おさななじみの千尋が、通っている英会話教室の夏季講習にあまりに誘うので、千尋がその塾に行っている間遊び相手もいないことだし、結局伸子は二日目から参加することにした。
 二人の家から東に田んぼの中の道路を、十五分ほど歩いた所の家にある離れで開かれたその教室は、子供ばかりに英会話を教える教室だった。本当なら、英語なんて中学にあがらないと触れることなんてないと思っていた伸子は、触れたことのない言葉に触れる、それだけでドキドキだったが、違う学年の生徒と混じって勉強するという初めての経験にもドキドキだった。
 それでも、来年になれば結局中学にあがって英語を勉強しなければいけない、ということで、両親も、特に勧めもしなかったが反対もせず、「ちいちゃんがいれば大丈夫」とばかりに夏季講習に参加することになった。
 伸子はその日、千尋と二人で教室まで歩いて行った。いくら都心よりは涼しいと言っても、日中焼けたアスファルトの上を歩いていくので、十分暑い。歩くことよりも暑さに息切れして、うんざりした頃、二人は教室についた。
 千尋が、
「伸ちゃん、こっち。」
というので、教室の離れの方には入らず、本宅の方につれていかれた。伸子が緊張して千尋に従うと、千尋は「せんせー」と言いながらガラガラと引き戸を開ける。家は、この辺によくある純日本風の家で、家の中央にある玄関を入ると、すぐに広い石畳と板の間がある。クーラーがきいているわけではないが、家の奥から涼やかな空気が漏れて、伸子の上気した肌をわずかに冷やした。
 少しホッとする。
 先生が、部屋の奥から「はーい」と言いながら出てきた。先生は、日本人だった。ちょっと若いおばちゃんだった。優しそうな奇麗な人だ。おばちゃん、――もとい、先生は、伸子の顔をみつけると、にっこり笑った。
 千尋が横から、
「ほら、昨日言ってた河原伸子さん。」
「そう、こんにちは。はじめまして、河原さん。よろしくね。」
先生の発音は標準語できれいだった。伸子はちょっと怖気づいて後ろに引き下がろうとする。と、横から千尋が手を握った。
「こ、こんにちは。よろしくお願いします。」
伸子がそういうと先生はにっこり笑う。
 先生は手に持っていた書類を伸子に渡すと、
「これ、教室に入って書いててくれるかな?」
そう言って、またにっこり笑った。
「千尋ちゃん、わかるわね、河原さんに説明してあげてくれる?」
「うん、わかった。じゃ、伸ちゃん、行こ。」
そう言って、千尋は握った手を引っ張り、伸子を外につれ出した。中から先生が、
「あ、クーラーつけてないから、つけなさいね。」
と声をかける。千尋が、「はーい」と返事をした。
 千尋が勢いつけて教室のドアを開けると、中は電気もついていず、薄暗かった。誰もまだ来ていない。千尋が入り口で靴を脱いで下駄箱に並べるのに習って、伸子も靴を脱いだ。千尋が「バカ暑いじゃん、やってらんなーい」などと言いながら部屋の電気をつけ、クーラーのスイッチまで走って行く。部屋の中の、蒸し暑い空気のカタマリに、伸子は一瞬息がつまるかと思った。
「これ書くの?」
と伸子が千尋に書類を示しながら尋ねると、千尋はホワイトボードの横にあるクーラーのスイッチのところから、
「そ。名前とー、住所とー、電話とー、あとアンケートか何か」
書類を見ると、確かにそんな書類だった。教室は長机がホワイトボードに向かって縦に二列、机を椅子が向いあわせはさんだ状態で、並べてある。
「どこにすわったらいいん?」
「どこでもいいよ。早いもの勝ちやもん」
言うので、伸子は目の前にある椅子をひいて、書類を書き始めた。その向いの席に千尋が腰を下し、伸子が書くのをのぞきこんだ。
 名前、住所を書いてアンケートを書き始めたところで、誰かが教室のドアを開けた。
「へロー!」
へろお?
伸子が顔を上げると、千尋が「へロー」と返している。
「誰? 新しい人?」
と、入ってきた彼女が訪ねると、千尋が「うん」と答えた。伸子の頭の中でヘロー、へロー、という言葉が回り始めると、教室の外が急にうるさくなって、教室の中にヘロー、ヘロー、という言葉が次々に響く。
「伸ちゃん早書かんと、授業始まるで。」
横から千尋が言うので時計を見ると、一時少し前だった。伸子はヘローショックに襲われながら焦っていた。書類は後半分、アンケートを書き終えるだけだ。
 最後の方を書いている時に、先生が入ってきた。
「河原さん、書き終わった?」
尋ねるので、顔をあげると千尋が、
「ううん、あとちょっと。ほら、のぶちゃん、急いで。」
 急いで書き終えて、待っていた先生に渡した。教室の中を見まわすと、知らない顔がいっぱいなので、なんだか伸子はモジモジする。
 先生が出席をとります、と言って千尋の名前が最初に呼ばれた。千尋は何か答えたが、ききとれない。先生が順番に名前を読み上げていくと、みんな何かわからない言葉で答えている。狐につままれたような気持ちで伸子がすわっていると、最後になって伸子の名前が呼ばれた。なんと答えていいかわからず、みんなから注目されたのも手伝って、パニックにおちいっていると、目の前の千尋が小さな声で、「アイム、ヒア」と繰り返しているのに気がついた。
「え? それどういう意味?」
伸子が尋ねると千尋は、
「『私はここにいます』。」
それで伸子は、どもりながら先生の顔をみつめ、叫んだ。
「アー、アイム、ヒア!」
 
 ふと、伸子は目が覚めた。
 覚めたが、部屋の中が薄暗いので、まだ夜が明けていないのだということを寝ぼけた頭で理解した。真っ暗ではないから、部屋の壁にかけてある時計がぼんやり見える。
 五時少し前。
 子供会のラジオ体操で、毎日六時に起きなければいけない。いつも起こされなければ起きられないのに、今日に限って一時間も早く目が覚めてしまった。もう少し寝よう、と思った。
 瞬間、伸子の左手首内側に、激しい痛みが走った。
 くるぶしから少し下、内側のところから始まって、何か鋭い刃物の痛みが、ためらいもなく真一文字に走って行く。
 伸子は思わず、声をあげずに叫んだ。
 その痛みで完全に目が覚めてしまうと、不可解な痛みの原因を探るため、起きあがり、左手首の内側をみつめた。
 ない。
 痛みを感じるべき原因の傷がない。
 そんなばかな、と、目を凝らす。しかし薄暗がりの中でも、伸子の手首は何かがかすった跡さえなく、美しいままだった。
 伸子はベットの上に起きあがった姿勢で、痛みの位置をみつめ、それからベットの周囲を見渡した。
 そうなのだ。
 彼女の手首を傷つけるものは、この周囲には何もないのだ。
 伸子はわけがわからず手首の内側をおさえた。しかし、激しい痛みは未だ去らない。
 痛みに、涙がこぼれそうだ。
 時計を見上げると、未だ五時をまわらない。
 小鳥のさえずりがチュンチュンと外から響いてきて、閉じられたカーテンごしから朝の清涼な空気と、外の明かりばかりが漏れていた。
 
 伸子の母親が朝、台所と食堂が一緒になった部屋に起きていくと、少なからず驚いた。珍しく起こす前から娘の伸子と、それから、毎日五時には起きているが、起きていても顔など出さない姑とが、二人並んで座っているのだ。
「おはよう」
母親が声をかけると、二人とも何でもないように「おはよう」と返してくる。伸子の方は、カップスープか何かで、姑の方はお茶を飲んでいるらしい。会話もなく、静かだったので、二人がいるのに余計驚かされたのであったが、母親は、「まあ」と言ったあと、どちらに声をかけたものかと一瞬迷い、
