第六章

 部屋を出る前に、坂本十青にきいたとおりの駅で降り、駅前の掲示を頼りに劇場へと足を運んだが、十青の「すぐ」は三分はかかった。思ったよりも小さな劇場で、どこかの市民文化会館というほどの規模らしい。個人経営の劇場だけあって趣味をこらし、木立に囲まれた外観はまだ新しく、美しかった。
 暑い日差しの中を抜けて来た千尋は、劇場のロビーへと扉を開けたが、期待に反して中のクーラーはあまりきいていなかった。ぐるりと弓なりに広いロビーは、全面ガラス張りになっていて明るく、外側には噴水の池がめぐらされている。ロビーの中は暑苦しい感じで池の光が乱反射していた。ロビーの内側はすぐ客席になっているらしい。中央の掲示板にはいろいろと演目予定が掲示されている。「絶対零度」だけでなく、色々な講演やイベントにも活用されているらしく、市民会館なみの機能を果たしているらしかった。この劇場が抱えている劇団の講演は、来月初旬からで、演目は「憂情の森」第三回講演となっている。三回もやるのだからなかなか好評なのだろうと、漠然と千尋は思った。
 収容数は五百幾らと書かれた客席の扉を、千尋は恐る恐る押した。劇場の中は舞台にのみ照明が灯っていて、客席は足元の非常ランプ以外真っ暗だった。その客席には劇団員やスタッフらしき人が十人たらず、まばらにいるのが見てとれる。暗い中坂本十青の姿を探したが、どうやらその人達の中にいる気配はない。舞台の上では女性が一人中央に立ち、斜め前に男性を配す格好でセリフをしゃべっている。
「…それが、どれほど長い時間だったか、あなたには想像がつきますか。十年という月日が、女一人にとって、どれほど長い時間だったのか。
 子供の時のたわいない約束を信じて、信じて、守ろうとして、たわいない約束なのに。あの人はもう忘れたかしら。あの人はもう、忘れたかしら? そう、そうね、だから、帰って来ないのかもしれない、そんなふうに、物思いを繰り返し、繰り返し…。」
千尋は目の前の女性のセリフを聞きながら、自分の中から同時にセリフがスラスラと出て来るのを感じた。今女性はうつむいている。憂いている。そう、女性が頭を上げると、静かに目を閉じ、
「不安な夜、眠れなくて、家を抜け出し、この約束の森に何度も来ました。」
照明が落ち、スポットが女を抜く。女がうつむく。静かに虫の音。
「獣におびえながら、草の蔭をおそれながら、木立の中、なぐさめは、降るような月明かり、虫の声――。
 もしかしたら今日は、そこにあなたが、帰っているのではないかしら。もしかしたら、そこにあなたが…」
女性が顔を上げて呼吸した瞬間だった。
「違うって言ってんだろお!」
客席から男が怒声を上げて立ち上がった。それでその場の緊張がどっと解けたようになって、止まっていたスタッフや、幕裏にいた人達が動きだした。
「お前そこで何で構えんだあ! 次怒鳴るんじゃないかってまるわかりなんだよ、馬鹿!何っ回言わせんだよ、ええ? 時間ないんだよ、わかってんのかあ? おい!」
中央の女性は申し訳なさそうに立っている。千尋とそう年がかわるようには見えない。千尋は舞台に向かって歩きだした。
「どうして、何で今頃になって…! あたしが、どんな気持ちでいたと思ってるの? それがどうして今日になって…」
ブツブツと千尋はセリフを話しながら舞台へと近づいて行った。彼女の頭の中に、次の男のセリフがよみがえる。
 〃約束だからだよ。約束だったじゃないか。十年目にこの森で、二人で結婚式をしようって〃
「たったそれだけの約束で、十年も待てると思ってるの?」
「千尋お!」
さっき舞台に怒鳴った男が千尋の姿をみつけて、嬉しそうに声を発した。近寄ってくると思ったよりも大きな男だった。身長は多分森本と変わらないが、体つきがガッシリしているので、大きく見えるのかもれしない。ボサボサのゆるい天然パーマの中の顔が、ニコニコと笑っている。
