ、と、しずくが落ちた。千尋はその小さな音で、ふと、うつむいて目の前のテーブルの、濡れた所をみつめる。すると、またうつむいたその上に、ホタリ、ホタリ、としずくが落ちた。
 哀しいことなんて思いあたらないのに、どうして涙がこぼれるのだろう。
「あたし、一体何したの?」
その千尋の問いに、未散は泣きながら首を横に振った。
「チヒロちゃんは、絶対、何も言わなかった。ここに来る前に、何があったのか、全然、言わなかった。ただ、つぐなわなきゃいけない罪がある、つぐなわなきゃいけない罪があるのよって、いっつも、でも――」
未散は小さなテーブルをまわって千尋の所にかけ寄ると、千尋をギュッと抱き締めた。
「チヒロちゃん、今幸せなんでしょ? 幸せなのよ。この新しい指輪」そう言って、未散は千尋の左手をとった。「これ、結婚するってことでしょう?」
未散の言葉に、千尋はエ?と顔を上げた。
「吉本先生の時よりは小さいけれど、きれいよね、センスもいいし。幸せなのよ、チヒロちゃん、そう、そうよ、昔のことなんて、忘れちゃっていいのよ。だってチヒロちゃん、夢の中でしか泣かなかったじゃない。死んだお母さんの夢みた時だけしか…。ちぃちゃん我慢強いから、どんなに苦しくったって、どんなに哀しくったって、泣かなかった。でも、今こんなに素直に泣けるんでしょ。だからきっと、幸せなのよ。今、とってもとっても、幸せなのよ。」
再び抱き締める未散に、千尋は彼女の顔を探した。
 何――?
 頭の中が混乱している。
何があったの? ねえ、あたしここに来る前、一体、何が――
 遠くで、未散の「救われなけりゃ。あたしいつも、千尋ちゃんの幸せ祈って…」という声が、泣き声に混じって聞こえている。
 声に出そうとするのに、声がみつからない。すると、マグダラの、という言葉が頭の中をめぐった。マグタラの、マリア、マグダラの、マリア、マグダラの――
 あたし、マグダラのマリアかなあ――。
 
 森本のマンションにたどりついた時、時計を見ると既に六時近かった。夏至が近いせいか、日はまだ暮れそうになかった。それでも、マンションの廊下から眺める暮色のかかった西の空は、昼の暑さからやっと逃れるられるのだという安心感を与えてくれる。千尋は体にけだるい重さを感じた。今年は、まだ六月というのに暑すぎるのだ。そう、雨も多い。きっと、湿気がいけないのだ。蒸し殺されそうな、どうしようもない、暑さが――。
 千尋は部屋の扉の前に立った。インターホンを押そうとして、自分も鍵を持っているのだということに気がついた。しかし、と千尋は思った。インターホンを押して誰も出て来ないなら、もうどこか別の所に行ってしまおう。ホラ、免許証にあったじゃない、今のあたしの現住所、そこ行けば――。
 まるで何かのかけをするように、千尋は部屋のインターホンを押した。しばらく扉の前で待つ。すると、インターホンに森本の声があった。どこか失望するような、ほっとしたような気持ちで、「あたしです」と言うと、中から、「今開けるよ。」という声が直接聞こえた。 ややあって中から開錠の音がきこえる。扉が開き、森本の「おかえり」という笑顔がのぞいた。
「暑かったろう、今日はまた、格別暑かったからなあ。」
部屋の中に入って立ちどまったままの千尋に、森本は話しかけた。
「なあ、今日は疲れたろう? シャワーあびといでよ、どこか外に、うまいもんでも食いに行こう。あ、そうだ。」
そう言って森本は部屋の隅にあった、旅行鞄とボックスを持ち上げ、ソファの所まで持ってきて、
「今日、えっちゃんに頼んで、当面必要なものだけきみんトコから持ってきてもらったんだ。ホラ、色々と困るだろう、着替えとかないと。」
