午後三時を過ぎると、この頃はいっせいに、紅葉した葉が落ちる。学校が終わって楠公誕生地で道草を食っていると、ちょうどこの落葉に伸子は遭遇する。常緑樹の楠の中で、落ち葉を散らすのは、その周りに植えられた桜の樹だった。
落葉の時節を前に、田園を黄金に染めていた稲も刈り取られてしまった。十月の半ばにある秋祭りを過ぎれば、鮮やかな花の季節も、真夏の瑞々しさもまるで忘れ去ったかのように、景色は途端に寂しくなる。金剛山の麓にあるこの村は、標高が高いだけあって、大阪府下の他の地域に比べると、冬は厳しい。空はたいがい、降るでもなく、まして晴れるでもなく、どんよりと曇っている。
伸子は空を見上げた。
落ちてくる葉っぱの向こうは、グレイの世界。宙を舞う一葉を目で追うと、散り積もった落ち葉の中に、「カサリ」、音を立てるでもなく、静かに溶け入った。
サーッ、風が吹き上げた。伸子は顔にはりつく髪の毛を避けるように、両手で顔を覆った。楠が騒いでいる。風は、まだ刺すほどには冷たくない。風の収まるのを待って目を開く。散り落ちたばかりの葉が地面の上をカサカサと踊っている。
「どこへ行くんやろうねぇ。」
地面の上を滑って行く落ち葉を目で追った。春にはいっせいに花をつけ、そして芽を出し、なのにせっかく出したその葉も、一度期に散ってしまう。散り積もった葉もいつのまにか見えなくなって、木枯らしの冬がやってくる。その自然のサイクルを、未だ彼女は完全に理解してはいなかった。小学校三年生である。
彼女は試みに、風に乗って地面を滑ってきた枯れ葉を拾った。掌に乗せると、カサカサとした感触が伝わる。まだらに染め上がった葉は、色も褪せて葉の一方がかけていた。握りしめる。と、しっとりと、わずかな抵抗を感じて、手を広げた。葉は、中程を残して端が崩れている。
伸子は桜の木を見上げた。
「何で落ちるんやろうねぇ。」
答えはない。桜の木はただ黙然と、そこにいる。
「消えてなくなるんやったら、出て来んだらええのに。」
伸子はそっぽをむいた。それから悄然と視線を落とすと、裏道を目指して歩き始めた。
悦子は出会橋を過ぎるとすぐにある、坂の入り口に立ち、その切り立った土地を見上げた。彼女は小学校の時から、この坂を上るのが嫌いだった。出会橋を過ぎると、大きな断層をぶち抜いて上り坂が走り、楠公誕生地のある、なだらかな斜面の台地へと続いている。ここの地形は断層の鋭い、ガクンガクンと落ちた土地が多く、竹やぶの向こうが突然崖になっていて、その遥か下を川が流れているということも少なくない。この切り立った地形を利用して楠軍はゲリラ戦を仕掛けて成功したのであろうが、現代に暮らす人間にとっては決してありがたい地形ではなかった。
例えばこの村の中学校は、例の合戦の赤坂城跡に建てられているが、その遥か向こうの高台に中学校が見えているにもかかわらず、二つの断崖絶壁とその底を流れる二本の川に隔てられているため、空でも飛べない限り直線ではいけない。だから中学校に通うには、一度坂を降り、出会橋を渡って、また中学校までの坂を上らねばならない。この村に住んでいる限り、目的地へと向かうには、結局どこかで回り道をして、坂を上らねばいけないことになる。悦子はよく時間がない時など、すぐ向かいに見える学校を見ながら回り道をしていくジレンマに、歯軋りしそうになった。
おまけに誕生地へと向かうまでのこの坂はサイドが切り立っているので、お世辞にも明るいとはいえない。むしろ夏でも陰湿な感じがする。夜は寂しい。冬はすさんだ感じがする。この坂道と、終バスが早いのとで、悦子は短大に入ると同時に結婚するまで、部屋を借りて一人暮らしをした。就職は通える距離であったが、仕事は定時ではなく交替制であったため、やはり終バスには間に合わないと予測されたので、そのまま家を離れて一人で暮らした。たまに実家へ帰ることがあっても、車で迎えに来てもらって、よほど用事がない限りは、この坂を通ることもなかった。そして結婚してからも、ほとんど夫の運転であったから、歩くこともなかった。
だからこれがいつもなら、夫とまだ一つに満たない娘と三人で、車で上るからそれほど気にもならない。夫がいない時は、実家の誰かに電話をしてバス停まで車で迎えに来てもらう。しかし今日は、車で迎えに来てもらうわけにはいかなかった。いや、そんな電話をかけることすら忘れていた。急いでいた。気持ちばかりがはやって、上手な手続きを忘れていたのだ。
伸子に謝らなければ――
昨日からそのことばかり考えて、心が落ち着かなかった。
早く、早く――