「お前また馬鹿になったんだって? トーセーにきいたぞおー。あーはっはっはあ!」
そう笑いながら、千尋の頭をぐしゃぐしゃとかきまわした。なでたつもりなのかもしれない。
「よーし、三十分休憩ー! 松田あ、お前さっきの所練習してろよ?」
「はい。」と舞台の上の女性が返事をする。安堵のため息が、会場から漏れた。舞台の上の女性は肩を落として、奥に下がっていく。
「さあ、来い、さあ、来い。よく来たよく来た。ひっさしぶりだなあ。ハハハハハッ」
そう言いながら、男は千尋の背になれなれしく手を回して劇場の外へと案内する。不安にかられながら声も出ず、千尋はその無頼然とした男に、背中を押されて歩み進んだ。

 劇場の横に劇場より二回りほど小さくした建物があった。事務所、稽古場などがあるらしい。千尋はその事務所に連れていかれ、雑然とした部屋の中央にある机の、事務用パイプ椅子にすわらせられた。四畳半ぐらいだろう、スケジュールの書き込めるホワイトボード、ロッカー、整理棚、事務用机、小さな冷蔵庫、そして中央のこの机と、それだけでもう部屋はいっぱいだった。窓は申し訳程度に小さいのが一つある。キョロキョロと部屋を見回していると、男は向かい合わせて腰をかけた。多分話の流れから察するに、この人が「坂城春樹」なのだろう。男は椅子に腰かけると、ポロシャツの胸ポケットからタバコを取り出し一本口にくわえ、机の上に置いてあったライターで火をつけた。
「お前さあ、また記憶喪失なんだって?」
煙を吐き出すと、男はこう言った。早い話展開と妙な迫力で、千尋は小さくなりながら、
「あ、はい、そう、らしいです。」
そう言った。
 男はその返事に、タバコをくわえかけたのを止め、机スレスレまで顔を下げて、小さくうつむいた千尋の顔をのぞき込んだ。それからニーと笑って人差し指で自分を指すと、
「俺のこと覚えてるか?」
そう尋ねた。千尋がどこかおびえながら首を振ると、
「ふーん、仕方ねえなあ。」
そう言いながら、またタバコを口にくわえ、立ち上がった。冷蔵庫まで行き、ドアを開けて中のペットボトルを取り出すと、上に伏せてあったグラスを二つつかんで机に戻って来た。目の前にグラスを並べると、コーラのペットボトルから出て来たのは、黄色い液体だった。
 「ん。」とだけ言って男は千尋の前に黄色い液体の入ったグラスを置いた。千尋はじぃっとその液体を見つめたが、何だろうと考えていると、「どうした?」とすわりながら男が声をかける。疑問に思ったまま口をつけないのもどうかと思ったので、
「これ何ですか?」
と千尋は尋ねた。
「これ? これって俺の定番じゃん。何だ、そんなことも覚えてないのか?」
「は、はい、すいません。」
「これか、これはだな、」
男はグラスを持ってチラリと千尋をみつめると、
「何だと思う?」
ニッコリ笑った。
「え、え、何でしょう?」
「飲んでみな。」
「え?」
「毒なんざ入っちゃいねえよ。」
毒が入るのどうのの問題なんだろうかと口をつけた。よく冷えた冷たい爽やかな感触だ。
 千尋はグラスを置いた。
「に、日本茶。」
「おうよ。」
「あの、」千尋は目の前の、片足を土足のまま椅子の上に上げ、机に肘をついてだらしない格好でタバコを吸っているその男を、上目使いでみつめながら、
「坂城春樹さん、ですよね。」
言うと、男はクーッと吹き出して、ゲホゲホ言わせた。
「え、違うんですか?」
「い、いや、当たってるけどさ、何だよお前、へーんな感じだなあー。」
「は、すいませ」
「どうでもいいけどさあ、初対面の時もそうだったけど、そのおびえるよえな態度やめてくれる? 傷ついちゃうんだよね、俺。」
そう言いながら、またタバコを口にくわえた。千尋は「はあ、すいません」ともまた言えず、黙ってうつむいた。
