幾つもの幾つもの樹をよけて、マントは前進します。後ろにエミコ、前にマサトが乗っているのです。幾つもの幾つもの樹をよけて、前進します。
どのぐらいよけたことでしょう。どれぐらい進んだことでしょう。森は果てることなく、どこまでもどこまでも進んでいきます。
マサトはいいかげんイラ立ちを覚えました。いつになったら森は果てるのでしょうか。
エミコは次第に眠気を感じ始めました。最初の意気込みも、ただ後ろに乗っているだけでは単調すぎて眠くなるのです。
マサトは突然、フッと背後の気配がなくなるのを感じました。マントの重みがなくなります。慌てて後ろを振り返ると、背中にいたはずのエミコが、遥か後方に倒れているのです。
「エミコ――――!」
マサトは急いで引き返しました。
ほんのついさっきです。エミコが、諦めるのはまだ早い、と言ったのは、ほんのついさっきなのです。その言葉に喜んだのも―――。
倒れているエミコの元につくと、マサトはマントから滑り降りて、エミコの襟元をつかみ、引き起こしました。
「エミコ起きろ! 諦めるのはまだ早いって言ったのは、ついさっきじゃないか。エミコ!」
マサトはエミコの頬を軽くたたきます。そうしてやっとエミコは薄目を開けました。
「あれ? マサト?」
「バカ! 諦めないって言った舌の根も乾かないうちから、何で眠りこけるんだよ!」
それでエミコは眠い目をこすりながら、何とか体制を立て直します。
「え? あたし今寝てたの?」
マサトはその言葉に背筋が寒くなりました。今の眠りは、無意識のものでした。もちろん今までの眠りも、すべて無意識のものでしたが、今と前では全然意味が違うのです。今のエミコはいきようとしているエミコ。前のエミコは生きることなんかどうでもいいエミコ。ほんの少し気を抜いた隙に、森の誘いに乗ってしまったのです。
「君の方が森に入るのがずっと早かったから…。」
「え?」
「僕が君の話を聞いた時、君は既に眠り続けて二週間たっていた。こういう眠りは二十日程で体が衰弱し始め、その後四、五日もあれば、確実に死ぬ。本当ならもう今頃は、森の中では目覚めてる状態じゃないんだ。」
眠そうだったエミコの目も、パッチリ開いてマサトの目をみつめています。事態はエミコの意志とは関係なく進んでいきます。森は、確実に死へと引き込もうとしているのです。
「マサト…。」
「とにかく、気を抜いちゃ、駄目だ。向こうとこっちで時間の流れ方にどれぐらい差があるかわからないけど、とにかく、気を抜いたらおしまいだ。いいね!」
エミコは「うん」と強くうなずきました。気は抜けない。タイムリミットは近付いている。マサトはエミコの襟元を離してすっくと立ち上がりました。今まで進もうとしていた方向をじっと見ます。一言も発しない、マサトのそれは〃焦り〃でした。
――果てがみつからない――
何故なのでしょうか。やはり森は永遠に広がっているのでしょうか。
「無限なのか? この森は…。」
マサトはギリリと奥歯を噛み合わせました。
「そんなはずないわ。」
あまりにも当たり前といった口調でエミコは言いました。マサトは少し驚いてエミコを見ます。そんなマサトをエミコは見あげて言いました。
「だってそうでしょ? さっきも言ったじゃない。所詮大きいって言っても、たかだか千人か万人程度の人間がつくったんだもの。限界があって当然よ。」
「でも…。」
「樹海と同じ要領だと思うのよ、きっと。ホラ、富士山なんかにもあるじゃない。同じ方向に進んでるつもりでも、樹をよけてるうちにドンドンコースを外れちゃうのよ。気がついたら同じ所に戻ってたりしてね。」
マサトは黙ったまま、もう一度、進むはずだった方向をじっと見ます。そして腰から剣をすらりと抜きました。そして、グサリと地面に突き刺しました。
「目印だ。」
それから投げ出したマントを拾って、エミコに手を差し出しました。
「行こう。」
しかしその顔はさき程のように、意気揚々としたものではありませんでした。苦い笑顔の、少し疲れた心を無理に奮い立たせた、そんな顔でした。
マサトはマントをひらりと地面に広げて、また二人してさっきのように乗り込みました。マサトが後ろを振り返って、
「しっかりつかまってろ。降り落とされるぞ。」
エミコは答えるかわりに、マサトの背中に寄り添って、彼の体に腕を巻き付けました。
マントは前進します。さっきとは比べものにならない勢いです。
「マサト――?」
エミコは彼の影から叫びます。
「何――?」
「ちゃんと見てるの――?」
