プロローグ


 朝早く、まだうす暗いうちから、辺りには霧が立ち込めていた。…早朝、だからこそ、彼女の母親は気をゆるめていたのかもしれない。――白い、霧の中、いったい何をそんなに慌てていたのだろうか? 横から来る車に、気がつきもしなかった。
 やがてライトが母親の体を照らす。そのすぐ後に、キキ――という、嫌な音が辺りに響いた。母親の体が宙に舞い上がり、その次の瞬間、地面へ叩きつけられた。――いきなり離れた母親の手を探していた彼女は、三メートルも離れていない所に、母親を見つけた。
 ライトの中に、浮かび上がった母親の体からは、まるでビンの底からインクがもれるように、血が地面を赤く染めていく――
 彼女にはしばらく、何が起こったのか解らなかった。ドアの閉まる音、逃げて行く車。やがて日がさし、少しずつ明るくなり、辺りには沈黙しかなくなった。彼女はまだ九つ。ゆっくりと口が開けられていった。
「ままぁ―――――――」
 彼女の母親は死んだのだ。彼女の目の前で、うっすらとしか見えない景色の中、そこだけは、いやにはっきりしていた。
――――――それは、霧の中――――――


第一章

 机につっぷせていた恵理が、起き上がりざまに一言、激怒しながら言った。
「冗談じゃないわよ!」
そこへ向いの席にすわって本を読んでいた葉子が、のろのろと答えた。
「なぁにがぁぁ?」
「どうして、どおして、テストまでに家庭科の毛糸のマフラー仕上げなきゃいけないのよ! テストまでって行ったらあと、二週間しかないじゃないの。これ最低一メートルは編まなきゃいけないのよ! 家庭科の編み物の授業が始まって二週間、毎日編んではほどき、編んではほどき、いったい何センチ編めたと思う? 十五センチよ、じゅうごせんちっ。ちょっと葉子、聞いてんの?」
葉子は視線を本から恵理の手元に移した。緑の毛糸、マフラーの編みかけ、と、編み針を、恵理はしっかり握りしめている。しばらく葉子は、恵理の手元をながめて、言った。
「あたしが思うにそれって、あんたの天才的ぶきっちょによる所以じゃないの?」
波、波が、怒涛のような波が、恵理を襲った。
ずぁぁっっっぱぁぁぁぁぁんんん―――
恵理がゆっくり、緑の毛糸、マフラーの編みかけ、と編み針を、膝の上に落とした。
「やっぱり…」
「…大袈裟な奴だなあ、第一あたしそれ、三日前に仕上げてもう提出しちゃったよ。」
「そんなあ」
恵理は情けない声で言った。
「そんなあと言われても困る。」
「あたし達の、あたし達の友情はどこへ行ったの?」
「そんな友情なんて知らないぞ、私は。」
闇、真っ暗な闇が、恵理を追いかける!
きゃあああああああああ――――――!
 ―――さっきから、二人はこんなことばかり繰り返している。二人、田崎葉子と東野恵理。葉子はセミロングの髪で肩まである。意志の強そうな目をして、鼻はやや高く、唇が落ちついた趣があり、卵型の輪郭をしている。一方恵理は、目は割りにぱっちりしていて、鼻はやや低めのショートカットの女の子である。
 二月もそろそろ中頃の放課後、まわりに山の見える盆地の学校の、彼女達の三階の教室には、みんなクラブに行ったり、帰宅したのか誰もいない。
 教室ではみんなの机と反対の向きにして、向い合わせた机が一組、そこに彼女たちがすわっている。恵理が残って家庭科の課題をすると言ったので、葉子がそれに手伝うといって残っているのだ。時計は四時を回ろうとしている。
「あんた達も、暇な会話してるわねえ。」
「あ、中川ちゃん、掃除終わったの?」
授業中い眠りをしていて、先生に職員室のトイレ掃除をさせられていたのだ。もう終わったのか、教室に帰ってきた。
「田崎、あんた暇じゃない?」
中川がきいた。
「ううん、結構退屈しないよ。恵理が一人で遊んでくれてるもの。」
「ま、そだね。…ああ、そういえば、あんたのお兄さん玄関に来てたよ。」
「お兄さん?」
葉子がききかえした。
「うん、玄関のところにいて、田崎呼んできてほしいって。なかなかいい男じゃない、今度紹介してよ。」
中川は言った。
 葉子は少し考えてから、きいた。
「…本当にお兄さんって言ったの?」
「え? うん、言ったよ。何で?」
「本当に? 弟の間違いじゃないの?」
「ちゃんと言ったってば。何で嘘つく必要があるのよ。」
「い、いや、うん、そうだね、行ってみようかな。そう、じゃあ、そろそろ帰ろうかな。」
「そんな、葉子! あたしを見捨てて帰るの?」
恵理が叫んだ。
「中川ちゃんがいるじゃない。じゃあね。」
「そんなあ…」
葉子は教室を出て行った。
 恵理がため息をつくと、中川にきいた。
「ねえ、中川ちゃん、本当にお兄さんって言ったの?」
「しつっこいなあ、あたしがそんなに信じられないって言うの?」
「そういうわけでもないけど、おかしいなあ、あの子お兄さんなんていないのに。」
「へ?」
「亜雄(つぐお)って言う一つ下の弟ならいるけどさあ、お兄さんはいなかったはずだよ。」
「えっ? だって、大学生、ぐらいの男の人が…」
恵理と中川の間に沈黙があった。
「行ってみよっか?」
恵理がボソッと言った。
「うん。」
二人が教室を出ていった。
 

