時をはらむ女


 僕の記憶の中にはどうしても忘れられない女がいる。と、いっても、僕が彼女に出会ったのはまだ中学に入る前の事で、正確な彼女の素性は知らない。また僕自身、成長してから敢えて調べようともしなかった。ただ唯一分かっていたのは「なみ」という名前、そして彼女が妊婦であった事。そんな彼女と僕が知り合ったのは、ほんの偶然からだった。
 私の田舎は本当に田舎と呼ぶにふさわしい所だった。背後に連なる山々、一面に広がる田園風景。かけのぼったみかん山、蝉やかぶとむしを採りにいった林。公園などといったものはなく、テレビゲームやファミコンなどとんでもない時代であったから、私たちは専ら田圃や森林、みかん山、中でも、近くの神社に遊びに行ったのだった。
 都会の生活に慣れてしまった今では、思い浮かべる故郷の印象はいつも緑色だ。とりわけ、私たちが遊びに行った神社は初夏の頃の緑が美しく、その神社を思い出す時、一番に頭に浮かぶのは、春の桜でも、秋のもみじでもなく、夏の楠だった。
 神社の境内はなかなか広かった。神社もさる有名な神社の名を受けたとかで、立派なものだったが、境内は私たちが十人程でドッヂボールをやれた広さだから、よその神社の境内よりも随分立派だった。その境内の一角で、四方に枝を張った大木が楠だった。私がその楠を意識の中に入れるようになったのは、確かあの女にあった年の前年ぐらいだったと思う。夏の暑い盛りで、真昼、皆で道路を歩いていたのが、急に神社に遊びに行こうと思いたっていっせい駆け出し、それがいつの間にか競争のようになった。私は仲間のうちでも年長組だったので、かけて来る彼らを置き去りにして長い石段を上りつめると、境内で日蔭を求めてその楠の下に駆け込んだ。
 楠は樹齢五十歳とも六十歳とも言われ、なかなか大きくしっかりしたものだった。私はその楠の下に足を投げ出して座った。荒い息を整えながら、体中ににじみ出た汗を両手で払い、肌にべっとりついたTシャツを手で浮かせて風を入れると、けだるさにだらしなく楠の幹にもたれかかった。目を閉じる。頭のてっぺんの熱がひいて、じーわわと蝉の声が押し寄せた。
 涼みに入った木陰なのに、しばらくすると、楠につけた背中にじんわりと熱がこもる。最初は自分の体温が木に移ってそれで妙に熱いのかと思ったのだが、どうやらそれは違うようなのだ。少しずつ冷めていく手や足とは逆に、背中の熱は一行に引く気配がない。そしてようやく、私は気付いたのだ。それは新しい発見であると同時に、ある一つの感動でもあった。
 木にも体温がある。
 私は木を見上げた。視界にはこげ茶色の幹と、広く縦横に伸びる枝、そして木漏れ日をともっなってキラキラと揺れる葉。私はその美しさにみとれずにはいられなかった。そうだ、この木も生きているのだ。もちろん、私は知識としては、木は植物であり、生物であることを知っていた。でもこんなふうに体温で感じなければ、その植物が自分と同じ生き物であるということを実感することはなかったであろう。
 楠の体温を知ってしまったその時から、私はその楠の「人格」というものを信じるようになったのだ。
 それからというもの、境内に行くと必ずその楠を気にかけるようになった。やって来た時には「こんにちは」を、帰る時には「さようなら」と挨拶をした。誰かそばにいる時は心の中で挨拶をし、夕刻、一人でわさわざ楠に会いに行ったりすることもあった。何を話すというわけでもない。幹にさわったり、時には木に登ったりした。楠は当時の私の目の位置で幹が三つに別れており、いつしかその場所でちょっとくつろぐように腰掛けるようになった。その場所は私だけの秘密の場所になり、私は楠と秘密の会合をした。
 しかし、私がそんな風にわざわざ楠に会いに行くのは、決まって一人きりになった時だった。「一人きり」というよりも「一人ぼっち」になった時というべきだろうか。それというのも、私の両親は共働きだったのだ。父はサラリーマンで母は看護婦をしていた。父親が昼間家にいない事は、どの家でも当然の事であったろうが、当時あの付近のよその家とは違って、我が家の場合母親がいないのも珍しいことではなかった。そんな母親に代わって専ら私の面倒をみてくれたのは祖母であったが、祖母はかなりおとなしい性質で、私を特別かわいがったりもせず、私の記憶の中ではいつも縁側で猫の相手や裁縫をしていたような気がする。私がよその家や外で遊ぶのが多かったのは、そのせいもあったのではないだろうかと思う。しかし学年を経るにつれていつも遊んでいた仲間たちや学校の友達はそろばんや習字などの学習塾に通うようになったので、そんな日は一人でいることが多くなっていった。私も習い事をすればよかったのにと思うかもしれない。しかし私はああいったおけいこ事が性に合わず一応行くだけは行ってみたが、最初の一カ月でやめてしまった。習っていないからといって大人になって別に困ることもないからと両親も無理強いしなかった。それで私は週に二日ぐらいの割りで放課後、一人、もしくは二、三人で過ごすようになった。