「見てる――!」
森はどこまでも続いていきます。うっ蒼とした森。どこまでもどこまでも続く薄暗い景色。と、マサトの肩のずっと向こうに、人が垣間見えました。二人に気付かない様子で歩いていく彼を、降り返りつつ見送りました。
何故だか少し悲しくなりました。
何故なのでしょう。昔のエミコの姿であるからか、彼が何の抵抗もなく後少しで死ぬと分かっているからなのか、それともその不幸に気付かない彼の不幸を悲しんでいるからか―――。
ガクン。
振り向いていた頭が、マサトの背中にぶつかりました。
「どうしたの、マサト。」
マサトは前を向いたまま答えませんでした。そのマサトの視線をたどっていくと、遥か前方に―――――剣が、マサトがさっき突き刺した剣が、あるのです。
声も出ませんでした。
驚きと共に、失望を感じました。
ゆるゆると、剣のところまで来ると、マサトはするりと降ります。地面から剣を抜いて、鞘に納めました。浮いていたマントも、マサトが降りたのと同時にゆるゆると降りていきます。
マサトは剣を刺した場所をじっと見て、うつむいたままです。
どうしたらいいのでしょう。
どうしたらいいのでしょう。
どうしたらこの袋小路から抜けられるのでしょう。
時間がないのです!
「火をかけようか。」
マサトが振り向きます。焦りに満ちた表情です。
「森がなくなれば出られるだろう。」
「駄目よ。森にいるのは、あたし達だけじゃないのよ。眠ったままの人もいるんだから。」
「でも…!」
言い返そうとしてマサトはやめました。地面をじっとみつめると、目を閉じて、一人で首を振ります。息を吐き出すように、ゆっくり、静かに溜め息をつきました。
「そうだな。」
マサトは腰を下ろしました。マントの上にすわったエミコと同じ目線になったのに、エミコの目を見ません。苦渋に満ちた表情で、あちらの方を向いているだけなのです。何か考えているようです。ふと、目を上げてエミコの顔を見ました。
「エミコ?」
エミコは薄目を開けて座っています。いえ、重いまぶたを無理矢理開けているようです。
「エミコ? 大丈夫、エミコ。エミコ?」
ゆさゆさと両手でエミコの肩を揺すります。カクンとなってはっとエミコは気付きました。
「あ…ごめんなさい。」
エミコは両目をこすります。
「変ね。ものすごくまぶたが重いの。しっかりしなくちゃ。」
エミコはボソボソと自分に言い聞かせるように話します。顔色もあまりよくありません。 時間がないのです。
マサトが突然立ち上がって、エミコが座ったままのマントに乗り込みました。
「マサト?」
「押して駄目なら引いてみな。せっかく飛べるんだから、上に言ってみよう。それが駄目なら下だ。」
「うん。」
エミコの返事にマサトがニッと笑います。
「しっかりつかまってろ。」
エミコは再び、気合を入れ直して、マサトの体に腕を巻き付けました。今度は斜めになって上に昇って行きます。
エミコは体育が大嫌いでした。何故かって決まってます。苦手だからです。特に苦労したのは逆上がりと、かけっこでした。
まずは一番低い鉄棒で、とセンセイは皆にやらせます。出来た子から、段々高い鉄棒に上がっていきます。出来ない子は低い鉄棒で、ずっと練習させられるのです。出来る子は、とても得意そうに見えました。事実得意だったはずです。あれは、音楽の時間のエミコの姿なのですから。
「いいか、鉄棒を恐がるんじゃないぞ。鉄棒をしっかり握って、鉄棒に体を寄せながら、おもいっきり蹴り上げるんだ。さあ、やってみよう。」
センセイが励ますように言います。順番を待ちながら、エミコは何か自分が悪いことをしているような気がしました。〃出来ないから悪い子〃そんな気がしたのです。
順番が回ってくると、まずエミコは傷みを感じる自分の手を見ました。マメが出来ているのです。鉄棒と手の汗のにおいのまじったそれは、茶色く汚れていました。鉄棒を握りしめ、一、二の三で足を蹴り上げます。そして、重たくて痛い、バタンという音を立てて落ちるのです。
念のためにもう一度、チャレンジしてみます。ぶざまに上がった両足の、向こうの空は、憎たらしいくらい、淡い水色でした。
「ハイ、次の人。」
出来なかったエミコはもう一度、後ろに並び直します。やはり〃悪い子〃の意識は消えませんでした。早く体育の時間が終わらないかな、とも思いました。
その日の体育の時間が終わっても、鉄棒の時間はこれで終わりではありません。エミコはある日の帰り、一人で鉄棒の前を通りかかりました。その時、その辺りに人もいなかったので、やってみようかな、と思いました。今なら変に失敗しても、誰も笑いません。
