今年の春小学校に上がったばかりの伸子は、夏休みを目前にひかえてようやく母親の「お見送り」なしでも平気で学校へでかけられるようになった。母親のつきそいがなくなってから、玄関でいつまでもグズグズしていた彼女だったが、つい先日、家の前に群がる兵士たちが、実はとても友好的だということに気がついて、平気になったのだった。
その日も伸子はいつものように、ドアを開けた。家の扉を開けると、今はもう休耕田となった田園風景が、段々に広がっている。大阪でただ一つ残された村な上に、伸子の家は集落を外れて新築されたので、近辺に家が少ない。子供も少ない。故に学校は集団登校であるにもかかわらず、坂の途中にあるいっちゃんの家まで、一人で歩いて行かなければならなかった。入学して最初の一ケ月は、六年生の班長さんが坂の下から迎えに来てくれていたが、その一ケ月を過ぎると、段々のたんぼの間をぬって蛇行する坂道の途中に、民家がまばらに屋根を見せているだけの中を、たった一人で歩いて行かなければならなかった。
小学校に上がるまでは、いつも母親にぴったり寄り添って、何者かから身を隠すように歩いていた。そうしなければ、伸子には見えてしまうのだ。
坂の途中、電信柱の横に、いつも立っている女。
母親には見えないという。
遠くのたんぼの中に立っていつも伸子をみつめ伸子が出かける時には笑って手を振るオジイ。坂の下の大木にいる、皺くちゃな顔のオバア。そして、家の前の道路を挟んだたんぼにいつも、たくさんたくさん並んでいる、鎧を着けた兵士たち。
伸子の村は大昔、戦場だった。人がたくさん、死んだのだという。
しかし伸子はその事実を知らない。
幼さが、理解させないのだ。
伸子がいつものように玄関を開ける。すると、家の前には、休耕田になったたんぼに貧相な草が呆然と立ち尽くしている。しかし伸子には、その呆然と立ち尽くしているのが草ではなく、鎧を着た兵士に見えるのだ。
二十体…三十体?
伸子は長い間、その兵士たちが見えないフリをして過ごしていた。しかし、一人で家を出されるようになると、次第に平静を失っていった。しかもそれが、悪いことに兵士たちにばれてしまったらしい。
彼らは母親の「お見送り」のなくなったある日、一人でしょんぼりとおびえながら歩く伸子の後ろを、隊をなしてついてきた。坂の途中のいっちゃんの家まで。そして彼らはいっちゃんちまで来ると、立ち止まって伸子を見送った。伸子が恐る恐る振り返ると、母親がそれまでしていたように、彼らはそろって手を振っている。伸子はそれを見ると、慌てて前を向いたのだった。
コワイ―――!
一体何日、伸子がその恐怖を体験しながら過ごしたことだろう。
ところがある日、伸子は坂の途中まで来て、ある恐ろしい事実に遭遇した。
いっちゃん、歯痛でお休み。
ということで、伸子は一人で坂を下りなければならなくなった。後ろにはいつものように、兵士の群れ。伸子は青くひきつった顔で、体の半分もあるようなランドセルを背負いながら、トボトボと一人で坂を下りなければならなくなった。すると、いつもは見送る兵士たちが、その日に限ってついてくるのである。
伸子の顔は歪んだ。
「ぎぃやあああ――――――!」
彼女は泣き出した。泣きながら走った。しかし兵士たちも、伸子の後を走ってついてくる。
伸子は勢い余ってこけた。顔からのヘッドスライディングである。
しかし兵士たちは何もしない。
心配そうに伸子を取り囲んで眺めている。
ランドセルの重みも手伝って、顔からスライディングした伸子の顔面は、おでこを先頭にあちこちとすりむけてしまった。伸子は起き上がりながら、ンフン、ンフン、と、しゃくりあげる。それから、後ろにいる兵士たちをにらみつけた。
彼らは申し訳なさそうに肩を落とし、そこに立ち止まった。
伸子はベソをかきながら、振り向きもせずに坂を下りた。
そして、その次の日のことである。
伸子がガーゼだらけの顔でドアを開けると、兵士たちは家を取り囲み、野花を摘んで彼女を待っていた。伸子が胡散臭そうに家の外に足を踏み出すと、兵士は伸子に花を差し出した。伸子はやはり怪訝な顔つきで、上目使いに兵士をうかがったが、差し出されたものを受け取らずに歩き出した。と、やはり兵士たちも後をついてくる。
伸子は走りだした。
兵士たちも走りだした。
伸子が立ち止まる。と、兵士たちも立ち止まった。
伸子は試みにスキップをしてみた。すると、兵士たちも鎧をカチャカチャいわせて、皆スキップを始めた。
伸子はとうとう、味をしめてしまった。
だから今日もドアを開けると、兵士たちが待っている。いっちゃんの家の前まで、隊を成して送ってくれる。そして振り返ると、皆、手を振って伸子を見送っている。
今日、帰ったら、何しようか?