 葉子が玄関へついたら、そこには「大学生ぐらいの男の人」が、外を見て、つっ立っていた。葉子はしばらく、彼をじっと見ていた。すると、彼が葉子の視線に気がついたのか、彼女の方を振り返った。
「田崎…葉子さん…ですか?」
男がきいた。
「ええ、そうです。…あなた、誰ですか?」
葉子がにらみがちな目で言ったので、男は多少ためらいがちに答えた。
「はじめまして―――とは言いがたいんだけど、僕は堀川圭吾と言います。」
恵理と中川がちょうどそこへ降りてきた。しかし葉子は全く気付かないようだ。
「その、堀川さんが、私に何の用なんですか?」
「ずっと、君を捜し続けていたんだ。」
「?」
「―――君は、成美だろう? 大きくなって、感じは少し変わったけど…」
圭吾は葉子に近づこうとした。葉子は、後ずさりして、言った。
「な、何わけのわからないこと言ってるの? 成美――ですって?」
「! 本当に記憶を失っているのか?」
「?」
圭吾も葉子も驚いたような顔をしている。
「例えば、きみのお父さん。六年前に亡くなったんだが、堀川寿樹って言うんだけど、何か覚えてないかい?」
圭吾が聞く。
「何を言ってるのか、さっぱりわからないわ―――お父さん、ですって? 私のお父さんは、田崎賢というのよ。あたしが赤ン坊の頃に亡くなったの。」
「それは、義理の、だろう?」
葉子はピクリとした。が、何も言わなかった。圭吾は言葉を続けた。
「君は六年前、雪山の事故以来記憶を失って覚えてないかもしれないけど、君の本当の名前は、堀川成美というはずだ。」
「はずだって、いいかげんなこと、バカなこと言わないでよ! 私の両親は小さい頃亡くなって、弟と私はおじいちゃんに育てられたのよ。今は三人家族で、私の名前は、田崎葉子って言うの。人違いもいいところだわ。」
葉子はムキになって言った。
「それはおじいさんに教え込まれた単なるエピソードだろう?」
「しつっっこいわねぇ、だいたいあなた、いきなり訪ねてきて、初対面の私にずけずけとそんなこと言ったりして、失礼だと思わないわけ?」
葉子がすさまじい目で睨みつけた。
 しばらくの間、圭吾も、葉子も、二人とも何も言わなかった。
 やがて圭吾がため息をつくと、口を開いた。
「悪かったよ、いきなり色々言われたって、今のあんたにはわからないものな――だけど、もし、成美でないにしても、君はあまりにもあの人に似すぎているんだ。」
「―――あの人?」
葉子が聞き返した。
「そう、僕が持っている写真の人――君が九つの時、交通事故で亡くなった君のお母さんの写真――その人だ――。」