はたにランドセルを置いて、ぐっと鉄棒を握りました。力強く腕を張ってかまえた後、エイと蹴り上げました。目に飛び込む空ももう、さびた鉄の色です。
一回、二回、三回…十回…十五回。
「あともう少し。」
鉄棒に両足はつくのですが、腹でこらえても落ちてしまいます。エミコは夢中でした。大嫌いな鉄棒に、夢中でした。
「エイッ!」
フワッと体が軽くなるのを感じました。上に上がって手を突っ張ったまま、しばらく何が起こったのかわかりませんでした。トンッ、と下に降ります。信じられなくて、もう一度やってみました。出来ます、出来るのです。エミコは顔をぐしゃぐしゃにほころばせました。ランドセルをつかんで、職員室にかけていきます。センセイに見てもらうためです。 たかだか逆上がりが出来たことが、エミコにはこの上もない喜びでした。まるで、天下をとった戦国大名のようです。嬉しくて、嬉しくて、たまりませんでした。
地上の景色がどこまでも続くものならば、やはり頭上の景色もどこまでも続くものらしいのです。行けども行けども見えるのは、木の幹と、葉っぱばかりです。葉の隙間から見えるから、確かに上の方に空があるようなのだけれども、今まで意識して見たこともありませんでした。空はいつも同じ色をしていたような気がします。憎たらしいくらい、淡い水色です。
上がっていたマントは、突然ピタリとその動きが止まりました。
「駄目だ。時間の無駄だ。戻ろう。」
エミコには返す言葉もありませんでした。ゆるゆると、下に落ちていきます。あれ程上がったはずなのに、地上にはほんのわずかな時間でつきました。
やはり、ここは樹海のような森です。それは横だけでなく、縦も同じことだったのです。おそらく地面を掘り進んでも、同じことになるでしょう。八方ふさがりとはこの事です。 ここは眠りの森。高く高くそびえ立つ樹木の果ての、行方は知らず。地にはびこるのは芝草。どこまでもどこまでも続く、永遠の森。
森の姿は永遠なのです。しかしそれは人々にとって出口を与えぬ、袋小路の場所でもあるのです。
行き止まりです。もうこれ以上先へは進まなくていいのです。死んでいるのと変わらないなら、生きていても無駄でしょう。
さあ、眠らなくては。もう何も、あなたをわずらわせたりはしないのですから。安らかな眠りを約束します。
眠りの森へ、おいでなさい。ここは永遠の森。安らかな眠りであなたを永遠の眠りに導く、眠りの森へおいでなさい。森はあなたを待ちわびています。
「おそらく、今夜が峠でしょう。」
長い沈黙の後、センセイは申しわけなさそうに、オカアサンに言いました。オカアサンはただただ、体が硬直して、センセイの顔をじっとみていました。
「ここ二、三日衰弱が激しかったのですが、今日になってそれが特にひどくなっています。最後まで、出来る限りのことはいたしますが…。」
センセイは目を伏せました。オカアサンはハンカチを握りしめて、震える声でいいました。
「だって、この間までは、眠っていても普段の眠りとまるで変わらなかったじゃありませんか。それが、何で、突然こんな…。」
「我々にも理由はわかりかねます。何しろこんなケースは我々にとって初めてですから…。脳、内臓、外傷、どこにも異常はありません。ただただ、眠ってるだけなんですから…。」
オカアサンのショクは並々ではありません。こんなに突然では、交通事故にあったようなものです。しかも加害者のいない、凶器さえもないのです。
「センセイ! お願いです。」
オカアサンは、すがるような目でセンセイを見ます。
「私何でもします。エミコが助かるなら何でもします。だから、エミコを、エミコを助けて下さい! 一人娘ですよ? 一人娘なんです! あの子を産む前に私二度流産しました。やっと授かった子供なんです! センセイ、お願いします。お願いします。」
最後の方は泣き声でした。センセイだって何とか助けて上げたいのです。でも、どうしようもないのです。
本当にもう、どうしようもないのです。
下に降りて来たっきり、マサトは黙ったままです。彼は彼なりに、一生懸命考えているのでしょう。エミコは少し気が遠くなりそうになって、慌てて首を振りました。眠ってはいけません。エミコは動機が早くなるのを感じました。身体がひどく緊張します。一体、何故緊張するのでしょう。苦しい。とても苦しいのです。息も荒くなります。苦しい…苦しい…。誰か助けて―――!