皆でカゴメカゴメしよう。
はないちもんめしよう。
鬼ごっこしようか。
戦争ごっこも…
南朝の英雄、楠正成の生誕の地であるという、その村に彼がやってきたのは、七月半ばの平日だった。一般企業のサラリーマンである彼は、その日有給をとって家にいるはずだったのだが、突然、その朝思い立ってこの地に来たのだった。思いつくのが遅かったために、ついたのは昼過ぎだった。途中、近鉄電車の富田林駅近辺で昼食をとり、そこからバスに乗った。終点の「森屋」というバス停に降り立つと、まず照りつける日差しに閉口した。大阪でたった一つ残った村だというから、どれほど自然も豊かだろうと思ったのに、バス停から見渡す付近はジリジリと熱を発するアスファルトの世界だった。
案内標識に従って楠公誕生地を目ざす。ゆるやかな坂をのぼりながら、その暑さに、朝の陰鬱さがまた蘇って来た。
四月に異動があった。その頃といえば、彼は体調をくずしていたのだが、異動した先の部所では、仕事になかなか慣れなかった。営業部から出版部への異動であり、三十にして係長に昇進した。勤務先や平の異動と違って仕事の内容や責任がまるで違う。そして仕事が不慣れな上に、上司がワンマンだった。入社間もない頃のことであれば、新人の意識も手伝って、今の状況に立ち向かうこともできただろう。しかし、彼の瞬発力は衰えていた。おまけに、一緒に暮らしていた女が出て行った。それが余計、彼を陰鬱にしていたのかもしれない。
いや、女が出て行った、それが、一番大きな原因だった。
女は友人に誘われて、数年前にこの村に来たのだと話したことがある。ちょうど、大河ドラマで「太平記」をしていた頃で、どこかの旅行社がバスツアーを企画した。彼女らは、そのツアーに参加したのだという。
「楠公誕生地? 確かあそこやと思うねんけど、空が広く見える土地。山の向こうの低地に海見えるんかと思ったら、大阪市街が見えるんやもん。あの市内の巨大ビルディングやで。コンビニもない田舎、たんぼの中にいてよ、気分は『太平記』で。最低、あのビルどうにかしてよって思ったわ。」
彼女はいつものように、ぺらぺらとよくしゃべった。それをきくともなくきいていた彼は、新聞を眺めながら、
「へえ、いいところ?」
そう尋ねると、彼女は皮肉な笑顔を彼に向けた。そしてどこか遠くへ眼を泳がせて、
「できそこないの田舎。何をしたらいいかわからなくて焦ってしまう。どんなに賑やかでも、一人になると寂しくて死んでしまう。」
それきり彼女は黙ってしまった。
バス停からゆるゆると坂を五分ほど歩くと、標識があって彼は左折した。少し下って、橋がある。橋の名前は「出会橋」と記されていた。何と縁起のいい名前と思って橋の名前をみつめて歩いていると、道が三方向に別れている。案内標識がないから直進だろう。彼は進行方向に目を向けると、思わず顔を苦らせた。
「うへえ、登りや。」
さっきよりは強い坂が、蛇行して登っていた。山の合間を削ってつくられた道なのだろうか、両サイドが崖に挟まれている。その道を五分ほど上っていくと、サイドの崖はいつしか消え、視界が開けたところで案内標識があった。その案内標識に従って右折する。なるほど、あれが楠正成の誕生地なのだろう。左手に大きな建物があって、右手に木の茂みがある。そして彼は真っすぐ、誕生地と書かれたその茂みへと進んだ。四角に盛り上げられ、椿の垣がめぐらされたその壇の内側には、楠が何本か植えられていて、上の方で枝が屋根を作っている。足元に敷き詰められたジャリ石には、木漏れ日が落ちていた。樹齢何年ぐらいだろう、百年は経つだろうか。幹が古くて太い。中央にはひときわ高く壇が設けられ、「楠公誕生地」と刻まれた石碑がある。
彼は息をついて、汗をぬぐった。
奥には「郷土資料館」がある。試みに彼は碑のある壇を下りてその建物に入っていった。入り口で職員の顔がのぞいて、入場料をはらう。奥の展示室に入ろうとして、彼はふと、
「あの下にある橋はなぜ、『出会橋』というのですか?」
と尋ねた。すると職員は造作もなく、
「楠公さんの兵と、幕府方の兵が出会った橋やからときいてますけど…」
彼はそうですかと言って、礼を述べてから展示室に入った。
