伸子の瞳

 小学校の門には、まるで春の新入生を迎えるがごとく、桜の木がピンクのトンネルをつくっている。ポカポカと暖かい春の陽気の中を、新学期が始まって間もない耕一が、ひとり、ウキウキとした足取りで盛りの花の下を歩いていた。新しいランドセル、新しい制服、新しい靴…。小学校の目の前にある幼稚園から進学したのだから、この門の下をくぐるのは三年目だし、通学路も、以前と少しも変わっていない。かえって、母親のお迎えがなくなった今、同じ方向の子供が、同じ学年にいないために、耕一は一人で帰らなければならなかった。家までの長い坂を一人で登らなければならないのだ。
 しかし、何もかもが新しかった。
 学校は毎日何もかもが新しくて、ワクワクするほど楽しいけれど、家に帰ればもっと耕一をドキドキさせる、かわいらしいものが待っている。
 伸子だ。
 先月生まれたばかりの妹は、ほんのまだ小さくて、眠っているか、泣いているか、お母さんのおっぱいを飲んでいるかで、耕一がどんなに一生懸命話しかけても、少しも返事をしてくれない。「なあ、何で返事せえへんのん」と耕一が尋ねると、「生まれたばっかりでまだ無理やねんよ」、と母親は答える。生まれる前からお母さんのおなかに、早く出ておいでと話しかけていて、ずっとずっと待っていたのに、その赤ちゃんは、せっかく生まれてきても耕一にそっけない。
 耕一はせつなかった。
 それでも母親は、「耕ちゃんが話しかけたら、まだお返事は出来へんけど、赤ちゃんはちゃんと聴いてるのんよ」と教えてくれた。だから耕一は、伸子が起きている時、よく話しかけている。学校が始まってからは、学校であったことを母親にも話さず、一番に伸子に話していることさえあったのだ。
 耕一は家までの坂を小さい足で登りながら、頭の中で今日あったことの復習をしていた。――国語の時間には、先生に当てられて、本を読みました。僕上手に読めたのよ。体育の時間はねえ、あ、僕体育の時間は失敗したの、これは内緒にしておこう。休み時間はねえ、あ、そう、今日は皆でドッヂボールしたの、マア君がねえ――
 ウフフと耕一は笑った。
 楠公誕生地を過ぎたら、もうすぐお家に帰りつける。この間この辺で走り始めたら、こけてケガをしてお母さんに叱られたから、今日は走らないのよ。伸ちゃんは、逃げないから。
 ああ、でも、と耕一は思った。
どうか伸ちゃんが起きていますように。眠っているのに話しかけたら、お母さん、怒るから――。
 ランドセルがカタカタと音を立てた。道路脇の溝をサラサラと水が流れている。タンポポがあちこちから顔を出して、道路沿いの緑の畦を彩っていた。
 春なのだ。
 景色だけでなく、空気がそう物語っている。そう、春のにおいがする。甘くて優しい、春のにおい――
 耕一は家に到着すると、玄関には入らずに庭に回って縁側へと抜けた。起きていれば、母親は縁側に伸子を寝かせていることがある。耕一はそれを目当てに、縁側をのぞいた。
 案の定、伸子はかごに入れられて、縁側に寝かせられてあった。耕一はランドセルを肩から下ろして縁側に置くと、その背丈には今少し高い床によじのぼり、かごの中の伸子をのぞいた。そして、ひっそりとした家の奥へ向かって、「ただいまー」と叫んでみた。返事がない。今度は、「おかあさーん」と呼んでみる。耕一はしばらく母親の声を待ってみた。しかし返事はなかった。
「伸ちゃん、お母さん、どこ行ったん?」
かごの中の伸子に話しかけてみる。しかし伸子は返事をしない。目がぱっちりとあいているから、起きているのはそれで知れる。いつものように、帰って一番に母親の姿がないので、耕一は縁側に腰掛けて背を丸め、うつむいて口を突き出し足をぶらぶらさせた。それからもう一度、返事を期待しないで「お母さーん」と呼んでみる。すると図らず玄関の方から「はい」と返事があった。家の影からエプロン姿の母親がひょいと現れて、
「何や耕一、帰ってたんか。」
途端に耕一はこぼれそうな笑顔を向けた。
「うん。」
「いつ帰ったんな。」
「今さっき。」
「伸子はまだ起きてるか。」
