一応、森本の部屋にあった東京地図を取り出して、運転免許証に記載された住所の位置を確認して出て来た。それでも細かい町並みまでは地図の上では把握仕切れぬので、駅についてから商店街の店で道を尋ね、途中にあった町内地図で位置を確認し、歩いて行った。駅からはおよそ十分弱、森本の事務所の位置を考えると、もしここから通っていたとするならば、千尋の住んでいた場所と、森本の家とは、事務所を間に挟んでちょうど半々の距離になる。いや、千尋の家の方が、少し遠いと考えた方がいいだろうか。森本の家から、地下鉄も入れて三回乗り換えた。森本の部屋を出たのが八時少し過ぎ、時計を見ると九時二十分だから、乗り換え時間、待ち時間を入れて、結構時間がかかった。日曜で電車の本数も少なかったせいもあるだろうが、都心の日曜の朝は、通勤の人が少ないだけあって、歩きやすくもあり、平均すれば平日でも多分これぐらい時間を要しただろうと考えた。
何でこんな不便なところに部屋を借りたんだろう。
やはり少し都心を離れた方が、家賃が安かったのかもしれない。空気も随分きれいになるし、街の感じとか――千尋はそう考えながら、町内地図の通りに、少し坂になった道を上った。
昨日、あの後二人で食事に出掛けたが、千尋はすっかり沈んでしまった。それで、森本は取り繕う様に当たり障りのないことを、色々と質問するばかりで、千尋もそれに答えるのがやっとだった。きっと森本は少し奮発したのだろう、お店は創作料理店で造りも美しく、食事もおいしく、体は汗も荒い流して気持ちもよく、化粧もきっちりして、気分はすっかり良くなったけれど、そんなことで昼間のショックは落ちなかった。飲んだワインのせいで、体中の緊張の糸がほつれてしまい、部屋に戻ると泥のように眠った。
それでも昨日は、食事をしながら、明日朝一番には運転免許証に記載された自分の部屋を探してみようと思った。朝は決して森本にみつからないように出掛けようと思った。そして実際、今朝は黙って出て来たのだ。
明日からは月曜日だけれど、仕事はしばらく休ませてもらおう、それから一生懸命自分の過去を探そう、いや、思い出すようにしよう、そんなふうに考えながら、ここまでの道のりをやってきたのだ。
確かこの辺のはずだと、千尋は足を緩めた。辺りは古い町並みの住宅街になっていて、地図にあった歩道にそって歩いてきた。住所にあるようなアパートといえば、目前の公園の隣にある二階建住宅があるばかりである。まだ新しい、アパートというより、ユニット式建設住宅の、ワンルームといったふうに見える。窓の数は一階二階合わせて十コ。思った以上に美しい建物だったので、千尋はホッとして、嬉しくなった。急いで歩道を進んでその入り口に近づいていくと、正に記載住所の、それだった。記載の住所は二〇三になっている。千尋は一応門を入って目の前の、階段の下にある集団の郵便受けを見てみた。二〇一、二〇二と目でたどって、あ、と口を押さえる。
違う。
違う、池野、ではなく、「坂本」となっている。
千尋はそんな馬鹿なと思って、鞄の中から運転免許証を取り出した。しかし、住所はその通りであっている。
彼女はしばらくショックでそこに立ち尽くしていたが、ふと我に返ると、部屋の方にも行ってみようと思った。それで階段を上がって二〇三へと進んで行く。しかし、そこの表札もやはり、下の郵便受けの名前が入っていた。
千尋は一体どうなっているのかと我が目を疑ったが、決心をして出てきたのに、いざ帰る部屋がわからなくなってしまったとあって、一瞬途方にくれかけた。それからすぐ、二〇三号室の中から水音がして、我に返った。
そうだ、もしかしたら、ここからどこかへ引っ越したのかもしれない。
そう思いついて、千尋はドアの横にあるインターホンを鳴らした。中からややあって、「はーい」と男性の声がする。
「あの、あの、すいません、あたし、池野といいますけど、あの…」
千尋がそう言って口ごもると、中から、「あー、ちょっと待って下さい」とだるそうな声がした。中側から開錠する音がして、ドアが開く。すると、眠そうな男の顔がのぞいた。頭は起きぬけなのかグチャグチャで、髭ものびたうっとおしい顔だった。千尋は思わず、「日曜の朝早くからすいません」と言おうとして、
「何? 池野さん、今頃。どうしたんです?」
と相手が声を発したので、千尋ははっと我に返った。
この人は誰?
