女は石を愛していた。
母親が亡くなり、半年前に売りに出した家のことで警察から電話がかかったのは、つい昨日のことだった。郊外で、古いけれども造りがしっかりしているからということで、買い手はすぐについたと不動産から連絡があり、すぐ売ってしまった家である。私にはもう関係ないと思っていたのに、警察から電話がかかってきた時は一体何事かと思った。
「死体が? 死体が、埋まってたんですか?」
桜の下には死体が眠る――桜の花があんなに美しいのは、その下に死体が埋まっているからだ――幻想のようなその言葉が、まさか自分に関係するものだとは思っていなかった。つまり、売りに出した私の家の庭の、桜の樹の下に白骨死体があったというのである。買い主がつい先日、庭に倉庫を建てようと樹を切り倒して下を掘り起こした所、人間の骨が出てきて百当番通報したとのことである。買い主にしてみれば、庭の桜の樹は惜しいけれども、家の中では荷物が片付かず、桜の樹は根を張って家を傾かせることがあるからとそれを切り倒して倉庫を建てることにしたのだ。ところが人間の骨が出てきたのであるから、みつけた方も驚いただろうが、私の方でも全く寝耳に水だったのである。
とにかく警察の方まで出頭願いたいとのことだったので、つきあいの深い身内がいないことから、勤め先のデパートで同じ課の同僚である水口という人について来てもらうことにした。
懐かしい土地を歩きながらも、十一月下旬の風はもうすっかり冬のもので、寒さと緊張のために、懐かしむ余裕などまるでなかったのである。警察署に向かう途中、一緒に行った水口くんが私の気持ちをほぐすつもりかいろいろ話しかけてきたけれど、それさえもほとんど上の空だった。
私の手は震えていた。時々思い出したように胸がキリキリと締め付けられる。
みつかったのは、白骨化した、古い死体であった。全く検討がつかないわけでもなかった。私はそれが恐ろしかった。そして、その死体の主が私の思っている通りの人であったなら、どういう経緯でそこに埋められたのか、それを考えるともっと恐ろしかった。
自分なりの検討はついていると水口くんには話していなかった。私の生い立ちはだいたい知っている、それだけ親しい人であったが、話せるだけの心の余裕がなかったのである。
警察で私を出迎えたのは梨本という中年の刑事だった。連絡をくれた、その本人だったのである。テレビで見るよりもずっとお役所ふうな刑事に思わずとまどったけれども、事務的なら事務的で、その方がこっちもやりやすいと思った。
「お母さんが亡くなられて九カ月…ですね。」
「はい。」
話題が母の話から始まった。
「それで、お父さんは…?」
「父は、私が六歳の時、家を出たきり…。」
「ははあ、失踪されたんですね。」
「はい。」
「六歳というと…。」
「十八年前です。」
梨本刑事はその言葉を聞くと、あまり表情を変えずに、得心したという様な顔付きをした。
「それで、あなたは何故あの家を手放されたんですか?」
「母が亡くなって…、通勤に不便ですし、一人で住むには広すぎますから…。」
「なるほど。」
刑事は何か考えている様だった。が、すぐに、
「あなたはご存じでしたか? 桜の下に…。」
「いえ、知りませんでした。あの…。」
鼓動が次第に高鳴っていく。私には落ちつき過ぎた刑事の話し方が堪えられなかった。
「死体は…死体は、一体誰のなんでしょう。」
「いや、まだ分かりません。これから調べる所で…。」
「父のじゃないんですか。」
刑事はまじまじと私の顔をのぞきこんだ。
「何故そう思われるんですか? 何か…。」
「いえ、ただ、そんな気がするだけで…。」
「なるほど。」
本当に、そんな気がするだけだった。確信があったわけではない。私の父親は、私が六歳の時、ある朝会社に出掛けたきり帰らなかったのである。もう、十八年も前のことであった。その間十八年、母は失踪宣告も受けずに、ずっと父を待ち続けたのである。