つい先日の連休だった。夫と娘と三人で、泊まりがけで実家に里帰りをしたのだ。その日の夜は、食後皆で居間に集まっていた。母、兄夫婦、それから姪の伸子と自分。受験生の甥と父親は、自室にこもって出て来なかったし、夫は娘をお風呂に入れていた。兄と伸子がテレビをみながら真面目な始めたのが、食卓で母と義姉と話をする自分の耳にも入って来た。
「なんで川に来て卵産むのん?」
近頃――小学校に上がってから、伸子は一段と「何で?」が激しくなったらしい。元々小学校に上がる前から利発で、よく周りの大人を質問攻めにして困らせたものだが、最近は難度が上がってきたようで、兄夫婦や両親が答えに窮しているのをよく見かける。以前一度辞書辞典を示して調べ癖をつけさせ、図書室を利用するよう言い含めてみたのだが、突然の難事――たとえばテレビなどには、やはりその場できくしかないとみえて、この日も父親である兄と二人、テレビの前のソファで問答していた。
「だから、きれいな水やないと、卵産まれへんのやろう?」
「何で?」
「そりゃあ、そんなんきかれても、お父さん知らんわいな。」
悦子の位置からソファごしに伸子のまだ小さめの後ろ頭がみえる。その後ろ頭は首を傾げてうーん、と考えるそぶりを見せた。
「じゃあ何で、生まれた川に帰ってくるん? 誰かに教えてもろたん?」
「一体誰が教えるねん。」
「でも帰ってくるやん。覚えてるのん?」
「さあー、魚にきいてみんとわからんなあ。」
「どうやって?」
「こーう川があってやなあ」兄は自分の前に川の形をつくってみせた。「もしもーし、何で生まれた川に帰ってきたんやー。覚えてたんかー?」
悦子は吹き出した。吹き出した悦子に兄と伸子はこちらを向いたが、伸子は眉間を寄せて変な顔をしている。
「お兄ちゃん、さっきからきいてたら、全然答えてへんやないの。」
「だって俺、知らんしなあ。伸子はいつも難しいことききよる。」
「憶測でええから答えたったらええやないの。何? 鮭の話?」
伸子はうなづいた。やはり変な顔は治っていない。
「別に誰かに教えてもらうわけやあらへんのよ。鮭は鮭で生まれた川に帰ってきて卵を生む、そういう決まりなんや。」
「誰が決めたん?」
「さあ、神様かなあ。」
伸子は首を傾げてあちらの方向に視線を投げた。
「神様が決めたのに、たどり着くまでにいっぱい死ぬのん?」
「そうやなあ。それも神様がきめたんかもなあ。」
伸子は唇をへの字に曲げて、さらに変な顔をした。
「神様って、性格悪いんやなあ。」
どっと、大人たちは声を上げて笑った。悦子も苦笑した。
子供にとっては死は絶対の悪なのだ。淘汰など、神様の意地悪としか思えない。「可哀想」でしかない。
「ふーん、じゃあ、生まれた川にかえってくるのは、地図かなんかあるん?」
「うーん、そりゃあ、紙に書いてあるわけにはいかへんなあ。」
「じゃあ、どこに書いてあるん。」
「うーん、書いてるん違うねんわ。元々知ってるんよ。それで、卵を生む時期になると、誰に教えられんでも、そこへ行くようになってるんよ。見えない地図がね――」
「見えない地図?」
「そう。体の中に埋まってるねん。」
「体の中に?」
「そう。」
伸子はふーん?と首を傾げた。わかったような、わからないような、といった風情である。
「伸子にはまだ難しねんわ。」
義姉が口をはさんだ。
「もっと勉強せんなんな。」
伸子はまたわからないといった感じで不満げに反対側に首を傾げたが、それきり、黙ってしまった。
その翌日、お昼ご飯だというのに伸子の姿が見えなかった。義姉が伸子、伸子と台所から頻りに呼ぶが、一向に姿が見えない。
「ホンマにあの子、どこ行ったんやろか。お昼までには帰ってきなさい言うたのに…」
義姉は癇癪を起こしそうに顔をしかめている。
「何や、そこらで遊びに夢中になってるんかもしれへんわ。あたし見てくる。」
そう言って悦子は椅子から立ち上がった。台所の扉を抜けようとする。と、後ろから義姉が、誰に言うでもなく、
「またあの子のことやから、わけのわからん空想ごっこして遊んでるねんで。もう三年生になるのに、いつになったらあんなことやめるんやろか。」
姉の厳しい口調に、悦子はギクリとして思わず義姉の方を振り返った。
「空想ごっこ?」
悦子がすかさず問い返したので、姉はしまったというふうに口元を押さえた。「あ…」と口ごもる。それから言いにくそうに視線をウロウロさせると、
「いえ、あの子ね、小さい頃から、電柱のかげに女の人がおる、木の下におばあさんがおるて言うてね。実際そこにおってあの子には見えるんかもしれへんけど、普通には見えへんの。昔は怖がってたのに、小学校に上がるようになってからやろか、今度は『兵隊さんと遊びに行くねん』言い出して。もう、毎日のように…。頭おかしい思われるからやめなさい言うてるのに、きけへんのよ。」