 坂城が黙ってタバコを吸っているので、千尋はまた上目使いに盗み見て、彼を観察した。いつ櫛をいれたのかわからないボサボサ頭だが、ヒゲはなぜか奇麗に剃られていた。切れ長の二重の目、高い通った鼻筋、薄い唇…上目使いに見ていた千尋は背を正してマシマジと彼の顔をみつめた。坂城は黙ってタバコを吸っていたが、おもむろに、
「お前さあ、今度の金曜、結婚式じゃん。」
そう言った。しかし千尋はまだ坂城の顔をみつめて返事をしない。
「どうすんの? 記憶喪失になっちまって…」
言っても千尋が返事をしないので、あちらを向いて話していた坂城は千尋に気づいて、呆然と自分をみつめる彼女をみつけた。それから、彼女の目の前で手を振ってみた。
「おう、おい、千尋、どうした? おい。」
「何て」
「へ?」
「何て美しい顔なのかしら。」
「か、顔?」
千尋が顔をみつめて感心したようにそう言うので、坂城は申し訳程度に両手で顔を触ってから、頬に手を当てニッコリ笑い、
「まあ、そうかしら。」
そう言った。
 おどけたつもりが千尋はまだ感心しているので、坂城は所在なげに手をウロウロさせると、また千尋が、
「こんな顔にせつない目で見られたら、どんな女もイチコロでしょうね。」
そう言うと、坂城はムッとして、
「そんなことないさ。」
「え、でも、そんなことあるでしょう?」
「顔だけで無意味に惚れる女はいるけどよ。だいたい、せつない目に、汚い顔も奇麗な顔もあるかよ。」
「え、そうなんですか?」
「何でこんな話を…。そうだよ。女をおとすのも、男をおとすのも、タイミングとだなあ、体から発する気持ちの問題なんだよ。」
「え、気持ち?」
「そう、まあオーラって言っても構わないけど。何かあるだろう、ホラ、声に出さなくても、態度で示さなくても、伝わるものが。それを相手に浴びせんだ。言葉なんかいらねえんだ。それが強ければ強いほどだなあ。」
「はあ。」
坂城は人差し指を立て、右手を振りかざして力説していたが、千尋が気のない返事をするので、坂城はその指を所在なげに泳がせると、
「あー、んー、お前、昔、っていっても二十年ほども前のことだけど、ある女が人形に男の名前をつけてだなあ、甲斐甲斐しく世話しながら旅してたって話、知ってっか?」
「え?」
「男が教師で、女はなんだったかなあ、教え子の親か、同僚か何かで、とりあえず男には妻があったし、女にも夫があった。男は女のことを好きなんだが、女はなかなか落ちなかった。」
「え、だってそれ、不倫でしょう?」
「そう、いや、そうなんだけど、こう、簡単に不倫できるタイプの女でもなかったんだな、これが。まあ、随分昔のことだし。で、男も駄目だと思うと余計気持ちが募るしよ、で、男って馬鹿だからさあ、一回落ちるとどこまでもはまってくんだよな。でもさ、女は、ホラ、掛け金みたいなんがあるじゃん、ここに。」
そう言いながら、坂城は自分の胸を指さした。
「掛け金…ですか」
「そうそう。それさえ外れれば、地獄の底まで落ちてくのによ、駄目だと思うと、ストップがかけられちゃうんだよね、女は。どれだけの恋でもさ。わかる?」
「うーん、何となく…」
坂城は千尋の言葉にガクリと一度肩を落とした。めげずに続けると、
「でまあ、女は男になかなかなびかなかった。ところがだ、ある日、ザーっと雨が降っていたんだな。」
「ふんふん。」
「女は流しで洗い物をしてた。夕飯の準備か何かしてたんだろう。それで目の前に窓があって、その窓は開いていた。窓の外は道路、流しの位置からはその道が見える。そして外は雨が降っていた。そこに、ハッと気がつくと、雨の降る中傘もささず、濡れながら、男が、こう、じーっと」
「え、見てたんですか、女の人を。」
「そうそう。」
「それで落ちたんですか?」
「そうそう。」