「遺体は…」
刑事は私の様子をうかがうようにゆっくり話し出した。
「男性のものです。三十代前半から、後半といった所ですね。十五年から二十年前のものであろうと、今の所推測していますが…。」
「父ではないんですか。」
「それはまだ分かりませんので。」
イライラとした気持ちを何とか押さえようとした。私は何故その時そんなに気が急いていたか不思議であるが、断言して欲しいとは言わない、せめてその可能性があるとぐらい言って欲しかったのである。
とりあえず、その時はたいした話もせず警察を去ったのであった。ただ帰り際に、他に身内がいるかと聞かれ、もうほとんど疎遠になっている父親の弟である伯父のことを教えただけであった。
六歳の時に失踪したという父親のことはほとんど覚えていない。顔は写真では知っていたが、父親としてどんな人だったのか、ほとんどといっていい程覚えていなかった。今は大企業になっている、その頃はまだ中小だった会社に勤めていたらしく、母とは社内恋愛だった。
母の話から計算すると父が失踪したのは私が六歳の秋ということになる。いつものように会社に出掛けた父は、そのまま戻ってこなかった。失踪届けを提出したが、事件が起こっていない以上、年間に何千とある失踪者を警察は熱心に捜してはくれない。母の大叔父にあたる人がその日の父の動向を調べたが、結局分からずじまいに終わってしまった。家とは反対方向の電車に父が乗ったと、最後の父を見たと思われる同僚が教えてくれた。
しかし、それ以上は誰にもわからなかった。そして、家とは反対方向に行ったという父が、何故うちの家の庭に埋まっているのか、普通に考えても尋常ではない。もし反対方向に向けて失踪したなら、父は死んでいるとしても、別の場所に埋まっていなければならないのだ。
遺体が父のものだということは、全く根拠のない、私の勘でしかなかった。
「…原さん、榊原さん。」
ふと名前を呼ばれて気がつくと、水口くんが私の顔をのぞきこんでいた。
「あ、ごめんなさい。ぼっとして…。」
「うん、いいけど、大丈夫?」
「うん、ありがとう、ごめんなさい。」
警察からの帰り、お茶でもどうかと水口くんを誘ったのだ。気の焦りは消えていたが、胸の奥には何ともいえないわだかまりが残っていた。
「結局、何も分からんかったなあ…。」
「うん。…ごめんね。せっかくついて来てくれたのに。」
「ええてええて。気にせんとき。俺も興味半分でついて来てんから。」
「うん。ありがとう。」
何だか会話に集中できなかった。ぼんやり水口くんの顔を眺めていると、彼はちょっと困ったように眉をしかめた。
「あのな、榊原さん。」
「何?」
「何で、遺体がお父さんやと思ったん?」
「分かれへん。」
「分かれへんて…。」
「ただ、何となくそう思っただけ…。」
そういえば、何でだろうと改めて頭の中を探ってみた。根拠など何もないのである。
「そうやなあ、お父さんやったらええなって思ったんかもなあ。」
「お父さんやったら?」
「うん。」
「でも、ずっと待ってたんやろ?」
「待ってたんは多分母だけやわ。んー、でも、あたしも待ってたんかな。だから、お父さんやったらええって思ったんかもしれへん。」
「え…、何?」
「だから、もしあの遺体が父やったら、もう待たんでええてことやろ。」
私の言葉に水口くんの目が真剣になった。
「でも生きて帰ってきた方が嬉しいやんか。」
「帰ってくる保証があるんやったらね。でも、生きてる人を待つんやったら、死んでる方がええわ。もう、待たんでええんやもん。」
「榊原さん、自分の言ってること分かってる?」
「分かってる。」
水口くんのとまどいは無理もない。父を待ち続けることは、そして父が生きているのを望むことは、子供として当然であろう。しかし、彼は待ち続けるという不幸があることを知らないのだ。十八年間の母を知らないのだ。
お父さんって、どんな人やったん?