「はあ…マサト…はあ、はあ…。」
マサトがはっと気がつくと、目の前のエミコはうつむきかげんでゼイゼイ言いながら、胸と口元を押さえていました。
「どうしたんだ、エミコ! しっかりして。大丈夫?」
「苦しい、マサト。」
マサトはうずくまるエミコの肩を、不安と憤りに震えながら抱きました。どうすればいいのかわからないのです。エミコの苦しみを止めるには、彼女を眠らせて上げればいいのです。でも、そうすれば、彼女はもう、二度と目覚めないかもしれないのです。
「苦しい。」
力に抗うとは、こういうことなのです。
一体、どうすればいいのでしょう。時間がないのです。
一体、どうすればいいのでょう。
どうすればいいのでしょう。
どうすればいいのでしょう!
ああ! どうすれば…
ふと、エミコが顔を上げました。マサトに体を支えてもらいながら、右手の方を見ます。「エミコ?」
右、エミコが見ている方向には、特にこれといって何もありません。ただただ、森が永遠に続いているばかりです。それでも、やっぱり、エミコは森の奥、薄暗くてよく見えない辺りをじっと見ています。
「エミコ? どうした?」
「誰か…。」
「え?」
「誰か人が…。マサト、連れて行って。あっち。」
エミコは弱々しく、見ている方向を指さしました。二人共、マントの上に乗ったままだったので、マサトはそのまま浮かび、エミコの指さす方向へと進んでいきます。
見えてきます。なんだか見覚えのある風景が見えてきます。高い樹木が、円く取り囲んでいます。その真ん中で、少年が一人、仰向けになって眠っていました。音はありません。恐ろしい程の静けさです。
これは、以前みたのと同じ場面です。円の中にいる少年は違いますが、あれは間違いなく、エミコが卒倒した、森が人の魂を食う場面ではありませんか。
一体、エミコは何故よりにもよって、こんな時に、こんな所に来たのでしょう。マサトには、理解出来ませんでした。
やがて、前に見たのと同じように芝草がザワザワと音を立て始めます。
「駄目だ!」
マサトは浮いているマントを動かして、自分の体で少年を見るエミコの視界を遮りました。
「マサト。」
「駄目だ。駄目だよ。見ちゃいけない。」
「いいの、マサト。私見たいのよ。お願い、見せて。」
見たくなかったのは、むしろマサトの方でした。こんな時、こんな場面は見たくなかったのです。でも、「こんな時」に、彼女が見たいと言うのですから、マサトは彼の肩から、少年をのぞこうとするエミコの動きを、妨げられませんでした。マサトはようよう、少しだけ、エミコに見えやすいようにマントの位置を動かします。
芝草がザワザワと揺れています。
そして、少年の、目が消えました。今度のエミコは微動だにしません。ただ目の前に起こることを真剣な目で見ているだけです。
次に、眉、鼻、口と消えていきます。そして首が消え、首から胸へ、胴体、手、腹、下腹部、ふとももと、前と同じ順で消えて行きます。少年が消えていきます。足が消えました。
少年が、消えていきました。
そうして森は、何事もなかったように、元の静寂に返ります。
「そうよ。」
エミコがポツリと言いました。その声に驚いて、マサトはエミコの顔を見ました。エミコは美しい程に、真剣なまなざしで、少年のいた場所をみつめていました。
そして、目の前の自分の手に視線を移します。
「あたし、今ならわかるわ。今なら、分かるの。あの子も本当は、あんな風に死にたくなかったのよ。消えたくなかった。ううん、むしろ、いきたかったんだわ。本当は、あんな無意味な生活もしたくなかったのよ。でもどうやったら生きられるかわからなくて、生きているのか死んでいるのかもわからなくて、―――だから、この森に来てしまったのよ。生きているのに、生きているのが苦しくて…」