そう言って姉は、戸惑うように、視線をそらせた。
――
伸子のそうした話には、悦子も覚えがあった。
あれは確か、伸子がまだ幼稚園の頃だった。実家に帰っていた悦子は、幼い伸子の手をひいて、坂の下まで姉に頼まれ買い物に行ったのだ。最初一人で行くはずが、伸ちゃんも行くと言い出したので、手をひいて連れて行った。帰り、だらだらと長い舗装道路の坂道を行くよりも、誕生地の裏の畦道を通ったほうが早いので、その畦の入り口に差しかかった辺りで伸子に、
「伸ちゃん、近道しよか。」
言うと、伸子は後ずさって、
「いやぁ。ここの途中におじさんおるのぉ。いつもおって伸ちゃんじっと見るのぉ。いやあ。」
それで彼女はしきりと首をふって、道路の上に座りこんだ。悦子は浮浪者でもいついているのかと思って、
「え? おじさん? どんなおじさん?」
と聞き返した。
すると伸子は、道の途中に木があって、いつもその下に立っている、シャツにズボンをはいた普通のおじさんだという。しかし目だけが異様にくぼんでいて、いつもギラギラと伸子をみつめる、それが怖いのだという。
悦子は背筋が寒くなるのを感じた。それで結局その道は通らず、舗装道路を二人で帰ったのだ。
しかしあれはもう随分前のことで、伸子にその正体を確かめたわけでもない。それ以来浮浪者の話もきかなかったし、悦子も伸子のそんな話を忘れていた。
「勉強もできるし、あれさえなければええ子なんやけどねえ。」
姉はそう言った。
伸子が不用心にも口走るもんやから、近所のおばあちゃんも気味悪い言わはって。
――
悦子は表に出て伸子の姿を探した。のぶちゃーんと呼んでみる。この季節なら、たんぼだろうか。刈り取りも終わっているし――まさか、小学校まで遊びに行ったのではあるまい。
悦子はもう一度、のぶちゃーんと呼んでみた。すると家の前に一面に広がる、段々に下りていくたんぼの傍らから、ひょっこり、伸子が現れた。
「のぶちゃん、お昼よ。ご飯食べるから帰ってきなさい。」
悦子は、じっと動かずこちらをみつめている伸子に、大きな声で呼びかけた。しかし、伸子はきこえないのか動く気配がない。それで仕方なく一面のたんぼを貫いた村道を下って、そこから畦を伝って伸子の方に歩いていく。柔らかい土に草がすべって足場が悪い。
「伸ちゃん、ご飯よ。何してんのん。」
近づきながら話しかけた。それでも伸子は答えないで、じっと悦子を見上げている。
「伸子?」
目の前まで歩いてきて、悦子は立ち止まった。すると伸子が小さな声で、
「サケ…」
とつぶやいた。
「さけ?」
「見えない地図の話。」
「見えない地図?」
「昨日の夜話してた、鮭に、見えない地図があるて…。やっぱりわからへんから、おじいにきいてたん。そしたら」
「おじい? おじいって、誰?」
「おじいは、この土地を守ってる人。」
「守ってる人? そんな人、どこにおるのん?」
「そこ。」
伸子は指さした。しかしそこには休耕田になった荒れ地があるばかりで、人影などない。悦子は義姉の話を思い出して、また少しばかり背筋が寒くなった。
「キソウホンノウて。」
「え? 帰巣本能?」
「動物は人間と違って、元いたところに帰ろうとするシュウセイがある。人間と違って、地図がなくても帰りつける。多分、それのことやろう。」
鮭が生まれた川に帰るという話の続きをしているのだと思い出して、悦子は目を丸くした。
「あ…うん。おばちゃんも、そうやと思うわ。伸ちゃん、よう調べたなあ。」
微笑む悦子に、伸子は怪訝な顔付きをした。
「調べたんと違う。おじいにきいたん。おじいもようわからんけど、たぶんそうやろうって。」
「伸ちゃん、だから、そのおじいって…」
言いさして、悦子はハッとした。伸子はじっと悦子を見上げている。その、見ているのか、見ていないのか、それでいて全てを見透かしているような瞳に、悦子は理由もなく恥じらいを覚えて、伸子から目をそらせた。
「伸ちゃん。」
おそるおそる伸子を見る。
「おばちゃんには、見えへんわ。」
伸子の目は違えず、悦子を見つめている。
「伸ちゃん、あのね、伸ちゃんのお母さんも言うてはったけど、あんまりそういうこと、口にしたらあかんねんよ。」
悦子を射貫いていた伸子の瞳は、少し何かを考えるように虚ろになった。
「そういうこと?」
「ホラ、おじいがどうとか、兵隊さんがどうとかって。伸ちゃんにはホンマに見えてるかもしれへんけど、皆には見えへんねんよ。皆に、その、ウソついてると思われるわ。」
「うそ?」
伸子は視線を下げて、唇をかんだ。悦子はそんな伸子を上から見下ろしながら、
「ホラ、だって、見えへんかったら、誰も信じひんわ。な?」
悦子は困った。伸子はうつむいたまま黙っている。
