石と女


 大阪についたのは五時過ぎであった。買い物して帰ろうと、電車を降りながら頭の中で計算していると、信じられないことが起こった。まだそんな時間でもないのに、改札の外で水口くんがキョロキョロしているのである。驚いてその様子をみつめていると、彼は私の視線に気付いて私の方にかけてきた。
「どうしたん、水口くん。まだ仕事終わる時間ちゃうやん。」
「違うねん。途中で抜けて来たんや。警察から電話あってな、あの梨本っていう人や。心配やから、誰か迎えに行ってほしいって。」
「え? 職場に?」
「そう、で、最初電話出たのは前田課長やってんけど、俺が途中で代わったんや。」
「それで迎えに来たん?」
「そうや。」
途端に無表情な梨本警部の顔が浮かんでくる。無表情のくせして余計なことを、職場に変な噂がたったらどうしてくれると思ったが、多分、水口くんが来ることを許可したであろう前田課長や、必死で走ってきた水口くんを思うと、今まで凍りついていた胸の奥に温度が通うのが分かった。それで目から涙がこぼれてき、一筋落ちると後から後からあふれて来て止まらなくなった。
「さ、榊原さん、どうしたんや。何かあったんか?」
慌てて言う水口くんに、私は目を閉じて、両手を充てて涙を止めようとしたが、一向に止まる気配がない。
「どうしょう、水口くん。あたし、どうしたらええねんろ。」
言った途端に、体中の力が抜けて崩れ落ちそうになった。水口くんが支えてくれた。
 まさかこんなに、弱っていたなどとは思わなかったのである。今日一日、気を張ったままだったのだ。水口くんの顔を見た途端、緊張がいっきにとけたのであった。
 彼の胸にいながら、水口くんはあったかいなと思った。さっき梨本警部に抱えられ時、意外に体が暖かかったので驚いたけれども、人がこんなに暖かいものだとは思わなかった。背広を通しているのに、温度はちゃんと伝わってくる。でも、母はこんなんじゃなかった。男の人特有なのかも知れず、そういえば私は六歳から父親のぬくもりというものを知らなかったのだということを思い出した。
 それでも、体温のお陰で、ぼんやりと父の記憶がよみがえる。もういつのものかはわからない。冬、父の上着の中に包み混まれて抱かれていた。私は眠っていたのだと思う。ぼんやりと目覚めた父は、大きくて暖かかった。
 結局水口くんは家まで送ってくれたのだった。家までの道で、少しずつ、ポツリポツリと今日あったことを順番に話していった。最寄り駅の改札を抜けて人がまばらになると、いつの間にか水口くんは私の手を握っていてくれた。手の温もりにまたほっとしながら、暗くて寒い中を二人で歩いた。
 ある程度話し終えて、それでも水口くんはほとんど何も言わなかった。自分はどう思うかとか、母が父を殺したかどうかとか。私もあえて聞こうとはしなかった。母ではないと言ってくれたら嬉しいとは思うだろうけど、それは慰めにしかならず、かえって後で自分がみじめになるだけだと分かっていた。
「母は、父を待っている間、一体何考えてたんやろて思うわ。」
「うん。」
「母の幸せとか、楽しみって、一体何やったんやろ。」
「幸せ?」
「うん。」
「それゃ、…お父さん帰ってくるのと、榊原さんの成長ちゃう?」
「あたしの?」
「うん。」
「あたしの成長って言っても、立身出世してもたかがしれてるやろうに…。あ、でも…。」
「何?」
「母は、私が女の子で良かったって言ってたことあったな。前に、うちの母が男の子で生まれたら良かったって話したやろ?」
「ああ、籍に入れてどうのというやつやな。」
「うん。多分その種類の話してた時やと思うけど、あたしも男の子で生まれたら良かったなあって言ってん。そしたら、ずっとお母さんのそばにおれるのにって。お嫁にも行かんとおるねんよって。」
「そしたら?」