先ほど縁起がいいと感心して通ったが、実は少しも縁起がよくなかったのだ。そうだ、喜ばしい出会いもあるが、喜ばしくない出会いもあって当然なのだ。
こぢんまりとした展示室を見終わると、彼は資料館を退出した。
アスファルトとセメントで覆われた地面が、憎らしいほど午後の日を照り返している。彼はさきほど、誕生地へと曲がる前に「産湯の井戸跡」という標識を見たような気がしたので、そちらの方に引き返して標識を探した。見るとたんぼの中のあぜ道を通っていくらしい。彼はその道を行きながら、さっきの誕生地の方を振り返った。「誕生地」から、「産湯の井戸」まで、どうしてこんなに距離があるのだろう。これでは水を運ぶのにも、バケツリレーだ。
と、道が下りになった。たんぼも段になっている。土地が一段下がっているのだと思いながら歩いていくと、井戸の方とおぼしき道に、茶色い小学校の制服を着て、黄色い学童帽をかぶった子供が一人立っている。子供は背をこちらに向けて、まだ新しい赤いランドセルをてりてりと照りつかせていた。少女は彼が来たのも気づかないそぶりであぜの真ん中に立っているので、彼は声をかけようとした。と、その瞬間、少女は振り返った。振り返った途端に、少女は突然顔を歪ませた。
「ぎぃーやーあーあーあー――――!」
彼は呆気にとられた。
自分の腰ほどしかない背丈の子供はやがて、叫び声をそのまま泣き声にかえて、大声で泣き始めた。
「ちょっ、ちょっと。ごめんよ。おじさん、そういうつもりじゃ…」
彼はたじろいだ。少女は大きく開けた口を曲げて、だらだらと泣いている。オラウータンが泣けばきっとこんな感じだろうと、彼は想像した。
「だ、大丈夫? ごめんね。おじさん、びっくりさせてしもたんやね。何にもせえへんから…」
彼がそういうと、少女は泣くのをこらえるように、しゃくりあげた。それでも、まだ口の歪みはなおらない。少女はその口の歪んだ中から、「コトリが…」とつぶやいた。
「え? 小鳥? 小鳥がどうかしたの?」
彼が尋ねると、少女はまたしゃくりあげた。
「コトリ、来たんかと、あんまり、一人で、遠…いくと、コトリ、来て、サーカス売られるて、おばあちゃんが…」
彼は思考をなくして少女の泣き顔をまじまじと見ていた。それからしばらくして、少女の言うのが「小鳥」ではなく、「子盗り」なのだということに気が付くと、「いつの時代や」と小さくつぶやいた。照りつける暑さも手伝って、彼は激しい倦怠を感じた。
彼は少女の手をひいて、もう一度誕生地の方へ戻った。資料館近くにある自動販売機まで連れていくと、少女に「どれがいいか」と尋ねた。少女は背伸びをしてこれと指さした。
彼は、冷たい缶を二本手に持つと、
「どこか座れるとこないかな?」
と尋ねた。少女は、誕生地の裏にあると答えるので、そのまま石碑をいただいた壇の裏側へとまわっていった。
そこで二人はベンチに腰掛けてすわると、彼は少女にジュースを差し出した。少女は怖じて首を振った。
「遠慮しなくていいよ。おあがり。」
「知らん人から物もろたらあかんて、おかあちゃんが。」
「お母ちゃんには内緒にしておいで。おっちゃん、喉カラカラなんや。お嬢ちゃん…名前なんて?」
「のぶちゃん。」
「のぶちゃん飲んでくれな、おっちゃん二本も飲まれへんわ。」
そういうと、彼女は缶ジュースを受け取った。ぎこちない手で開けようとするので、横から手にとって開けてやると、彼女はやっと笑顔をみせた。
よくしつけられた子供だと、彼は横で缶ジュースに口をつける子供の、長いまつげを眺めた。そういえば、自分にもこれくらいの子供がいてもおかしくない年なのだ。
「のぶちゃんは、何年生かな?」
肩につけている黄色い交通安全の札で既にわかっていたが、彼はこう尋ねてみた。
「一年生。」
「お母さんとおばあちゃんと、他に家族誰がいてるの?」
「おとうちゃん。」
「ふん。」
「おじいちゃん。」
「それから?」
そう尋ねると、少女はじっと考える様子で、
「お兄ちゃん。」
と付け足した。
「へえ、お兄ちゃんは何年生?」
少女は口をへの字に曲げて彼の顔を振り仰いだ。眉間に皺を寄せている。