少し、言いづらかった。でも伸子のことを思えば、言っておいた方がいいのだ。母親の言うことを聞かないのだから、幾分離れた自分がいう方がいい。
「さあ、ご飯やで。帰ろう。」
悦子はたんぼを抜けようと舗装道へと振り返った。すると、背後から、
「そんなんやから」伸子が口を開いた。「そんなんやから、おっちゃんに、言われるねん。おっちゃん、寂しい、それ、おばちゃん、わかれへんから、信じたれへんから」
後ろから聞こえる幼い声が連ねる言葉に、悦子は愕然とした。逆上しそうになる。振り返る。と、伸子は、泣き出しそうな顔をしている。
「言われるって、何? おっちゃんって…」
まさか、わかるわけがない。誰も知らないはずなのだ。まさか伸子などに、わかるわけがないではないか。しかし、悦子は自分で口が震えるのがわかった。
伸子の目から涙が落ちる。その歪んだ口元から、
「見えへんから、信じひんのん?」
伸子は喘いでいる。言ってはならないと知っているのだ。
「何て言うたんや!」
悦子は叫んだ。
「『その子は俺の子違うんか』。」
悦子は右手を上げて、それを伸子の頬に打ち下ろした。ビシッといやな音がして、途端に、伸子が大きな声で泣き始めた。
悦子は慌ただしく引き戸の扉を開けた。まだ立て替えて新しい玄関は、この辺りの百姓家に共通の、広い二段構えの板張りだった。前面の壁には額があって、左手奥に向かって廊下がある。
「ただいま。悦子です。帰ってきました。お姉さん? お姉さん?」
玄関でせわしく、見えにくい廊下の奥をのぞきこみながら返事を待った。玄関に鍵がかけられていないのだから、誰かいるはずだ。廊下のつきあたりの台所から微かに水を使う音がきこえてくる。
「お姉さん? いませんか。お母さん? お母さん。」
悦子は靴を脱がずに呼び続けた。台所の方でカタンと音がして、廊下のつきあたりのドアが開く。
「えっちゃん?」
薄暗い中から声がきこえる。廊下の端からひょいと姉が現れた。
「まあ、どうしたん? 今頃、突然。」
「あたし謝らんならん思て。」
「謝るてなんやの、あんた。佳美ちゃんどうしたん。」
「近所の人が預かってくれるて。なあ、伸子は?」
悦子がソワソワと落ち着きのない表情で尋ねるので、姉は怪訝な顔付きをしている。
「伸子? 伸子はまだ学校から帰ってへんわ。」
とたんに、悦子は玄関のドアを開けて急いで飛び出した。
彼女は出てすぐの門を駆け抜けようとした。すると姉が、つっかけ履きで追ってくる。
「ちょっ、ちょっと待ちいな、えっちゃん。おとついの今日やないの。一体何をそんなに急いて…」
悦子は振り返った。それでも落ち着きなく、体は行こうとしている。
「あたし、あの子に謝らんな。」
「謝るのはわかったわいな。一体何を謝るねんよ。まあ、落ち着いて。もう授業も終わってるんやさかい、待っとったらじき帰ってくるがな。なっ、待っとり。」
「あかんねん、あたし、ひどいこと言うてん。おまけにこの間ぶってしもた。あたし…」
「ああ」とうなづいて、姉は呆れたような顔をした。「そんなことで、あんたワザワザ、今日来たんかいな。」
「そんなこということ違うねん。大事なことやねん。」
「一体何言うたんな。そん…」
「見えへんもんは皆信じひんねんから、言うたらいかんて」
「それで聞き分けないからぶったんな?」
「違う…ん」悦子は思わずつかえて、口を歪めた。「とにかく、あたし伸子探さな。」
それで悦子は走り出そうとする。その彼女を見て、姉は腕をつかんで引き止めた。
「ちょ、えっちゃん。えっちゃん。ちょっとえっちゃん、待ちいなて。行かんでよろし。わざわざ謝りに行かんでよろし。」
引き止める姉の顔を、急いた様子のまま悦子は怪訝な顔付きで探った。
「あの子もいいかげんな」姉は眉根を寄せている。「理解せなあかん年やねん。あんなことばっかり言うてたら、頭おかしいんやて思われる。変な子やて思われる。えっちゃんの言うたことは、間違うたことやあれへん。そんな急いで謝りにいかんでええ。」
悦子は姉の言葉に打たれたように、急いた体を制止させた。じっと、姉の顔をみつめてから、伏し目がちに視線を下げる。
「そんでも」まっすぐに姉の顔をみつめた。「あたしあの子傷つけたわ。」
つかまれた姉の腕を強くひく。姉は手を話した。
「探さんな。」
悦子は駆け出した。
どんよりと、曇った空が続いている。雨が近いのだろうか。この土地は、晩秋の夕日がことさら美しいのに――昨日はあれだけ美しかった夕日が、今日は見えない――いや、ここは冬になるにつれて、こういう天候の増える土地なのだ。山が近い。同じ大阪府下でも、市内が晴れているのに、ここは曇っている時がある。気分が沈んだ時は、さらにそれを助長する。東北や北陸はいつもこんなんだろうかと、中学、高校に上がる頃、悦子はよくそう思ったものだった。