「はー…」
千尋は感心してため息をついた。
「それで、その後二人どうなったんです?」
「男が捨てたんだよ。」
「ゲーッ!」
「ゲーッてお前」
「自分が落としておいて。」
「さあ、一時の火遊びにのぼせただけだったか、何か怖くなったかの、どっちかだろ?」
「そんなあ。」
「誰だって平和な日常の方がいいに決まってんじゃん。高校教師が後ろ指さされて生きていけるかよ。」
「で、その女の人どうなったんです?」
「時代が時代だし、男が不倫して許されても、女が不倫したら許されないに決まってんだろ。家庭崩壊して、最後、おかしくなっちまったのかな、人形に、男の名前つけて、かいがいしく世話してるのを、お遍路か何かの旅先で一緒になった人がみかけて、最後、死んだんだよ。」
「じ、自殺ですか?」
「いや、どうだったかなあ。俺も随分前にきいた話だから。」
「え、それ、坂城さんの作ったお話じゃないんですか?」
「きいた話って言ったろ?」坂城は吸っていたタバコを目の前の灰皿に押し付けた。「皆最初はなあ、どいつもこいつも、ただの男で、ただの女なんだよ。」
机の上においてあったタバコのケースから、また新しいのを取り出した。
「俺たちは夢を売る商売だけど、現実じゃあ、やっぱり、ただのヤツさ。ほとんどの奴がただの奴なのに、ある瞬間」
火をつけて吸い込む。
「掛け金が外れた時ですか。」
「まあ、そうだな。運命のイタズラみたいに、そんなお話みたいな、夢の女になったり、夢の男になったりするんだ。」
「夢の女?」
「ドラマチックってことかな。」
「へええ。」
「まあ、なるかどうかは素質の問題もあるだろうけど――だからだなあ、やっと話が戻ってきた。人間の心を動かすのは、最後は言葉とか、何をしたとか、まあ、それも大事だけど、そういう問題じゃねえんだ。舞台だってそうなんだ。どんなにいい脚本で、どんなにいい演出だって、やる奴にどんなに技術があっても、最後は役者が、魂を表現できて観客を同調させれなきゃ、意味がねえんだ。ということで、千尋。」
「はい。」
「お前今度の舞台出てくんねえか。」
「へ? あたし?」
 坂城は目の前の机にバンッと手を置いて頭を下げた。
「頼む! 結婚式も記憶喪失もわかってる。でもさっきお前見てたら、せりふ覚えてたじゃねえか。後十日で完璧出来るって言ったら、お前しかいないんだ。な、助けると思って。」
「え、でもあたし、舞台なんてたったことなんか…」
「ああ、まどろっこしい!」
坂城は机に肘をついて頭をガリガリとかいた。
「お前はここ来てからだなあ、三カ月しかいない間に、主役はるまでになっちまったんだよ。ところがだ、ここのオーナーの契約してるエージェンスから文句が出て、お前降ろさなけりゃならなくなった。わかるか?」
「はあ。」
「俺の大学の後輩で、元はここの劇団に所属してた奴がいるんだが、そいつの方が名前が売れてる、この劇団の未来のために、そいつ使えって言われて。」
「それが、あの、さっきの人なんですか?」
「さっきの奴も代役なんだ。元々は、榎木碧って奴なんだが、みどりの奴、あいつ」
「何ですか?」
「今月の頭に妊娠がわかって降りたんだ。」
「できちゃったんですか?」
「つくったんだよ!」
坂城は机をたたいた。
「しかも目立たないのをいいことに、堕ろせなくなるまで黙ってたんだ。『あたしアイドル女優じゃないのよ、子供生むのだって経験よ』、おーいだったらもっと早く言えってんだよなー。」
坂城は机に伏せた頭を抱えた。
「あいつ元々うちの所属だったのが、育てるために外に出したのがまずかったかなー。名が売れて増長しちまったのか…。」
「え、それで、ご結婚は?」
「うん、だから今月頭に。」
「ご主人は、どういう人で…」
「うちの劇団の、お前覚えてないよなあ、主役が結婚するはずだった相手役の奴なんだけど。」