「そしたら、『でも、男の子はいつか別の人のもんになっちゃうのよ。』って言ってん。あたしその時はよう分かれへんかってんけど、『でも、女の子は旦那さんのものになるから、もっとちゃうん。』って言ったら、母は、『違うなあ。』って笑って…。今やったら、ちょっとは分かる気がするな。女の子にとって一番近い女の人ってたぶんお母さんやけど、男の人は違うやん。女の子は結婚したら妻とか母になるけども、男の子は違うやろ。そういうことかなって思って…。」
「じゃあ、結局お母さんはもともと女の子が欲しかったんかな。」
「そうかもな。」
思わず顔がほころんだ。頼りなげではかなげな、母の姿が思い浮かぶ。年の割りには若く見えた、静かな人だった。
 結構ゆっくり歩いたから、十分の道程に十五分かかった。部屋の玄関の前までくると、
「それじゃ、俺はここで、後…。」
と水口くんが言い出したので、
「え、お茶でも飲んでいってよ。」
と引き留めた。
「え、いや、今日はやめとくわ。」
「今日はって、初めてやん。何?何か用事?」
「いや、そやな。うん。用事はないけど、何か長居しそうやから…。」
「長居? ああ、そうか。じゃあ、ご飯も食べて行ってよ。この前のフグおごってもらったままやし。」
そう言うと、水口くんはてれ笑いをした。
「いや、ホンマに今日はやめとく。榊原さんが、もっと元気になった時にするわ。」
「何や、変な奴やなあ。」
「ええからええから。」
そう言いながら彼は後ろに下がり始めた。
「じゃあな。」
「え、ホンマに帰るん?」
「うん。また何かあったら電話でもしいや。俺話ぐらいやったら聞いたるで。」
「うん、ありがとう。」
「また明日。」
そう言って、水口くんは帰ってしまった。それで、心のつっかえが取れたようになっているのに気がついて、しばらく彼の後ろ姿を見送った。
 

 梨本警部から連絡があったのは、それから三日後のことだった。父の愛人だった人の消息が分かったということだった。
「意外に早かったんですね。」
「ええ、転居先を追って行ったら、すぐに行き当たりました。結婚して二児の母になっていましたよ。中村秋子、旧姓尾波秋子です。」
現在、兵庫県三田市に住んでいるというその人は、結婚後、夫の仕事の関係で住所を転々としていたらしい。父のことで訪ねていくと、最初は会社の同僚以上の関係は否定していたが、家の庭から遺体が発見されたことを持ち出すと、素直に関係を認めたそうである。
「それで、その人は、何て…。」
「彼女が言うには、失踪当日は確かに彼女の家に泊まったそうです。それから二、三日は榊原能久さん、つまりあなたのお父さんは彼女宅に泊まっていたんですが、家の方に取りにいかなければならないものがあるといって会社の帰り直接自宅の方に向かわれたらしいです。それっきり、行方不明になってしまったんだと言ってました。」
「行方不明の話はどうして知ったんですか。」
「会社の上司に聞いたらしいですね。」
「それで、指輪は…。」
「彼女の前では外していたらしいですけど、会社ではまだしていたそうです。いつもしている物をしていないと、回りの者がどう思うかしれないからと…。それで、その日も会社ではしていたそうです。指輪は彼女の手元に渡っていないと言ってましたね。」
警部の話を聞きながら、「あきこ」は母の名前ではないか、とぼんやり考えていた。母は「彰子」と書いた。父は何を考えながら、その女の名を呼んだのだろう。いつか、私の名前、「久子」は、父の「能久」からつけたのだと、聞いたことがあるけれど…。
 警部の言葉に、私は「そうですか」と言ったきり、何も答えなかった。受話器の向こうとこちらでしばらく沈黙が続く。警部のほうがどうやら困っているようなので、私は言葉を発した。
「あの、それで他には…。」
「ああ、ええ…。」