「中学一年生。」
彼女は怒ったような口調でそう言った。彼は家族構成をきいて何かまずかったのかと思ったが、少女は続けて、
「お兄ちゃん、きらい!」
そう言い放った。
「え? どうして?」
「のぶちゃんのおやつとるねん!」
「そ、そう。のぶちゃんの、おやつ…」
少女はぷいと前を向いた。彼は自分で顔が笑っているのがわかった。
愛想は悪いが、愛嬌のある子供だ。
するとふいに、少女はまた彼の方を向いて、
「おじちゃんは?」
と尋ねた。彼が、え、とたじろぐと、
「おじちゃんの家族は?」
少女は続けて尋ねた。彼はどう答えたものか迷ったが、
「おじちゃんねえ、家族いてへんねんよ。」
そう答えた。すると、少女は首をかしげて、
「いてへんのん? お父さんも?」
「いや、お父さんはいるよ。一緒にすんでないんや。」
「何で?」
「その…おじさんは仕事の関係で、お父さんやお母さんと離れて、一人で暮らしてるんやよ。」
「一人で?」
彼がうんとうなずくと、少女は不思議そうな眼で彼を眺めた。
「お嫁さんは?」
こうきかれて、思わず彼の胸はうずいた。彼が答えかねて視線を落とす。しかし少女の顔をうかがうと、彼女はまだ彼の答えを待っている。彼は何かをとりつくろうように、ハハと笑った。
「おじさんね、ふられてしもてん。お嫁さんに来てほしかった、女の人に。」
自分で言った言葉の端からズキリと胸がうずいた。決して、嘘ではなかった。しかし、正しい言いでもなかったのである。
顔を合わせる度に結論のない口論が始まるので、お互い別の部屋に閉じこもったままで、顔を合わせるのを避けるようになっていたのは、いつごろだったろうか。
ところがある休みの日、楽しむこともなく居間のソファにすわってテレビを見ていた彼の前に、彼女は改まった風情で姿を現したのだ。
「お願いがあるの。」
そう言って、彼女は彼の前に一枚の書類を見せた。堕胎の承認書である。
「もうあんまり時間ないのん。何も言わんとハンコ捺して。」
彼はその書類を見ながら、しばらく動かなかった。複雑な気持ちが心を占める。そして一緒に暮らしているのに、なぜ女が子供を堕ろそうとしているのか、理解できなかった。しかし、彼は目の前の女に、産めばいいじゃないかと思っているのに、またそれを口に出せない。
「印鑑どこ? あたし自分で捺すわ。そこに、名前、書いて。」
女はじれたようにウロウロと歩き回った。彼はたまりかねて、
「何で堕ろすんや。」
彼の問いに、女は動きを止めた。そして彼の瞳をじっとみつめた。その瞳には軽蔑の色が浮かんでいる。しかしすぐに、彼女は視線をそらせた。
「産んだらええやないか。オレの子やろう?」
「産んでどうするの?」
彼女は立ったまま、またイライラと視線を動かした。
「あんたに一生縛られるなんて、ごめんやわ。」
彼はカッとなって立っている彼女をにらみつけた。
「荷物まとめてん。あたしら今日で、終わりにしよう。」
彼は立ち上がった。自分の部屋まで帰ると、イライラと印鑑を探した。まるで、住民票でも取るための書類のように、素早く書き上げて印鑑を捺す。そして居間へと帰ってくると、女に突き付けるようにそれを差し出した。女は彼をにらみ上げている。そして、いつもの、片頬をひきつらせたような皮肉な笑みを浮かべると、それを受け取った。
彼女は何も言わず、自分の部屋へと引き返した。バタバタと何か支度する音が聞こえる。すると、部屋のドアの開く音がして、玄関へと向かう足音が聞こえた。
「待てぇ!」
彼は居間のドアから女の背中に叫んだ。それから廊下を、足音を立てて近づきながら、
「お前どういうつもりや! 子供一人簡単に、相談もせんと、何で堕ろすんや! しかも、何も言わんと今日出ていくやなんて…」
「相談やったら今したやないの。」
「あんなん相談のうちに入るかあ! 今まででけたともでけてないとも言わんかったくせに。今お前ハンコくれ言うただけやないか。」
「そしたらあんた、ハンコくれたやないの! それがあんたの答えやないの!」
「くれ言うたから捺しただけや。…ちょっと待てや、落ちつこう。」
彼女は肩で息をしている。大声を出したせいというだけではない。興奮の反動なのだ。