エミコの目から涙がこぼれます。
「本当は、いつも、いきていたくて、いきている人達が羨ましくて。誰だって、こんな形で終わってしまいたくないに決まってる。」
エミコの涙は止まることをしりません。いえ、それにも増して彼女の嗚咽は激しくなるばかりです。
「いきたかったわ、あたし。こんな形で終わるなんて、思いもしなかった。何で今までわからなかったのかしら。」
エミコの悲しみは深く深く、後悔はどこまでも続きます。マサトはエミコの悲しみように、堪えられなくなりました。泣いてはいけないと思いました。彼女のために、泣いてはいけないと思いました。でも、目から涙がこぼれます。
もう、最期なのです。
マサトはエミコをしっかりと抱きしめました。
「ごめんね、マサト。せっかく迎えに来てくれたのに、巻き込むことになっちゃって。あたしが消えちゃっても、せめてあなただけは森を出てね。」
「エミコ…!」
「いいの。もう、いいの。わかるのよ、後どれだけ、ここにこうしていられるかっていうのが。だからね、あなただけでも何とか脱け出して。ありがとう。一緒に、一生懸命、出口を探してくれて。」
マサトのエミコを抱きしめる力がさらに強くなります。離したくありませんでした。離せばエミコは、今にも消えてしまいそうなのです。でもエミコは、そんなマサトの力に抗い、頭をもたげます。
「ありがとう、マサト。下に降ろしてくれる? このままじゃ、苦しいから…。」
マサトがうなずいて、マントが静かに降りていきます。マサトはエミコを抱えて、木の根元へと運びました。
「最後にね、教えて、マサト。あなた一体誰?どうしてあたしのこと知ったの?」
「病院で――僕は生れつき肝臓に疾患をもっていて、ほとんど入院したままなんだ。僕は君が運ばれた病院の患者で、君の話は看護婦さんから聞いたんだ。」
「それで、何であたしを助ける気になったの?」
「ただ、ただ眠っているだけで、どこも悪いところはないのに…まだまだ自由に生きて、走れる体を持っているのに、死んでいくなんて、どうしても堪えられなかったんだ。じっとしていることが、できなかったんだよ。」
「そう、じっとしてられなくて…。――そうね。マサトは本当にいきていたんだわ。きっと。」
たくさんのセンセイが、エミコの周りを取り囲んでいます。その暗い静かな部屋で、センセイがエミコに心臓マッサージをしています。担当のセンセイは沈痛な面持ちで、オカアサンの前に立っています。それにオカアサンと、そしてオトウサンもいます。心臓の脈拍を知らす、その計器は、山が少しずつ途切れていきます。
「出来うる限りの手はつくしましたが…。」
オカアサンは自分の耳が信じられませんでした。稲妻にでも撃たれたかのように、その体はピクリともしません。
「嘘…です。信じません。何で、どうして、…エミコが…し、死ななければいけないんです?」
オカアサンの涙が頬を伝います。オトウサンはそんなオカアサンの気持ちがわかるだけに、何も言うことが出来ません。
「眠っているだけです。ただ、眠っているだけでしょ! なのに、何故、そんなこと…。」
オカアサンはエミコの体に近寄りました。そしてすがりつき、彼女に呼び掛けます。
「エミコ、エミコ、起きなさい。朝よ。起きなきゃ、遅刻するわよ。エミコ。」
「ハツエ。」
エミコを揺するオカアサンの姿にたまりかねて、オトウサンが止めようとしました。
「エミコ。」
エミコは全く動きません。固く目を閉ざしたままなのです。オカアサンの声はエミコには届かないのです。せめて最後に声だけでも、眠りの森に届けばいいのに…。