相槌を打ったまま、しばらく何も音がしなかった。警部は何か迷っているらしい。
「その、お母さまのことですが…。」
「はい。」
「遺品の中に、その、何かを入れる箱のようなものはありませんでしたか。たとえば、鍵のかかる…。」
「つまり、母が父の指輪を持っていなかったかということですね。」
警部の推測は最もだと思いながらも、胸の奥から怒りが込み上げてくる。
「ええ、…そういうことです。その、お怒りにならないで下さい。」
「ええ、はい。分かっています。」
口で、頭で分かっていると言っても、口調は分かっているものではなかった。頭の中で順番に母の遺品を探しながら、
「なかったと思うんですけど…。」
第一、そんな証拠をいつまでも持っているものだろうか。もし、土に埋めていたら、見つかるわけがない。
「お母さんの指輪はどうされたんです?」
「骨壷の中に入れました。遺言でしたから。」
「骨壷? その時外の物は…。」
「いえ、入れてませんけど…。」
母の骨壷に、他に誰が何を入れるというのだ。それに、父の指輪を持っていたのが母ならば、死んだ母が自分の骨壷にそれを入れられるはずはない。
「それで、その骨壷は今どこに?」
「もちろん、お墓のな…。」
この時、私の脳裏にもう一つのものが浮かんだ。母の遺言にはもう一つ、お墓の中に入れて欲しいと言ったものがあったのだった。でも、あれは違う、そんなはずはない。
「榊原さん? 榊原さん? どうしました。」
私が黙っていると、受話器の向こうから必死の声で警部が話かけてくる。
「あの…。」
「ああ、どうしたんです?」
「お墓に…。お墓に、母の遺言で入れたものがあるんです。骨壷と並べて入れて欲しいって…。」
「何を入れたんですか。」
「石です。」
「石?」
「ええ、墓石のような石で造った、表面がつるつるの、真ん丸い石です。生前母がとても大切にしていて…。」
「それは、何か入れられるような…。」
「いえ、それは無理です。本当に球形で、表面もツルツルでしたから。」
触ってみたのは数える程だった。それもたいてい母のいない時に、こっそりと触ったのである。母は本当にその石を大事にしていた。時折、私ののぞいているのも気付かず、うっとり頬にあててほおずりしていたこともあった程なのだ。
「その石、見ることはできませんか。確認してみたいんです。」
 警部の声は必死だった。それで何かが分かるとは思えない。母が何故あんな真ん丸い石を愛したのか不思議だったが、父のことに何か接点があったのなら、あの母の動作も分かるような気がする。
「いいです。お墓を開けてみましょう。見て、それでお気がすむのなら。」
もう、何が出て来ても怖くないと思った。覚悟はできている。投げやりな気持ちは少しもなかったといえば嘘になるが、とりあえず母の中で眠っていたものと、そして父と、今は深く考えるのはよそうと思った。現実はみつめなければならない。でなければ、私は母の呪縛にしばられたまま、一歩も先へは進めない、そう思ったのだ。
 翌朝、自宅から職場に電話を入れ、ざっと事情を説明してから休暇を願った。事が警察がらみなのでそれ程ごねられもせず許しをもらえたのである。電話が済むと午前九時に自宅を出た。警部とは十時半に駅で待ち合わせをしている。
 何か行動を起こす前は、よかったら知らせてくれと水口くんに言われていたので、彼には前日の夜、電話で連絡しておいた。そうか、気をしっかり持って行ってくるんやで、と彼は電話ごしにエールをくれた。
 墓を開けるといっても、昔と違って骨壷の入っている所を開けるだけである。たいした造作はいらないだろう。一応お墓のあるお寺には、これも前日の夜連絡を入れておいた。和尚さんが立ち会ってくれるということであった。
 ラッシュはもう過ぎていたが、それでも職場に向かう人の波はまだ残っていた。その波に逆らって進みながらこの間とは裏腹、目的の駅に到着するまでの乗車時間がかなり長かったように思えた。
