時計の針は、午前十時を差していた。堀川は車から降り立つと、葉子の家の門扉に手をかけた。中から何か言い争う声が聞えてくる。瞬間、堀川は『しまった。』と思った。いくら土曜日でもこの時間なら祖父の賢三も弟の亜雄もいないと思っていたのだ。「堀川の話」を葉子に持ち込むのに、あの二人がいては厄介だ。しかもどうやら怒鳴り声は亜雄のものらしい。堀川は入るべきか、返すべきか、しばらく様子を見ることにした。
「今度のこともあいつのせいなんだろう?」
亜雄の生々しい怒鳴り声が響いてくる。今度の事…今度の事。誰のせいだって?
「帰りが遅いんで迎えに行ってみれば道の真ん中に座り込んでいる。いきなり撃たれただって? しかも消音銃。変だよ。絶対変だ。なぁ! だから俺が行って確かめてくるって…!」
「だめよ、亜雄。勝手なことしないで!」
銃で撃たれた?
「何でだよ。このままでいいはずないだろう?」
「亜雄!」
玄関の扉がいきなり開かれた。扉の向こうと扉のこちら。亜雄を彼は石畳をはさんで視線がぶつかりあった。
「あんた…あんただな? …ちっ…くしょおお――――――――――おっ!」
亜雄は拳を握りしめ、門扉の向こうの堀川を目指してかけだした。身じろぎ一つする暇もなく、堀川の頬に亜雄の拳が食い込んだ。なぐられたその勢いでアスファルトの道路の上に堀川が倒れ込む。堀川の体のどこかにあたったのだろう門が、ガシャ―ンと騒々しく音を立てて、揺れていた。
「堀川さん! …亜雄! あんた何てことするの!」
「いきなり殴られた彼の頭の中は真っ白になった。低い姿勢から見える門扉の向こうから、右腕に包帯を巻かれた葉子がかけてくるのが見える。白い包帯…ケガの後…。
突然堀川は覚醒した。
「葉子、放っとけよ! そんなやつ!」
葉子は門扉を開けようとした。
「何言ってんのよ! いきなり殴りかかって…確かめてくるなんていいかげんなこと言って!」
振り返って言い返す彼女の後ろで、ゆっくり立ち上がった。
「何があったか知らないが…。」
堀川は葉子と門扉を押し退けて入っていく。
「『何があったか知らない。』ぃ?しらばっくれてんじゃねーよ!」
「…頼むから落ち着いてくれって…。」
「うるさい!」
またもや亜雄の右腕が顔めがけて伸びてきた。堀川は、いつもの彼からは想像出来ない程あざやかにそれをかわし、今度は亜雄の腹に彼の拳を食い込ませた。
「ぐう…。」
「きみに殴られるいわれはない。」
倒れる亜雄を、殴った堀川自身が支えた。言い交わす葉子と亜雄の声に別の声が交じってたのを不審に思った田崎老人が玄関へと出て来ていた。
「亜雄!」
ちょうど悪いところに…と堀川は思った。葉子がケガをしたために、祖父も亜雄もいるのである。亜雄はわざわざ学校を休んでいるのである。
「どういうことだこれは…。あんた、この前の人じゃな? 一体何が…」
そう言いながら堀川に近づいていった。
「お宅のお孫さんにいきなり殴られまして…。何かあったんですか?」
堀川は殴られた頬を押さえながら言った。
「…葉子が撃たれたんじゃ、昨日…。消音銃か何かであろうが…。それで亜雄は頭に血がのぼっておるのだよ。」
「撃たれたって、一体、誰に…。」
「さあ、そこまで知らんな。それより、あんた何しに来たんじゃ。もう二度と来んでくれとこの前わしは言わんかったか。」
「ええ、でも…」
「おかしな事を言って家の中を混乱させんでいただきたいな。」
「田崎さん! 事実は事実でしょう? 実際彼女だって…。」
「やかましい!」
老人は大声で堀川の言葉を遮った。
「葉子は葉子じゃ。それにかわりはない。さあ、早う帰ってくれ。葉子、亜雄、家に入るぞ。」
亜雄は殴られた腹を押さえながらなんとか立つことが出来た。入ろうとする老人と弟に対して、葉子は門のそばに立ち尽くしたまま動かない。
「葉子! 何しとる! 早う来んか!」