それでも、赤阪村の、とりわけ誕生地あたりから見える晩秋の夕暮れは、忘れられないほどに美しい。市内や北部で見える鮮明さとは違って、少し鈍く紅い。憂いている。晩秋の夕暮れ――それは一日の終わりの、どこかに終わりを予見させる、わずかな美しさに過ぎない。しかし、それがここでは一際美しく見える。そして、回想の中で夕日をみつめる悦子はいつも、ここを離れたのは十八の春のはずなのに、幼い幼い子供なのだ。幼い幼い、子供であった。
それでも昨日、マンションの部屋のベランダから見えた夕日は、悦子がみとれる程に美しかった。まだ五カ月にしかならない幼子に、この光景を見せようと、上着に帽子を着せてベランダへと連れ出した。「きれいねえ」と話しかけるのに、その子はわかっているのかいないのか、彼女の胸の中でしばらく見せられた景色をみつめていた。しかしすぐに、「んーん」と声をあげて頭を動かす。眠いのだろうかとのぞき込む。ふいにのぞきこんだ佳美の目が、光線のかげんでキラリと光った。
悦子はハッとした。
きれいな目をしている。
これが、子供の瞳なのだと気がついて、悦子は訳もなく罪悪感にとらわれた。
昨日だ。
つい昨日、伸子を殴った。
あの子はぶった後、大きな声を上げたけれど、悦子が置いて行こうとすると、間もなく声を殺した。喉の奥で涙をこらえる音がしている。悦子は伸子が泣くのを抑えているのだと気がついて、理由もない罪悪感に襲われ、彼女を振り返らずに家へと向かったのだ。
――その子は俺の子違うんか――
思わずカッとなって伸子を殴ったが、あの子があの言葉を知るはずがないのだ。知るはずがないのに、なぜ伸子はあのセリフを知っているのだろう。そして伸子は「おっちゃん」と言った。あの子は知っている。あの子が言った「おっちゃん」とは、夫のことではないと、悦子にはわかった。それは、今の夫と知り合う以前につきあっていた男のことなのだ。今年三十になる悦子が、五年間つきあっていた、一回り年上の男だった。
――
それは、ほんの数日前のことだった。
佳美を散歩につれて出掛けた公園で、ベンチにすわっていると、公園を通り抜けようとするサラリーマンが前を横切った。行き過ぎるかに見えた男は彼女の前を少し通り過ぎてから、引き返してきて彼女の前で立ち止まった。それで彼女が顔を上げると、それがその男だったのだ。
「やあ」
そう彼は声をかけた。悦子は男を見上げながら、突然のことに思わず絶句した。言葉をなくして見上げていると、
「元気ですか。」
と男は言葉を連ねた。その言葉に我に帰った悦子は、「ええ」と小さな声で答えた。
「あなたも。」
「僕は相変わらずや。相変わらず忙しいよ。」
「今日は仕事の途中ですか?」
「そう。もう三十分遅刻してる。」
「じゃあ、早く行きはったら。」
「うん」男は唇をかんだ。そして、子供の顔をのぞきこんで、「女の子?」と尋ねた。
「そうです。」
「へえ、かわいいね。」
男は笑顔を見せて、子供をのぞきこんだ。そうだ、この男は子供好きだったのだということを思い出して、その横顔をみつめると、また顔色を悪くしている。浅黒い顔の、肌が妙に荒んでみえる。煙草の吸い過ぎなのだ。体によくないと医者に止められているのに、まだやめられないのだろう。彼女の部屋がヤニで薄茶に汚れたのは、彼のせいだった。悦子は煙草を吸わない。彼のは半端な量ではない。
彼女はよく、火をつける彼の口から煙草を奪い取ったものだった。
「吸い過ぎやわ。肺ガンで死にたいのん?」
何度も言ったセリフに、男は「俺の体をどう使おうと勝手や」「煙草でも吸わんなやってられるか」と口答えした。
男が佳美に伸ばそうとした手に気がついて、悦子は思わず「触らんといてください」と叫びそうになった。寸前で言葉を飲み込んで、落ち着きを取り戻そうとする。唇を噛んだ。
「奥さんお元気ですか。」
その言葉で彼は手を止めた。子供に寄せた顔を戻すと、白けた様子で彼女を見下し、
「相変わらずや。」
悦子は答えなかった。
「相変わらず、よそに女がおらんか、心配ばっかりしてる。」
悦子は彼を見上げた。それからすぐに視線をそらすと、
「早く行きはったらどないですか。」
「家はここから近いんか。」
「あなたに関係ありません。」
彼は何か言おうとして、口を閉じた。黙ったままそこに立っていたのが、悦子が取り付く島もないという様子を見せたので、何も言わずにそこを立ち去ろうとした。歩き去るかに見えたその時、悦子が顔を上げると、彼はまた引き返してきた。「悦子」、と呼びかけ、すがるような目で彼女をみつめた。
「その子は俺の子違うんか。」