 駅に着くと、警部はすでに改札の外で私を待っていた。簡単に挨拶を交わすと車に向っかう。車には同行の刑事が二人、私が後ろ座席に乗り込むと、車はお寺に向けて発車した。
 途中、ろくに口を聞かなかった。話したくなかったのではなく、話すことがなかったからだ。それで、私は窓の外を流れる景色をじっと見ていた。外の景色を見ていると、何故かほっとする。多分町の中に比べて、山や緑が多いせいだろう。
 お寺に着き、本堂の脇に建っている家の方に行き、住職に挨拶に行った。住職の方は待っていたらしく、すぐに袈裟姿で出てき、線香やろうそくを持ってきたか尋ねた後、私がいいえと答えると、奥に向かってそれをいいつけ奥さんに持ってこさせた。それから「ほなら行きましょか。」と履物をはいて、皆でそろって本堂裏手にあるお墓に向かったのだった。
 古い墓の中で、まだ一年も経たない母の墓が新しくて妙に目立っている。和尚が先に立って道案内をしてくれた。総勢五人で歩くには、少し狭い墓地だった。
「こちらさんですな。」
母の墓の前で和尚がそう言うと、私は和尚の目を見てうなずいた。
 和尚がろうそくと線香を供え、合掌すると、
「それでは、簡単にお経だけ読ませてもらいます。」
と、私たちに挨拶をした。警部たちは目礼し、合掌する。間もなく墓に向かった和尚の口から、朗々とした声でお経が聞こえはじめた。
 以前、この和尚にお経を読んでもらったのは、百ヵ日法要の時だった。その時は一周忌まではお経をきくこともあるまいと思い、まさかこんなふうになるとは思っていなかった。
 朗々とした声が胸に響いてくる。お経とは、何故こんなにも哀しいものなんだろう。
「ほな、開けさせてもらいますな。」
と、お経を読み上げた和尚が振り返って言った。和尚がうんしょとしゃがむと、真ん中の段の墓石を重そうに開け始めた。その様子をみながら、私は何だかどきどきしてくる。開けられた石の向こうの空間をみつめながら、私の頭の中はひどく緊迫していた。警部たちは目を細めてその中を、首をあっちにやったりこっちにやったりしながらのぞきこんでいる。開けた和尚は振り向き、「榊原さん。」と私を呼んだ。「失礼します。」と私は前に出て腰を降ろし、墓石の中に目をやった。墓石の中には以前と同じように母の骨壷が左、そしてあの丸い石が右側にあった。石を取り出す前にチラリと墓を見上げ、心の中でお母さんごめんなさいとつぶやく。母がどこかから見ているような気がしたのだ。
 取り出した石は、両手の中にすっぽり収まり、ツルンとした感触で、とても冷たかった。やはり真ん丸で、これが関係しているとは思われない。陶器なら焼く前に封じ込めてしまえるが、これは墓石と同じ性質の石なのだ。
 その石を、白い手袋をはめた警部たちに引き渡した。警部たちは受け取ると、真剣な目で観察を始める。
「本当に真ん丸ですねぇ。」
梨本警部の隣にいた若い警部がつぶやいた。そして石に目を寄せて表面を指でなでてまわり、観察を続けていると小さく「あっ。」と声を上げ、それから梨本警部の名を呼んだ。三人の刑事がいっせいに頭をつきあわせる。
「見て下さい。これ、うっすらとですけど、線が入ってるんですよ。」
警部は若い刑事が玉の表面をなぞる手を目で追った。
「ああ、ホンマヤ。」
梨本警部は感心した声を上げる。それで私は思わず、
「すいません! 私にも見せてください。」
と、三人の男の中に割り込んでいって刑事の手の内にある石をみつめた。すると、石の表面を目をこらさなければわからない程の線が見える。その線は、石を真っ二つに割るように、円周を描いていた。
「接合した後ですね。」
「ああ、そうみたいやな。これ、開けられへんやろか。」
「署に帰ってからじゃないと無理ですね。」