自分で自分の顔が歪むのがわかった。心臓のバクバクという音が耳まで響いて、その人の顔を必死の形相で見上げた。
「郵便物だったら、もう俺んトコ来てないですよ。前の分は全部森本さんの事務所送ってたでしょ?」
千尋はそれで、何となく親しい知り合いらしいということを理解した。目の前の青年は、Tシャツにトレパン姿、サンダルをつっかけて、ドアの外まで出て来た。千尋がホッとして肩を落とすと、目の前のその人は、ヘラリと笑って、一度部屋の中を見てから、
「そういえばもうすぐでしょ? 森本さんとの結婚式。言ってましたよー、坂城さん。このクソ忙しい時に結婚式しやがって、俺あ行かねーぞーって。」
だらしない感じの口の、目の前の青年の歯を見て、ああ、何て黄色いんだろうと思った。そうだ、煙草のヤニの色だ。
「待って。」
千尋は手の平を彼に向けた。
「今何て言ったの?」
青年は笑うのを止めて、へ?と眉ねをよせた。それからヘヘヘと笑って、
「だからあ、坂城さんがあ」
「その前その前。」
青年はまた眉ねを寄せて、
「前って何?」
「だから、前。」
「俺何か言った?」
そう言って青年は瞳をキョロリと動かすと、はっと我に返って、怖い顔になって手で口を覆った。
「まさか、池野さん」
「ええ! 何?」
「森本さんとの結婚取りやめになったんじゃ…」
「ええ、ウッソオ!」
「ええ、マジぃ? ホントにぃ?」
「あたし森本さんと結婚する予定だったの?」
「えーッ! ウッソオ、ウッソオ、まっずいよまずいよー、えー、マッジぃ? マッジ、え?」
目の前の青年はひとしきり騒いで、千尋の言葉に気がついた。
「あれ? 池野さん、今何て?」
そうだ、スケジュール帳に、ちゃんと書いてあった。今年の六月十九日に、結婚式、と。それからこの、薬指の、新しいエンゲージリング――。
自然と顔が火照るのがわかった。うつむいて両手で頬を包んだ千尋の顔を、青年は、不思議そうにのぞきこんだ。それで千尋が顔を上げると、
「すいません、あの…」
「はい?」
「あなた、誰でしょう。」
青年はだらしない格好の口を、ポカンと開けた。どこかしっかりした糸が張っていなければ、今にも崩れそうな微妙な顔立ちだ。その顔はウロウロと視線を泳がせて、小さくため息をつくと、
「池野さん、まさか、また、ですか?」
そう言った。
青年は話は玄関でいいというのに、執拗に「上がって行ってください」を繰り返した。何でも森本の手前このまま上がらせないわけにはいかない、ということなのだが、千尋自身は一昨日記憶喪失になってどういう関係かよくわからないことだし、森本に行き先を言わないで出て来たからいいというのに、彼は、「そういうわけにはいかない」と言い張って、千尋を部屋に上がらせた。上がる前に「五分、いや、三分待っててください」と言って、ドアを閉めて中に入ってしまい、しばらくしてから、「お待たせしました」と言ってドアを開けた。しかし、部屋の中は、どこをどう片付けたのだろうといぶかるほどにちらかっている。ワンルームの六帖で、壁際に衣類ボックスや雑誌、文庫本、それから何かの機材が雑然と並べられており、玄関とは反対側の壁に、下から三十センチの位置から窓が一枠ある。青年はその部屋の中央にある座卓へと千尋を案内し、座布団の上にすわらせた。 何となく居心地が悪くてモジモジしていると、青年は部屋の隅にある冷蔵庫を開けて、何か持ってきた。千尋の所まで戻ってくると、ドンと彼女と自分の前の机の上にそれを置き、対面して正座した。畏まって両手を膝の上に乗せ、頭を下げ、右手をスッと差し出して、「どうぞ」と言った。
バドワイザーだった。
それで千尋は呆れて、そのバドワイザーの缶を眺めていたが、目の前の青年はブシュッ!とタブを引くと、旨そうにゴクゴクと飲んだ。
「あー、うまいッスねーっ!」
青年があまりに嬉しそうな顔でいうので、千尋は思わず苦笑いをする。と、青年はそれに気付いて、
「どうしたんスか? 飲まないんスか?」
と尋ねた。
「あの、あたし、朝からビールはちょっと…」
そう言ってまた苦笑いをすると、目の前の青年は不思議そうな顔をする。彼はふっと我に返って、
