桜の下に

 

 春、四月。満開だった桜の花も、少しずつ散り始めている。一週間…入学式から既に一週間たってしまっている。まだ薄い夕日の中で友加子はぼんやり三階の廊下の窓から外を眺めていた。窓から校庭が見えている。校庭の片隅にいつかの卒業生が植えていったのだろう、桜が、満開につけた花を少しずつ散らせていた。友加子は一人「きれいね。」などと思いながら、夕日に映えるその桜の木を見るともなく見ていた。
――桜の下に死体は眠る――
そんなセリフが友加子の頭をかすめた。美しい桜はまるでその下に死体を埋めてそれを養分にしているよう…。校舎の中は一般生徒の下校時刻が過ぎているために、文化部合同発表会の準備をしている文化部の生徒の声がたまに聞えるだけで、静かなものである。校庭ではハンドボール部だけ練習を続けていた。
 去年まで、友加子の二つ上の兄が通っていた。去年まで…。今兄はどこにもいない。家にも学校にも…。正確にいうと、どこにいるかわからなくなってしまっている。行方不明なのだ。
「以前から両親や学校との折り合いが悪く、そのために失踪したものと…」
 これが兄の失踪原因とされていた。成績もよく、この学校に入学した彼だったが、どちらかというと問題児だった。夜遊びをして一晩中帰ってこないで朝がた、よく両親と喧嘩をしていた。それでも友加子は、兄、政幸の一番の仲良しだったのだ。
――俺はよお、友加子。お前が一番うらやましいよ――
それが政幸の口癖だった。
「俺はよお、友加子。お前が一番うらやましいよ。」
政幸は廊下に座り込んでいた。友加子が学校から帰って来ると、よく口にたばこをくわえた政幸が廊下の壁にもたれるようにしてすわっていた。それに並んで友加子は制服のまま政幸のそばに座り込む。
「どうして?」
「だってよお、お前、親父たちと仲いいじゃんか。お前素直だしよ…、昔と全然かわらんじゃねえか。」
「そんなことないよ。あたしだってかわってる。」
「かわってねえよ。聞き分けのいいところが特に。うらやましいよ、ホント。」
「でもお兄ちゃんは、今のままがいいんでしょ? 前に言ってたじゃない。『俺には俺でやりたいことがあるんだよ』って、お父さんたちに言ってたじゃない。」
くすりと友加子を見て政幸が笑う。寂しそうな、目。
 

 桜を見ているのにもあきてしまった。別に残りたい理由があって残っているわけではない。どうせ家に帰ったって、七時過ぎまで誰もいないのだ。クラブに入ろうかなどとぶらぶら考えながら、時間を持てあましていた。夕日に映える校庭を見ていたのだって、なんとなくその美しさが目に入ってそこに立ち止まっただけなのだ。
 再び友加子は廊下を歩き始めた。
 

 ガシャ――ンと音を立てて過敏が割れた。家族の間に緊張感がみなぎっている。花瓶をたたき落とした政幸の手が握り拳をつくって体中のいかりがふるえとなって表れている。
「あんた達に、そんな事言う権利あるのかよ…。」
「政幸…。」
「あんた達にそんなこと言う権利あるのかよ! 父親としてだと? ハッ! 笑わせるぜってんだよ! あんた『親として』何してくれたっていうんだよ。飯食わせて…それから? 俺は飼い犬じゃねえんだよ。…ああ、そうか、そうだな。入れてくれたよな。まず保育園に行って、小学校に上がると同じにいくつもの塾通い。仕事から帰ってきたら『政幸、勉強はできたの?』 冗談じゃないって言うんだよ! そうだ、どうせ知らないんだろ? 俺が小学校の時にいじめられてたのも、全っ然知らないんだろう? いっつも忙しいだのなんだのって言って一度だってかまってくれた事ねえじゃんかよ!」
「お前達のために…。」
「俺達のため? そういえば総て丸くおさまるとでも思ってんのかよ? お袋だって俺達のためだとか言って本当はただ仕事やめたくなかっただけのくせによお! 塾にしたって勉強にしたって、押し付けるばっかで、少しも遊ばせてくれねえで、そんで全部『お前の将来のため』ときたもんだ。そんな将来なんて、俺はいらねえんだよ!」
「やめてえええええ―――――――――っ。」
 もうやめてお兄ちゃん、もう…。
 

 夕日の色がきつくなって渡り廊下に反射している。昔兄が言っていた。
『友加子、俺な、学校ってあんまり好きじゃねえんだオリの中に入れられてる気分すんだよ。でもな、俺にもやっぱ好きなとこあんだよな、あそこにも。…放課後のさ学校、夕日さしてどこもかしこも光の色に染まるんだよ。何っの変哲もない、ただの単調に窓やら壁やらがあるだけなのによ、すっごくきれいなんだ。…何でだろうなあ…。』
 ひかりいろにそまる。本当にそんな感じがする。きれいね、輝いて…、目がかすみそう…。
『友加子…。』
政幸の声が響く。
『友加子…。』
つ…と前を見た。光の中、こちらに背中を向けてたっている男子学生が一人…。寂しそうに右肩を落としてポツネンとそこに立っている。
「お…兄ちゃん…?」
 友加子は目を疑った。行方不明の兄がそこにいる。
後ろ姿と言っても見間違えるはずがない。小さな頃からよく見続けている、兄の姿。…その後ろ姿が向こうへ向かって歩き始めた。
「あ…、待ってお兄ちゃん! 待って!」
後ろ姿はまるで友加子の声がきこえていないかのように進んでいく。
 