「よっしゃ、じゃあ…。」
言いかけて、梨本警部は始めて私に気付いた。
「榊原さん…。」
警部がすまなそうに私の顔を見る。
「どうぞ、開けてください。」
この時、心とは裏腹、私は微笑んでいたと思う。心の中には、やりきれない思いと、確認したいという思いがまじりあって、複雑に溶け合っていた。
 十二月も中頃になって、いよいよ売り場の方は忙しくなってきたけれども、今年はやはり景気の影響で、去年に比べると商品や歳暮の売れ行きはガタ落ちだと、売り場の友達が嘆いていた。不景気でも高校時代の友達や大学時代の友達からは相変わらず忘年会のお誘いがあった。しかし、結局全部断ってしまった。特に用事があったわけではないが、父が遺体でみつかったこと、母の喪中であることを言うと、誰も無理強いはしなかった。
 クリスマスが近づいている。街も売り場も浮かれていたが、私は子供の頃からクリスマスが好きではなかった。毎年サンタさんにはお父さんが帰って来ますようにとお祈りしたが、適えられたためしは一度もなかったからだ。ガラス戸をみつめながら、玄関の扉を見上げながら、「やあ、ただいま。」と言って戸を開けて入ってくるのを、今か今かと待っていたが、結局夜中まで待っても父は訪れなかった。
 今でもガラス戸は外との温度の違いでいつも中側が雲っていたことや、水滴がだらしなく桟を濡らしていたことをはっきりと覚えている。そして玄関の扉がどんなデザインで、どんな木目だったかも。それは、待ち続けて外を見たのがクリスマスだけではなかったというせいもあった。
 あの日、墓を開けて母の形見の石を取り出した後、警察署までついていき、私はじっと石が開けられるのを待っていた。開けた石の中に本当に空洞があるかどうか疑問であった。しかし開けられたものを見ると、中に直径3センチほどの空洞があり、その中からリングが一つ出てきたのである。金のリングで、念のため取り出した母の骨壷の中に入っていた母のものと比べると、母のとは対になったものだった。その後遺体から遺伝子の検査を行い、死体は父と判明、石の中に入っていたリングからは血痕が発見され、その血痕も父のものだと断定された。
 父を殺したのも、その指輪を指を切断してまで外したのも、そして庭に埋めたのも、間違いなく母であった。母の愛していた石の中に隠された指輪が、すべてを物語っていた。
 母がどんな経緯で父を殺したのか、また、その石をどこで造ったのか、はっきりしたことは分からない。永遠に、分からないだろう。
 忘れ物を取りに帰った父を母は背中から刺し、死に至らしめたのち、植木屋に穴を掘らせて一度植木屋を帰し、夜中に穴を掘って父を桜の下に埋めてしまったのだろう。普段これといった力仕事をしたことがなかった母が、どんな思いであの穴を掘ったのだろう。そして、何のつもりで指輪を抜き取ったのか。
 私が知っていることは、母はずっと待っていたということ。そして、こよなくあの庭を愛し、あの石を愛していたことだ。ひいてはそれは、父の帰りを待ちながら、その形見を愛していたことになる。母の中で、この矛盾は相反しながらも、共存していたのである。
 母は、狂っていたのかもしれない。
 幼い頃から待ち続けた人であった。祖父の来るのをずっと待っていた。しかし、私は思うのだ。母が祖父の死によって受けた衝撃は、案外待つことの辛さよりも大きかったのではないだろうか。待つ間は、再会することが約束されている。でも、死んでしまえばそれは適わないのだ。母は、父を殺すことで、永遠に待ち続けることの幸福を得たのだった。愛人にとられて父を失うよりはと父を殺し、そして永遠に自分のものとすることで、失うことの不幸を待つことの幸福に変えたのだろう。
 真実、思い返してみれば母は不幸にありながらも、どこか幸福そうであった。石を愛し、庭を愛し、そして父を待ち続けた母は、狂気の中で幸福であったのだ。