第二章

 今、太陽は西に傾いている。といっても、校舎は南向きなので、夕日は直接玄関には入ってこない。玄関の出た所にあるコンクリートと中庭にある池にゆるやかに夕日が反射して、玄関の中は薄明るい。にぶい冬の夕日が、池の水に反射して、水面がゆらゆらとゆれるたびに、窓がガラスに映る柿色を、ゆらゆらと揺らす。――堀川圭吾と葉子は、しばらく黙ったままつっ立っていて動かなかった。さっきからクラブをしている生徒たちのかけ声などが聞こえているだけである。
 ふいに、中川がボソッと言った。
「あれ、本当に田崎のお兄さんなのかなあ?」
十歩ほど離れた位置からだと、割に静かな玄関ではいくら小声でボソボソと話しても、圭吾と葉子に聞えてしまう。葉子はピクリとした。それにいち早く気付いた恵理は、中川を制そうとした。
「ちょっ、ちょっと中川ちゃん。」
「だってさあ、ちっとも似てないじゃん、あの二人。」
中川は平気な顔をしてしゃべり続ける。葉子が気付いたことに、気付いていないのだろうか?
「で、でも、お兄さんって言ったの、中川ちゃんじゃない。」
「ん… でもあの時はよく見なかったし、本人が言うから、解らなかったのよね。最近、身内だって親戚の子供誘拐するぐらいだもの。これだって、わかったもんじゃないわよ。」
「でもあの人、写真持ってるって…」
堀川圭吾は焦ったような目をして葉子と中川を繰り返し見た。葉子は堀川を見上げて後ずさりし始めた。
「そんなもの、どっかで田崎の写真手に入れて、ほら、合成してんのかも知れないじゃない。」
「中川ちゃん…!」
恵理がとっさに「やばい!」と思って再び中川を制そうとした。が、葉子は中川の言葉に弾かれたように言葉を吐き出した。
「あのっ、あたし、失礼します。きっと人違いでしょうから。」
そう言うと、葉子は玄関の隣にある下足室に向かって、走って行ってしまった。
「あっ、あっ、ごっ…誤解だ! 待ってくれ! 話を…」
葉子が見えなくなってしまうと、言葉も途中でさえぎり、しばらくオロオロとまわりを見まわすと、あわてて玄関を出て行った。
「ねっ、ねえ、あたし行ってくる。」
恵理は少し迷って駆け出した。残された中川はポケッと突っ立っていたが、やがて恵理の後を追ってかけ出した。
 堀川が玄関を飛び出して戸惑っていると、丁度そこへ葉子が靴を履き替えて出て来た。
 ――玄関と下足室を出て、正面がグランドになっている。右へ曲がれば葉子の乗るバスの通りに出る正門。そして左へ曲がりまっすぐ行って、突き当たりをさらに左へ曲がり、自転車置き場の前を通って行くと、裏門に出る。
 今、堀川がちょうど葉子を立ちふさぐような感じになってしまった。しかし葉子は気を取り直し、堀川をちらっと見ると、彼を無視して振りきろうとスタスタと歩き出した。
「おい、本当に誤解なんだ。」
通り過ぎようとする葉子の腕をつかんだ。きっとなって葉子は堀川に向き直った。
「離してください!」
おもいっきり力をこめて堀川の腕をふり切り、正門の方へかけ出した。
「あっ、こらっ待て…!」
踵を返したように、堀川が追いかけようと振り返った! 走り出した! こけた!
 ずで――――――――――――――――――っっっ…
 ああ、なんてドジな奴…。…いや、違う。中川が堀川に足をかけたのだ。倒れたまま沈黙していた堀川は、やがてむっくりと上体を起して中川の方を振り向いた。
「君は…」
それからゆっくり立ちあがりながら、言った。
「俺に何か恨みでもあるのか?」
「恨み! そんな風に見えますか?」
「そんな風も何も、現にこうして足をかけたじゃないか!」
堀川は地面を指さしながら大声で怒鳴った。
「あらら、まあ…」
「『あらら、まあ…』じゃない!」
再び砂ぼこりだらけの顔や体を無視して怒鳴った。中川はきょとんとした顔をして、言った。
「ごめんなさい。あたしの足、最近、情緒不安定らしくて…」
堀川と中川の間に、しばしの沈黙が出来た。それから、二人そろって、笑った。
「ハッハッハッハッハッハッ」
呆れかえって二人を見ていた恵理が、ふと正門の方に気付いた。
「あ、バスが来た。」
堀川はその言葉にハッとなって我に返ると、再び振り向いて走り始めた。しかし、校門の前つくころには無情にもバスは発車し、葉子の姿も既になかった。
「しまった…」
彼は眉をひそめた。
「次のバスは…」
バス停の時刻表に近づき、出たバスの路線を探した。四時二十五分発というと…
「次のバスは一時間後だよ。」
堀川の後について走って来た恵理が言った。
「一…時間…」
次のバスが来るのは確かに五時三十分となっている。堀川はがっくりと肩を落とした。
「あそこは山の中だから…。歩けば一時間ちょっとでつくと思うけど」
続いて来ていた中川が言った。
「一時間…出直すしかないかな―――君らは何で帰るんだ?」
「あたし自転車。」
恵理が答えた。
「あたしは徒歩。」
堀川は黙り込んだ。何か考えている。ふっとなって、口を開いた。
「その…きみらは知らないのかな? 彼女が昔どうだったとか…」
「あたしは中ニの時同じクラスになってからの付き合いだし、中川ちゃんは高校入ってからだから、あんまり…」
「そう…か…」
「その捜してる妹が田崎だって、確信でもあるの?」
中川が尋ねた。
「…わからん…でも、俺の持っている写真の女に似てるってのは本当だ。」
「あ、ああ、あれってやっぱり嘘じゃなかったの?」
中川はギクッとなって言った。
「そう言えば…」
堀川は恨めし気な目をした。
「やたらと邪魔されたような気がするが…」
「だっ…だって本当にちょっとおかしかったもの。田崎だって不気味がってたし…顔だって、どう見たって似てない。」
「ああ…」
堀川は少し言葉をつまらせた。
「たとえ、彼女が俺の妹であったとしても、似てなくて当然なんだ。」
「?」
「俺の母親と、妹の父親は、再婚同士で…だから、本当の兄妹じゃない。」
 