それでも葉子は動かない。どこにともなく見据えたまま、動かない。
「葉子!」
「堀川さん、今日はどうして…」
「俺の叔父が今朝来たんだ、きみに会うために…。それで迎えに来たんだが…」
「そう、じゃあ…」
「行かんでいい。葉子。」
葉子は無気力な目を祖父に向ける。そのまましばらくの沈黙が続く。重い重い空気の沈黙。
「おじいちゃん、あたし知ってるのよ…。何もかも。」
「知ってるって何が…。」
葉子はムッとした。
「行きましょう、堀川さん。」
葉子は堀川の腕をひっつかんで門の方に歩き始めた。その行動に老人は思わずポカンと口を開けてしまった。亜雄も同様に驚いた様子でそこにいた。
「ま、待てよ、葉子。そんな奴について行くのかよ!」
腹部をおさえながら亜雄が追い掛けてきた。ぎっ、と葉子がにらみつける。
「あたしのことに口だししないでっていつも言ってるでしょう?」
亜雄はたじろぐ。違う…これは…いつもの葉子じゃない。葉子はこんな風に俺をにらみつけた事なんてなかったのに、こんな…。
彼女は背後の老人と亜雄をその場に置き去りにするように、堀川と行ってしまった。
「いいのか? あんな風に…。」
「いいの。」
車中、二人ともしばらく口をきいていなかった。堀川は何か後ろめたい事をしたような気がして葉子にたずねたのだ。
「それより、おじさんって何ですか?」
「俺の母親の弟で、きみとは全くつながりはないけれど…。」
「そう…。」
またしばらくの沈黙が続く。突然葉子が思い出したようにクスリと笑った。
「あんな風なことをするなんて思わなかったわ。」
「え?」
「亜雄を殴り返したでしょう? ただのいいとこのおぼっちゃまばかりだと思ってた。」
「ああ…まあ、いいとこのおぼっちゃまでも、護身術ぐらいは身につけとかなきゃね。」
「そういう趣旨からなの?」
「厳密に言えば違うけれど…そういえば、撃たれたって? 昨日…。」
「え…え、まあ…」
「消音銃か…」
「分からないわ。ただ音がしなかったから…」
「相手がきみだって知ってて撃ったのかな?」
「さあ…暗かったし、後ろからだったから…」
「無差別発砲だったかもしれないと…」
「やあね…」
「へ?」
「どうせなら、目的持って撃たれたほうがいいわ。誰が撃ったかわからないなんて、気味が悪くって。」
「そういうもの?」
「そういうもの。」
車はバス通りから一車線の脇道に入って行く。体が軽く右へと揺れた。
「何で?」
「きみのおじいさんにいやがられる様なことばかりしてるからさ。昔なかったか? 娘をたぶらかした男の家に猟銃持って押し入って何とかって…。」
「あたしたぶらかされてるんですか?」
「いや違うけどさ、田崎老人の趣味が猟とかじゃなくて良かったなと…」
「何もかも…か。興信所か何かで調べてあるわけ?」
「ま、まあ…」
つまりこういう理由である。記憶喪失の子供を引き取るにしても、やはりそれ相応の手続きが必要なのだ。田崎老人の場合もまず息子夫婦の養女にさせて、それから少女をあずかっている。しかも届けが出されたのは事故から一年近く後の事で、届け出された場所は事故現場から県を二つも隔てた所。表向きは、老人宅の裏山のガケの上から少女が足をすべらせて転落したらしく、ちょうどその日、祖父の変わりに松の見回りに来ていた夫婦が子供を偶然見つけ…命に別状は無かったが、少女は記憶喪失になっていた。捜索願いは出ていない。連絡先がつかめない。結果、子宝に恵まれなかった夫婦の元へ田崎葉子として入籍された。もしこの葉子が堀川成美であったとしたら、そうでないにしても、この老人の行動は異様である。何故それほどまでして彼女を引き取りたかったのか。何か目的でもあったのだろうか…。
「ま、いいけどね。」
葉子は後部座席の背もたれにもたれかかった。
「でも、その興信所、たいしたことないわね。」
「え?」