「あ、そうでしたね、女の人はこういう時は、」そう言って立ち上がった。「ええー…」と頭をかきながら冷蔵庫の方に歩いて行く。そして再び冷蔵庫のドアを開けたので、
「あ、いいです、どうか、おかまいなく。」
と千尋が言ったのだが、
「いやいや、そういうわけにはいきません、ちょっと待ってくださいよ。」
そう言って青年は冷蔵庫の前にすわった。冷蔵庫をあっちこっち首を動かしながら眺めていたのだが、とうとう中に手をつっこんでゴソゴソやり出した。千尋が一抹の不安を覚え始めたころ、青年は「あっ!」と声を発して、突然、バッ!と千尋の方を振り返った。
「いちご牛乳がある!」
青年は嬉しそうに、満面に笑みを浮かべている。千尋がつられて笑うと、青年はさらにエヘラと笑った。
「これでいいスか?」
千尋は顔を笑顔にしたまま、ウンウンと頭だけうなずかせた。
それで青年がその「いちご牛乳」を流しで洗ってフキンで拭うと、再び千尋の前に持って来て、彼女の前に置き、座った格好で最敬礼して「どうぞ」と促した。
これは絶対飲まねばならないという強迫観念にとらわれながら、彼女はギクシャクと缶を手に取った。念のため底を見たが、賞味期限は過ぎていない。ホッとして表に反しタブをひいて口に含んだ。
「あの…」と缶を置いて、青年の顔をみつめた。「森本さんとは、一体どういうご関係ですか」千尋が質問すると、青年は、エヘッと笑って、
「変な感じッスねー。ご関係とか言われると。まあ、そうッスね、俺が後輩で、森本さん先輩ですよ、仕事上のね。会社が同じで、エーオンからの派遣なんスけど、見習いで森本さんとこに行かされたのが初めで、それからッス。もう三年目ッスよ。」
「え? 『ミル』って会社は派遣ですか?」
「いやいや、違うッスよ。『ミル』は今のインターネットの会社でしょ? 森本さん『ミル』始める前は、エーオンって会社で、エンジニアの仕事してたんスよ。主に舞台音響とか、技術とかの。で、そこの会社は劇場なんかに派遣してるんスけど、森本さんが元々派遣されてた所に、俺が見習いで行かされたわけで、森本さんが引退した後は、俺一人でやってるんスけど…」
青年は照れた様子で頭をかいた。千尋は青年がペラペラと説明したのを一生懸命考えてから、
「じゃあ、あたしは、『ミル』に入る前は何をしていたんでしょう。」
「やだなあ、池野さんったら。」
青年はエヘエヘと笑っている。まさかもしかして、結婚をやめてすぐ『ミル』に入ったんだろうかと、一瞬、じゃあ森本はやっぱり昔のことを知って、と頭の中を考えが駆け抜けたが、
「女優じゃあないッスかあ。」
という青年の間の抜けた答えに、強ばった体のまま固まってしまった。それでも青年は、まだエヘエヘと目の前で笑っている。
「ジョッ…!」
「って言っても、三カ月程でしたけどね。ホラ、すぐ森本さんが引き抜いていったから。」
「じょゆう? 女優って、どこで?」
「だから、坂城さんとこで。」
「坂城さんって、誰?」
「坂城さんって言ったら、坂城さんじゃないですか。新進演出家の、坂城春樹っスよ。その人が主宰してる、劇団『絶対零度』で、」
「劇団!」
「そうそう。そこが持ってる劇場で、小さいんですけど、『SQUARE THE CIRCLE』っていうとこに、俺ら派遣されてたんスよ。で、池野さんが」
「女優?」
千尋は自分に指さして、身を乗り出して青年の顔を見た。
「いや、でも、本番の舞台に立つことはなかったんですけどね。ホラ、えー…」
青年が困ったように突然口ごもらせたので、千尋は、さらに身を乗り出して、「何?」と尋ねた。
「いや、でも、俺の口からいうようなことじゃ、…ホラ、えー、森本さんも引き抜いて行ったことだし」
「女優やってたのに、何で森本さんが引き抜いて行ったの?」
青年はまた照れて、エヘエヘッと笑っている。
「そりゃあ、ホレたからでしょう?」
「ホレた?」
「まあ、そう…。」
「だって、三カ月ほどで?」
「いやあ、恋に時間はいらないッスよお。」
「え、でもそれじゃあ、三カ月で」