「亜雄! いいかげんに起きなさい! 起きなきゃ遅刻するわよ!」
葉子はカーテンを開けながら、大声で言った。亜雄の部屋は東向きなので、カーテンを開けると眩しいくらいに朝日が射し込む。
「んー… あとちょっと…」
亜雄はまだ布団の中でもぞもぞしている。
「何言ってんの。遅刻したくなかったら、早く起きなさい。」
「だってオレ…今朝の三時まで起きてたんだぜぇ…」
「そのくらい何だってのよ受験生。ちゃんと起きてきなさいよ。あたしもう、来ないからね。」
 バタン。
 葉子は亜雄の部屋を出た。今七時少し過ぎだ。亜雄が起きてこない理由に「眠い」だけでなく、「寒い」せいもあるのだろう。今日はいつもより少し冷え込む。
「眠い…」
葉子は台所のイスに腰かけた。彼女は昨日の夜、なかなか眠ることが出来なかったのだ。昨日学校に来た男――堀川圭吾とかいう――彼の言ったことが気になって仕方がなかった。
『きみの本当の名前は、堀川成美というはずだ』
堀川成美というはずだ――。
 恐い――!
 あの時葉子は恐怖を感じた。中川の言ったようなことではなく、彼自身の言葉に――自分自身のことを言われているのに、それは全く自分の知らないこと。自分の知らないことなのに、他人は知っている。…昔から彼女はそうだった。いつもそれにどうしようもない不安を感じ、恐怖に襲われる。そして彼女は逃げ出した。他人の言葉を口実に。
 わからない…恐い。
 布団の中に入り、「もう考えてはいけない」と思う。だけど、眠れない。そして、繰り返し、繰り返し、つぶやくのだ。
「眠らなきゃ、眠らなきゃ、朝になってしまう…」―――――
 