「あんたいっつもそう。さっきかて、何で産んだらええやんかとしか言われへんのん? 何で産んでくれて言われへんのん? いっつもそうや。『きみのしたいようにしたらええ』。あたしのしたいようにした。そやのに何で怒るのん? 自分に責任がかかる時だけは、大人ぶって好きにせいというんやわ。自分がのぞむ時は、あたしの気持ちも都合も構わんでしたいようにするくせに! あんたにとってあたしって一体なんやのん。一体なんやのん?」
堂々めぐりの口論の中で繰り返されるいつものセリフを、彼女ははいた。しかし、彼には彼女が訴えることが、一方的ないいがかりだとしか思えなかった。時にはそのセリフが、被害妄想のようにも響いた。そして目の前で彼女は、ため息をはいた。
「もうたくさん。」
そして女は「サヨナラ」の言葉を残して出て行った。
荷物は後で取りに来させるから――
女と暮らし始めたきっかけは、ごく簡単なことだった。久しぶりに偶然あった、大学時代の同級生。大家とトラブルを起こして部屋を追い出され、友達の家を転々としていたところだった。部屋は空いてる、よかったらどうぞ、と言ったら、彼女は次の日やってきた。結構いい女だった。でも、最初そんなつもりはなかった。いつのまにか――そう、いつのまにか、そんなふうな関係になった。楽しい日々もあった。彼は自分の年も考えて、そろそろ結婚してもいいかと思った。社会的にも、一家を構えなければいけない年なのだ。彼女なら、いい。一緒にやっていく自信がある。そしてそう考えて、彼女に求婚した。しかし彼女は、しばらく考えてから、
「あんたの相手、あたしやなくてもいいん違う?」
そう言ったきり、彼女は黙ってしまった。
二人の口論が始まったのは、確かその頃だったろう。
少女はじっと彼をみつめていた。それからとろんと視線を落とすと、
「寂しいん?」
そう尋ねた。
「え?」
彼はドキリとして少女の顔を見返した。しかしそこにはあどけない顔があるばかりで、何の曇りもなかった。
「寂しいん? おじちゃん、一人で。」
少女の言葉は彼の胸をチクリとさした。ように、思えた。彼はそのあどけない眼差しをみつめながら、困ったように微笑んだ。
「いや、寂しないよ。ただ…。」
言葉を探した。
「居場所がないだけなんや。」
「イバショ?」
少女は首を傾げた。さっきオラウータンと化した顔は、下膨れのプルプルとしたほっぺに小さな口を結んでいる。
「そう、居場所。どこにもね、いるところがないんや。おじさん、一人やないねん。おじさん、どこにも、居られる場所がないねんよ、きっと。」
彼の言葉に、少女は首をかしげた。そして、泣きそうに顔を歪めた。言葉が難しかったのかと彼は慌てたが、少女は泣きそうな声で、
「寂しいねえ。」
とつぶやいた。こんな子供にそんなことがわかるはずもないと思いながらも、彼はその声にふと胸の痛むのを感じて、思わず少女から顔をそらせた。
「おっちゃんのお嫁さんになってほしかった人も、寂しいねえ。」
彼はギクリとして少女の方へと向き直った。
「おっちゃんのこと、すっごいすっごい好きやったのにねえ。今でも、すっごいすっごい好きやのにねえ。」
彼は少女の顔をみつめた。
「そんな、お嬢ちゃん、見てきたみたいに。」
「うん、見えるんよ。お姉ちゃん、泣いてるん。赤ちゃん死んだ。誰もおれへん。寂しい、悲しい、て、泣いてるん。」
少女はボロボロと涙をこぼした。彼は伸子の心が理解しかねて、彼女の顔をのぞきこんだ。
どこか具合でも悪いのだろうか。
何か悲しいことを思い出したのだろうか。
一瞬、少女の泣き顔に女の顔が映っているように見えて、目をしばたかせた。
馬鹿な、あの女は泣くような女ではない、そういう女ではないのだ。
彼は首を振った。それから、伸子のあどけない顔をまじまじとみつめる。
子供は不思議の宝庫である。例え彼にはわからなくても、子供時代にわかる不思議というものがあってもおかしくはない。
この少女は今、何かに同調しているのかもしれない。
普段はそんなことを微塵も信じない彼であったが、今はそんな気がしてならなかった。