私がまだ他所の家の父親の存在を羨んでいた頃、よく母にした質問だった。すると母は困った顔もせず、静かに微笑しながら、お父さんはねぇ、と話してくれたものだった。
「お父さんはねえ、そりゃあ素敵な人やったんよ。男らしくて優しいてなあ…。」
母の言葉はいつも父の褒め言葉に終始していた。実際の父のことは覚えていないし、母の叔父にあたる人に尋ねても詳しいことは語らなかったから、その母の言葉を純粋に信じていたこともあった。でもそれは子供に聞かせるために造りあげた偶像だということは、成長するに従って想像がついた。第一、母のいうように素晴らしい人なら、何故妻と娘をおいて失踪などしたのだろう。
母は待ち続けた。果たして父がどんな人で、二人がどんなふうに始まったのか、私は知らない。でも、時々こっそりと夕方玄関の前に立っていたり、散歩だといって私の手をひいて駅までの道を歩いたが、実は帰らない父を迎え行っていたのだということを私は知っている。母がどれだけ父を愛していたのか、それだけでも理解できた。
法的に、父を殺すことが出来るのだと知ったのは、私が中学3年の時だった。母が父を待つ気持ちは十分理解出来たが、その一方で、その時私の中で作り上げられた偶像の父も崩壊しようとしていたのだ。そして、私はもう待つのは嫌だった。母に、もうそれ以上父を待たせたくなかった。
しかし、失踪宣告のことを告げると、母はただ静かに笑っただけだった。そして、
「でも、久ちゃん、もしお父さんが帰ってきた時、そんなことになってたら、びっくりして、それできっと哀しいと思うよ。」
もはや、取り付く島もなかった。それで私の力では無理だからと母方でただ一人の身内だった私の大叔父、私はおじいちゃんと呼んでいたが、そのおじいちゃんに相談した所、父が失踪して七年目に、すでにおじいちゃんが説得した後だったそうだ。
母の幸せを一番望んでいたのは、このおじいちゃんだったかもしれない。母に父を忘れさせ、一日も早く新しい幸せをつかんで欲しかったに違いない。おじいちゃんにとって、母は姪であり、姉の子供であったが、正に実の子供のようにかわいがっていたからだ。というのも、おじいちゃんには、私の直接の祖母にあたる人、つまり、おじいちゃんのお姉さんに、これ以上ないといっていい程、恩義があったのである。
「私の祖母も、待ち続けた人だったって、よくおじいちゃんが言ってたなあ。」
「祖母って…おばあさん?」
「うん。私の実のおばあちゃんね、母方の。私のおばあさんは…、母が結婚する前に亡くなったんだけど、お妾さんだったのよ。」
「え?」
水口くんは少し驚いたように目を見開いた。
「お妾さんやってん。金持ちの祖父にのぞまれて、人の勧めるままにお妾さんになったんやて。成績優秀やった自分の弟を大学に行かせてあげたいからって。もう、戦前の話やけどね。」
「はあ…。」
「もし私の母親が女の子やなくて男の子やったら、もっと財産もらえたんやろな。まあ、父親がおれへんでも困らんくらいのお金はあったけども。だから私のお母さんはよく、男の子に生まれたら良かったわって思ってんて。」
私は話ながらも、まだどこかぼんやりしていた。前でちょっと呆れた顔をして座っている水口くんは、軽くため息をついて、
「まあ、榊原さんも、そんなすごいこと、よう淡々と話すわ。」
「そうかな。」
「うん。今日おかしいんちゃうか。」
「うん、そうかもな。」
私の答えに水口くんは思わず間抜け面になったが、すぐに顔をふせて堪え笑いを始めた。
「いややわ、何おかしいん。」
つられて私もおかしくなって、何故だか笑いがこみ上げてきた。
「だって、おかしいんちゃうか、言われて、素直にうん、て答えるんやもん。」
「ええ? それそんなにおかしい?」
「うん。」
それで水口くんは、もっと堂々と笑えば言いものを必死で抑えようとして、その姿を見ているこっちは、そんな彼がえらくこっけいに見え、つられて堪え笑いをしてしまった。
「ああ、はあ、あぁあ、榊原さんてホンマおもしろいわあ。」
「ええ? どさくさに紛れて何失礼なこと言うてんよ。」
「いやいや、失敬、失敬。」
そう言いながら、彼は顔を改めた。
「しかし、榊原さん、もしお母さんが男やったら、今頃はすごい人やってんろな。」
「そうかもしれへんね。本当のおじいちゃん、男の子は何人いてもええて人やったそやから、絶対籍入れて何か仕事させてたやろな。」
「そんなにすごい人やったん、おじいさん。」
「らしいなあ。でも、それやったら、あたしは大令嬢やったやろな。」
「俺なんかが口きくのも恐れ多いくらい。」