「伸ちゃん、あんたどしたん。起こす前から起きてくるなんて。」
と伸子の方に声をかけた。
「別に、早目覚めたし。」
そう言ってまた、カップに口をつけた。
 母親が時計を見ると、六時五分すぎだった。そういえば補習で夏休みも学校に行く、長男の耕一を起こさなければ、と思って、食堂を出ようと思った時、ふいに伸子の左手首の白い布に気がついた。
「伸子。」
母親に声をかけられ、伸子は顔を上げた。
「伸子その腕どないしたんな。」
母親の顔がみるみるくもって行くので伸子は少し怖気づいた。
「どうもせえへん。痛いからおばあちゃんに巻いてもろてん。」
「痛いて、ケガでもしたんか。」
「ううん、してへん。」
「でもその布。」
「だから、あたしが巻いてやりましたんや。」
母親の口調がきつくなるので、横から姑が口を挟んだ。
「え?」
ろうかから足音が聞えて、ドアノブを触ったかと思うと、父親が騒々しく姿を見せた。
「うぅうあぁあ、おはようさん。」
大きなあくびをしながら入ってくる。父親は部屋に入ってすぐ伸子をみつけると、
「お、伸子や。今日はちゃんと起きてきたんか」
と大きな声で話し掛けた。
 伸子がむっつりしているので、そこで父親はすぐ部屋の中の空気がおかしいのに気がついた。母親は変な顔をしているし、姑、つまり彼の母親は珍しく食卓にすわって、すわっているのに我関せずな様子でいる。
「何や、何かあったんか。」
 そこで父親のマイペースに黙っていた母親が、
「ちょっと伸子、その腕見してみなさい。」
「なんともあれへん言うのんに。」
「おう、おい、伸子、その腕どしたんや。」
言うだけの母親よりも早く、父親が伸子に近づき左腕を取り上げた。
「あたしが今朝部屋ぃおったら、伸子が腕痛い言うて入ってきたんで、布巻いてやっただけや。何もケガしとれへんよってに、布しか巻いとらん。」
祖母がそういうので、父親は伸子と祖母を交互に見て、それから伸子に「ホンマか?」と問うた。
「うん。」と伸子が何でもないような様子で答えるので、「したら見してみ」
「ええよ、でもホンマに何もないねんで。寝てたら急にいとなってん。」
話す伸子の言葉をききながら、父親は布を解いていく。さらしの細い布だから、間違いなく祖母に巻いてもらったものに違いない。それでも部屋の空気は緊張していた。
 布が解けた。と、その露になった表面を見て、ホッと息をついた。
「なあんや、お前、人騒がせなやっちゃなー。」
母親もホッとした様子を見せたが、伸子と祖母だけはなんともない様子で、
「騒いでんのは、お父さんとお母さんだけや。」
そう言いきった。
「そやかて、あんた、そんなところにそんな布巻いてたら誰かて…」
母親がそう言ったところで、玄関の方から、
「のーぶーちゃーん、いーこーうー」
と千尋の声が聞えてきた。
「あ、行かな。ちぃちゃんや。」
伸子は立ち上がった。立ち上がりながら、伸子ははずされた左手首にまた布を巻こうとする。それを見た母親は、
「ちょっと待ちなさい、伸子。なんともないんやったら、そんなん巻いて行きなさんな。」
「え、でも、痛いんやもん。」
「そんでもケガもしてえへんのに、そんなん巻かんでよろし。人が見たら、何やと思うやないの。」
それで、もう一度、玄関から、「のーぶーちゃーん」という声が聞えてくる。千尋の声に父親が部屋を出て、玄関の方へと歩いて行った。
 伸子はむっつりとした顔で母親の顔をうかがって、それからその白い布をテーブルの上に置くと、左手首を押さえたまま、「いってきまーす」と玄関の方へかけだした。
 伸子が出て行ってしばらくすると、父親が戻ってくる。
「何や、ちぃちゃんは、日に日にきれいになりよるな。」
などと千尋の噂話をして入ってきた。
「あれの母親はべっぴんさんやったからな。やっぱり血ぃは争えんわ。」
「あなた!」
父親の言葉に、母親は思わずたしなめた。
「安藤さんとこでは奈美さんのことは秘密にしてはって、千尋ちゃんも今のお母さんがホンマのお母さんやと思てはるのんに、そんな軽々…」
「でも、べっぴんさんはべっぴんさんや、言うてるのやし、別にええやないか。」
「あきしません。そんなん言うてたら、どこでいつうっかり言うてしまうかわかれへんやないの。」
母親は伸子のことで気が高ぶっているのか、口調がきつい。父親は肩をすくめながら椅子にすわった。
「しかし、伸子は何であんなとこ痛とがっとんやろか。おばあちゃん、なんぞきいたか?」
祖母は一呼吸置いた。
「朝目ぇが覚めたら、なんや、ここに、」言いながら、祖母は左手首の内側をこちらに見せ、「こう、」といいながら、線をひいてみせた。「痛みが走ったんやと。」
それを見ながら父親は、「ふうん」と口を曲げ、
「何ぞ、またきたんかいな?」
母親は父親の言葉にヒステリックになって、
「また、最近治まってたと思ったのに! そんなこと言わんといてください。」
「言わんといてくださいて言われても、確かに手の方はホンマになんともなかったし。それより、医者にでも見せてみるか?」
母親はそれで口をつぐんだ。高ぶった感情の吐き口がみつからなくて、むすっとした顔で立ったまま考えこんでいると、祖母が、「おかあちゃん」と母親に声をかけた。
「耕一起こさんでよろしいんか。」
我に返って時計を見ると、時間は六時半を回ろうとしていた。
 
 縁側の向こう側は、まぶしい程の日向だった。部屋の中はクーラーがよくきいているけれど、もう日中の暑さを思わせるような日差しの色を見せていた。庭先をみつめる少年の目に、ゆらゆらと陽炎が揺れているのが映る。
 少年の景色は、少年自身はほとんど動かないまま次々に変えられていった。あの、家を一歩でれば住宅だらけの街――少年の窓からは空と向いのビルぐらいしか見えなかったあの場所から、少年は突然この村に連れてこられた。――いや、運ばれたのだ。
 そこが父方の親戚の家だということは、以前一度つれてこられたので、彼は知っている。彼はそこに、「環境が変わるといいかもしれない」「少し距離を置いて」という理由で、連れてこられたのだ。
 でも、そんなことは、どうでもよかった。
 今の彼にとって、世間の何ものも、どうでもよかった。
 ただ、この場所には、彼を見つめる何ものもない。
 ただ、世界を、じっとみつめていればいい――ただ生きて、全てを放棄していればいいのだ。
 それでも、遠い過去――実はとても近い過去かもしれないが、彼の中に記憶が過る。あの庭先の陽炎の中に、ぼんやりと浮かんでは、彼に話し掛けるのだ。
「――くん? ――くん? 人の話きいてる?」
 彼女はよく、彼に話しかけた。彼とは二年生から同じクラスなのだが、今年は前期、二人そろって学級委員になった。
「――先生がね、職員室に―――て、来てほしいんやて。なんか、話があるって。」
彼女が話しかけているのに、所々言葉を逃してしまう。集中しようとするのに、世界がとても遠い。
「え?」と彼は聞き返した。すると彼女は、少し怒った様子で、
「もう、真面目にきいてー、最近の吉井くん、全然らしぃないで。」
「あ、うん、職員室な。うん、わかってる。今かな?」
「え、うん、今。」
言われて、彼は時計を見た。
「じゃあ、急がな。行ってくるわ。」
彼は立ちあがった。昼休みなのだ。教室を出ようとすると、友人の誰かが彼に声をかける。何か言ったが、聞き取れず、彼は笑顔だけ向けて手を振った。
 教室を出て行く。
 ふと、彼は意識が遠くなった。
 廊下が陽炎のように揺れている。
 これから、廊下を歩いて、ショクインシツに行って、行、かなければ、センセイに――センセ――