 寂しい目をした政幸は、廊下に腰を下ろしたまま話し続ける。
「俺ホントはよ、友加子、今やってることみんなおもしろくねえんだよ…。出来ればやめてえんだよな。でも俺バカだからさ、やめられねえんだよ。やめちまったら親父たちに負けるみたいだしよ、学校に戻ったって規則ばっかで疲れるじゃん? 今の世の中でまかりとおってる事がすべて正しいともおもえねえし…。それなら、夜中にバイク走らせてみんなで騒いでるほうが…寂しくないじゃん。」 ――――――…
あたし知らないわ。何が正しくて、何が正しくないのか…

 
 追っても追っても政幸の背中はまるで残像を残すように見えなくなってしまう。
「待って! お兄ちゃん! 行かないで! どうして…どうして…。」
 走りづめで友加子の息が切れている。
『俺もういやなんだよ』
「逃げないでよ…。」
階段の前まで来てぜいぜいと呼吸を整えた。くっと上を見上げる。
「逃げないでよ! 今逃げてどうなるって言うの? お願いだから…。」
一時止まっていた彼が友加子が動き始めると同時に動き始めた。
 いつも、いつもそうなのよ。皆が出来るはずの事、ちょっと勇気を出せば出来るはずの事、どうしてお兄ちゃんにはできないのよ。こうやって、いつもいつも…
『俺、さ、高校受験の時に素直に親父達を喜ばせてやろうと思って、必死になって勉強したんだよな。で、受かってさ。…その時親父らなんて言ってたか知ってるか。ほらみろ、小さい頃から塾に通わせてただけの成果があったじゃないか。父さんや母さんの言う通りにしてて良かっただろう? だって…。じゃあ俺はどこに行っちまったんだろうな? 俺自身は…』
西に沈んだ夕日の、残った光が薄紫に近い空の色を残している。四階だが廊下の中はかなり薄暗い。薄暗い中、長い廊下を政幸の後ろ姿がかけていく。友加子は立ち止まった。
「逃げないでよぉ!」
声をからして絶叫にも似ている。
「逃げないでよ! もうこれ以上! 何が正しいのか、正しくないのか、よ。そんなこと誰にもわからないわよ! 何よ! 結局、現実から逃げたかっただけじゃない! 現実から! ……弱虫―――――――!」
開け放たれた窓から風が吹き込む。友加子の汗と一緒に涙も吹き飛ばして行った。涙目を風でかわくのにまばたきをした数秒の間、目の前の政幸が消えていた。驚いて慌てて辺りをキョロキョロと見回した。
「どこ?」
どちらに進んでいいのかわからず、前によろよろと進み出る。
「お兄ちゃん、やだ、置いていかないでよ…。」
 小さい頃にみんなで遊んでやがて誰もいなくなる。二人がいつも残されて、仕方がないから政幸がおにごっこしながら帰ろうと言ってかけだす。鬼になるのは友加子。『待ってよお。』と言いながらいつも半泣きの状態でポテポテと後をかけてくる。懸命に走り続けてふと気がつくと、後ろから『ばあっ。』なんて言いながら出て来るのだ。ほっとすると、いつもわっと泣き出した。
『友加子は泣き虫だなあ。アハハハハハ。』
アハハハハハハハハハ…
 急に背後で階段をかける音が聞えた。少し恐いような気もしたが友加子は階段を降りた。三階の廊下には明かりがついている。
 きっ、となって闇雲に廊下を走り抜けようとした。
『お前素直だしよ。』
声が響いて慌てて後ろを振り返った。
『かわってねえよ。聞き分けのいいところが特に。』
その言葉にしばらく友加子はその場に立ち尽くしていた。正面を向いている政幸。ぼろぼろと涙がこぼれる。
『お前が一番うらやましいんだよ。』
「違うわ。」
政幸に向かってゆっくりと首を振る。
「違うわ。違うのよ…。あたし聞き分けがよかったわけでも、素直だったわけでもない。お兄ちゃんが、いつだってお兄ちゃんがお母さんに反発してたから…それでお母さんたち、いっつも困ったような顔してたから…だからあたしがいい子でいなきゃいけないって思って…。本当はいつだってお兄ちゃんのようにしたかったのに! いつもいつも、お兄ちゃんが、うらやましくてたまらなかったのに…!」
目の前の政幸が優しい表情のままで、今度は確実に消えた。一瞬、友加子の頭の中が真っ白になる。
「嘘ぉ…。」
当てもなく回りを見回して、政幸を探し続ける。
「お兄ちゃん…。いやよ…置いていかないでよ…。もう、友加子を一人にしないで―――――――!」
ざざざざざざざざざ――――――…と風が、木々をゆらした。友加子は窓から外をのぞきこんだ。あたりは既に真っ暗になっている。三階と一階の窓からもれる明かりが闇の校庭を照らしている。その中に日暮れ前に朱色がかった日に栄えていた桜の木に向かう、政幸の姿があった。
「お兄ちゃん!」
振り返って階段を降りる。一階の廊下を走り抜け、出口から校庭へ走りでる。
「お兄ちゃん!」
政幸の影が桜の木の下に立ち尽くしていた。大急ぎでかけよったが、政幸の影は消えてしまった。
 桜…桜…、みごとな桜。まるでその下に死体を埋めて、養分にしているよう…。友加子はガクガクと膝を落とした。何も言わない。たださっきからあふれる涙が地面を濡らしていくだけ。何も…考えられない…。
 背後から人の気配がする。ゆっくりと近づいてくる影。
「何をしている。」
「何も…。」
「何で泣いてるんだ。」
「…この下に…死体が眠っているの。あたしのお兄ちゃん…。」
「友加子危ない!」
はっとなって振り向くと棒のようなものを頭の上に掲げた男が後ろに立っていた。振り下ろされようとした途端に突風が襲いかかった。勢いよく桜の花びらが男めがけて乱れ舞う。視界が開けて次に男が見たのは、うらめしそうな目で立ちつくす政幸だった。
「あわわわわわ。」
男はその場で腰を抜かした。途端に友加子は校舎の方に向かってかけだした。駆け込んだ校舎の中に人の姿を認めた。
「何だこんな時間まで残って。下校時刻とっくに過ぎてるぞ。」
先生だ! 教師は友加子の必死の形相を見て驚いた。
「おい、どうした。」
「早く…、早く警察に連絡してください。死体が… 桜の木の下に死体が埋まってるんです!」
 