「姉ちゃん! 姉貴! 葉子! 起きろよ! 何でこんなとこで寝てんだよ!」
「ん? ああ…あれ? あたし寝てたの?」
亜雄の声で目を覚ました。イスにすわって頬杖をついたまま眠ってしまったらしい。
「…まだ寝ボケてんの…?」
「――今、何分?」
「七時四十五分。」
「やだ! やだやだ亜雄、何でもっと早く起きて来ないのよ。」
「姉貴、じーちゃんは?」
「山よ。朝早く出かけていったの。」
「ふうん…」
「ホラ早く食べて。」
寝ボケ眼で亜雄をせかした。
 家を出て、葉子は歩いて二分のバス停で亜雄と別れ、バスを待った。空気がリンとしている。はく息が白い。やがて五十三分に来たバスに、時計を見ながら、「いつも一分は遅れるんだから、このバスは。」と思いながら、乗り込んだ。バスは彼女の乗る停留所発なので、乗っている人はそれほど多くない。一人座席にすわって落ち着くと、ふと葉子は考えた。
 またあの人がいたらどうしよう。昨日きて、「妹を捜してる」なんて…。そういえば、何処から来たんだろう? こんな時期に、こんな所に、わざわざ…、すーっとまた葉子を眠気が襲ってきた。たぶん、同じクラスの中村須実恵が起こしてくれなかったら、葉子は乗り越していただろう。
「どうしたの葉子ちゃん。バスの中で寝たりして。」
「んー…昨日の夜、なかなか寝つけなくて…」
葉子が目をこすりながら中村須実恵と一緒にバスから降りてきた。中村須実恵――一見、おとなしそうな少女。中学三年の時も葉子と同じクラスだった。小学校の時も通学班が一緒だったので結構仲がいい。
「何で?」
須実恵が聞いた。
「んー…」
葉子は口ごもらせた。と、校門の前に立っている人影に気がついた。じっとこちらを見ている。あれは… 校門まで歩いて数十歩。誰だろう?と考えている間に校門についた。
 やはり堀川だった。
「おはよう」と彼が声をかけてきた。葉子は下を向いて通りすぎようとした。午前八時十五分。校門前の人の通りは決して多いとは言えない。
「待ってくれ、これを…」
彼は葉子の手首をつかんだ。葉子はビクッとなって振り向いた。と、目の前に写真。白黒の…
「これ、昨日言っていた写真。合成写真じゃないだろう?」
確かに白黒の写真で、それらしい感じは見られない。写真の中でうっすらと微笑みを浮かべている女性。似ている。長い髪、意志の強そうな目、やや高めの鼻――ただその人は、葉子より少しほっそりとした顔をしていた。だけど似ている。確かに、そっくりだ。何だろう… 嫌だ。まただ。
「!」
葉子は背中をゾクッとさせた。
「そう…ね。」
若干顔をひきつらせ、ようやくそう答えた。そしてそれを聞いた堀川は、にっこりと微笑んだ。それから、
「じゃあ、これで。」
そう言ってカバンに写真を入れると、ゆっくりと歩いて行ってしまった。
「誰? 今の人…」
須実恵がきいた。
「知らない。」
「え? 知らない?」
「知らない。」
葉子は堀川の行く姿をじっと見ていた。「この程度のことで帰る人じゃない。また来る。たぶん…この寒い中じっと待ってたんだもの。」――葉子は思った。そして、ふっと、「こんな寒い中、どれくらい待ってたんだろう。たかが写真一枚見せるために。」
 葉子は振り返った。
「ごめん。寒いのに、突っ立ってちゃって。行こっか。」
「う…うん。」
葉子は少し嬉しそうに微笑みを浮かべ、歩き始めた。
 