 規則正しく歩を進めながら、彼の前の景色がゆっくりと消えていく。
 何かが静かに壊れていた。しかし、それはもう彼が自分の力で修正できる代物でも、なかった――、音もなく、確実に――。
 残酷だった。世界も彼も。全てが、残酷だった。
 何もかもが、あまりにも彼の世界と離れていた。
 どうも家にいると母親に何か言われそうなので、伸子は誕生地まで来てしまった。都心部に比べれば涼しいと言っても、やはりこの季節は暑い。しかも誕生地は地面の大半が石で固められてしまっているので、この季節に、もの思うには適切な場所ではないかもしれない。
 伸子は誕生地の裏側に、東屋風の屋根がついたベンチと椅子の、その椅子に腰をかけて、机の上にダランとうつぶせになった。何をするでもない。蝉の声もうるさいし、風が吹くたび木々が騒ぐ。
 暑い。
 伸子はログ仕立ての机にうつぶせたまま、手首の内側をみつめた。それから首を動かして頭の位置をかえると、別の方向から手首をみつめた。
「原因不明」
ボソリとつぶやいた。
「うーん、痛いなあ」
痛みはずいぶん失せたが、全く消えたわけではなかった。
 母親が神経質になった理由は二つある。
 こんなところに白い布など巻いていたら、手首を切って自殺をはかったのではないかと疑ったこと、そしてもう一つは、布をはずしたら傷などなく――つまり、ここ最近口にしなかった「見えないもの」のことに関係するようなことを言ってしまった、ということにあった。
 「見えないもの」は正確に言うと、ここ最近口にしなくなったのではない。見えなかったはずのものが見える、あれが、最近本当に見えなくなってしまったのだ。ごくたまに、影が過るように、伸子の視界の端に浮かんでは、消えていくだけなのだ。きっと、連中がいなくなってしまったのではない。伸子自身が、そういうものが見えなくなったと考えたほうが正解なのだ。
 でも考えてみれば、今朝のようなことは今まで体験したことはなかった。全く原因不明の激しい痛みが、彼女の体を襲うことなどなかったのである。だから今回のことに関しては、伸子自身が不可解なのだ。まして、周りに説明することなど出きるはずもない。にもかかわらず、痛みは確実で、未だその手首にはっきりと残っている。
 伸子は目を閉じた。
 そういえば今日はコレのせいで、起きるのがずいぶん早く、何だか寝不足で目が痛む。キュッと強く閉じて、彼女はまた薄く目を開いた。机のデザインは木でも、実際はセメント仕立てだから、つけた頬から、どこまでも冷たい感触があがってきて、涼しいを通り越して、本当に冷たい。机の上に視線を落とすと、誰もあまり使わないのか、砂がわずかと、それからアリが一匹歩いているのを発見した。アリは体の大きいアリで、チョコチョコと動きまわっていたが、机の端まで行くと見えなくなった。
 と、どこか遠くから声がきこえてくる。声は細く、長く延びて、近づくにしたがって伸子のことを呼んでいることがわかった。
 千尋だ。
 伸子が机にうつぶせたままでいると、誕生地の石碑と郷土資料館の間を、伸子のいる裏手の東屋に、足音が近づいてくる。千尋の姿が視界に入って、
「あー、おったー!」
と声が聞えたかと思うと、伸子の方に走りより、目の前の机にかけのぼって、
「伸、あんたどしたん。十時から一緒に宿題しよ、言うてたやん。」
そう言いながら、伸子の頭に手を置いて、彼女の顔をのぞきこんだ。伸子はふと、千尋との約束を、すっかり忘れていたことを思い出した。
「何や、おばちゃんと喧嘩したん?」
千尋は向い合わせの机に腰を下し、伸子と同じ格好にベタっと机に顔をつけ、伸子の顔を見た。
「ううん、してへんよ。」
「してへんのに、何でこんなとこおるん。」
伸子は千尋の問いに答えを考えたが、面倒くさくなって机から頭を上げると、
「今朝な」と口を開いた。
「ふん」と答える千尋の方は、机にうつぶせたまま、目だけ伸子を見上げている。
「ここのところ」と言って伸子が左手首の内側を千尋の方に示し、「こうまっすぐに」と手首の上を右手人指し指で真横にまっすぐすべらせた。それで千尋は頭を起こし、正しい姿勢にすわりなおした。
「痛みが走ってん。」
千尋が体を乗り出して顔をしかめた。
「だからな」
「何があったん。」
「何もないよ。寝てたら痛みが来たんやんか。」
「何にもしてないのに?」
「ふん」
「ふーん」
千尋は考えるように、東屋の外に視線を泳がせた。
「それでおばちゃんと喧嘩したんか?」
「ううん、あんまり痛いからおばあちゃんに布巻いてもろてん」
「ふーん、それでおばちゃん、怒ったん?」
「怒ったわけちゃうけど…、うーん、そうやなあ、怒ったんかなあ。」
「何でそんなことぐらいで怒るん?」
「さあ…」
伸子は小さくため息をついた。千尋は伸子のそういうことは昔から知っているし、それはそれで伸子の「見える」ということは認めていたのだ。だから、彼女には、伸子の母親の反応は「そんなことぐらいで」としかとれない。母親の思うであろうことを細かく説明すれば千尋も理解するのであろうが、そこまで彼女に説明するのも面倒くさいし、一生懸命説明しても、彼女は頭でわかって実感はできず、やはり「ふーん」で終わらせてしまうだろうと予測した。それで、伸子は細かい説明を省いた。
「あ…」
と千尋は思い出したように小さく声を上げた。でも、千尋はつぶやいたまま言葉を継がず、正面を直視したまま黙っている。
「何?」
千尋はその姿勢のまま、机につっぷしたままの伸子に視線を落とし、「ううん」と首を振った。それかたまた視線を戻して、何も言わないので、もしかしたらその視線の先に何かあるのかと振り向いて千尋の視線の先を探してみる。しかし、木々の枝葉の先に、いつもの村の景色が見えるだけで、それらしい変化はない。伸子は千尋の顔に視線を戻した。そうしてもう一度、
「何?」
と尋ねた。
 すると、千尋は机の表面に視線を落とす。
「ううん、だって、伸子のそれって、今朝の話やろ?」
「うん。朝の五時前」
「じゃあ、違うわ。関係ないやろ。」
「何が?」
「え、ううん。」
「ううん、違うやん。言いかけてやめんといてよ、気持ち悪い。」
伸子にそう言われて、千尋は言うか言うまいか迷った挙句、言いにくそうに、「あんな」と言葉を発した。
「夏休みに入ってすぐに、うちの親戚の家――ああ、門屋さんとこやねんけど、そこに、男の子が来てん。」
「男の子? 泊りに来たん?」
「ううん、療養って。」
「リョウヨウって何?」
「療養って言うたら、病気とか治すことやんか。」
「へえ、その子病気なん?」
「ン…」
といって、千尋はまた言いよどんだ。
「何や、言いかけたんやったら、最後まで言いや。」
それで千尋はまた姿勢を正した。
「うん、その子っていうか、中三やから、あたしらより年上なんやけど」
「ふんふん、それで?」
「伸子の言うたところに、傷あるねんて。」
千尋の言葉に、伸子はわからず背筋が寒くなった。それから、「え?」と問い返し、
「その人、その傷を、治しにきたん?」
千尋は首を横に振った。それから、伸子の耳に顔を近づけ、小さな声で、
「ココロの病気。」
伸子の胸の中に、サクリ、音を立てて何かがささった。
「ココロの病気?」
体を起こして千尋と伸子は向いあった。千尋はすぐに、伸子の顔色で彼女の心を読み取った。それで、そっと、ゆっくりと、言葉を選びながら、
「原因はまだわかれへんねんけど、でもな、もうそれ、十日も前の話やねんで。」