「そやな。」
彼があまりにも真面目くさった顔で言うので、思わずふき出してしまった。こんな話でも深刻に持っていかないから、私は彼に自分の話をしても安心していられた。こんなふうにおちゃらけさせてしまうのも、彼の優しさなのだろう。時々本当に、私には彼のこの優しさが嬉しくてならなかった。同時に、決して失ってはいけない人だと思わずにはいられない。
結局、喫茶店を後にすると、一緒に駅まで行って水口くんとはそこで別れた。一人で駅のホームに立っていると、わずかのことにひどく疲れているのがわかった。体中に疲れがのしかかる。ここからなら、前住んでいた家の方がずっと近いのだと思い、あの家に行ってみたいという思いが頭の中を過った。
しかし、もうその家は私の家ではないのだ。
寂しいような哀しいような思いが、心の中にしめてくる。振り払ったはずの決心を、桜の樹の下に眠る遺体が突き崩そうとするのだった。父を待ち続けたあの家に眠っているのは、一体誰なのだろう。もしあの遺体が父ならば、一体どういう経路で父の体はあそこにあったのか。おそらく、母も、大叔父も知らなかったであろう、あの遺体は、一体いつの間にあそこに埋められてしまったのか。
第一、六歳になっていた私も、覚えていないはずはないのだ。自分の家の庭である。当時私と母は一階の部屋で寝ていたから、例え夜中に埋めに来たとしても気付きそうなものである。遺体を埋めるには、穴を掘らねばならない。1メートルか、2メートルか…、穴を掘るのに一体どれだけかかるかわからないけれども、結構な音がするはずだ。そして、死体を運ぶのもただではすまないだろう。あの家は裏が山になっていて、庭は隣の家の塀に向き合っていたけれども、隣の家は農家をしている大きい家だったから庭のある方は倉庫になっていた。夜中に掘ったのなら、隣の家にはもしかしたら聞こえたかもしれないし、…聞こえなかったかもしれない。
母は気付かなかったのだろうか。夜遅くまで父の帰りを待つ人であったのに。それとも、事は母の留守中に行われたのか。それもありえる。もしあれが父なら、せめて遺体くらい本人の家に埋めてやりたいと犯人が仏心を出して、母や近所の人に気付かれないように埋めに来たのかもしれない。それは、一体、何時なのか。しかし、そんな仏心を持った人が犯人であるなら、一体どんな犯行の結果なのだろう。それとも、灯台もと暗しの発想からだろうか。
あの当時、庭の土は一体どうだったのだろう。掘り起こされた後はあったのだろうか。
そう言えば、母はあの庭をとても気に入っていて、月に一度は植木屋に手入れをさせていた。ずっと同じ植木屋さんで、親子代々でうちの植木の面倒をみてくれていたのだ。あの植木屋にきけば、何か分かるかもしれない。電話で連絡を入れてみようか、土が掘り起こされた跡を見たのは、一体いつだったかと。
その夜、植木屋の中岸さんの電話番号が記載されている前の電話帳を探し出して電話をかけた。電話はここ数年、庭の手入れをしていた息子の方が出、早速用件を告げた。
「ああ、庭のことですね。聞きましたよ、死体出たんですって?」
「そうなんです。それで、中岸さん、何か覚えてないかと思って…。」
「さあ、その時分は親父がやってた頃やと思いますけど、何分親父は今老人会の慰安旅行行ってましてね、明後日にならんと帰って来んのですわ。」
「そうですか。」
電話の向こうのおじさんは快活そうな声で話している。どんなことがあっても動揺しそうにない感じの人であったが、いつも自分が手入れしていた庭から死体が上がったと聞いても、別段気にかけているふうでもないようだ。
「中岸さんは、何も聞いてませんか。手伝った時に一緒に見たとかは…。」
「いや、私はその時まだ中学生でしたからねえ、何も覚えてませんわ。親父帰ったらこっちから電話しましょか?」
「いえ、いいです。またお帰りになった頃、こちらから電話させてもらいます。」
「そうですか、わかりました。」
それで電話は切れた。せっかくいい思いつきだと思ったのに、結果は明後日以降に持ち越しになってしまった。
警察から次の電話があったのは、その翌日で、電話がかかって来たのは、私が仕事から帰って来てからだった。例の無表情な刑事からだったが、用件は、やはり遺体の話だった。
「薬指?」
「ええ、そうです。薬指が一度切断されて、それからまた埋められてるんです。」
「どういうことです。薬指って、どっちの薬指ですか?」
「左手です。」
「左手?」
左手といえば、結婚指輪をはめる指ではないか。もし切断したのなら、それは指輪を取るためではないのか。