「えっちゃん?」
「そう、えっちゃん。アルバイトの村井枝津子さん。って言っても、覚えてないだろう?」千尋は森本の顔を見上げた。森本は千尋の様子に、ん?と首を傾げた。
「どうした?」
「何できかないの?」
「へ?」
「何できかないの? 今日どこに行って、何がわかったか。」
森本は戸惑うような素振りを見せた。何も答えないので、千尋はカッとして彼を見上げ、声を荒げた。
「それとも、本当は、もう、何もかも知ってるの? 知ってるから、きかないの?」
森本は困ったように首をかしげて、「ハハ」と笑顔を浮かべた。
「何? 知らないよ。ただ、先にシャワーあびてすっきりしたらどうかと思って。話はメシ食いながらでもきけるだろう。何? どうした?」
「あたしクラブのホステスだったの。」
そう言って千尋はうかがうように、森本を見た。
「病院にいったら、婚約者の先生は別のとこに転勤してて、あたし車の事故で結婚の直前に行方不明になったんだって。あたしを知ってる看護婦さんって人にあって、教えてもらったの。それで、働いてたっていうクラブに行って、そしたら、仲がよかったっていう、ミチルって人が、色々教えてくれて」
千尋の唇が震えた。強くかみしめると、途端に涙がボロボロとこぼれてきた。驚いた森本が、千尋に近づこうとすると、「触らないで!」と叫んで後ずさった。
「あたし、あたし、マグダラのマリアだったのよ、マクダラの」
「え? マグダラ…?」
「ボランティアだとかいって、いろんな男とお金で寝るような女だったのよ! あなた知ってた? あなた知ってて、あたし雇ったの? あたしそういう女だったのよ! そういう」千尋の声が部屋中に響きわたった。後から後から涙がこぼれて、とめどないのに、森本が、「おい、落ち着けよ」と声をかけると、
「ねえ、知ってたの? 知らなかったの? どっちなの?」
「知らなかった。」
「知らなかった? 知らなかった? でも、あなた、そういう女雇ってたのよ。ショックじゃないの? 何でそんな、平気な顔してるの? ショックじゃ!」
吐き出すように言葉を続ける千尋に、森本は困ったように笑顔を見せた。それから瞬き一つすると、
「ショックだよ。」
森本の唇がわずかに震えた。
 震えた唇に、千尋の胸が、ひどくいたんだ。彼女は肩を落として、両手で顔を覆った。
「ホラ、シャワー浴びといで。おいしいもの食べたら、ちょっとは元気になるよ。な。」
森本の声に、後から後から、涙がこぼれてくる。
 泣きながら森本にバスルームに連れていかれると、森本は脱衣室にある棚からバスローブとバスタオルを取り出し、後ろからついて行った千尋に投げて寄越した。そして、森本は、千尋の顔をチラッとみると、戸を閉め出ていった。
 千尋は泣きながら、服を脱いだ。かいた汗がべっとりと、下着にはりついている。顔も頭も汗でいっぱい、何て気持ちが悪いんだろう。
 バスルームに入って、シャワーの栓をひねる。頭からあびながら、全てが流れ落ちてしまえばいいと思った。何て汚いんだろう、何て汚いんだろう、何て…。
 ………
 シャワーを浴びて脱衣室を出ると、ヒヤリとした冷たさが足に絡みついた。冷房の冷たさは、リビングから奥まったここまで行きわたっている。あまりの冷たさに、喉の奥が清涼とした。脱衣室からリビングへと抜ける手前で、千尋はふと足を止める。森本はソファにすわって、こちらに背を向けている。何か鍵をいじっている様子だった。その、どこか寂しそうな後ろ姿をみつめて、千尋は胸がしめつけられるように痛くなった。あの背中に抱き着いて、おもいきり泣けたらいいのに。あの、背中に――
 千尋の目から、再び、ボロボロと涙がこぼれた。