「え? 何が? ココロの病気が?」
「ううん、その、傷…。」
伸子は考えるように、誕生地の石碑を取り囲む楠の木の緑に視線を移した。それから得心行かぬ時に彼女がよくする、ぼんやりとした目で、
「でも、あたしが痛かったのは、今朝やわ。」
「うん、だから、関係あるかどうかわかれへんけどって。」
伸子は答えなかった。答えず、楠の木から視線を戻して、机の上にヘニャヘニャと体をつけた。頬に当たる表面の石の感触がなおさら冷たい。
「わかれへんわ。」
伸子は机の上にペットリ体をつけたまま続けた。
「なんか、ようわかれへん。」
伸子は目を閉じた。目を閉じると、世界は真っ暗だけど、蝉の鳴き声がヒステリックにうるさい。その音がただうるさく耳に残るので、伸子は眉間にしわを寄せた。それからゆっくり体を起こすと、
「それってどんな人なん。見たん?」
「え?」
「その男の人。」
「うーん、きれいな人。」
「え? きれい?」
「うん。」
「男の人やねんろ?」
「うん。」
「どれぐらいきれいなん? ちぃちゃんぐらい奇麗?」
伸子の質問が具体的に過ぎるので、千尋は少し困って、
「そんなんわかれへんわ。」
「その人って会えるん?」
「う、ん。会おう思たら会えるんちゃう? おばちゃんまた来てね、言うてたし。」
「おばちゃんって誰のおばちゃん?」
「その、男の人の。」
伸子は考えるように黙った。目の前の楠の木が風で揺れて東屋の中に涼しい風が吹き抜けた。
「でも、全然しゃべれへんねん。」千尋は言葉を続けた。「お人形さんみたいに、ずっとじっとしてるねん。」
千尋の言葉をききながら、机に両肘をついて、伸子は両手で両目をこすった。
「宿題どうする?」
千尋がつけたすように言った。すると、伸子はこすっていた両手をパッと離し、
「ごめん、忘れてたわ。」
「ほうら、どうせそんなことやと思たわ。」
「そや、早帰ってやろ。」
伸子が立ちあがった。それに続いて千尋も立ちあがると、二人そろって駆け出した。千尋が「何で走るん?」などと言いながら、やはり走っている。
 資料館の建物の脇を抜けると、夏の日差しが体に振りかかった。
「う、わあ、あっついなあ。」
思わず伸子は声に出した。影をもたないアスファルトが、もう焼け始めている。
「のぶー?」
先に走る千尋が声をかける。
「なにー?」
「あたし一回家帰ってくるわ。」
「なんで?」
伸子が問うと、走りながら、千尋が振りかえる。彼女の方が伸子より背が高いので、逆光のせいもあって、表情がよく見えない。
「トイレ行きたいから!」
しゃべりながら走るうちに、伸子と千尋の家の別れ道に来てしまった。伸子が立ち止まり、そこで足踏みしている千尋の姿をみつめた。
「なんで、うちで行けばいいやん。行って帰ってきたら、十分近くかかるやろ?」
「えー、だって、今日アレやもん。」
「アレって何?」
「アレはアレやん。耕ちゃん昼で帰ってくるんやろ?」
「お兄ちゃん昼で帰ってくるのと、何の関係あるん?」
「ええやん、そんなこと。とにかく、うち帰ってくるし。」
千尋の声はだんだんヒステリックになって行く。こういう時の千尋は逆らったら怖いので、伸子は深い詮索はやめた。
「でも、ホンマにうちの使ってええねんで。」
千尋は少し考えた末に、自分の家の方向に足を進めながら、
「いややわ、だって、」言いながら、ますます遠ざかっていく。「おばちゃんに、バイタやと思われるわ。」
それで千尋は「バイバイ!」と大きな声で言って、駆け出した。伸子は伸子で、度肝を抜かれてそこに立ち尽くし、走る千尋の後姿を見つめ続けた。それから小さく、
「バイタって何?」
つぶやいた。
 
 夏の日差しが暑く、伸子は日差しから逃れるように、家に向かって走り出した。
 伸子がうちに帰ると、家に中から「伸子かー?」という母親の声がきこえる。伸子は急いでいたので、そのまま階段までかけて行った。階段を駆け上がっているところで、母親が台所のドアを開けて出てきた。
「伸子、さっき、ちぃちゃんが宿題する約束したって、来てたんやけどな。」
「うん、誕生地で会うたわ。」
「ああ、さよか。それで、千尋ちゃんは?」
「一回家帰って来るって。」
「ふん、じゃあ、来やったら、お昼うちで食べて行き、言うたって。」
「わかった。」
「あんた何急いでるんな。」
伸子が話しながら階段の途中で足踏みしているので、母親はその様子をとがめたのだった。
「なんかちぃが難しこと言うてん。だから、調べよ思て、」
「さよか、やったら早行き。」
言われて途端に伸子はかけあがった。自分の部屋に入り、本だなの扉を開けて、小学国語辞典を開ける。さっき千尋が言った「バイタ」という言葉をひいて見た。
「ない。」
「歯痛」ならあった。でもそれならわかる。トイレに行くと歯痛だと思われるというのも意味が通らない。
 伸子は立ち上がり、さっきかけあがった階段を駆け下り、下の居間へと走った。それから、居間の本棚にある「国語辞典」をひっぱりだすと、「バイタ」をひいてみた。
「あった。」
伸子は「ばい-た」の項を読んだ。
「売女(名)①不特定の男性と性行為をして金を得る女性。売春婦。『―にも劣る』②不貞な女性を卑しめののしっていう語。『この-め。』」
伸子は首を傾げた。まず、「性行為」の意味がわからない。それでサ行の項に移って、「性行為」をひいてみた。
 ない。
 仕方がないので、他の語を探してみた。「性行」というのがあるけれども違うのだろうか。
「性行(名)その人の日常に見られるひととなりやふるまい。性質と行動。身持ち。」
を、手で挟んでおいた「売女」の項と比べてみたが、どうもピンと来ない。仕方がないので、「身持ち」の語をひいてみた。
「身持ち(名)①倫理的に考えての、日ごろの行いや態度。品行。『―が悪い』②胎内に子供ができること。妊娠すること。『―になる』『―女』」
 それでまた、「売女」と照らし合わせてみた。「身持ち」の①の意味ではよくわからないから、②の方だろうか。すると、不特定は、たくさんの、の意味だから、「たくさんの男性と子供ができて、金を得る」ということだろうかと思ったが、それもどうも千尋にピンとこない。
 考えたあげく、やっぱり①の意味かしら、と今度は「倫理的」の意味をひいてみた。
「倫理(名)(『倫』はなかまの意)①社会生活において守るべき道理や法則。人倫の道。道徳。『―感の欠如』『―にもとる行為』『企業の―』②(「倫理学」の略)道徳のもととなる理論を哲学的・科学的に研究する学問。『―の講義を受ける』」
 ②の意味がいけるのではないだろうかと、「売女」の項と比べてみる。
 「たくさんの男性と倫理学をして金を得る女性」
 それから千尋の姿を思い浮かべて、いける!と思ったのだが、それがうちのトイレに行くこととどう関係あるのだろう、と思って、伸子はわけがわからなくなった。
 国語辞典をかかえながら、しばらく見るでもなく文字の羅列を眺めていたが、突然、
「うあああああああ!」
と吠えて、伸子はその場にゴロンと寝転がった。
「ちぃは難しい。」
目を閉じる。
 板の間の居間から、外が見える。よしずを立てかけていないので、照り返しがまともだ。
 ふと、また手首に軽い痛みが走った。伸子は顔をしかめると、右手でそこを押さえた。痛みと共に暑さでジリジリと汗がにじむ。
 こんなに暑かったら、死にたくなるのもわかるような気がするよ、と遠い目で日差しの中をみつめる。そして、まだ見ぬ少年の姿を心に思い浮かべた。 

