"個"と作品の関係

“個”と作品の関係

 そもそも作品とは、どのように生み出されるのか。
 極端な話であるが、生まれたばかりの子供に、いきなり創作に必要な知識と技術を見につけさせ、5歳になったとき成人レベルに達していても、成人と同じものが作れるのか。そして作り続けえるのか。
 また、答えを待つまでもないが、ビクトル・ユーゴーの書いたものを、川端康成が書けるか。逆も同じである。
 耽美派で、悪魔主義と呼ばれた谷崎潤一郎の小説を、同じ町内で育ち、東京帝大の後輩で、四つ違いの芥川龍之介に書けるのか。
 答えは全て否であろう。
 こういう問いを発せられれば、作ってみようと思えば幾つかは作れるかもしれない。しかし、なりかわれるかと問われれば、やはり答えを待つまでもないし、本人たちにしてみれば、そんなことをする必然性もなく、そんな己の存在をわざわざ自分で否定し、汚す必然性もないのである。
 誰が書いたのでもよければ、そこに(特に著作権のかかわらない古典作品を例にとってもわかることだが)名前を冠する必要はないのである。どういう環境で生きてきた人が作ったのかという興味があるからこそ、作家研究は行われるし、サイン会に行列が出来、エッセイ本も売れる。逆に、ゴーストライターの存在を知って「裏切られた」という気持ちにもなるのだ。
 それぞれの人生や、生活から生み出されないものはない。どれほどフィクションを貫いても、嗜好までは譲れるものではないのだ。
 何故ここまで、私が当たり前のことを書いているのかというと、たとえばストーリーにはパターンというものが存在し、同パターンの作品が生まれることがあるだろう、という声があるからである。
 確かに、人を感動させるためであったり、面白くするために、一定のパターンというのは存在する。古典の世界でも安部晴明の母や三輪山の神と生玉姫のように、異類婚姻譚で同種のテーマの場合、自然と同じストーリーの「型」を踏まえるということはあるのである。パターンという既定の、家の基礎や骨組みともいうべき部分が実際同じというのはよくあることである。しかし、家というものを想定すると、基礎工事をし、柱を立て、それを壁と屋根で覆うという一定の決まりはあるが、デザインや工法、素材というのは受注した業者によって差異が生じるものである。
 人の作るものであるから、或る程度の類型は生まれて当然なのだ。歌にしても、詩に対してつける曲は似てしまう、ということがあるらしい。しかし、家のデザインや工法、素材に至るまで、同じという偶然性は打ち合わせでもせぬ限り、なかなかありえないのである。それを作る人の技術が未熟であったり作りが単純であったりするのならわかる。でもそうでなく、しかも金銭をえ、プロフェッショナルと呼ばれ、その技術にある程度の評価を期待する人たちのしていいことではない。
 以前、私がレビューを盗作されたとき、「あらすじなど誰が書いても同じ」という意見があったが、作品による感想や受け方、イメージが、受け手の個性によってそれぞれ違うように、たとえそこにゆるぎないストーリーの真の姿が存在していても、どこに注意をひかれるかという着眼点と、それから表現の仕方は、人それぞれに違うはずで、決して同じであるはずがないのである。
 つまり表現するからには、そこに人生がつむぎだしてきた“個”が存在するのだ。
 作品とは、生きてきた人生が生み出したものである。それを盗むということは、その人の人生そのものを盗むということであり、存在そのものを蹂躙する行為であると言わざるを得ない。
 したがって、レトリックとして先行作品を踏まえる場合、その人生や人を踏みにじらないために、さまざまな手続きをしなければいけない。問い詰められて「リスペクトしてます。」だけでは、ただの都合のいい言い訳であり、その言い訳に接しない、作品だけしか知らない人にしてみれば、そんな言い訳など見えも聞こえもしないのである。そこで必要となるのが、「盗作しないための定義」の項で書いた、2、と3、の手続きを踏んでおくということである。(盗作でなく複製に相当するなら、もちろん原典側にしかるべき契約手続きを踏まなければならない)
 万人に、先行作品を踏まえたということを示さなければ、流儀に反するのだ。
 万に一つ、そこに著作権の問題が発生する場合もあるが、レトリックの域に入るものが大多数なので、本来著作権の問題は発生しない。盗作者は大方、そこをねらって言い逃れするのだが…。

 

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