その時、電話のベル音が大きく響きわたり始めた。二人とも一瞬「エッ?」として、キョロキョロと見回したが、青年が、
「池野さんのケイタイじゃないですか? 俺のと音違うし」
そう言われて、横に置いてあった鞄をつかみ、中を探った。案の定、千尋の携帯電話がうるさく音を立てている。取り出してディスプレイ部分を見ると、「ジタク」という表示が目に入った。
一瞬ドキリとして、静かに通話ボタンを押し、「はい。」と電話に出ると、軽い息の漏れる音が聞こえた。
「千尋?」
という森本の声が聞こえた。千尋はまたドキリとして、「はい」とだけ答えると、
「お前今どこだ?」
と静かな低い声が響いてくる。
「え、あの、免許証にある住所の」
「トーセーんことか?」
「え? トーセー?」
すると、目の前の青年が、手で自分を指さしながら、口で大きく「オレ、オレ」と言っている。
「そう、みたいです。」
電話の向こうは安堵したようすの声で「そうか」とだけ返事をした。
やや沈黙があって、
「びっくりしたぞ。さっき起きたらどこにもいないし、書き置きもしてないし、また記憶喪失にでもなってどっか行っちゃったのかと思った。」
「え、ううん。ちょっと、早く、思い出さなきゃいけないと思って。それで…」
「そうか、でも、そんな焦ることないんだぞ。ゆっくりでいいんだから。」
「はい。」
「今日これからどうするんだ? 何ならどこかで落ち合うか?」
「え、あの…、今日は、あの、吉本先生の所に行ってみようと思ってたんだけど…。それから、劇団の方にも…」
「わかった。じゃあ、夕方にでも劇団の方に行くよ。春樹んところだな?」
「あ、はい。そうです。」
「わかった。じゃあ、また後で…あ、ちょっとトーセーに代わって。」
千尋は顔を上げた。それから青年の方に携帯電話を突き出すと、青年は人差し指で自分を指さして、「オレ?」と尋ねた。千尋がうなづくと、青年は電話を受け取り、
「あ、森本さん、お久しぶりです。」
と頭を下げ下げ電話に話した。「あ、はい、いえ、…あ、わかってます、すいません。…いや、二時からだと思いますよ。昨日みんな遅かったスから。はい」などということを、頭を下げ下げ電話で返事した。ピッと音を立てて通話を切り、千尋に電話を差し出した。
「森本さんが、気をつけて行って来いだそうです。」
千尋は電話を受け取った。ディスプレイは光も失せて、ただの箱になっている。
自分で顔が歪むのがわかった。思わず携帯を持ったまま、両手で口を覆う。何かを話そうとしたけれど、唇が震えそうで、それで口を覆った。それでも耐え切れなくて、顔が激しく歪むので、目を閉じてこらえようとした。
「ど、どうしたんですか、池野さん、気分悪いんですか?」
千尋は首を横に振った。涙がこぼれそうでたまらない。「池野さん?」と心配げな顔でのぞく彼に、言葉をつごうとして「あたし」と顔を上げたとたんに、涙がこぼれた。
「あたし、昨日ひどいこと言った。知らなかったの、森本さんが、婚約者だなんて…」
「え…」
「なんか、きっといっぱい、きず…」声にならずにうつむくと、ボロボロと涙がこぼれた。一頻りが過ぎてから、再び顔を上げると、「きず、つけたのに、何であんなに優しいの?」
千尋は唇を噛んだ。胸の中のものをため息で吐き捨てると、歯を食いしばって顔を上げた。鞄の中からハンカチを取り出し、それで涙を拭うと、
「森本さんも人が悪い。婚約してること黙ってるなんて。」
まだこぼれる涙に目頭をハンカチで覆った。青年は気の毒そうに千尋をみつめると、
「森本さん、きっと、思い出してほしかったんスよ、自分のことだけは、説明しないでも。無理かもしれないって、思っても。そういうもんスよ。」
千尋は自分のハンカチをみつめた。青年の前で泣いてしまったことを取り繕おうと、急いで話題を探し、ハンカチの濡れた跡を眺めながら、
「何で、あたし女優になろうとしたの?」