 少年――吉井司は、畳の部屋に置かれた籐椅子の上に腰かけていた。畳の部屋の先には板張りの縁側があって、ガラス窓が閉じられている。窓の向こうには庭があって、司の眼には緑がたくさん映じていた。
 外の日差しに映えながら、緑は眩しいほどだった。
 クーラーをかけていても、縁側に近づけばムンと暑い。この離れ家に来た時に、主人が外によしずをかけましょうか、と申し出てくれたのだが、よしずをかけようとした途端に司が顔をゆがめて大きく首を振ったので、そのままにしておいたのだ。
 司がここで大きく意志を示したのはその一度きりだった。
 そんな司を、その日母親は、洋服の整理をしながら後ろからみつめていたが、やはりあれ以降彼が何か意志を示す気配もなく、また、微動だにもしなかった。近づけば呼吸をしていることがわかったが、その少し荒い呼吸音以外、彼からは何ら、意志らしいものは発せられなかった。
 この家自体は、母親の実母の実家なのだ。つまり、母親にとっては伯父の家になるのだが、伯父は数年前に他界して、後はその従兄にあたる人が継いでいた。彼女が今度のことを実母に相談したところ、母親はどこか静かなところを、といって、この家の離れ家の主が、海外赴任で留守だから、と、かけあって貸してもらったのだった。
 元々若い夫婦が住んでいただけあって、水回りも全て整っているし、部屋もニ室あって使いやすかった。都会で借りればなかなかの値段になるだろうが、大家の従兄は無償で貸してくれるという。
 困った時はお互いさまだから、と。使う人がいないと、家は悪くなるばかりだし、遠慮はいらない、とも言った。
 司の状況は、この離れ家に来たからと言って、何か好転するわけでもなかった。腕の傷はさほど深くはなかった。退院しても、すぐ元の家には戻らず、直接こちらに入った。入院してそのまま治療をすることを進められたが、何よりも誰よりも、彼女自身が、あの都会の中の病院を、この暑い中通って行って、そして淡白な病室で息子と対面することに、堪えられなかったのだ。医師はせめてもう少し病院に留まることを進めたが、そのままでは今度は彼女の方が参ってしまいそうだった。決断まで、三日。その三日は、彼女には恐ろしく長く感じられたのだ。
 とにかく逃げたかった。
 一週間でもいい、二週間でもいい、全てのしがらみから、彼女は逃げたかったのだ。
 そう説明すると、医師はしばらく考えて、病院から車で一時間圏内の場所、また、三日ごとの来診を提示して、母親の要求を飲んだ。
 息子はきっと、何かが辛かったのだ。
 そして、彼女自身も彼が苦手だった。
 いつから苦手だったのか、そのはじめさえ思い出せない。
 でも彼は、とてもいい子だった。何の問題もない、いや、なさ過ぎるほどに、いい子だった。
 なぜこんなに、何の問題もなく成長して行くのだろう、そう不思議にさえ思えた。
 きっと、姑が育てたことが、二人の間をワンクッション置いて、苦手な彼と、その母親の間のバランスを上手くとっていたのだと、そう思っていた。息子は姑によくなついたし、姑も昔の人らしく律儀に彼を育てていた。
 その律儀さの賜物のような彼が、どうしてこうなってしまったのか。
 彼女は後ろ姿の息子をみつめ、それから後ろの押し入れの上にある壁掛け時計をみつめた。時計は十二時少しまえ、そろそろお昼の準備をした方がいいかもしれない。
 彼女は立ち上がった。
 目の前の椅子にすわる息子に歩みより、声をかける。
「つかさ、つかさ、お母さん、お昼の準備してくるから、ちょっと待っててね。」
こう声をかけても、息子は何の反応も示さない。でも、こう声をかけなければ、彼の呼吸は荒くなり、苦しそうにもがきだす。
 母親は、その息子から離れながら、採光のよいその部屋から、台所へと下がった。
 もし、と彼女は思う。
 もし、忍が生きていたら、あの子もこうなったのだろうか。
 いや、それより、忍が生きていたら、この子はもっと違っていたかもしれない。
 今日は忍の命日なのだ。供養はもう、今月の頭にすませてしまったけれど――
 忍――は、司の兄だった。生後たった五ヶ月で逝ってしまった、とても可愛い男の子だった。突然の発熱、突然の、高熱――恐ろしい勢いで、運命は彼女から息子を奪い去ってしまった。過失――病気? それとも――
 あの長い悪夢は、今でも彼女の心の中から去らない。時折夢のように現れては、時として忘れようとする彼女を追い、迫ってくる。
 もう、十七回忌も済ませてしまった。もう、十六年にもなるのに――
 ―――
 胸の奥深くから響いてくる呼吸の音を、彼はきいていた。
 眼の向こう側に、緑が揺れている。眩しい太陽の元、立って、こちらを見ている、あの少女は、誰だ。
 何か言っている。
 少年に何か言っている。
 声が、きこえない――
 
 伸子は板の間に横たわりながら、ふと、遠くから、赤ん坊の笑い声が聞えるのを感じた。
 目を開ける。と、よく見える。
 すると手を伸ばすと届きそうな距離に、小さな赤ん坊が寝ているのが見えた。でもどんなに手を伸ばしても、その体に届きそうにない。
 赤ん坊は元気にバタバタと両手足を動かし、とても機嫌がよさそうだった。
 触ろうとする、のに、届かないそのもどかしさに、伸子が苛立ちはじめたころ、赤ん坊を抱こうとする大人の手が見えて、「かわいいね」という声でハッと伸子は我に返った。
 起き上がる。しかし、リビングの板の間には、赤ん坊も誰もいない。
 夢――?
 そう思った時、またハッと我に返って、居間の壁にかけてある時計を大急ぎで仰いだ。時計の針は、
「じぃ、じぃゅういちじにじゅうさんぷん?」
伸子は床の上を見た。国語辞典が転がっている。なぜかあのまま寝てしまったのだ。
 伸子は立ちあがった。それから台所の方に走りながら、
「おぅ、お、かあさーん。」
と叫んだ。
 すると台所の扉を開ける寸前で、中からドアが開いて、
「なんな?」
と母親の顔がのぞいた。
「ち、ちいは?」
「ええ? あ、ちぃちゃんなあ、そうやなあ、そういえば遅いなあ。」
「うう、うあああああ!」
と伸子は言って足をバタバタさせている。それから、「あ、あ」と続けるので、
「コレ、伸子、落ちついて日本語話しなさい。」
と母親がたしなめた。それでも伸子は、
「ああああああ!」
と叫ぶので、母親が呆れて「伸子!」ともう一度たしなめると、伸子は大きな目を見開き、口をあけたまま硬直した。それから、ハッと自分に帰ると、
「あ…、日本脱出計画!」
と叫んだ。それから玄関の方に向かって駆け出した。
「日本脱出計画が…!」
そのまま外に飛び出して行きそうな勢いだったので、母親は追いかけて、玄関の上がり口で伸子の腕を捕まえた。
「なんな、伸子、わかるようにちゃんと順序よう話しなさい!」
腕をつかまれても、伸子は行こうと暴れている。
「あ、だから、ちぃの日本脱出計画やんか。」
「だからそのちぃちゃんの日本脱出計画がなんなんって、」
「ちぃが、そろばんも習字も、水泳もお花もやめて、先で日本を脱出するために始めた英会話が」
「そういえば、今日あったな。」
「その英会話が一時からで、ただでさえ時間ないのに、三十分も遅刻してるなんて、何かあったんや!」
「ええ…?」
「だって、そやろ? 十一前にはうちについてなあかんの違うん!」
「ああ、でも、あちらさんで何かあったんかもしれへんし…。」
「そしたら電話してくる子やもん、ちぃは! 途中で用事思い出しても、うち来てからちゃんと言うて帰るやんか。」
「ああ、そやったかいなあ。」
「あたし見てくるわ!」