「へー」
「な、頼む!」
坂城は目の前でパンと手を合わせた。
 手を合わせられても、千尋にとっては寝耳に水、しかも記憶がない時に、記憶のない時のことを頼まれても、うんとは言えない。彼女にとっては、それどころではないのである。
「そんなこと言われても…」
「そうだよな。いまさらだよな、そうだよ、俺もわかってるんだ。」
坂城はうつむいたままウジウジ、ブツブツと言っている。
「いえ、そういう問題じゃなくて…」
「お前がはまり役だと思ってたんだ。それなのに、柴野が余計なこと言うから…」
「あの、本当にそういう問題じゃ…」
「本当に?」
坂城はパッと顔を上げた。
「ええ、ですから、私は記憶を取り戻さないことには、どうにもお返事しようがないんです。」
千尋の返事に坂城は大きくため息をついた。そしてうつむいて、頭を下げる格好で、
「でも、頼んだことだし、もし近いうち記憶戻ったら、ギリギリまで待ってるから、返事くれる?」
「あ、はい。」
「うん。」
坂城はそこで時計を見た。
「あの、あたしここでちょっと生活してたってきいたんですけど。」
「ああ、うん。そこの、稽古場の裏に小さな休憩室あるんだけど、そこで。二週間ぐらいか、部屋みつけてすぐ引っ越したけど。」
「前はどこに住んでたか、ご存じないですか?」
「知ってるけど、劇団の奴がお前のかわりに見に行ったが、もうほとんど荷物も残ってなくて、そんな所でとても生活してるようには見えなかったって言ってたぜ。それで、管理会社にきいたら何か水商売してたらしいってきいたんだけど、親戚も手掛かりもないし、とにかくもう何も覚えてないってんで、仕方なくここに住んでたんだよ。俺たちだって一応調べたんだぜ。でも、オミさんが…」
「オミさん?」
「あんたの婚約者だよ。森本武臣。ここ来てから今までの事情は、オミさんが一番知ってるはずだし――、何できかなかったんだ?」
「え、自分で思いだした方がいいからって言われて…」
「ふ、…ん?」
坂城は首を傾げた。
「そういえばオミさん、遅いなあ。」
「え、そうですか?」
「来るはずなんだろ? あー、来たら呼んでやるし、その辺見てきたら? 鍵なんかかかってねえし。何か思い出すかもしれんだろ。そのつもりで来たんだろ?」
「あ、はい、そうです。」
「時間あったら稽古も見てけばいいし。」
「うん、あ、じゃあ。」
そう言って千尋は立ち上がった。
「あ、おい。」坂城は呼び止めた。「せっかく入れた冷やし日本茶、飲んでけ。」
「あ、はい。」
千尋は慌てて机まで戻ると、まだ冷たいそれを飲み干した。清涼で口辺りのいい味だった。そのグラスを冷蔵庫の脇にある小さな簡易流しで軽くゆすぐと、冷蔵庫の上に伏せた。「じゃあ」と言って頭を下げ、部屋を出ようとしたが、見ると、坂城は「おう」と言ったまま何か考えるそぶりで、千尋を見ようともせず、じっとそこを動かない。
 千尋は苦笑いしながら首を傾げる。そして、雑然とものをつまれた廊下を、見当もつかず歩き出した。
 
 坂城がホールに戻ると、スタッフの一人が、「オミさん来てますよ。」と声をかけた。「どこに?」と尋ねると、客席後部にある調整室を指さした。調整室の中は明かりが落とされていて、中の様子は坂城の位置からは見えなかった。
 坂城は客席にとどまらず、ロビーに出て調整室へと向かった。
 ロビーにある調整室の扉を開けると、薄暗く、暗闇でも機械が操作できるように計器の所々が青く光っていた。照明、音響、ビデオなどを調節する部屋で、向かって左手が舞台正面になっていて、客席側の壁に窓のような感じでガラスがはってある。中には奥に坂本十青が椅子に腰掛け、手前に森本が立っていた。坂城が扉を開けると、「よっ!」と森本が笑顔で手を上げたので、坂城は歩みより、ガバッと両手を広げ森本に抱き着いた。