「あるわよ、銃。おじいちゃん若い頃に猟してたもの。今はどこか、倉庫の中にでもしまってあるんじゃないのかな。」
キキキキ――――とブレーキをかける音が響いた。堀川が話に気をとられていて、対向車に気付かず、慌ててブレーキをかけたのだ。背もたれにもたれかかっていた葉子は突然、前座席の後部に打ち付けられそうになった。
「あっぶないわね…。初心者マークなんでしょ? こんな一車線の道通ったりしないで、遠回りして大通りの方走ったらどうなんですか?」
「わ、悪い悪い。ちょっと急いでるんだ。」
「? 何急いでるんですか?」
「叔父が来たのはいいが、もう昼過ぎには帰らなきゃいけないんだよ。」
葉子は少しばかりムッとした。
「時間がないなら、おじさん引き連れてあたしのトコに来ればいいじゃないの。一体何で…。」
「あのおじいさんに会わせてしまうわけにはいかないからね。」
「そ…ね…」
車外の景色が市内に近づくにつれて緑から白へとその色を変えていく。葉子は後部座席に沈み込むように、深く座った。
「おじさん…て。」
「え?」
「おじさんって、忙しい人なんですか?」
「ああ、忙しい人だよ。かなり…。」
「やっぱり、あれですか? 系列会社の社長か重役か何か…?」
「うん、してる。」
「コネ、ですか?」
コネ…。
「…半分以上実力だよ。もともとそういう才能はあったらしいから。ただ他の人より成るのは早かったかな?」
「ふうん…」
車は交差点で右折し、それから今度は左に折れた。
「え? 中川ちゃん家に行くんじゃないんですか?」
「うん。」
しばらくして車は停まった。多分葉子たちの学校から歩いて十分ぐらいのところだろう。普段あまり来ない所だからよくわからないが、それくらいの見当はつく。葉子は車を降りた。
「ホテル…」
決して有名ではないが、こざっぱりした洋風の、7、8階建てぐらいの白くてきれいな建物。
「堀川さん。」
車のドアに鍵をかけている堀川に話しかける。
「おじさんって泊まったわけでも、泊まるわけでもないんでしょう?」
「うん。だから今朝来て、すぐ帰るんだ。」
「これだから金持ちってのは…」
葉子はぶつぶつ言いながら歩き始めた。
「何か気に入らないのか?」
「なんだか成金めいてて嫌なの。」
「成金じゃないよ。」
「知ってます。」
と、葉子はぷっとふくれるような顔つきをした。ら、堀川が吹き出した。
「何…ですか?」
「…いやいやいやいや。」
まだ笑っている。
葉子は少しムキになって聞き返した。
「何なんですか!」
「最近思ってたけど、会話の中に緊張感がなくなってきて、たまに笑うようになったし…いやいや。」
「…そんなに笑うことですか?」
ふいに堀川は笑うのをやめて、葉子に目を向ける。
「かわいいかわいい。」
ぽんぽん、と、葉子の頭を軽くたたいて、また笑いはじめた。
「なっ…!」
葉子の顔が赤くなる。ほんのりと赤くなる。嗚呼、恥ずかしい。まっかっか。
―――突然堀川は笑うのをやめた。
「え?」
バシッ! 堀川の背中に葉子の平手が飛んだ。
「…ふざけてないで、早く行きましょう。」
背中の痛みを感じながら、堀川は少しの間だけ立ち止まって、葉子を見送った。
「でも、いい傾向だよ。実際。」
堀川は葉子にかけよった。
部屋のドアの前に来るまで、内心葉子は少し緊張していた。堀川が軽くドアをノックすると、中から返事がし、その声の勧めるままに部屋の中へと入って行った。入って行くと意外にもその部屋は和室だった。中年の男性が一人、窓のそばで指にたばこを携えながら、こちらを向いて立っていた。
「やあ、これはこれは。」
『なかなか品のよさそうなおじさん』――これが葉子の第一印象だった。
「はじめまして。」
一応挨拶をする。そう挨拶していいかよく分からなくて、はじめまして、とだけ言った。
「ああ、良かったらすわりなさい。…ん、腕にケガをしているね。」
「え? あ、はい。」