「榊原さんのご両親は、結婚指輪を指にはめる習慣がありましたか。」
「…それは、遺体が父だということですか。」
「まだ、断定は出来ません。参考までにおききしようと思いまして…。」
すると、捜査はその線で進められているということなのだ。一体この刑事は何を考えているのだろう、という思いが頭に過ったが、ここは素直に答えておくことにした。
「父がいつも指輪をしていたかどうかは覚えていませんけど、母は死ぬまでずっと、外したことはなかったです。」
「じゃあ、指輪自体はあったんですね。」
「多分そうだと思います。父の分の指輪は家には残っておりませんから。」
「そうですか…。」
言いながら刑事は何か考えているようだった。少し沈黙が出来たので、
「あの、叔父とは連絡とれました?」
「ああ、はい、とれました。」
「何か言ってました?」
「いえ、特には…。」
それで刑事はくちごもらせたが、多分ろくなことは言っていないだろう。母の葬式にさえ来なかった人なのだ。憎みこそすれ、同情なんてとんでもないに違いない。
電話の内容はそれだけだった。切った後に植木屋の話をし忘れたことを思い出したが、いずれ向こうで調べているうちに行きあたるかも知れない、わざわざかけ直す必要もないだろうと放っておいた。
父であるかどうか、当時の医療関係の資料を探せば分かることだ。歯科医のカルテが残っているかどうか知らないが、私が持っている父の物は写真くらいだから、役には立つまい。それよりも、薬指である。何で薬指なのか。もし指輪を取るなら、一体何のためだろう。あの指輪はそんなにまでして手に入れたいほど高価なものだったろうか。それとも、目的が結婚指輪にあったのかもしれない。誰が、何のために? 考えつくのは、父の女性関係ぐらいのものだ。もし、父に愛人がいて、その女が父を殺したのなら、切断してでも持って行ったという可能性はあるのだ。
それにしても、まだまだ分からないことが多すぎる。まだまだ、知りたいことがたくさんあるのに…。
植木屋のおじいさんが帰ってくるのは、今日だったと思うと、時間にばかり気をとられて仕方がなかった。この紅葉の終わった中途半端な時期に、一体どこに旅行に行ったのだろう。呑気な老人会もあったもんだ。でも今頃が一番すいてるんだろうなと思うと、どこに行ったかしらないけれどうらやましくなった。来週から十二月に入り、お歳暮のかきいれ時で、企画事務といえども容易に休みがとれなくなる。学生時代と違って、こういう時時間の自由がきかないのがひどくもどかしく感じる。
時間を気にしてバリバリ仕事をしていたら、横の机の水口くんが声をかけてきた。
「榊原さん。」
「何?」
「今日食事いけへんかって。」
「食事? 誰と?」
「僕と。」
私は顔を上げて横目で水口くんの顔を見ると、
「この前の続きが聞きたいやろ?」
と笑って見せた。
「いややなあ、僕は純粋に下心があって誘ってるんやで。」
「下心に純粋も何もあるかいな。」
仕事を残さずすっ飛んで帰ろうと頭の中で思いながら、手元で仕事を続けていた。
「いや、だから…。」
「今日はだめ。帰って電話せなあかんねん。」
「電話って、誰に?」
「前の家の植木屋。」
こう言うとしばらく返事が返ってこなかったので、仕事の手をとめて彼の方を見ると、何か考え込むように頭を抱えていた。
「水口くん?」
「榊原さんは、僕と植木屋とどっちが大事なんや。」
「その『僕』って言うのやめてよ。植木屋にはこの前の遺体のことで電話するの。」
「ああ…。じゃあ今日中やったらええんやろ。前言ってた河豚料理の店、今日連れてったろと思って。ほら、十二月入ると混むやん。」
「河豚? 高いんちゃうん。」
「いけるて。すごい良心的なトコやから。」
仕事の手を止めてちょっと考えた。どうせおなかがすいて帰っても食事が先だし、一人なのだ。それなら食べて帰っても同じだろう。
「うん、ええわ、そしたら行く。」
「よっしゃよっしゃ、決まりや。」
水口くんは嬉しそうに机に向かった。
河豚料理の店は大阪の南の繁華街から路地の奥に入った、目立たない所にあった。こじんまりしているけれども、奇麗に片付いた店内に好感が持てた。
カウンターに二人で腰掛けると、水口くんが勝手に注文を始めた。
「よく来るん?」
「いや、今日で二回目。前の時は大学時代の友達に連れられて来てん。」
「ふうん。」
ため息をつきながら、カウンターに頬杖ついた両手で顔をおおった。
「やっぱり、気になるんか? あの…。」
心配そうな水口くんの声に顔を上げると、ふと我に帰った。
「ああ、ごめん。こんな時に…。」