伸子は力の弱まった母親の手を振り切って走りだした。
「伸子、ちょっと待ちよし。何やったら、千尋ちゃんの家ぃ、電話入れたらどうや?」
「そんなんしてられへん!」
伸子は慌てて靴をはき、玄関を出て行った。
 伸子の慌しい様子に呆気に取られた母親は、しばらく呆然と口を開け、目をしばたたかせた。それから、ふう、と大きなため息をつくと、
「あの子の場合」と独り言をついた。「真面目に取りあう方がまちごうとるのかもしれへん。」
 それから、廊下を歩きながら、壁越しに祖母に、
「おかあさん、昼はそうめんでよろしいやろか。」
と尋ねた。そうすると中から、何でもあんじょうしたってよ、という声が帰ってきたので、母親は肩をたたきながら台所へと帰って行った。
 
 家を飛び出して走って行くと、さっき千尋と別れた分かれ道の少し先で、人が歩いているのが見える。スピードを上げて近づいて行くと、それは千尋と、中年のおじさんだった。伸子はそのままバタバタと足音を立てて近づき、「ちぃちゃん!」と叫んで、その腕をつかまえた。その反動で、千尋の体がぐにゃりと曲がる。バタン!と大きな足音を立てて伸子の動きが止まると、荒い息をつきながら彼女は体勢を整えようとした。
 先に体を起こした千尋が、伸子の腕をひっぱり上げる。ひっぱりあげられるときに、低い男の声が「おいおい、危ないよ、お嬢ちゃん」と響いてきた。
 逆光の中で声の主を見上げると、それは中年の、中肉中背の男で、白いポロシャツを着て、ネズミ色のズボンをはいている、どこにでもいそうな中年男だった。伸子は、アスファルトが焼けて熱い上にバタバタと走ってきたので、ひりひりと痛む靴の底を我慢しながら、その顔を見極めようとした。それは、見かけない顔だった。
「このおっちゃん、誰?」
まだ荒い息で千尋にこう尋ねると、千尋は、伸子の顔をみつめて、
「知らん人。」
こう言った。すると男は慌てて、
「いや、おじさんはね、ただの観光客や。このお嬢ちゃんに楠正成の産湯の井戸跡を教えてもらおうと思ってね。」
「え、産湯の…?」
そう伸子は繰り返して、千尋の顔を見た。
「うん、最初は神社行く道教えてほしいて言われてんけど、そう言えば産湯の跡が場所わからんかって見てないわって言うから、それで今から連れてったるとこやってん。」
伸子は千尋の顔色を見て、それから男の顔を見比べた。千尋の顔はムッツリとしたままだった。男の方は、どこにでもいる中年のおっちゃんに見える。言うことも筋が通っているし、でも、何かが、おかしいような気がする。
「伸ちゃんはなんで走ってきたん?」
「ちぃちゃんが、時間になっても来ぃひんから、心配して出てきたんや。」
男は二人の会話を聞きながら、ズボンのポケットからハンカチを出して、顔の汗をぬぐいはじめた。
「そう、お嬢ちゃんたち、約束してたんや。そりゃ、悪いことしたなあ。」
その言葉に二人は揃って男の顔を見上げた。すると男は続けて、
「もしお急ぎやなかったら、産湯の井戸跡だけでも案内してくれはれへんやろか。おじさんさっきも通ってきたんやけど、標識は立ってるもんの、どこにあるんかようわかれへんでな。」
伸子と千尋は顔を見合わせた。
 確かに産湯の井戸跡は、一段下がっているために、とてもわかりにくい。まさかそんなところにあるとは思わない位置にあるために、標識があっても分かりにくく、二人も昔からよく観光客に案内を頼まれる。
 一人だったら、このおじさんは断るか、誰か呼びにいくところであったが、二人だった。だから二人は目と目でお互い納得して、「うん、いいよ。」と、二人そろって歩きだした。伸子が、こっち、と、おじさんを振り返って進行方向を指さすと、男は汗をふきふき、「う、うん。」と言ってついて来始めた。
 伸子は歩きながら、ものの五分もあれば終わることだ、と思った。井戸の場所を教えたら、その場で二人引き返してくればいいのだ。
 伸子は先頭を切ってぐんぐん歩いた。左手に道の駅を見て、通りすぎ、やがて右手に田のあぜの中を通って産湯跡へ行く道の、曲がり角に行き当たる。そこを曲がってあぜ道の坂を下り切ったところで、また右に曲がり、産湯跡のある谷間のようなところへ歩いて行く。産湯跡は一段ガクンと下がった位置にあるので、そこに下りる道の手前まで、目の前の竹藪しか見えない。そのガクンと下っていく人一人が通れるくらいの坂にさしかかろうと言うとき、男は伸子を呼びとめた。
「ええと、のぶちゃん、やったかいな?」
伸子は立ち止まって振りかえった。
「そこは狭いやろう、おじさんと、このお嬢ちゃんと二人でええわ。お嬢ちゃん、ここで待っておいで。」
男はそう言いながら、千尋を手でさした。そう言えば、ここは狭いのだ、などと思い出して、伸子は立ち止まると、二人が通りすぎるのを見送り、二人の姿が落ちて行くように下がって行く姿を見送った。
 そういえば随分昔、ここでやはり男に声をかけられたことがあったな、などと伸子は思い出していた。あの時は、何か勘違いして、伸子は泣き叫んでしまったのだ。あの時のおじさんはやさしくて、缶ジュースをおごってくれたのだ。そう、それでお礼に、飴玉を上げた。
 それで、伸子はふと、さっき起き掛けに見た赤ちゃんの姿を思い出した。
 そうだ、あの時も、赤ちゃんの…
 伸子は昔のことを思い出しながら、何か一つ筋の通らないことがあると思ってさっきから気持ちが悪かった。何だったろう、と頭の中をさぐってみて、さっき下りて来た坂を見上げる。そして、下って行く坂を見つめる。
 何かがおかしい。
 そこは狭いやろう、と男は言った。
 場所のわからない、という男が、どうしてそんなことを知っているのだ!
「ちぃ――ッ!」
伸子は叫んで、駆け出した。それから産湯の前の場所、人が三人も入ればいっぱいになるその場所まで見下ろせるところまで、慌てて行って見下ろすと、二人はそこに到着したところだった。
 呼ばれた千尋が伸子を見上げている。二人には何の別状もないのでホッとすると、
「やっぱりあたしもそこまで降りて行くわ!」
こう叫んで、狭くて短く蛇行する坂道を駆け下りて行った。
 産湯のあるところまで下りて行くと、男は中をのぞきながら、これはもう、井戸というより、水溜りやねえ、などと言っている。伸子はわけのわからない緊張でどきどきしながら、どうして自分でもこんなに緊張するのだろう、と思った。千尋は妙に大人しいし――いや、千尋は先ほどから変なのだ。いつもと比べたら、おとなしすぎる。
 伸子は自分の胸騒ぎの原因がわからなくて、キョロキョロと回りを見まわした。産湯跡の背後には、竹やぶがつきて川が流れているのが見える。この下は川まで土地がガクンと落ちて、向こう岸に見えている家には、回り道でもしないとたどりつけない。ここは、そういう土地が多いのだ。だから、楠軍はこの土地の地形を利用してゲリラ戦を…。
 ふと伸子は我に返った。
 男と千尋が産湯の井戸跡の方を向いたまま、黙って立っている。伸子はその後ろから、二人を見ながら何かがおかしいと思った。男の手――男の左手が、千尋の尻の上で固定されている。大きく広げられたまま、千尋の半ズボンの上に、
 伸子は戦慄した。
 それから唇をかんだ。
 どうする――こういう場合、やめてと手を払うと、おじさんは何もしてないよと言うのだ、――助けて、と、叫ぶか、叫んで張り倒されたらどうする、一番性質の悪い大人で、殴って黙らせてそれからそれから――、
 伸子は両手をぐっと握った。
 助けて――勇気を――神様、勇気をください、勇気をください、
 勇気を――!