少女は泣き顔を手でぬぐうと、まだ濡れたままの顔でスカートのポケットに手を入れた。それから差し込んだ手を引き出すと、彼に向かってハイと差し出した。手の平に乗っている。
それは、セロハンの両端をしぼって包んである、キャンディだった。
「え? これ?」
彼は不意をつかれて戸惑った。
「あげる。」
少女は舌たらずの口でそう言った。
「ハハ…僕に?」
「うん。」そして彼女は、眉間に皺を寄せた。「それね、すっごくすっごくおいしいのん。すっごくすっごくおいしいのん。すっごくすっごくおいしいけど、お母ちゃん虫歯になるからて、一日一個しかくれへんのん。」
「それを、僕にくれるの?」
「うん、ジュースのお礼。」
「ははは。ありがとう。」
彼は受け取った。そういえばさっき、伸子が笑った時、前歯が幾つかかけていた。生え換わる時期なのだろうか。虫歯だろうか。愛嬌を添える役になっているのは確かだが…。
彼がもらったそのキャンディをみつめると伸子はその彼の手を見て、「ああ…!」と慌てて口を開けた。
「すぐ、すぐ食べたらあかんの! すぐ食べたらあかんのんよ! こうやって」
言いながら伸子は右の手の平を上にかかげて、目を細めた。
「きれいねえ、きれいねえ言うてから、食べなあかんねんよ。」
少女の言葉に、彼はまた手の平のキャンディをみつめた。なるほど、キャンディは半透明の栗色で、透明のセロハンに包まれている。透かしたら、光りそうに見えた。
「なるほど、宝石みたいやねえ。」
「そう! そうなん! おっちゃん、分かるねんや。」
そうパッと顔を明るくすると、伸子は嬉しそうにニコニコと笑った。やはり前歯がかけている。つられて彼が笑うと、伸子は立ち上がって、
「おっちゃんにわけたる!」
走りだした。
彼は驚いてしばらく彼女を見送ったが、彼女は振り返って、
「おっちゃん早く!」
叫んだ。
彼は何が何やらわからず走りだしたが、彼女はわき目もふらずかけていく。資料館の横から裏道のあぜに抜け、たんぼ畑の中を走った。
「もうキャンディならいらないよ。」
「違うのん!」
少女の後について走ると、再びアスファルトの道路に出る。そこからまた畦に入って少し走ると、草むらが見えた。休耕田らしい。彼女はその脇の田に足を踏み入れると、
「ここあたしの陣地ねん。」
と彼を振り返った。彼は陣地というその辺りを見てみたが、なるほど、そこだけは草が生えていず、しかも耕された気配がない。二十メートル四方かと彼は踏んだ。
「陣地って、何の陣地なの?」
「戦争ごっこする時のん。」
「戦争ごっこ? 戦争ごっこって、誰と?」
「兵隊さん。」
「兵隊さんって?」
「兵隊さん。鎧つけてるん。」
彼はそれでも理解できず、困ったように首を傾げて、意味もなくニコニコと笑った。伸子はその陣地という空き地に入って中ほどまで歩くと、その真ん中に足で線をひいた。
「こっから半分よ。半分ね、おっちゃんに、あげる。」
そんな伸子を見ながら、彼はハハハと笑った。
「でものぶちゃん、おじちゃんにくれたって、おじちゃんはもうここには来られへんよ。」
「大丈夫。戦争ごっこする時は、おじちゃんの名前呼んで上げる。おじちゃん、名前なんて言うのん?」
彼は困った。何だか名前だけを残したら、自分が去った後も少女が自分を慕い続けるような幻想が頭をよぎって、名前を告げるのがためらわれた。
「おじちゃん?」
少女は彼の言葉を待って彼を見上げている。
「名前。」
あどけないその顔に、無下に断ることもできない。彼は言葉を探していたが、ふと、
「のぶちゃんはどうして、陣地をわけてくれるの?」
と尋ねた。すると彼女はためらわず、
「だって、場所ないって言うたもん。だから、あたしのん分けてあげるのん。」
少女の素直な答えに、彼は笑った。
つまり、そういうわけなのだ。「居場所」と言ったのを、彼女は単なる「場所」ととったのだ。きっと彼女は、空想の「戦争ごっこ」で彼の名前を呼び、彼を空想の遊び相手とするのであろう。
「フミタカ。」
彼は少女にそう言った。
「文貴、それが、おじちゃんの名前。」
少女はにっこり笑って、地面に腰を下ろし、石で「ふみたか」と書いた。
「おじちゃんの名前を呼んだら、返事をしてね。皆で一緒にいる時も、あたし忘れんと呼ぶからね。」