「会いたかったあ!」
意味もなく突然抱き着かれたので、森本は理由がわからず驚いて、
「おう、おい、どうした、春樹、オイ!」
と坂城を引き離そうとする。坂城が顔を上げると、森本との顔は至近距離になる。森本は逃げようとするが、坂城がガッチリ抱きとめているので離れない。
「オミさん、オミさん、会いたかったあ、アタシ寂しかったのよぉ。」
「こら、ハルキ、やめろ、突然オカマになるな。」
顔が近すぎるので森本は力づく、両腕で引きはがそうと抵抗する。
「オミさん、オミさん、ちょっと会わない間に、アタシのコト、嫌いになっちゃったのねぇえ。」
坂城はしつこい。
「こら、おい、ち、ひろはどこ行ったんだ。千尋は。来てんだろ?」
「オミさんったら、オミさんったら、いっつも千尋ちゃんの話ばっかり。あの子なら、その辺まわってるわよ!」
「春樹ぃー。」
「今日はオミさんが来るっていうから、ちゃあんとヒゲもそったのにぃーい。あー…」
と言って坂城は抱き着いたまま泣き出すので、森本は呆れ返ってため息をついた。
「お前なんで千尋のことほったらかしてんだ?」
坂城は突然、抱き着いたまま耳元でつぶやいた。
「ほったらかす?」
「記憶のない部分だよ、何も説明してないじゃんか。医者にかかってある程度取り戻してたんだろ?」
言いながら坂城は森本から離れた。
「あいつちょっと馬鹿になってない?」
「馬鹿?」
森本が問い返すと、
「馬鹿っていうかさ、退行したってのかな?」
「治療では十八歳のとこまで来て止まってるよ。」
「それで馬鹿になってんのかな。」
「馬鹿になってんのか? その辺の詳しい原理はわかんないよ。オレ医者じゃないし。」
「また、記憶喪失になったんでしょ?」
二人の会話に坂本十青が横から口を挟んだ。
「ああ、うん。」森本は少し口ごもらせた。それからため息をつくと、 「また、元の木阿弥だ。」
「お前何したの?」
坂城がたずねる。
「いや、何もしない。」
「何もしないじゃないだろう? 何かしたからああなったんじゃないのか?」
「いや、本当に何もしないよ。車で走ってたら、急に外見てた千尋が錯乱して卒倒したんだ。」
「何だそりゃ。」
「森本さん作ってるんじゃないですか?」
十青が横からニヤニヤしながら口を挟んだ。
  「馬鹿言うなよ。俺が何で何を作るんだよ。」
「オイオイ、それどこでだって? その錯乱した場所。」
二人の会話の流れを遮るように、坂城が口を開いた。
「いや、どこでだったかなあ、その日のルートをもう一回思い出せば、だいたいの位置はわかるはずだけど…」
「ふーん…」
坂城はガラスの向こうの舞台を眺めながら、気のない返事をした。計器の中央にあるデジタルの時計をみつめて、
「おい、トーセー、マイク入れてくれ。」
そう言った。坂城は調整室内の台に設置されたマイクに腰をかがめて口を近づけると、
「おう、休憩終わりだ。パーティーのディックが入場してくる場面からもう一回。」
ホールに坂城の声が響き渡った。そろそろ時間だったので集合していた役者たちが、坂城の声でワラワラと配置に動き始めた。坂城はかがめた身を起こし、腕を組んでハアーと深いため息をつくと、
「オレ間違えたかなあ…」
とつぶやいた。それに横目で見ながら森本が、
「何が?」
「千尋だよ。柴野の言うこときいてさ。」
舞台の下からスタッフが坂城に向かって手を振っている。坂城はもう一度身をかがめると、
「オーケー、じゃあ哲のセリフから。ヨーイ、スタート!」
途端にホールの端から、「エレナ!」という大きな声が響いた。役者が一人客席通路をかけて舞台に近づいていく。