 毎日の忙しさが、私の気分をかえって落ち着かせた。忙しさが、私の心を癒してくれる。何かしていたかった。何もしていないと、私はどうにかなりそうな程、やりきれない思いに襲われたからだ。
 その後、夢中になって仕事をしている私に、水口くんが声をかけてきた。仕事の帰り、一緒に帰らないかと話しかけてきたのである。
「一緒にっていっても、反対方向やん。駅まで一緒にっていっても、すぐそこやろ。」
「いや、また食事でもと思ってさ。」
「年末でどこもいっぱいやろ。それに、そんな気分ちゃうねん。」
「そんな気分って…。」
「ちょっと静かにして。」
水口くんとの会話をぴしゃりと切った。さんざん世話になっていてすまないとは思っていたが、今は誰とも親しく話したくなかった。
 その言葉に水口くんは黙ってしまった。しかし、いつも彼には驚かされるが、まさかと思うことが起こったのである。
 その日部屋に帰ると、玄関の前で彼が待っていたのである。退社時刻は私の方が遅かったのだから、先回りしたことは別に驚くほどのことではない。でも、まさかこんな時に来るとは思わなかった。何故あの時、家まで送ってもらってしまったんだろうという後悔が頭の中をよぎった。そうすれば、直接部屋を知られることもなかったのだ。
「どうしたん、水口くん、こんなとこで。」
答えのわかりきった質問だった。
「榊原さんに話あって来たんや。」
「話? 話って何? 会社やったら出来へんこと?」
「出来へんこと。」
むっつりした私に、彼は笑って答えてくる。
「それで?」
「お茶くらい、誘ってくれへんの?」
彼はまだ笑って言っている。こちらの不機嫌を気にも止めず話し続ける彼が、とてもうっとおしく感じた。
 それで、彼の方でもその空気を感じたのか急に真面目な顔付きになり、
「榊原さん、前田課長に所属変えてほしいって言ったんやて?」
いきなりそんなことを言った。こちらはこちらで内緒に相談したものだから、よけいドキリとしたのである。
「何で知ってるの?」
「何でって、課長本人に聞いたんやん。榊原さんは何か不満があるんやろかって、俺相談されたんや。」
「不満ちゃう。新しいことしたいからって、ちゃんと言ったのに…。」
思わず、怒るような口調になってしまった。
「新しいこと? でも、別に今この忙しい時期に言わんでもええんちゃうん。」
「いいやんか、別に。…気分転換したかっただけやもん。」
水口くんは何でこんなに絡んでくるんだろうかと思った。そして、早く帰ってくれればいいのにとも思った。用件は済んだはずなのに、彼はまだ帰る気配がない。私はイライラした。
「それだけやったら…。」
「榊原さん、最近俺のこと避けてない?」
「別に。」
「嘘や、あれ以来、全然話してへんやん。」
「それは、忙しかったから…。」
「忙しいって、自分で忙しくしてんやんか。」
この言葉に、カッと頭に血が上った。
「水口くん、あたしに喧嘩売りにきたん? あたし、今そんな気分ちゃうねん、もう帰って!」
言いながら、戸の前に立ちはだかる彼を押しのけようとするが、邪魔をして思うように行かない。
「いや、帰れへん。」
困るのだ。早く何処かへ行ってくれないと、困るのだ。
「どいてよ。」
「あかん。」
それでも、強固に立ちはだかっている。段々高ぶってくる感情に、顔が歪むのがわかった。目から涙がこぼれ落ちる。とおせんぼされて泣くなんて、何て子供じみているんだろうと思いながら、それでも涙がこぼれて仕方がなかった。
「榊原さん。」
「泣かしにきたんか、あんたはー。」
「うん。」
「何考えてんや!」
「榊原さんのこと考えてる。」
「アホか、あんたは。」
「うん。アホやねん。」
泣きながら吹き出した。
「笑わんといてよ。」
「泣いてんや!」