そう言って少女は立ち上がると、もう一度、
「呼ぶからね。」
と、小指を突き出した。彼はそれを見ると、
「うん、いいよ。」
そう言って、彼女の小さな小指と結んだ。
「オジイに後でもっときれいに書いてもらうねん。」
伸子が「ふみたか」という地面をみつめながら小さな声でつぶやくので、
「え? おじいさん?」
そう聞き返すと、
「うん、あそこにいつもいてるん。呼ぶと来てくれるん。たまに大将してくれるん。」
文貴は少女の指さす、段々になったたんぼの下手を目で探した。しかし、彼女の言うそれらしき人は見当たらない。今日は事情があっていないのかと思った。そしてその下手をみながら、ふと、この土地は、大きくてなだらかな丘の中腹なのだということに気が付いた。遠く、山の果てに、沖のような低地が見えている。女の言ったとおり、そこには大阪市街のビルが林立していた。そして、見上げた空は、吸い込まれそうなほどに広い。青い空の下、雲が流れている。真夏の日差しを感じながら、彼は額の汗をぬぐった。
家に帰って、夕刻、今日はいたズボンも洗濯しようと洗濯機の前に立った。ポケットを探る。と、昼間少女にもらった飴が出てきた。彼はその金色に近い栗色の飴を眺めると、にっこり笑い、洗濯機にズボンを突っ込んで回してから、その飴を持って居間の方へと向かった。
普段飴など食べない彼であったが、食べないにしてもどこかに置いておかなければいけないような気がして、居間のソファにすわると、それをテーブルの上に置いた。
少女は何と言ったっけ。
「手の平の上に乗せて、こうやって…」
彼は試みに右の手の平に乗せて、少女のしていたのを真似た。
「きれいねえ、きれいねえ。」
彼は吹き出した。やはりこういうことは、あの年頃の女の子がした方が可愛らしいに決まっている。それに、日が暮れてしまっていて、部屋の明かりもつけていなかったから、昼間見たほど光ってはいない。少女が眉間に皺を寄せて、「すっごくすっごくおいしいの」と言い、一日一つしかもらえないということを思い出して、彼は飴を包んだセロハンを開いた。飴を口に含んでみる。すると、懐かしい、ごく基本的な飴の味が、彼の口の中に広がった。
カラリと音を立てて、甘い固まりが口の中を転げていく。
その甘さが何かの口火を切ったように、彼の胸をあつくした。
口がわななく。
何だろう――
彼は何かを忘れてきたような気がして、頭の中を探した。しかしその忘れ物が思い出せず、それが一層彼の胸をたたいた。
――寂しいねえ。
あの時少女は、泣きそうな声でそうつぶやいた。
――おっちゃんのこと、すっごいすっごい好きやったのにねえ。
よく女はこの部屋で、彼の隣りにすわっては、部屋着姿のままよりそったものだった。その体の感触は、今でもはっきりと思い出せる。最初の頃はよく色んな話をしたものだった。
そうだ、知らなかった、いつからだったろう、女は彼の横から離れていったのだ。目の前のソファへ、――隣りに立って、――部屋へこもり、それから――、
――寂しい、悲しい、て、泣いてるん。
途端に、伸子の泣き顔が頭に浮かんで、彼ははっと顔をあげた。それから、思わずうつむいて、顔を苦らせた。
そうだ。
そうだ、泣かないはずがない。悲しくないはずがない。平気なはずがない、何も思わずに、あんなに食ってかかったはずがない、あんな乱暴に、出ていくはずが、ないのに――。
――自分に都合いいようにばっかり考えてる――
女の口癖のような言葉が耳に響いた。
「誰とも、深く関わるのが怖いんやわ。」
そんなつもりはない、そんなつもりはなかった、ただ、あんなふうに――、
傷つけたくなかった、本当は。いつも、誰も、傷つけたくなかった、それなのに――。
「自分が一番傷つきたくないだけなんやわ。」
夕闇の部屋で、彼が女の声に視線を移すと、目の前でソファにすわった女が、あの、皮肉な笑みを浮かべている。彼はその、彼女に小さく微笑むと、
「そうかもしれへん。」
言って、視線を落とした。
疲れている。
疲れているのだ。何かはわからない。でももう、ヘトヘトなのだ。居場所がない――居場所がない――心を休める、場所がない。
