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(続き)

 少女はじっと彼をみつめていた。それからとろんと視線を落とすと、
「寂しいん?」
そう尋ねた。
「え?」
彼はドキリとして少女の顔を見返した。しかしそこにはあどけない顔があるばかりで、何の曇りもなかった。
「寂しいん? おじちゃん、一人で。」
少女の言葉は彼の胸をチクリとさした。ように、思えた。彼はそのあどけない眼差しをみつめながら、困ったように微笑んだ。
「いや、寂しないよ。ただ…。」
言葉を探した。
「居場所がないだけなんや。」
「イバショ?」
少女は首を傾げた。さっきオラウータンと化した顔は、下膨れのプルプルとしたほっぺに小さな口を結んでいる。
「そう、居場所。どこにもね、いるところがないんや。おじさん、一人やないねん。おじさん、どこにも、居られる場所がないねんよ、きっと。」
彼の言葉に、少女は首をかしげた。そして、泣きそうに顔を歪めた。言葉が難しかったのかと彼は慌てたが、少女は泣きそうな声で、
「寂しいねえ。」
とつぶやいた。こんな子供にそんなことがわかるはずもないと思いながらも、彼はその声にふと胸の痛むのを感じて、思わず少女から顔をそらせた。
「おっちゃんのお嫁さんになってほしかった人も、寂しいねえ。」
彼はギクリとして少女の方へと向き直った。
「おっちゃんのこと、すっごいすっごい好きやったのにねえ。今でも、すっごいすっごい好きやのにねえ。」
彼は少女の顔をみつめた。
「そんな、お嬢ちゃん、見てきたみたいに。」
「うん、見えるんよ。お姉ちゃん、泣いてるん。赤ちゃん死んだ。誰もおれへん。寂しい、悲しい、て、泣いてるん。」
少女はボロボロと涙をこぼした。彼は伸子の心が理解しかねて、彼女の顔をのぞきこんだ。
 どこか具合でも悪いのだろうか。
 何か悲しいことを思い出したのだろうか。
 一瞬、少女の泣き顔に女の顔が映っているように見えて、目をしばたかせた。
 馬鹿な、あの女は泣くような女ではない、そういう女ではないのだ。
 彼は首を振った。それから、伸子のあどけない顔をまじまじとみつめる。
 子供は不思議の宝庫である。例え彼にはわからなくても、子供時代にわかる不思議というものがあってもおかしくはない。
 この少女は今、何かに同調しているのかもしれない。
 普段はそんなことを微塵も信じない彼であったが、今はそんな気がしてならなかった。
少女は泣き顔を手でぬぐうと、まだ濡れたままの顔でスカートのポケットに手を入れた。それから差し込んだ手を引き出すと、彼に向かってハイと差し出した。手の平に乗っている。
 それは、セロハンの両端をしぼって包んである、キャンディだった。
「え? これ?」
彼は不意をつかれて戸惑った。
「あげる。」
少女は舌たらずの口でそう言った。
「ハハ…僕に?」
「うん。」そして彼女は、眉間に皺を寄せた。「それね、すっごくすっごくおいしいのん。すっごくすっごくおいしいのん。すっごくすっごくおいしいけど、お母ちゃん虫歯になるからて、一日一個しかくれへんのん。」
「それを、僕にくれるの?」
「うん、ジュースのお礼。」
「ははは。ありがとう。」
彼は受け取った。そういえばさっき、伸子が笑った時、前歯が幾つかかけていた。生え換わる時期なのだろうか。虫歯だろうか。愛嬌を添える役になっているのは確かだが…。
 彼がもらったそのキャンディをみつめると伸子はその彼の手を見て、「ああ…!」と慌てて口を開けた。
「すぐ、すぐ食べたらあかんの! すぐ食べたらあかんのんよ! こうやって」
言いながら伸子は右の手の平を上にかかげて、目を細めた。
「きれいねえ、きれいねえ言うてから、食べなあかんねんよ。」