彼女は思いがけない問いかけに、目を見張った。胸のうちから喜びがわくのを感じたが、男に悟られるのを恐れてすぐに奥歯でかみ殺した。
「違います。違います、何てこと言うんですか。そんな…」
彼女は反射的に子供をギュッと抱いて、その頭をみつめた。うつむくと、子供の体にしみついた母乳のにおいが鼻をついた。
「いや」男はすぐに言葉をついだ。「そうやな。そうや。そんなはずはない。すまん。」 きまづい思いで男はしばらくそこに立っていたが、子供の「あー」とぐずり出す声をきいて、「じゃあ、行くよ。」とまたそこを離れようとした。ふと止まって、うつむいたままの彼女に、
「幸せなんやな。」
と、問いかけた。やはり彼女はうつむいたまま、うなづいた。
「幸せです。」
それで、男は何も言わずに、その場を立ち去ったのだ。
――
子供が「んー」と声を上げて動くので、悦子はふと我に返った。
目の前には、鮮やかな日没。ここはマンションのベランダで、男の姿はどこにもない。
もう日が暮れる。風が悦子の頬をなでた。
「もう、お家入ろうか?」
子供はご機嫌なのだろう。悦子の話しかけるのに、言葉にならぬ返事を返す。「あー」と見上げて悦子の顔に手を伸ばす佳美に、悦子は笑いかけてあやした。
もう日が沈む。それでもまだ、西の空は朱に染まっていた。
「アホやねえ、私。」
言ってから、子供の顔をみつめる。
「何であんなこと言われて、ときめくのん?」
あの時、俺の子違うかと、言われてわいた、予測しなかった情動は、ここ数日、彼女自身を強く責め続けている。そして、その言葉をはいた男をも、強く責めた。
「お母さん、悪い子やねえ。」
子供はまだ、彼女の腕の中で、「ぶー」とも「んー」とも言っている。彼女は思わず腕の中で丸くなっている暖かい我が子の額にキスをした。子供の頭に口をつけたまま奥歯でこらえるのに、ハラハラと涙がこぼれて子供の毛糸の帽子を濡らした。
「一体、何でやのん?」
それで、どうすれば良かったのだろう。男は一体、どうしてほしかったのだろう。自分は本当は、どうしたかったのだろう。身勝手ではないか。あまりに身勝手ではないか。男には、妻も子もいたのに、それで、自分にはどうしろというのだろう。男は、安らぎだけを求めたのだ。安らぎだけを悦子に求めた。最初はそれでもよかった。職場の誰よりも優しかった彼は、悦子にとってもやはり安らぎだった。それでも良かった。でも、いつの間にか、苦しくなった。その苦しさが、彼女を安らぎから遠ざけたのだ。
彼は、妻と別れるとは言わなかった。自分も、別れてほしいとは言わなかった。何かにひどくせかされながら、心の中ではいつも、一緒にいられたらそれでいい、奥さんは関係ないわ、友達にも
「嘘に決まってるやないの。」
言ったら、それで終わるだけ――彼は、妻と自分と、どちらが大事? 本当は、別れてほしい、自分だけのものになってほしいのに――自分は、ただの都合のいいだけの女――? あたしは一体、あんたの何?
夜中にふと目が覚めて、男の顔を眺め、首をみつめては、いっそ締めてしまおうか――一緒に死ねば大丈夫。どっちも苦しくないからね。あんた死んだらあたしが辛い。あたしだけ死んだら、奥さん喜ぶでしょう。一緒に死んだら大丈夫。一緒に死んだら、大丈夫。
「言うたら逃げたでしょう。」
涙がとめどなく流れて、子供の帽子を濡らし続けた。さっきまで機嫌の良かった子供が、声を落とし始める。
あんな女死んでしまえばいい――一体、何度思ったことだろう。言えばきっと、怖い女だと――。
口にできずに、後悔だけが残った。奪いきれずに、後悔だけが残った。一人取り残される部屋に、見送る後ろ姿を眺めては、喉に込み上げる言葉を飲み込んだ。
上手な女でいたかった。見苦しい女になりたくはなかった。
もうすぐ三十になる、親戚の言葉で、悦子は見合いをして、今の夫と結婚した。男はひきとめなかった。
――ちゃんとした、子供がほしいの。一人はもう、寂しいから――
喉の奥から声が漏れた。それに感応したように子供が、不機嫌な声を上げた。やがてぐずって泣き出すのだ。子供の顔をのぞきこむと、しかめた顔で今にも泣きそうにしている。途端に、火がついたように泣き始めた。
「かなしいねえ」
悦子は体を揺らして子供をあやした。
「かなしいねえ。何がこんなに、かなしいのやろねえ。」
昨日伸子は、あの子は一体何を見たのだろうか。おっちゃが、彼が寂しいの? ――寂しい? 一体何が寂しいの。寂しいのは、寂しいのは、
悦子は子供をあやしながら、部屋の中に入ろうとした。しかしふと心付いて、ベランダの方を振り返った。西の空は、紫に染まり、やがて全てが闇に沈もうとしている。
伸子は、あの子は、見えないはずのものを、見る――見えないものは信じない?