 次の日、桜の下に網を張って、人々がそこを掘り起こしていた。
「捕まえた男ですが…今取り調べにかかってましてね。何やらリンチをしていてその途中で死んでしまったと…去年のことですがね。以前からその男は少年と…彼女の兄と顔見知りだったらしくて…暴走族仲間だったらしいんですが…。何度か彼女の顔を見て知ってましてね、昨日様子を見に来たら彼女がお兄さんの名前を呼びながら埋めた桜の木の方にかけていくんで、やばいと思ったんでしょうねえ、慌てて駆け寄って…」
 刑事は教師に話していた。友加子は刑事の話を聞くともなく聞いていた。土をさわる音が聞える。
「きみは…その、お兄さんがきみをここへ呼んだといっていたね。ならなぜお兄さんはそんなことをしたんだろうか?」
「……寂しかったんだと思います…一人で…。」
「ふ…む。」
 友加子の様子に彼はそれ以上言葉を続けることが出来なかった。やがて大きく声が響く。
「ありましたあ!」
 覚えているのは見上げた時、限りなく空が青かったこと。
 
 桜…桜…。みごとな桜。
 桜の下に死体は眠る。

 
『逃げないでよお!』
 
 

 

 



付記
 
 この小説を書いたのは、高校三年生の文化祭前々日の明け方だった。
 なぜか原稿の提出が順々に遅れていた私は、文化祭特別号分だけもう落とすつもりだった。だけど部長がどうしてもというので前々日の十二時を過ぎて書き始めたのである。それもそうだろう、最後の文化祭号はせめて全員そろって、薄くない状態で出したいものだもの。
 だから、この原稿は、当時の睡魔に襲われながらの五時間分がそのまま映されている。
 とはいえ、時間が足りなかったのは実際で、書きなおしたいという欲求はあったし、だからその翌年、受験雑誌の文学賞に書きなおして応募した。この原稿は十六枚だけど、確かその時のは二十七枚ぐらいだったから、それぐらい書き足したことになる。タイトルも「散華」に変更し、末尾は友加子が遺骨を掘りだす手順があったりして、これよりはまだ幾分丁寧な原稿だったように記憶している。残念ながら、その原稿は残っていない。
 評者だった赤川次郎が、「サスペンスがとってつけたようで惜しい」と寸評で述べていたが、それを読んだ私は「サスペンスなんてあったっけ?」と正直思った口、そんなつもりはありません、とは、当時から既に始まっていたらしい。私はてっきり、評を付すならもう一人の選者横田順弥がするものだとばかり思っていたから、それは余計に意外だった。
 その原稿の記憶があるので、今回ホームページ用に文芸部の部誌を見ながらうちなおしている時、「あれ? これで終わり?」と、ひどくあっけない印象を受けた。もしかしたら、お読みになる皆さんもそう思われるかもしれない。確か、追いかけていた友加子が、瞬きをした瞬間、兄が消える、というその場面が一番書きたかったので、それを書いた後力つきたようにずるずると終えてしまったのだ。仕方ない。
 これを読み返しながら、学校の校舎は夕暮れ時、意外と美しいものだということを思い出した。そういえば、「霧中」の冒頭も夕暮れ時にスタートしている。私はあの時、あそこにいたのだと思うと同時に、当時夕日を眺め、校舎を眺める余裕があったのだと、ふと、感慨にふけった。

(2000.10.1)