少女の言葉に、彼はまた手の平のキャンディをみつめた。なるほど、キャンディは半透明の栗色で、透明のセロハンに包まれている。透かしたら、光りそうに見えた。
「なるほど、宝石みたいやねえ。」
「そう! そうなん! おっちゃん、分かるねんや。」
そうパッと顔を明るくすると、伸子は嬉しそうにニコニコと笑った。やはり前歯がかけている。つられて彼が笑うと、伸子は立ち上がって、
「おっちゃんにわけたる!」
走りだした。
 彼は驚いてしばらく彼女を見送ったが、彼女は振り返って、
「おっちゃん早く!」
叫んだ。
 彼は何が何やらわからず走りだしたが、彼女はわき目もふらずかけていく。資料館の横から裏道のあぜに抜け、たんぼ畑の中を走った。
「もうキャンディならいらないよ。」
「違うのん!」
少女の後について走ると、再びアスファルトの道路に出る。そこからまた畦に入って少し走ると、草むらが見えた。休耕田らしい。彼女はその脇の田に足を踏み入れると、
「ここあたしの陣地ねん。」
と彼を振り返った。彼は陣地というその辺りを見てみたが、なるほど、そこだけは草が生えていず、しかも耕された気配がない。二十メートル四方かと彼は踏んだ。
「陣地って、何の陣地なの?」
「戦争ごっこする時のん。」
「戦争ごっこ? 戦争ごっこって、誰と?」
「兵隊さん。」
「兵隊さんって?」
「兵隊さん。鎧つけてるん。」
彼はそれでも理解できず、困ったように首を傾げて、意味もなくニコニコと笑った。伸子はその陣地という空き地に入って中ほどまで歩くと、その真ん中に足で線をひいた。
「こっから半分よ。半分ね、おっちゃんに、あげる。」
そんな伸子を見ながら、彼はハハハと笑った。
「でものぶちゃん、おじちゃんにくれたって、おじちゃんはもうここには来られへんよ。」
「大丈夫。戦争ごっこする時は、おじちゃんの名前呼んで上げる。おじちゃん、名前なんて言うのん?」
彼は困った。何だか名前だけを残したら、自分が去った後も少女が自分を慕い続けるような幻想が頭をよぎって、名前を告げるのがためらわれた。
「おじちゃん?」
少女は彼の言葉を待って彼を見上げている。
「名前。」
あどけないその顔に、無下に断ることもできない。彼は言葉を探していたが、ふと、
「のぶちゃんはどうして、陣地をわけてくれるの?」
と尋ねた。すると彼女はためらわず、
「だって、場所ないって言うたもん。だから、あたしのん分けてあげるのん。」
少女の素直な答えに、彼は笑った。
 つまり、そういうわけなのだ。「居場所」と言ったのを、彼女は単なる「場所」ととったのだ。きっと彼女は、空想の「戦争ごっこ」で彼の名前を呼び、彼を空想の遊び相手とするのであろう。
「フミタカ。」
彼は少女にそう言った。
「文貴、それが、おじちゃんの名前。」
少女はにっこり笑って、地面に腰を下ろし、石で「ふみたか」と書いた。
「おじちゃんの名前を呼んだら、返事をしてね。皆で一緒にいる時も、あたし忘れんと呼ぶからね。」
そう言って少女は立ち上がると、もう一度、
「呼ぶからね。」
と、小指を突き出した。彼はそれを見ると、
「うん、いいよ。」
そう言って、彼女の小さな小指と結んだ。
「オジイに後でもっときれいに書いてもらうねん。」
伸子が「ふみたか」という地面をみつめながら小さな声でつぶやくので、
「え? おじいさん?」
そう聞き返すと、
「うん、あそこにいつもいてるん。呼ぶと来てくれるん。たまに大将してくれるん。」
文貴は少女の指さす、段々になったたんぼの下手を目で探した。しかし、彼女の言うそれらしき人は見当たらない。今日は事情があっていないのかと思った。そしてその下手をみながら、ふと、この土地は、大きくてなだらかな丘の中腹なのだということに気が付いた。遠く、山の果てに、沖のような低地が見えている。女の言ったとおり、そこには大阪市街のビルが林立していた。そして、見上げた空は、吸い込まれそうなほどに広い。青い空の下、雲が流れている。真夏の日差しを感じながら、彼は額の汗をぬぐった。
 