「うん、起きてるよ。」
「どれ、今日はこの子は機嫌がええんかいな。ほっといてもじーっとして」
母親は近づいて籠の中の伸子をのぞきこんだ。耕一は母親と伸子を代わる代わるみつめると、伸子の瞳にふと気がついて、その視線の先を目で追った。
「お母さん、伸ちゃん、桜見てるねんよ。きれいなあって。」
庭の隅に、誰の代に植えたのか大きな桜の木があった。伸子の視線の先には、その桜の木がそびえている。
「ええ、桜の木ぃ見てるてか。いやあ、耕ちゃん、伸ちゃんはまだ目ぇが見えてへんから、それ無理やわ。」
「ええー、でも、桜の木ぃ見てるでえ。」
耕一はもう一度、伸子とその視線の先を、代わる代わるみつめた。すると母親は、
「そう見えるだけやよ。ホラ」
そう言って手を伸子の目の近くまで近づけた。
「手ぇこんなに近づけても、目ぇチコチコせえへんやろ。」
「ええ、ほんまやー…」
耕一は何か言いたげに、伸子の視線の先にある桜の木をみつめた。
「お母さん、伸ちゃんこの桜の木ぃ見えてへんのん?」
「せやなあ。見えてへんなあ。せっかくきれいやのになあ」
「いつになったら、桜見れるのん?」
「せやなあ、今年はもう、見られへんかもなあ」
「ええ!」
耕一は大仰に驚いた。それから悲しそうにもう一度「えー」と不満の声を上げた。
「伸ちゃーん、頑張らな、桜見られへんよぉ。困ったなあ…」
のぞきこんで話しかける耕一に、母親は笑いながら、
「何やの、桜やったら、来年もまた見れるやないの。」
「そしたら、来年まで見られへんやん。」
「ええわよ。これからずっと見られるんやから。」
耕一は、小さな眉間を寄せて不服そうな顔をした。母親は、「それより」と言葉を次いで、「耕ちゃん、おなかへってぇへんのんか。早、手ぇ洗って、ご飯しよ。ホラ、着替えてきなさい。」
 母親は庭先から出て来た玄関の方へと戻ろうとする。耕一は首を傾げたまま、
「なあ、お母さん。」
「何?」
「伸ちゃん、いつ目ぇ見えるようになるのん?」
「さあ、もうすぐかなあ。」
「もうすぐっていつ?」
「もうすぐはもうすぐや。」
「えー、わかれへん。それっていつ?」
体をよじよじして問いただす耕一に、母親は少し考えて、
「さあ、十日ぐらいかな。」
「まだ、十日もかかるのん?」
「十日なんて、すぐやわ。」
「ええーっ」
耕一はまた、不服そうな声を出した。
「ええから早く着替えといでって」
「お母さん、僕、僕…」
耕一は両手で口を覆って、どぎまぎした色を顔に浮かべた。
「え、何?」
「伸ちゃんに、一番に見てほしいねん。」
耕一の言葉に、母親はおもわず笑みを浮かべた。
「そんなん、一番や二番や、関係ないやないの。見えたらみんなでコンニチハや。それに、誰が一番に見えたかなんて、伸ちゃんにしかわかれへんのん、話しできるようになったら、もうそんなんも忘れてるわ。」
「それでも! そんでもそんでも…。」
耕一は口に手を当ててすわった姿勢のまま、興奮で体をのけぞらせた。
「僕一番がええ!」
「じゃあ、伸ちゃんにお願いしとき。一番に見てねて。」
「うん!」
耕一は縁側に膝を乗せ、床に肘をついて籠の中をのぞきこんだ。
「のぶちゃーん。」
歌うように声をかける。
「のぶちゃーん、お兄ちゃん一番に見てねー。僕一番に見てねーっ」
母親が後ろから見ていると、耕一は歌うように言うその節に合わせて小さなお尻をフリフリと動かした。それを見ながら母親はこっそり笑うと、
「お願いがすんだら、ご飯にしよな。着替えといでや。」
耕一はリズムをとったまま、高い声で「はーい」と返事をした。籠の中の伸子は、相変わらず桜の木をみつめている。耕一は肘を床についた姿勢のまま、小さな両手を組み合わせて目を閉じた。
神様お願いです、と心の中でつぶやく。
 伸ちゃんが僕を一番に見てくれますように――。
 春のにおいがする。
 うららかな春の陽が、ピンク色を帯びた白い桜の花をいっそう輝かせていた。
 伸子は起きている。
 小さな先達の祈りのそばで、開かれたその眼差しに何も映さず、
 静かに――、
 彼女は目覚めていた。

1996年12月執筆