何が――
「あの子は、一体――」
悦子が家を出て、坂を走り下りていると、誕生地の裏手から伸子がランドセルを背負って歩いて来るのが見えた。すがるような思いで、悦子は伸子をみつめた。
「伸子。」
悦子が声をかけると、伸子はそれに心付いて足を止めた。近づいてくる悦子をみつけると、伸子は振り返って元来た道を走りだした。
「伸ちゃん、待って。伸ちゃん、伸子!」
それでも伸子は足を止めない。
「伸ちゃん、ごめん、ごめんねぇ。おばちゃん、謝ろう思っ…」
息が切れる。
茶色の制服、赤いランドセル――かけていく、かけていく小さな足。彼女は誕生地へとかけこみ、足を緩めた。
悦子は裏道から誕生地へ入る所で、その場にへたへたと腰を下ろした。
「のぶちゃーん。」
へたりこんだ悦子を見て、伸子は立ち止まった。彼女はしばらく悦子の様子をうかがっていたが、やがておそるおそる歩み寄る。ゆっくり近づいて、それから彼女の前で立ち止まると、腰を下ろしたままの悦子に向かって首を傾け、
「もう、ぶてへんのん?」
尋ねた。悦子は伸子の顔を見上げると、彼女の意志を表さない瞳とぶつかった。
「ぶてへん。ぶてへん。ごめんね。ごめんねぇ。おばちゃん、おばちゃん。」
伸子は悦子に近づいて、手の平の中の崩れかけた木の葉を示した。悦子は訳が分からず、伸子の顔を見ると、伸子は、
「何で消えてしまうのに、出てくるんやろうねぇ。」
そう尋ねた。
「え? 葉っぱのこと?」
「そう。こんなに散ってしまうんやったら、もったいないから最初から出て来んだらええのに。」
「まあ、伸ちゃん。」悦子はため息をついた。「まあ、伸ちゃん、違うのよ。この葉っぱはね、分解されて粉々になった後、土に返って草木の栄養になるんやよ。全部消えてなくなるわけやあれへんねんで。」
伸子は「え?」と言って手の平の中の木の葉をみつめた。
「栄養になるん?」
「そう。」
「栄養になって、どうなるん?」
「どうなるんって、木が成長したり、葉が出たりする元になるんやない。」
「そんなん誰決めたん。」
「誰きめたんて…」
「神様か?」
「まあ、そうやなあ。」
「そうせえって、誰教えたん。」
悦子は伸子の顔をじっとみつめた。この子はこの間から、こんなことばかりきいてくる。そういうものに疑問を持つ年頃なのだろうか。しかもこの子の話をきいていると、鮭や木にも判断する能力があって生きていると、考えているようにきこえる。
「誰かが教えたわけやあれへん。それはどの木も同じように、全部そうなるように、最初から出来たあるん。」
伸子は首を傾げ、考えるそぶりを見せた。悦子は胸の動機がおさまって、ゆっくりと立ち上がった。誕生地の楠を見上げる。そしてふと気がついた。
そういえば楠は常緑樹なのだ。
「見えない地図?」
伸子の問いかける声で、悦子はふと伸子の方を見た。彼女は悦子を見上げたまま、
「木の中にも、見えない地図があるのん?」
悦子が答えないので、伸子は同じ問いを繰り返した。
悦子は伸子の瞳をじっとみつめ、少し首を傾げて、
「見えない地図?」
問い返した。一昨日鮭の話をした時に、どうやって生まれた川に帰ってくるのかと問われて、例えで使った言葉だ。
「さあ、そうやなあ、あるんかなあ。」
悦子は、少し意味が違うと心付いた。
しかし、遺伝子に書き込まれた決まりということでは一致するのだろうか。
「人間には見えない地図はないん?」
「え?」
「見えない地図。ここにいる兵隊さんたちな、ホンマは元いた所に帰りたいん。ここにずっといたくないんて。すごく寂しかったのに、伸子がみつけてあげたから、今ちょっと寂しくないんて。」
悦子は伸子の言葉に頭をめぐらせた。この子のいう兵隊さんとは、一体いつの時代の兵隊さんなのだろう。どちらにせよ、形を保ってここにいるということは、何か怨念を持っていて、離れられぬということだ。しかし伸子に怨念の話をして理解できるのだろうか。情念が土地に結びつけているのだと説明して、この子に理解できるのだろうか。
伸子は悦子の服をひいて答えを求めた。悦子はそんな伸子を見つめ、考えながら、また楠へと目をやった。
「人間の、地図はな」悦子は答えを探した。「自分で、半分は自分で決めんならんねんよ。兵隊さんたちが、ここから離れられへんのは、最初にそういう気持ち…」
悦子はふと、言葉をなくした。
「おばちゃん?」
怨念が地について離れられぬ、その初めは、一体誰のせいだというのだろう。
しかしそれで、永劫に苦しまねばならないのだろうか。寂しいと、誰かを求め続けねばならないのだろうか。