葉子は腕を見ながら机の前に座った。
「フム…」
おじ――山本周一がぶしつけなくらい、葉子をじろじろと見回す。
「まあいい。しかし…」
周一は持っていただばこを一度吸い、机の上の灰皿にそれを押しつけた。机をさけてついと葉子の前に来るといきなり彼女のあごをくいとつかんで自分の方に向けた。
「なるほど、よく似ている。」
葉子は周一の手をついとのけた。前言撤回。何て失礼な人! と葉子はうちむいてしまった。
「おじさんは成美に会ったことは…」
「いや、残念ながらないんだよ。」
「え? だって…」
「お前の母親と堀川氏が婚約された頃、私はちょうどアメリカに転勤になっていた。仕事が軌道に乗った頃だったんでね、結婚式には欠席させていただいて…。だから成美君には一度も会わないままになってしまった。―――しかしお母様の涼子夫人には何度かお会いしたことはある。」
と、周一はまた葉子をじろじろと見た。葉子はムッとした。―――この人の目は嫌い。寒気がする。表面は確かに微笑を保っていて一件優しそうに見えるのに目は――目は、まるで毒蛇のように、冷たくて、鋭い。堀川が歳をとったら姿形はきっとこんなふうになるだろう。しかし彼とは空気が全く違う。…何だろう、いやな感じがする。前にもあった。わけもなく不安な感じがして…何かは分からないけど…とても、怖い―――――――――!
「そうだな、姿形はもちろんの事だが、雰囲気が似ている。どこか気の強そうなその目つきやら…」
「それで…お袋は成美の事を何か…」
「あの人は何も言わんよ。しかしこれだけ条件の合った人間が、まさか他人だなんて事はあるまい。」
「ええ、そうですね―――。」
「田崎老人が何か口を出すのなら、こっちにも考えはあるさ。あちらが正しいとは、決して言いきれないのだからね。その気になれば金の力で何とでもなるさ。実際、あの変わり者のじいさんだって、金を使って『葉子』を籍に入れている。」
「おじさん…!」
堀川は葉子の方を少し見やった。
「ん?」
山本周一は堀川の方を見た。そして「ああ…」と言って葉子の方を見た。
「あ、いいんです。あたしは別に…」
葉子はためらいがちに答えた。とにかく今は彼女の家族のことである。それを思って堀川は叔父の言葉を遮ったのだ。
「まあ、一度うちのほうに来てみてはどうだろうね。環境が変われば――昔いた場所で暮らせば、記憶も戻るかもしれないでしょう。」
「ああ…」
「今すぐというわけにはいかんが、近いうちに一度迎えに来ようと思っている。」
「え?」
葉子は周一の目を見上げた。
「きみも今のままのどっちつかずというわけにはいかないだろう? 何、向こうに行けばいい医者もそろえて上げられる。きみのためにも一度、そうしてみた方がいいのではないかな?」
「え、でもそんな急に…」
「早い方がいい、こちらとしてもまた、いつ連絡が取れるかわからないしね。いつごろと決めておけば母親に都合をつけさせて一緒に迎えに来させることも出来る。姉も家で待つよりは、迎えに来た方がいいだろう。」
「でも…今月は弟の入試があるし、第一、おじいちゃんがそんなこと許すわけがないと思います。」
「ああ、それならまかせておきなさい。こちらからどうとでもしておくから…。―――じゃあ、弟さんの入試がすむ頃ならいいんだね。」
葉子は話の展開があまりにも急なので、即答していいかどうか迷ってしまった。でもなんとなく、今この時を逃がしたら今度いつ記憶を取り戻すためのチャンスが廻ってくるかわからない、そんな気がしていた。このままでは祖父や亜雄との間がもっと険悪になっていくかもしれない。もしそうなるのなら今…
終始微かな微笑を浮かべていた周一の目が、微笑しながら鋭くなる。
「いいんだね。」
「…はい。」
「じゃあそういうことで…。それまでに圭吾のほうに日時を知らせておこう。」