「いや、なろうとしたんじゃなくて、いきがかりですよ。朝早く劇場の近くの公園のベンチで寝てる所を劇団員がみつけて、危ないからって連れて帰ったんです。でも、その時はもう記憶がなくって、警察に電話しようかって言ったんですけど、池野さん、すごくいやがったんですよ。それで、一応知り合いの医者の所には連れていったんですけど、脳にもどこにも異常がないってんで、持ちもので帰るトコはわかってたけど、帰っても何も覚えてないんじゃしょうがないって、劇場の楽屋の隅でしばらく寝起きしてたら、ちょっと舞台に出てみないかってことになって…」
青年の言葉に、昨日の未散の「事故の後に記憶喪失になっちゃったのね」という言葉がよみがえった。では、未散の推測は正しかったのだ。千尋が記憶喪失になったのは、一昨日だけではなかった。約一年前、結婚式を数日後にひかえた日と、二度なのだ。
「じゃあ、元々結婚するつもりで、劇団もやめちゃったの?」
「んー、そこらへんの事情は…」そこで青年は「アッ!」と思い出したように跳ね上がった。「今日劇団行くんでしょ? じゃあ、坂城さんに直接きいた方がいいですよ。オレ、」青年は苦笑いして頭をかいた。「こういうの説明するの苦手で…」
青年は、劇団の人間が練習に集まるのは、二時過ぎだろうと説明した。だから、それまで時間をつぶした方がいいとも言った。場所は、この部屋からバス通りに出て、バスで十五分くらい行った所、青年はいつもバイクで通うのだという。千尋が結婚のために、森本と一緒に住むからと部屋を現在のマンションに移したので、青年は、ちょうど部屋を探していたことでもあるし、劇場からも買い物からも便がいいということで、森本のくれた情報で大家に直談判して、この部屋に移り住んだのだった。
「トーセーって、あだ名?」
と最後に千尋が尋ねると、青年はエヘラと笑って、
「本名なんスよ。数字の十に色の青いって書いて、『とうせい』って読むんです。坂本十青、覚えてくださいね。」
青年はやはり、照れくさそうに頭を下げた。
千尋は一度山の手線経由で東京駅まで出ると、京葉線にのりかえた。駅からさらにバスにのり、病院につくと、もうお昼前で、先生に会って劇団に引き返したら、たぶん二時頃になるのではないかと予測した。病院は住宅街のはずれにある総合病院で、昨日行った大学病院よりはずっと規模が小さかった。玄関を入るとすぐ受付だったが、受付も受付の待ち合い室も明かりが消えて人影さえない。
千尋は仕方なく外来の受付に行ってみた。しかしカーテンが閉まっている。それでも、幾ら日曜でも中に誰かいるだろうと、「すいませーん」と声をかけてみた。しかし、誰も返事がない。もう一度、「すいませーん」と声をかけてみる。しばらく待ったが音沙汰がないので、緊急患者が来たらどうするんだろうなどと思いながら、待ち合い室の脇にあるエレベーターの方に歩いて行った。エレベーターの横に案内が出ていて、内科の詰所が二階と表示されている。それで、エレベーターを呼んでみたが、なかなか来る気配もなく、仕方なく隣にある非常階段を歩くことにした。しかし上がって行くと、二階フロアの防火扉が扉ごと閉まっている。千尋はことごとく拒絶されているような気持ちを抱きながら、扉についている小さなドアのノブを回して見た。
開く。
開けて見ると、中は意外と明るかった。目の前に突然ガラス張りになった詰め所があって、開けた途端に中にいる看護婦と目が合った。看護婦の数を一、二、三、四と数えた。医師らしい姿はない。千尋はオズオズと、詰め所の受付窓口に行き、「あの、すいません」と小さな声でさっき目があったメガネの看護婦に声をかけた。
「はい。」
「あの、吉本先生に、お会いしたいですけど。」
「吉本先生?」
看護婦は事務的な、愛想も何もない口調で尋ねてくる。
「はい。」
「吉本先生ねえ、吉本先生、今日はいらっしゃいませんよ。」
「はあ。」
それで千尋は困ってしまった。いない、となると、ここまではるばる何をしに来たのだろうと思った。ああ、やはり電話で確認してから来るのだった。しかし、電話してのっけから拒絶されることなどを考えると、恐ろしくてそんな勇気も出せなかった。手紙で当時の理由を説明してからとも考えたが、それはそれで大仰な気がするし、何度か浮かんでは消えした事前連絡の電話も結局は実行されず、ここまで来てしまったのだった。