 柴野――柴野有里、タレントエージェンシー所属のご意見番だが、実質はこの劇団のオーナーの従姉妹だった。年は坂城より一つ下で今年二十七になる。大学時代の後輩でもあり、坂城をこの劇団に引き抜いてきたのも彼女だった。会社の仕事もあって、劇団にはたまにしか顔を出さないが、その、たまの口がなかなか大きい。現在の「憂情の森」第一回講演の時、エージェンシー所属の榎木碧が主役についていたのを、千尋に変更しようかと坂城が考えていた時も、反対したのは彼女だった。
「みろよ、たいしたもんだろう? たった二カ月ちょっとで脇役一から主役までこなすようになったんだぜ。」 あの時も、確かこの三人に柴野を加えて、調整室から舞台を見ていたのだった。坂城だけが立って舞台をみつめていた。試験的に碧にかわって千尋に主役のエレナをやらせていたのだが、実際、碧よりも坂城の理想に適っていたのである。
 坂城の言葉をききながら、柴野は椅子に腰掛け、足を組み腕を組んで彼を見上げ、いつものように、事務的な口調で、
「だめよ。あの役はもう碧に決まってるじゃない。」
「いや、でもさあ。」
坂城は言いながら柴野に振り返った。
「でもさあ、じゃないわよ。あなた園山さんからここ受け継いで第一作目じゃない。そりゃあ、坂城春樹っていう若手は、ツウのツウ、業界の中じゃ、そろそろ注目されてきたか知らないわよ? でも、今榎木碧のネームバリューがなくって、この舞台に客が入ると思ってるの?」
坂城は柴野の言葉に苦笑いを浮かべた。
「絶対零度の名前で入るんじゃないの?」
「でも、それは園山さんが作り上げた功績じゃないの。常連だって、マスコミだって、園山さんの名前で来てたんじゃないの? そりゃ、あなただってご活躍だったけれど、一人では、まだ未知数じゃない。いいじゃないの、碧で。碧だって、若手の中じゃ実力あるんだから。」
「そぉりゃ、わかってるよ。ありゃ中学からやってた粗削りのを、俺が大学の時みつけてしこんだんだから。でもなあ、キャスティングってのはなあ、時によって、上手い下手じゃどうにもならねえって時もあるんだよ。」
「だからって、あんなどこの馬の骨ともわからない、ズブの素人使う気? 坂城さん、よっく考えてよ。一体、園山さんが何で若干二十六のあなたをこの劇団の後に据えたと思ってんの?」
坂城は正面の舞台から目を背けた。というより、柴野を視界から外したと言った方が正確かもしれない。
「お父上に会社の後継いでくれって泣いて頼まれて、劇団続けられなくなったからだろ?」
「それは園山さんが続けられなくなった事情でしょ? あたしはあなたのこと言ってるの。期待が大きいから、才能を早く世に出したいから、劇団を大きくしてくれるだろうって、だからあなたを抜擢したんじゃないの。それでもまだ、若くて心配だからって、園山さん、うちの社長に頼んであたしをオブザーバーに入れたんでしょ。そしたら、案の定。――両方に報告するあたしの身にもなってよ。」
「でも、名前や経験だけで、何でも決めていいってもんじゃないだろ? 見ろよ、あいつ、ちゃんとこなしてんじゃないか。あいつだって、この舞台でたら」
「サカシロさーん。別にあの子だったら、別に今度じゃなくっても、いつだって使えるじゃない。もー。」
柴野は我慢できないというように首を横に振った。坂城はそんな柴野を見ながら、「柴野。」坂城の笑った顔がひきつっている。
「お前俺のプライド傷つけてんのよ。」
坂城のその言葉に、
「わかってるわよ。」
柴野はにっこりと微笑んだ。思わず、坂城は舌打ちした。
「碧だって、いい役者じゃなーい。あなたが育てただけあるわよー。何が不満だって言うのー?」
ふん、と坂城が鼻で笑うと、
「へっ、まあ、あいつが姫川亜弓だとするとだな、」
無理に笑った唇がゆがんでいる。
「千尋は北島マヤってとこかな。」
柴野はふふんと笑った。
「ホント、貧乏くさいトコまでそっくり。」
それで思わず、顔をおおって二人から目をそむけたのは、隣にいた森本だったのだ。