それで水口くんはよしよしと私の頭をなでた。とたんにまた目から涙があふれてくる。すると、水口くんは私を抱き寄せた。
「やめ…、何するんよ。」
私があがいていると、水口くんは耳元で、
「なあ、榊原さん、ちょっとは俺のこと頼ってや。頼りないかもしれへんけどさ。榊原さん、一人で頑張り過ぎやで。」
「ええやん、ほっといてよ。」
「いやや。」
 優しくされたくなかった。甘やかされたくなかった。ずっと、一人でいたかったのだ。そうしないと、誰かを頼ってしまう。人に依存しなければ生きていけない人間になりたくなかった。でなければ、母の二の舞になってしまう。だから水口くんを遠ざけなければならなかった。私は彼に依存し過ぎていた。
 母と同じ轍を踏むのが恐ろしかったのだ。 頼り過ぎたら、失うのがこわくなってしまう。かといって、私にはもう待つことは、堪えられないのだ。だから、もうこれ以上近づかないで欲しかった。
 もし生きていれば、父は今頃重役レベルの管理職についていたかもしれない。母と出会ったがために、人生を意味のないものにしてしまった。そして、そんな父と、父を待ち続けることで一生を終えた母は、一体何のために生まれてきたんだろうか。そう考えるとむなしくて仕方がない。でも、決して両親を否定したくもなかった。彼らを恨みたくなかった。何故なら、私は彼らあって生まれてきたことは否定出来ない事実でもあるからだ。
 いろんな思いが交差して、いたたまれなかった。傷つかないためには、一人で生きていくのが一番いい。誰にも触れないでいるのが、一番いいのだ。
 でも、一人で生きていくには、今はあまりにも辛い。それは真実だった。
 年越し前に、警察から帰してもらった石を、母の墓へと返しにいった。父の遺骨は榊原本家の墓と、母の墓に分骨した。骨壷は小さいものを用意したが、母の骨壷と石と一緒に三つを収めると、墓の中はいっぱいになった。当日は一人で行くつもりだったが、どうしてもというので水口くんがついてきた。
「別に、ついて来てもたいしたことなかったやろ。」
墓の前に腰を降ろして合掌する水口くんに話しかけると、水口くんは私に振り返っていたずらっぽく笑い、
「お母さんに『久子のことはまかしといて下さい』言うために来たんや。」
「何勝手なこと言うてる。」
「俺本気やで。」
言いながら、水口くんは立ち上がった。お墓のまわりのものを整理していた私は柄杓をバケツに入れ、それから二人して歩きだした。
「あたし、そんなに頼りない?」
「ううん、俺よりしっかりしてるかも。」
「情けないな、あんたも。」
そういうと、彼は静かに笑って、
「でもな、榊原さんみたいな人は、たまには人に頼ること覚えんな。あんたみたいな人は、頼ることが出来て一人前やで。」
と言った。
「いいねん、あたしは半人前でも何でも。…一生、一人で生きていくんやから。」
彼の顔は見なかった。二人して、そのまま黙って境内に向かう。途中、水口くんはポツリと、
「ええよ。」
と言った。
「今度は、俺が待ったるから。」
思わず私は立ち止まった。驚きにつつまれながら、歩いていく彼の背中をじっとみつめる。すると彼は振り返り、
「おとなしく待つ気もないけどな。」
と、ちょっと照れるように、いたずらっぽく笑った。
 何かが違うのだな、と私は思った。にているようで、確実に変わっていくものもあるのだなと。思えば、私があの家を出たのも、通勤時間の何のと理由をつけたが、結局は、「待つ」という母の執念がこびりついた家から、解放されたかったせいかもしれない。
 境内に出る前に、母の墓を振り返った。さっき置いた線香の煙りが、まだ糸をひいて煙っている。
 私は石など愛しはしない――そう思いつつ、境内を後にした。


(1991年12月執筆 1999年9月~12月、ホームページに掲載)