「うぅ…うああああああああ――!」
伸子は全身に力をこめて、力の限り叫んだ。
「いぃやあああ! おっさん、なあにすんねんやー! その手え離さんかアーい!」
男は驚いて手を離した。
「こォこォはなあッ、ここは目ェだたんとこやと思てるやろお! でェもォなー、ちょーっと叫んだらッ、うぅらの家までずえええんぶずえええんぶ、きこえるんやからなー! ずええんぶきこえたら、すぅぐうに前のちゅうざいさんとこに電話して、みいんな走って来はるんやー!」
「ちょっ、ちょっと待ちなさい、お嬢ちゃん、何言うてんの何」
「うわああああ! たぁーすぅーけぇーてぇ――ッ、ダァーレェーカァーッ!」
「ダーレーカー!」
千尋も一緒になって叫びはじめた。
「ギヤアアアア!」
「ウギャアアアア、コォロォサァレェルゥー!」
「アアアアアアアア!」
男は逃げ出した。二人の叫び声が大合唱になって、それに追われるように逃げ出した。
 のどがひぃひぃと苦しくなってきて、男の気配がだんだん遠ざかる。伸子は口をあけたまま、上を見上げ、声を出すのをやめた。はあっ、と、一つ息をつくと、今度はのどの奥からヒーッと細い声を上げた。
 千尋がその音に振りかえると、伸子は顔をぐしゃぐしゃにして、唇をかみ締めていた。固く握り閉めた両手をさらに強くにぎり締めると、うつむいた顔の、目からぼたぼたと涙が落ちた。
 そんな伸子を呆然と眺めながら、千尋が、
「何でのぶが泣くん。」
と尋ねた。伸子の肩に千尋が手をかけると、伸子は固く握りしめた手をガクガクとほどきながら口元へと運んだ。
「あたしアホやねん。」
伸子が口を開いた。開いた口の端を、涙がぼたぼたと落ちて行く。
「もっと早くに気がついたらええのに。」
のどの奥からまた細い声が漏れてくる。手の甲をなすりつけるように涙をぬぐいながら、またぼたぼたと涙が落ちる。
「のぶがやられたわけ違うやん、もう泣きな。」
伸子は歯に右手の甲を当てて我慢しようとした。それからまたぼろぼろと涙をこぼして、うつむきかげんのまま、目だけ千尋を見上げると、
「そんな、平気な顔しやんといてよ。」
と千尋に言った。すると千尋は呆れた顔を伸子に向けて、
「あたしに泣けって言うんか。」
言葉を切る時唇が震えた。抑えた声に涙声が混じっているが、千尋は、しかし、それ以上は崩れなかった。
 伸子が一度しゃくりあげると、向こう岸から男の声で、「おおい、なんかあったんかー?」と話しかける声が聞えてきた。見ると、作業服のおじいさんがこちらを、顔をしかめて見上げている。ずいぶん距離があるように見えて、向こう岸にきこえていたのだ。伸子はその時はじめて、ここの声は向こうに届くのだということを発見したのだった。
 
「暑うてたまらんなあ。」
産湯の井戸跡から家への道を引き返しながら、伸子は思わず座り込んだ。
「ちょっと、家、そこに見えてるのにすわらんといてよ。」
千尋は座り込んだ伸子の手をつかんで立ちあがらせようとした。伸子の腕は、汗でべっとりと濡れている。外気が暑いせいだけでなく、伸子が暑いのは、汗のせいでもあるのだ。
「伸、さっきなんで走ってきたん。」
だらだらと歩き出した伸子に、千尋は話しかけた。
「え、だって、呼んだやろ? 助けてって。」
「え?」
千尋は怪訝な顔をして歩を緩めた。それきり千尋の答えがないので、伸子は千尋に振りかえり、
「呼んでへんの?」
と問い返した。
「呼んでへん…と、思う。」
「じゃあ、誰が呼んだん?」
「そんなんあたしにきかんといてよ。誰か伸ちゃんに、『助けて』って言うたんか?」
「ううん。」
「じゃあ、なんで助けてって。」
伸子は立ち止まり、千尋の顔をみつめた。のろのろと歩いていた千尋も立ち止まる。それから伸子は記憶の中を探るように、目をあちらの方に泳がせ、
「そういえば、誰も、『助けて』とは言うてないわ。」
「じゃあ、何で助けてって言うてると思たん?」
「わかれへん。なんかそんな気してんわ。誰か呼んでるって。あたしちぃ来るの待ってて、寝てしもてんけど、その夢で…」
「夢で何?」
「赤ちゃん出てきてん。」
「その赤ちゃん、泣いてたん?」
「ううん、笑ってた。」
千尋は大きなため息をつくと、またせかせかと歩きはじめた。
「ちぃ?」
伸子がそれに合わせて歩きはじめると、千尋は、
「あんたの言うてること全然わかれへんわ。」
 伸子は千尋の後を追いながら、そういえば、誰が助けてと言ったのだろう、と考えた。赤ん坊の夢で目が覚めたが、それより前にも何か夢を見ていたような気がする。確か、眠る前は、千尋の言った言葉がわからなくて辞書を調べていたのだ。それから、それから、前は――
 違う。その前に、朝と同じ、手首の痛み。
 そういえば、あの痛みはなんだったのだ。
「ちぃ!」
伸子は前を歩く千尋に声をかけた。
「さっき言ってた、あの、えー、」
「何?」
伸子の家の門の少し手前で、千尋は足を止めて振りかえった。
「えーと、今朝の、手首の、男のコ。」
「門屋さんとこの?」
「うん、その子って、いつでも会えるん?」
「ああ、うん。会えると思うけど。おばちゃん遊びに来て話ししたってって言うてたし。」
「今日でもええん?」
「ええと思うけど、伸子会いにいくの?」
「うん、行こうかな。」
「ふーん? あの人が、伸子に助けてくれって言うてるん?」
伸子は大きく首を振った。
「わかれへん。」
「でも行ってみるん?」
「だって、行ってみなわかれへんし。」
伸子は額の汗を手の甲でぬぐった。暑さに大きなため息をつくと、大またで足を運び、門の中を抜けて玄関への低い石段を上りながら、
「人生って面倒くさいなあ、もっとするするといったらええのに。」
そうつぶやいた。
 
 四時を過ぎたころ、門屋の家の離れにある玄関の入り口を、ホトホトと叩く音が聞えた。「すいませーん、おばちゃーん。」
ガラスの引き戸になっていて、前に立つと、スリガラスだが外からどういう種類の人が来たか何となくわかる。司の母親が中から外をうかがってみると、少し小さめの女の子の影が二つ、映っていた。
「すいませーん、おばちゃーん。」
もう一度そう言いながら、ガラス戸が引かれ、その隙間から見覚えのある女の子の顔がのぞいた。
「こんにちは…あ!」
女の子は母親の顔を見るなり「あ」と声を上げた。
「こんにちは、いらっしゃい。ええと、誰やったかしらねえ。確か安藤さんのところの…。」
母親はやさしい様子で話しかける。すると千尋が、
「安藤千尋です。門屋さんの親戚の。また遊びに来てね、というてたので、遊びに来ました。」
「まあ、そう、ありがとう。それで、後ろの人は?」
母親がそう言うと、伸子は千尋の脇から顔を出して、
「河原伸子です。そこの、坂の下の家に住んでます。」
「そう、じゃあ、河原さんは、千尋ちゃんのお友達?」
「そうです。」
そう言うと、母親はにっこりと笑った。それから、
「まあ、そう、上がってちょうだい。司きっと、一人で退屈してやるやろし。さ。」
言われたので、二人はその言葉で玄関の中に上がり込んだ。玄関の中は空気が滞って、変に息苦しい。 
 司の母親は、靴をぬぐ二人のために、上がり口の目の前の障子を開けてくれた。そこから冷ややかなクーラーの風がやってくる。上がって部屋の中に入ると、そこが四畳半の部屋で、クーラーがよくきいていた。心地よい涼しさが体を覆って、思わず伸子は、嬉しさに目を細めた。
 母親は先に歩いて、その四畳半の、反対側の障子をひいた。
 四畳半にはちゃぶ台とテレビがあるな、などと見ながら通りすぎると、次の間は、南いいっぱいに開かれた縁側と窓があって正面にたんす、それ以外は、庭に面して置かれた籐椅子が一つ。伸子の目の高さから、その藤椅子の背もたれにもたれた、頭の先だけが見えた。
「司、近所の子が遊びに来てくれたんよ。お話ししてね。」
母親は肩越しに、藤椅子の主にそう声をかけた。それから、二人に視線を送ると、
「じゃ、相手してあげてね。」
と言って椅子から体をひいた。
 千尋が伸子に視線を送ると、千尋は歩み寄って、「こんにちは」と肩ごしに声をかけ、藤椅子の前へ入って行く。それに習って、伸子も椅子へ近寄り、「こんにちは」と言いながら、主の正面へと回った。
 それから、少年の顔を見た。
 トクリ、