「いや、しょうがないわな。コトがコトやし。もしかしたら行方不明のお父さんかもしれへんねんから。」
「うん…。」
「もしお父さんやったら、どうするんや。」
「どうするって…別に。」
「気になるんやろ。」
「気になる…気になれへん…。」
頭の中で言葉を確かめるように、口でもて遊んだ。
「分かれへんわ。」
「分かれへんって。」
「だって、あたしの知らん人やもん。」
「知らん人って…。」
水口くんはちょっと困ったような顔をした。
父親といっても、母の造りあげた偶像の父しか知らないのだ。ただ、あの遺体が父がどうかはっきりして欲しい、早くやっかいなことが片付いて欲しい、それだけだった。
「それで、植木屋には何を聞こうと思ったんや?」
水口くんの質問に、私は自分が今まで考えていたことを順番に述べた。聞き終えた水口くんはしばらく考えてから、
「その植木屋が死体埋めたんちゃうやろな。」
私は出された料理を口に入れて、思わず喉かつまりそうになった。
「まさか。」
思わず笑ってしまった。あの植木屋の親子に限って、死体を埋めるなんてあり得るだろうか。
「いや、分からんぞ。もしかしたら、いうこともあるやろ。」
「じゃあ、何で左手の薬指なんて切らんなあかんのよ。第一、毎月死体埋めたとこに平気な顔して来れるもん?」
「だから、見張りのつもりでやな。」
「あかんあかん、却下却下。いくら何でもあの親子はちょっと無理やわ。」
「そうなん?」
「そう。会ってみたらすぐ分かるって。」
「ふうん。」
それで水口くんは黙々と食べ始めた。どうやら何か考え事をしているようだった。
それで私も折角きたんだから、ちょっと真面目に食べてみようと思った。味にはうるさいつもりだったが、その店の料理は予想以上に口にあった。
店の雰囲気も悪くない。場所の割りにはこざっぱりとしている上に、テーブルは磨かれていて、あの独特の疲れた感じがしなかった。
「結構いいトコやね。」
そう言うと、
「当たり前や。だから連れて来たんや。」
と、こちらを向きもせず水口くんは答えた。
気のせいか何か怒っている風に見える。それで場の雰囲気を換えようと思って話題を探したがみつからない。何となくカウンターの上をみつめながら、楊枝立ての横に立っている卵型の石に目が行った。何でこんなものが置いてあるんだろうと思って触ってみると、プラスチックであった。
「何かな、これ。」
「え?」
水口くんに聞いてみると、彼が手に取って眺め、あちこちいじっていた。すると、カウンターの中から、
「ライターですよ。」
と声が飛んで来た。上から2、3センチの所を動かすと開くと言われて力を加えてみると、案の定パカリと音を立てて開いた。そういえば他の所にも、変な物が置いてある。あれもライターだろう。店員は「店長の趣味なんですよ。」と言った。
「ふうん、あたしはまた、何でこんなトコに石置いてんねんろて思ったわ。」
「石? これはだちょうか何かの卵に似せてるんちゃうん。」
「でも、鼠色やん。」
「だから、鶏やなくて、だちょうか何かやねんや。色のついてる卵もあるやんか。」
「ああ、そうか。」
言われて何故石だと思ったんだろうと思い返してみた。ああそういえば、と頭の中に母の持っていた置物が浮かんで来た。
「そうや、分かったわ。うちの母が、これと似たの持っててん。そやな、サイズは両手ですっぽりつつめるくらいで…。あれは、本物の石やったけど。」
「石?」
「うん。墓石みたいなツルツルの奇麗な奴。もっと丸かったけど…。一回、転がして遊んでたら、母に目茶苦茶怒られてん。すっごく大事にしてたから…。」
「へえー、何か謂れがあったんかな。」
「さあ、どうやろ。うん、そうかもな、いつも仏壇の前に置いてたから。」
父の思い出はほとんどないのに、母の思い出は数え切れないほど残っている。思えば、ずっと家にこもっていた人だから、家の中でも色んな癖を見ることが出来た。ある意味では個性的な、昔風の珍しい人だった。令嬢ではなかったが、生活は令嬢のそれそのものだった。怒られたといっても普段激さない人だったから余計にそう感じたのかも知れない。
店を出てから、家まで送るという彼の言葉を駅で辞した。結局、食事は彼の奢りだったのである。その上反対方向に送ってもらうわけにはいかなかった。
それでは、と別れた後に改札を通ろうとすると、後ろから、
「榊原さん。」
と呼び止められた。口を開いて何か言おうとしている。
「え?」
と聞き返すと、彼は笑って、
「気をつけて。」
とだけ言った。
「ありがとう。」
と言葉を返すと、私はホームへ向かった。