 家に帰って、夕刻、今日はいたズボンも洗濯しようと洗濯機の前に立った。ポケットを探る。と、昼間少女にもらった飴が出てきた。彼はその金色に近い栗色の飴を眺めると、にっこり笑い、洗濯機にズボンを突っ込んで回してから、その飴を持って居間の方へと向かった。
 普段飴など食べない彼であったが、食べないにしてもどこかに置いておかなければいけないような気がして、居間のソファにすわると、それをテーブルの上に置いた。
 少女は何と言ったっけ。
「手の平の上に乗せて、こうやって…」
彼は試みに右の手の平に乗せて、少女のしていたのを真似た。
「きれいねえ、きれいねえ。」
彼は吹き出した。やはりこういうことは、あの年頃の女の子がした方が可愛らしいに決まっている。それに、日が暮れてしまっていて、部屋の明かりもつけていなかったから、昼間見たほど光ってはいない。少女が眉間に皺を寄せて、「すっごくすっごくおいしいの」と言い、一日一つしかもらえないということを思い出して、彼は飴を包んだセロハンを開いた。飴を口に含んでみる。すると、懐かしい、ごく基本的な飴の味が、彼の口の中に広がった。
 カラリと音を立てて、甘い固まりが口の中を転げていく。
 その甘さが何かの口火を切ったように、彼の胸をあつくした。
 口がわななく。
 何だろう――
 彼は何かを忘れてきたような気がして、頭の中を探した。しかしその忘れ物が思い出せず、それが一層彼の胸をたたいた。
 ――寂しいねえ。
 あの時少女は、泣きそうな声でそうつぶやいた。
 ――おっちゃんのこと、すっごいすっごい好きやったのにねえ。
 よく女はこの部屋で、彼の隣りにすわっては、部屋着姿のままよりそったものだった。その体の感触は、今でもはっきりと思い出せる。最初の頃はよく色んな話をしたものだった。
 そうだ、知らなかった、いつからだったろう、女は彼の横から離れていったのだ。目の前のソファへ、――隣りに立って、――部屋へこもり、それから――、
 ――寂しい、悲しい、て、泣いてるん。
 途端に、伸子の泣き顔が頭に浮かんで、彼ははっと顔をあげた。それから、思わずうつむいて、顔を苦らせた。
 そうだ。
 そうだ、泣かないはずがない。悲しくないはずがない。平気なはずがない、何も思わずに、あんなに食ってかかったはずがない、あんな乱暴に、出ていくはずが、ないのに――。
――自分に都合いいようにばっかり考えてる――
 女の口癖のような言葉が耳に響いた。
「誰とも、深く関わるのが怖いんやわ。」
 そんなつもりはない、そんなつもりはなかった、ただ、あんなふうに――、 
 傷つけたくなかった、本当は。いつも、誰も、傷つけたくなかった、それなのに――。
「自分が一番傷つきたくないだけなんやわ。」
夕闇の部屋で、彼が女の声に視線を移すと、目の前でソファにすわった女が、あの、皮肉な笑みを浮かべている。彼はその、彼女に小さく微笑むと、
「そうかもしれへん。」
言って、視線を落とした。
 疲れている。
 疲れているのだ。何かはわからない。でももう、ヘトヘトなのだ。居場所がない――居場所がない――心を休める、場所がない。
 どうしてもっと、うまくやれないのだろう。
 頬を涙が伝い落ちた。
 そうだ、あそこでも良かった。少女が「ふみたか」と書いたあの場所。あそこで良かったのだ。少女が分けてくれたあの場所に、永遠にすわっていたかった。そして、彼女が母親からもらうという飴を時々わけてもらうのだ。宝物のように、捧げながら――。
 一体いつから、こんなふうになってしまったのだろう。自分一人、世界の真ん中にすわって、所在もなく――