 何か小さな針が伸子の胸につきささったように、胸の中がうずいた。
 それから両手で、急いで自分の顔を覆う。
 お人形だ、これは――だ
 うつろな目、生気のない顔――
 どうしてこれで、生きていられるのだろう。
 
 司の母親は、突然の小さな訪問者たちのために、何か冷たいものでも用意してあげようと、台所にさがった。なぜか、少しうきうきしてしまう。女の子というのは、やはりいるだけで、部屋の中の空気を明るくさせてしまうものだと思った。あの子供たちは、司の下の子――恵と、同じ年ぐらいだろうか。恵は、家に残してきたけれど、おばあちゃんの言うことをちゃんと聞いているだろうか。
 恵はとても手のかかる子供だった。やんちゃできかん気で手がつけられない。今こんなことになってしまったけれど、そういう意味では、司の方がずっと育てやすかったかもしれない。
 でも考えてみれば、司は彼女が育てたのではなかった。司はほとんど姑が育てたようなものなのだ。
 待って、と、彼女は額に手を当てた。
 そうだ、司は最初、育てやすい子供でもなかった。夜泣きが激しくて、頻りにグズる子供だった。そうだ、思えば、それが、姑が司を育てはじめた原因なのだ。「真弓さん、疲れてはるのと違う? 何やったら、あたし変わりましょうか?」という姑の言葉に、「そうですか、お願いします。」と言ってしまった、それが始まりだった。
 あの子はあまりにも忍と違いすぎたのだ。あの子は忍の、生まれ変わりなのに――。
 司は、あの愛らしい子供とはあまりにも違いすぎた。あの子の生を受けて生まれたはずなのに、どうしてこんなに違うのだろう、と思うほどに、司は違っていた。
 舅が言ったのだ。忍を死なせてしまって、自分を責めて消沈しつづける彼女に、また生めばいいやないか、と。子供なんてすぐ出来る。真弓さんはまだまだ若いんやから、十分大丈夫や、と。
 だから彼女は思った。
 そう――そうね、また生めばいい――また、生めばいいかもしれない。
 でも、なら、あの子は――? あの子は、忍は、何のために生まれてきたのだろう。あの子の生は、一体なんだったのだろう。あの愛らしい子供は、なぜあんなに突然、失われてしまったのだろう。
 また、生めばいい――また、生めばいい。
 では、私の責任は、一体何なのだろう。短いあの子の命は、一体なんだったのだろう。
 子供はすぐに出来た。司はすぐに生まれた。でも、司は忍ではなかった。
 矛盾――その矛盾――何かが違う、何かが、間違っているのだ。
 何かがとても、間違っていた。
 どこかでひどく、ずれてしまった。何かがひどく、ずれてしまった。
 十六年――何かがとてもゆがんだまま、ここまで来てしまったのだ。
 
 伸子は藤椅子の片側に手を置き、膝を床につけた。藤椅子の上の少年は、相変わらず何にも反応を示さない。パジャマ姿に、膝にはクーラーのためのひざ掛けがかけてあるまま、ほとんど動かなかった。
「聞えてへんのかな?」
伸子の姿勢にならって、千尋も膝をつける。
「さあ…」
伸子はじっと少年の顔を見上げた。
「どこにいても同じやったら、うちに持って帰って飾っておきたい。」
その言葉に、千尋は思わず伸子の顔を見た。いつもと変わらぬ表情で、いつものように突拍子もないことをいうと思って、
「飾ってどうするん?」
千尋の問いに、伸子は千尋の顔を見た。それから首を傾げて、
「さあ、でも、なんか持って帰りたいなあ、って思った。」
「ふーん。」
千尋は気のない返事をして、それから少し腰を浮かせて台所の方をうかがうと、
「でもな」と言葉を足した。伸子が「うん」と返事をすると、
「あたしもたまに、こうなりたいと思うときあるもん。」
千尋がこう言うと、伸子は少しリアクションが遅れて驚いた。それから、「え、こう?」と、少年の顔をみつめて付け加えた。
「うん、あたしの日本脱出計画は、ここから逃げたいからやし。」
「え、ここ? ここってどこ? この村のこと?」
「さあ、村かもしれへんし、どこか。どっかに逃げたいねんわ。」
伸子はしばらく考えるそぶりを見せてから、
「この人も、どっかに逃げたんやろか?」
「この人? 司くん?」
「うん。」
千尋は改めて、少年の顔をみつめた。
「どこに逃げたんやろか。」
「さあ、どこかなあ。」言いながら伸子はフーッと吹き出した。「英語で話したら、通じるかな。」
すると千尋は顔に苦笑いを浮かべて、
「のぶ、冗談きついわ。」
「ええ、そうかなあ。」
言いながら、伸子は立ちあがった。
「ヘロー」
と声をかけてみる。
「ハゥワーユ。マイ、ネーム、イズ、伸子、河原。イッツ、ナイス、ミーリィン、フォー、ユー。」
千尋は立ちあがった伸子と、司を交互に見て、その反応の変化をうかがった。しかし、少年は、やはりこれと言った反応を示すわけではなく、うつろなまま黙っている。
 伸子は何か反応を示してほしくてしたのだったが、少年は動かない。その空ろな眼差しの中をのぞきこんでみる。
「見えてるのん?」
その質問にも、何も答える様子はない。少年の呼吸が先ほどより少し荒くなったかと思ったが、それ以外、これと言って変化は見られなかった。それで伸子は真剣なまなざしを向けて、
「アイム、ヒア」
と言ってみた。
 すると、少年の瞳が少し動いたような気がした。が、すぐに、気がしただけかもしれない、と思いなおした。
 伸子はまた同じ姿勢に膝をつくと、少年の眼差しをみつめた。
「こんなに遠かったら、どんなに助けてくれ言われても、助けに行かれへんわ。」
「え、遠い? どこが?」
「うん。遠い、遠い世界。遠い世界に行ってしまってるみたい。」
「それって、どこ?」
「どこかはようわからんわ。でも、」
「でも何?」
「ちぃも外国なんか言ってしもうたら、助けて言われても今日みたいに助けにいかれへん。」
その伸子の言葉を聞いていた千尋は、荒い息を鼻からフンと吐くと、
「あたしはあたしで何とかするわ。別にあんたに助けてもらわんでもええ。」
千尋は気丈にそう言うと、伸子はせつなそうな顔で藤椅子の肘掛のところに頭を寄せた。それを見た千尋も、つられて同じ格好になる。少年を間にはさんで、千尋は伸子の額に手を伸ばした。
「あたしな、のぶ。」
「うん。」
「あんたが力なくなったの、神様のおぼしめしやと思うねん。」
「神様のおぼしめし?」
「そう。伸子がちゃんと自分の人生生きるように、人のことはたいがいにして、て、神様がその力、おあずけにしはったんやわ。」
 伸子は千尋の方に向けていた眼差しを少年の膝の上に落とした。それからまた、千尋の方に眼差しを起すと、
「あたしちゃんと、自分の人生生きてるもん。それに、力なくても痛いのわかる。」
そう言って、膝をついたまま体を起した。
「何、今朝の手首のこと?」
体を起す伸子の顔をみつめながら、千尋も頭を起した。
「それもあるけど、それだけ違うわ。」 
伸子は少年の左手首の辺りをみつめていた。少年の手首は、ひざ掛けの中に隠されてしまってみえない。その視線を千尋も追う。
「本当に痛いところは、ここ違うもん。」
そう言って、伸子は少年の体に近づいて、胸のところに手をあて、耳を少年の胸に近づけた。少年は少し動いたかに見えたが、それでもそのままの姿を保っている。お人形の胸からは、確かに、鼓動の音がきこえてくる。そのぬくもりも合わせて、伸子はホッとすると、
「まだ、いたい?」
と尋ねた。
「本当に痛かったのは、ここなんな。」
伸子は少年の顔を見上げた。見上げた顔に、何か動く気配があったように感じた。
 千尋が「あ」と声を上げる。
 それで、伸子が姿勢を正して見上げると、少年の、ほとんど閉じかけた空ろな目から、涙がひとしずく、頬に筋を引き、ポタリと落ちた。
 伸子は一瞬その涙の色にみとれた。
 唇をかむ。
 と、途端に、後ろでガタンと何かが倒れる音がした。
 司の母親が、蒼白な顔で、両手に、倒れたコップを載せたお盆を持って、こちらをみつめている。
 そうだ。
 伸子はその母親の顔をみつめた。
 いたいのだ。
 それは、とても、いたいのだ。
 もう、知っている。
 目には見えない、だから、この母親の、司の、そして、千尋の、「傷」――が、伸子の心を激しくさいなむのだ。

('99年7月23日~25日 、’99年8月21日~24日執筆)