どうしてもっと、うまくやれないのだろう。
頬を涙が伝い落ちた。
そうだ、あそこでも良かった。少女が「ふみたか」と書いたあの場所。あそこで良かったのだ。少女が分けてくれたあの場所に、永遠にすわっていたかった。そして、彼女が母親からもらうという飴を時々わけてもらうのだ。宝物のように、捧げながら――。
一体いつから、こんなふうになってしまったのだろう。自分一人、世界の真ん中にすわって、所在もなく――
日暮れの中、一人きりの部屋で、もう帰らないものが――きっとそれが忘れものなのだ。あの村に、置いてきてしまった。もう戻れないのだろうか、もう――。
一体、どこへ――
彼はふと、ぼんやりした頭の中で、少女の言葉を思い出していた。自分は、あの少女に、女の腹の中にいた子供のことを話しただろうか。赤ちゃん、死んだ――確かあの子は、そんなふうに言わなかっただろうか。自分はそれを果たして――
口の中の甘さも消えて、ほとんど思考のなくなった頭で、明かりもつけず、彼はそのことばかりを考えていた。
たんぼの畦の傍から、小さな頭がゆるゆると上った。それからうかがうような目がのぞくと、そこでぴったり動きが止まる。
「前方敵はっけん。」
伸子は休耕田になった下の段のたんぼから、上の段のたんぼへと頭を出しているのである。終業式の終わった学校から帰ると、家の中に鞄を放り出してすぐに遊びに出た。今日は早く帰るから、遊ぶ約束をしていたのである。
伸子は不意に、横にいる兵士の頭を小さな手で殴った。
「よっちゃん、頭出したらあかんて言うたやろう!」
彼女はよっちゃんを叱りつけると、よっちゃんは申し訳なさそうに頭をひっこめた。
「せんとうじゅんび。」
つわものどもはうなづいた。
「とつげき―――!」
文貴は他社との打ち合わせの途中で、ふと我に返った。
今何を考えていたのかと顔を上げる。目の前の話に集中していなかったのに気がついて、少しきまずそうに頭を下げた。それに気づいた先方は、深いため息をついて、手に持っていた扇子を広げた。
「今日は暑うおますなぁ。」
打ち合わせの席の横、窓越しにのぞいた空は、真っ青に、まぶしいほどに晴れ渡っている。
照りつける太陽の下、伸子は激怒した。
「りっちゃん! 今切られたやろ! 何で倒れへんのん!」
伸子の声に、全体の動きがピタリと止まった。注目されたりっちゃんは、しばらく立ったまま戸惑っていたが、指令役の伸子が怖い顔でみつめるので、その場に突然どう、と倒れた。倒れたものはひきあげの合図がかかるまで、そこに倒れていなければいけない決まりになっている。元より、この、戦争ごっこに勝敗などない。死ぬものなどない。ただ彼らは強く勇ましい武士を、演じ続けるのだ。これはおおまじめな、ごっこ遊びなのだ。
伸子は振り返った。
味方は劣勢である。
「フミタカ―――!」
彼は思わず振り返った。大阪市街の通りで、誰とも知れず呼ぶ声に、空まで見上げた。空耳かと疑った。しかし、あれは確かにあの、少女の声だ。
伸子の声。
耳の鼓膜をついているのではない。
それではどこに?
少女の声はどこに響いているのだろう。
少女は彼を、呼んでいる。呼び続けている。ここちよい、あの舌足らずな口調で、楽しそうに――。
少女は今、あの戦場で戦っているのだろうか。まぼろしの兵士を連れて、戦っているのだろうか。
いや、と彼は思い直した。
この世には、きっと我々の知らない別の宇宙があって、彼女は、その宇宙と交信できるのだろう。まぼろしのようにこの地に揺らめき立つ何かと、言葉を交わしている。そして、そこにいるもう一人の自分と、きっと遊びほうけているのだ――
そうだ、と、彼は思った。
あいつの職場は――、いや、実家へと、連絡をとってみよう。もう、遅いかもしれない。もう、遅いかもしれないけれど。
もう、遅いだろうか――?
許し、という言葉に、静かに、彼の胸が震える。
文貴は向き直った。
もうすぐ、炎熱の午後がやってくるのだ。
彼は口の中に、宝石のような飴の甘さが蘇るのを感じた。そして額の汗を拭きながら、雑踏へとまぎれていった。
(1996.7.15了 1999.1.23改稿)