「あの」と声をだして、二十代も後半ぐらいだろうか、看護婦のあまりの視線の冷たさに、ふいと言葉を引っ込めてしまった。何だか、先生は今どこにお住まいですかと自宅を聞くのもためらわれて、そうだ、前の住所から現在の自宅をたどれるんではないだろうかと思いついた途端、もしたどれなかったら、またここに来ようと思い、出勤日を尋ねようと思いついて、
「失礼ですが、吉本先生にどういうご用件でしょう?」
と相手から尋ね返された。
「あ、いえ、あの、昔、前の病院でお世話になって、ちょっとお会いしたく、…て。あの、また出直します。先生のお出でになる日をお教えいただけないでしょうか。」
その言葉に、看護婦の空気が緩んだように感じた。千尋をみつめた後、
「少し、お待ちくださいね。今、見て参りますから。」
そう言って後ろの棚の方に歩いて行くと、ファイルを持って帰って来た。
「一応先生、月水土が外来担当でいらっしゃいますけど、後はお宅がいらっしゃるのがいつかわかりませんが…」
「あ、それなら、月曜か水曜に来ます。また、そういうことで…」
「そうですか? 何か、お伝えしておきましょうか?」
「あ、いえ、結構です。たいした用事も…」といいかけてから、千尋は口を押さえて考えた。「あの、じゃあ、池野が来たとお伝えいただけますか。池野千尋が来ましたと…」
「イケノ、イケノチヒロさんですね。ちょっとお待ちください。」
看護婦はそう言って、机にメモを取りに行った。それから千尋の前に戻って来ると、
「えーと、お池の池でよろしいかしら」
と看護婦が言うので、
「あ、よろしければ、それお借りして、メモを書いていってよろしいですか?」
そう言うと、看護婦は、「ああ、どうぞ。」とメモを渡してくれた。
千尋はしばらく考えあぐねてから、
〃一度お会いしたくて訪ねて参りましたが、いらっしゃいませんでしたので、またおうかがいします。池野千尋〃
携帯の番号も書こうかと思ったが、きっとかけては来ないだろうと、やめにした。千尋は借りた鉛筆とメモを看護婦に返すと、「じゃあよろしくお願いします。」と頭を下げた。
エレベーターを待つ時間、後ろの詰め所にいる人との気まずさがたまらなくて、千尋はまた非常階段のドアを開けた。薄暗い階段をすぐ降り切ると、逃げるように玄関へと急いだ。それから、ふと入り口の自動ドアに書かれた外来の受付時間に目を止めた。ガラスドアごしの反対の字は、午前は九時から十二時、午後は五時から八時となっている。土曜の診療は午前中、面会時間は午後二時から。
千尋はその時間をじっとみつめてから、ふとした瞬間にガーッと開いた入り口の自動ドアにビクリとして、後ろに下がった。中の薄暗さとは裏腹、外のまぶしさと、熱気がやってくる。ドアの向こうは、六月には不似合いなほど、暑くまぶしい日差しが照り返している。暑いだけならまだいい。蒸すのだ、今年は。
千尋は自動ドアの中からぼんやり外を眺め、やがて自動ドアが閉まろうとするのに、呆然とそれをみつめた。それから中に引き返すと、自動販売機を探して、冷たいカップベンダーのジュースを買った。照明の落ちた待ち合い室のベンチに腰を下ろすと、氷のたっぷり入ったそれを口に含んだ。
ヒヤリとした清涼感がのどをさす。
さきほど坂本十青にもらった「いちご牛乳」のまったりとした感覚が、口の中に残っていたのが、それでわかった。以前住んでいた部屋、劇団があるという場所を思い返し、帰りの道程を考えて、うんざりする。昨日疲れた上に、今朝早起きして、おまけにこの暑さだから、妙に体がだるい。劇団はまた、どんな人達がいるのだろう。そう考えると、実は何もかも知っているはずなのに、新しいものが次々と沸き出てくるような、この緊張感が余計、疲れを助長しているのではないかと思いついた。
これから劇団に、と、そう帰りの道程を考えて、そういえば、劇団に行くと、あの、森本武臣もやって来るのだと思い出して、ギクリとした。
「変な感じ。」
千尋はひとりごちると、カップの端を歯でそっと噛んだ。
「変な感じ。」
繰り返した。