ふいに、悦子はみぞおちの所に、伸子の手の感触があって、悦子は自分の胸元に目をやった。伸子が胸元に手をあてている。伸子の顔を探って、その瞳にドキリとした。大きく見開かれた瞳が、静かに光っている。
「いたいのん?」
伸子は心配そうな顔で、悦子の顔をうかがった。悦子はその言葉に、答えることが出来なくて、うつむいて静かに笑うと、また伸子の顔を静かにみやった。一昨日ぶった時は、赤く腫れていた頬が、今日はもう跡形もなく消えている。悦子はゆっくりと、伸子のその頬をなでた。
「おばちゃん?」
涙がこぼれた。
許せばよかった。
救えばよかったのだ。こうして胸に手を当てて、救えばよかったのだ。あの男の妻から、男を掠奪しようとした非道の償いに、せめて、救えばよかったのだ。苦しかったのに、あんなに苦しかったのに、自分を嘆くばかりで、恨むばかりで、何も、みえていなかったではないか。過ちの償いに、彼を救えばよかったのだ。見えなかった、何も、自分の不幸に精一杯で、彼の、何もかも、わかろうとしなかった。
悦子は手で頬の涙をぬぐった。そして、「伸子は」と腰を下ろす。「あんたは、不幸な子供やなあ。見んでもええことを、知らんでもええことを、何でそうやって知るのん。」
悦子の目から涙がこぼれて、それがまだ頬に残っている。大人に泣かれて伸子は戸惑うようなそぶりを見せた。
「おばちゃん、あたし不幸違うんよ。皆が不幸なんよ。兵隊さんたちも、皆、寂しいから、あたし他の人にも寂しいのん教えたろ思たのに、見えへんて言われるねん。でも、もう誰にも言へんわ。おばちゃんも、お母さんも怒ったからもう言えへんのよ。」
「言ってもええんよ。おばちゃんには、言ってもええねんよ。」
ううん、と伸子は首を振った。
「一人だけ見えるのは、悲しいの。誰もわかってくれへんと、寂しいの。だから、黙っているのん。でないと、あたしも皆のこと信じられへんようになって、兵隊さんたち見えへんようになる。そしたら兵隊さんら、もっと寂しい。」
伸子が懸命に言葉をつげる。悦子はうつむいて笑った。
手で涙をぬぐうと、頭をもたげて伸子を見つめた。
いっそ世界に一人きりなら、寂しくないのだろうか。
悦子は立ち上がった。それから騒ぐ楠をみつめる。楠公誕生地の楠は、村おこしに乗じて地面をアスファルトで固められてから、木がみるみるうちにやせてしまった。もうこの木々の栄養は、幹に栄養剤をさして、とらせるしかない。
「どうやったら皆、幸せになるんかなあ。」
悦子は楠を見上げていた。子供の頃はこのすぐ前に村営プールがあって、夏になると泳ぎにやってきたものだった。休憩の時にはよく、この楠を見上げて、真夏の潤しい楠にみとれたものだ。
「人にも、幸せになるための地図があったらええのにねえ。」
伸子の声が遠くにきこえる。悦子はそうやねえ、と上の空で答えた。
「本当は、もしかしたら、体のどこかに眠ってて、探せばみつかるのかもしれへんなあ。」
「みつかるのん?」
「さあ、どうやろねえ。」
悦子は伸子に振り返った。伸子はうつむきかげんでいつもの、眉根を寄せた「困った顔」をしている。それを見て、悦子は微笑んだ。
「おばちゃんねえ、幼稚園の時、夕方忘れ物取りに中に入ったら、教室の夕日の中に女の子立ってたん見えたの覚えてるわ。廊下から見ると確かにおるのに、教室開けたらおれへんの。あの子、何やったんやろうねえ。」
伸子はうたれたように、眉間をほどいた。それから、嬉しそうに微笑むと、悦子の体に抱き着いて、
「今もおるんよ。」
小さな声でつぶやいた。
佐々木幸綱『柿本人麻呂ノート』には、万葉時代の霊視について述べた箇所がある。古代の人々は、宙をゆく霊の姿を見ることが出来たらしい、というのだ。そのことは万葉歌からうかがうことができるのに、ある時を境に突然、その姿を見る能力が失われている。それは必ず、戦争であり、飢饉であり、人々の心を痩せさせる出来事の後となっている。 悦子は抱きついた伸子の頭をなでた。すると、伸子はそのまなざしを上げ、悦子に笑いかけた。見上げる目に、空の影が映っている。
冬が近づいている。
目の前では枯れ葉が、ゆらり、ゆらりと宙を待っていた。葉は、スーと音を立てるでもなく、地面へと近づいている。カサリと音を立てて落ちると思った瞬間、一陣の強い風が地面の葉を一斉に巻き上げた。あ、と思って手で目を覆う。すると次の瞬間には、今落ちんとした枯れ葉が、色に紛れ、どこへともなく消えてしまった。
完
(1996年11月作品)