 高いビルの上層階の一室。壁のまわりに書棚。ブラインドが半開きになっておろされた窓の前には大きめの机があって、机の前には応接セットが並べられている。机の前にすわっている男が書類に目を通している。
 ピ―――…
 呼び出し音が鳴った。
「何だ?」
男がボタンを押して答えた。
「お姉さまがいらっしゃいました。いかがなさいますか?」
男はしばらく考えて、言った。
「通してくれ。」
「はい。」
しばらくしてから上品な中年の女性が秘書に案内されて入ってきた。男は腰を浮かせ、手をソファの方に差し出した。
「さあ、どうぞ。かけてください。」
女性がソファに腰を落ちつかせた。
「お仕事の邪魔だったかしら…?」
「いえいえ、久しぶりですね、姉さん。で、今日は何の用で?」
「…圭吾がいないわ。」
「ほう、それで?」
「今度は何をたくらんでいるの?」
男は驚いたような顔をした。それから、
「ハッ…ハハハ、何事かと思えば。圭吾だってもう大学生なんだから、いきなりいなくなってもそう慌てることはないでしょう。」
女性は答えない。女性――堀川圭吾の母親である。堀川晶子。そして男は山本周一という。彼女は周一を見ているだけで何も言わない。
 周一は咳ばらいをして、言った。
「でもまあ、今回の所は特別といったところでしょうか。」
「特別?」
「ええ。圭吾は成美を捜しに行ったんですよ。」
「成…美? でもあの子は…」―――…
「六年前の事故では父親と他の人の遺体は見つかった。でもあの子の遺体だけは、見つけることができなかった。」
「ええ、でも、生きているとは限らないのよ。」
「死んでるとも限らないんですよ。現にそれらしい人間がいたから、圭吾も行ったんでしょう。」
二人は沈黙した。
「でも、六年もたっているのに…」
「堀川のじい様も、もう気が弱くなってますからね。圭吾は義理でもあのじい様と仲がいいですし。」
「おじい様が…」
「で、一年がかりで圭吾が調べ上げたんですね。もう今となって血のつながりがあるのは、成美だけですからね。」
晶子は顔をこわばらせたまま、動かなかった。
 

「田崎さん…ですね?」
圭吾は家に入ろうとする老人に声をかけた。
「そうじゃが…あんたは?」
「堀川圭吾と言います。…その、葉子さんのことで、お話が…。」
 

「あ、とうとう降ってきた。」
恵理が空を見上げて言った。白い雲がちらちらと舞い降りてきた。ショートホームルームが終わって生徒がちらほらと校舎の玄関から出てきている。
「葉子、バスの時間は?」
「三時二十七分。恵理、自転車で帰るの?」
「んー…置いとくわけにはいかないし。」
「じゃ、バス来るから行くね。」
「うん、バイバイ。」
中川と葉子、恵理は玄関で別れた。さっきまで黙っていた中川がしゃべりはじめた。
「あのさあ、田崎…」
「ん? 何?」
「昨日のことだけど―――」
雪がとめどなく降り始めた。
 

 葉子がバスを降りるころには、雪は大降りになり始めていた。ポンと傘をさして足早に歩きだした。家の前につくころ祖父の声が聞えてきた。
「帰ってくれ! いいかげんなことを言いおってから!」
「田崎さん!」
堀川の声。
「二度と来るな! ええな?」
それからピシャンと扉の閉まる音がした。玄関の前に堀川が突っ立っている。
「何しに来たの?」
葉子が声をかけると、堀川が振り向いた。
「君は…」
二人は雪の降る中、黙って立っていた。
「おじいちゃんに、何を言ったの?」
葉子が口を開いた。
「君は…知ってるのか?」
「………」
「君は六年前、記憶を失ってこの家の」
「今さら…」
葉子が堀川の言葉をさえぎった。
「え?」
「今さら、そんな…遅すぎるのよ! 帰って! もう来ないで!」
葉子は玄関へかけ出した。
 ピシャン…
 堀川の前には、沈黙した、扉。雪がいっそう量を増して降りそそぐ。
「遅すぎるのよ。」
葉子はバタンと部屋のドアを閉めた。
 ―――知ってるのか? ですって? 知ってるのよ。六年前、私が記憶喪失になったことも、この家に養女として引き取られたことも。六年前、私を教えてくれたのは、おじいちゃんだった。他に誰一人として私を知らなかったんだから、私はおじいちゃんの言葉を信じるしかなかった。疑うより信じる方が、ずっと楽だったんだから。六年もたって、今頃――
 葉子は部屋にすわりこんだ。堀川を追い返したことに、何故かたまらなく、後ろ髪ひかれる思いをしていた。