「あ、はい…。あの、じゃああたし、これで失礼しまう。空模様も危うくなってきたみたいだし…。」
開け放たれた障子の向こう側の窓の外に、高台の建物と山々、そして空が見える。空はどんよりとしていた。堀川圭吾が外の方を見て「ああ。」と相槌をうった。
「送るよ。」
堀川が立ちあがろうとしたところを葉子が慌てて止めた。
「あ、いいの。あたしちょっと中川ちゃん家にも行きたいし…。堀川さんはおじさんちゃんと見送ってね。あたしちゃんと一人で帰れますから。」
「ああ…じゃあ気をつけて。」
「ええ。」
「もてなしも何もしないで、ぶしつけな態度をとってしまって失礼したね。」
「いえ…それじゃあ。」
「また後日。」
軽く頭を下げてで室内の障子を閉め、葉子は出て行った。
葉子が出て行くと、再び周一はたばこを取り出し、吸い始めた。
「おじさん、何もあの子の前であんな話することないじゃないですか。」
「何の話だ。」
「金を使って何とかっていう…あんな話、高校生の女の子の前でする話じゃありませんよ。」
周一は深呼吸するように一服吸うと、軽く灰皿の上にその灰をたたき落とした。
「…だからお前は堀川のじいさんに甘いと言われるんだ。そんな事ではお前は…」
「オレのことはいいんです。」
きっぱりと堀川は言った。
「む…。だいたいだ。あの子は堀川のじいさんの孫なんだぞ。加えてあの子の目を見てみろ。優柔不断な父親似なんかじゃない。あれは気性の激しくて感受性が強い、母親似の目だ。ただの『女子高生』程度のたまじゃないさ。」
―――――いやだ―――――
ホテルを出ると空はどんよりとしていた。葉子の心も重い。何故か分からない(多分彼に会ったために?)けれど、重い。
しばらくボ――――と歩いていた葉子はふと気付いた。バス代がない。身一つで出てきてしまったので何も持っていない。
『中川ちゃんの家に行きたいし』――嘘よ。あんなのただの口実だわ。あの場から離れて一人で帰りたかったための…よりたいなんて思ってなかったもの。どうせよったらよったでケガしてる理由でもきかれそうだし…。わざわざあたし一人で行ったら、あの子のことだから何も言わずにすませるなんてことしないだろう―――――。
バス停の横を通り過ぎる。――いっか、歩いて帰ろう。――あんな風に家を出て来た後では電話もかけにくい。中川の家に行くと言って送るのを拒否した以上、堀川にも頼めない。
―――――オマエ ナニ ヲ シタイ ノ ?―――――
分からないわ。
―――――オマエ ハ ナニ ヲ ドウ シタカッタ ノ ?―――――
考えたくないのよ…
葉子はずっと何か納得のいかないことがあるような気がしていた。頭の中にひっかかる堀川の叔父の目や言葉、腕のキズ、撃たれた後――そういえば応急措置しかしてないけど、このままでいいのかしら――?
―――――― ! ―――――
変、よ、どうして? もし昨日のが無差別発砲なら、何故消音銃なんか使う必要があるの? やったことがバレるとまずいから? どうしてそんなに用心する必要があるの? あんな暗い所で、私一人だったのに―――。…そうよ、アレは腕をかすめたんじゃない。腕をねらったんだ。かなり腕のいい人が、あたしを狙ったんだ―――。どうして? あたし人に恨まれるようなことなんて、したことないはずよ――――。
―――― ケイコク スル ――――
立ち止まった葉子の頬を、一筋の雨がはじく。頭によみがえる、あの、目―――。
―――― ナニ モ オモイ ダス ナ ――――
何も――。思い出したいのに、思い出すのが怖かった。そしてあの目――あの目があたしの中の何かに呼びかける。何か思い出せそうで…でも怖い。とても、不安なのよ。思い出したいわ。でも思い出すのが怖い―――いやだ――――!
けたたましい音で電話のベルが鳴り始めた。慌てて受話器を取る。
「はい、中川です。…あ、恵理? どうしたの? あわてて…」