 日暮れの中、一人きりの部屋で、もう帰らないものが――きっとそれが忘れものなのだ。あの村に、置いてきてしまった。もう戻れないのだろうか、もう――。
 一体、どこへ――
 彼はふと、ぼんやりした頭の中で、少女の言葉を思い出していた。自分は、あの少女に、女の腹の中にいた子供のことを話しただろうか。赤ちゃん、死んだ――確かあの子は、そんなふうに言わなかっただろうか。自分はそれを果たして――
 口の中の甘さも消えて、ほとんど思考のなくなった頭で、明かりもつけず、彼はそのことばかりを考えていた。

 たんぼの畦の傍から、小さな頭がゆるゆると上った。それからうかがうような目がのぞくと、そこでぴったり動きが止まる。
「前方敵はっけん。」
伸子は休耕田になった下の段のたんぼから、上の段のたんぼへと頭を出しているのである。終業式の終わった学校から帰ると、家の中に鞄を放り出してすぐに遊びに出た。今日は早く帰るから、遊ぶ約束をしていたのである。
 伸子は不意に、横にいる兵士の頭を小さな手で殴った。
「よっちゃん、頭出したらあかんて言うたやろう!」
彼女はよっちゃんを叱りつけると、よっちゃんは申し訳なさそうに頭をひっこめた。
「せんとうじゅんび。」
つわものどもはうなづいた。
「とつげき―――!」
 文貴は他社との打ち合わせの途中で、ふと我に返った。
 今何を考えていたのかと顔を上げる。目の前の話に集中していなかったのに気がついて、少しきまずそうに頭を下げた。それに気づいた先方は、深いため息をついて、手に持っていた扇子を広げた。
「今日は暑うおますなぁ。」
打ち合わせの席の横、窓越しにのぞいた空は、真っ青に、まぶしいほどに晴れ渡っている。
 照りつける太陽の下、伸子は激怒した。
「りっちゃん! 今切られたやろ! 何で倒れへんのん!」
伸子の声に、全体の動きがピタリと止まった。注目されたりっちゃんは、しばらく立ったまま戸惑っていたが、指令役の伸子が怖い顔でみつめるので、その場に突然どう、と倒れた。倒れたものはひきあげの合図がかかるまで、そこに倒れていなければいけない決まりになっている。元より、この、戦争ごっこに勝敗などない。死ぬものなどない。ただ彼らは強く勇ましい武士を、演じ続けるのだ。これはおおまじめな、ごっこ遊びなのだ。
 伸子は振り返った。
 味方は劣勢である。
「フミタカ―――!」
 彼は思わず振り返った。大阪市街の通りで、誰とも知れず呼ぶ声に、空まで見上げた。空耳かと疑った。しかし、あれは確かにあの、少女の声だ。
 伸子の声。
 耳の鼓膜をついているのではない。
 それではどこに? 
 少女の声はどこに響いているのだろう。
 少女は彼を、呼んでいる。呼び続けている。ここちよい、あの舌足らずな口調で、楽しそうに――。
 少女は今、あの戦場で戦っているのだろうか。まぼろしの兵士を連れて、戦っているのだろうか。
 いや、と彼は思い直した。
 この世には、きっと我々の知らない別の宇宙があって、彼女は、その宇宙と交信できるのだろう。まぼろしのようにこの地に揺らめき立つ何かと、言葉を交わしている。そして、そこにいるもう一人の自分と、きっと遊びほうけているのだ――
 そうだ、と、彼は思った。
 あいつの職場は――、いや、実家へと、連絡をとってみよう。もう、遅いかもしれない。もう、遅いかもしれないけれど。
 もう、遅いだろうか――?
 許し、という言葉に、静かに、彼の胸が震える。
 文貴は向き直った。
 もうすぐ、炎熱の午後がやってくるのだ。 
 彼は口の中に、宝石のような飴の甘さが蘇るのを感じた。そして額の汗を拭きながら、雑踏へとまぎれていった。

(1996.7.15了 1999.1.23改稿)

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