 そんな中でも、楠に会いに行くのは天気の良い日の、しかも一人の時と決めていた。一人で行くということに何か特別の理由があったのかといえば別にそういうわけでもなかった。でも、他の人は楠に人格があるなどと思いもしないだろうし、それどころかあると思う方が非常識なのだろうから、私がすることを軽蔑しても決して本気で理解してくれるはずがないだろうと心のどこかで納得していたように思う。また別に理解してほしいとも思わなかったし、私としては一対一で楠と会合したかったのだ。
 そんなふうにしてその年の夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎた。春になって小学校六年に進級した。私の学校は一学年に一クラスしかない小規模の小学校だった。集団登校といって朝は地区の班ごとに一列に並んで学校に行ったのだが、私はその年班長になった。先頭になって旗を持って歩くのだ。班の連中は昔なじみの奴ばかりで、私の学年は男ばかりで女の子は一人しかいなかった。中でもその女の子は私の家の隣に住んでいて、紀美子といい、実は私とはおしめの頃からのつきあいだった。近いといっても彼女の家は私の家と違ってなかなかの旧家だった。分家がたくさんある、その本家で、私の家とは違って土間があったし、屋根は板で囲ってあったが元は藁葺きの大きい屋根で、中も天井が高く、紀美子の家の玄関に入ると夏は妙に涼しくて気持ちが良かったのを覚えている。数年前に瓦の屋根の家に建て替えられたらしいが、私はその家を知らない。
 紀美子は性格のはっきりした子供だった。小学校の中学年あたりまでは男の子にまじって一緒に遊んでいたのだが、だんだん遊びが合わなくなっていつのまにか一緒に遊ばなくなった。それが六年生になってクラスの活動班が一緒になったのでまた少しずつ口をきくようになったのだ。多分私は紀美子を意識していたのだと思う。だからまた口がきけるようになって、内心喜んでいたの。放課後の班活動が終わった後、家が近いことから私はたまに彼女と一緒に帰るようになった。多分どうでもいいつまらないことだろう、何を話したかなんて今更覚えていない。
 あれは確か四月の末のことだと思う。私の記憶の中で、紀美子と話しをしている時、彼女の後ろの山桜が満開だったからだ。後一年で終わるランドセルを背負って、紀美子と私は家まで続く坂道を歩いていた。天気のよい日で、青空と白い雲がことさら美しかった。その日は日向に立っていると少し熱いくらいで、時々吹き抜けるそよ風のさわりとした冷たさが心地よく、神社の話をしていたついでに、ふと私は楠のことを話したくなったのだ。
「神社の境内の隅っこに大きい楠の木があるの知ってるか?」
「うん、知ってるよ。ナントカっていう有名な人が昔植えてんろ。」
「え、それは知らん。」
これは後から母にきいたことなのだが、実際その楠は名前は忘れてしまったが、結構有名な人が植樹した木らしい。そう言われてみれば木の横に何か字を刻んだ細長い石が立っていて、でも難しい字が多かったので読めず、私はその石を木に登る時の足場がわりにしていた。
「その楠が何なん?」
こう問い返されて私は口ごもった。調子にのって話し出したものの、あの楠のことは自分だけの秘密なのだ。でも実は紀美子にだけは話してみたいという心もあって、しかしまさか突然楠に心があるなんて話せないし、もし話したら「アホか」と笑われるかもしれない。私は秘密でウズウズした。
「うーん。」と言って顔を反らせると、
「何なんよ。」
と、紀美子は容赦なく突っ込んで来た。ちょっと目をウロウロさせて話しをごまかそうとしたが、葛藤の末、私はウズウズに負けてこう切り出したのだ。
「あの木、途中で幹が三つに別れてるやろ?知ってる?」
私がこう言うと、紀美子は自分の頭の中の記憶を探すように、瞳を上向かせてキョロキョロと動かした。
「う…んそうやったかなあ…。」
「そうやねん。お前、そこ登ったことあるか?」
「ない。」
「なんや、ないんか。」
私は大仰に驚いてみせた。さっきまでの葛藤など忘れて、紀美子が知らないことを知っているのだ、という優越感にひたるといった感じでふんぞりかえったのだ。そんな私に気の強い紀美子はムッとしたようだった。
「何で? 登ったことなかったら、何か悪いんか?」
「誰も悪いて言うてないやん。あそこな、他の木とは違うんやぞ。」
そう言って、紀美子の耳元に口を寄せ声を落とした。
「他の木は登っても上の方まで足かけられへんけど、あの木は違うねん。」
「違うって、どう違うんよ。」
私の話し方につられて、紀美子までヒソヒソと声を落とした。
「それはな、オレしか知らんことやねんで。秘密の場所なんや。」
「秘密の場所?」
瞬間、紀美子の目が好奇心でキラリと輝いた。
「そうや。誰も知らんねんけど、紀美ちゃんにだけは特別に教えたってもええ。」
「ホンマに?」
「その代わり、誰にも言うたらあかんねんで。」
「誰にも?」
「そうや、誰にもや。」
「お母さんにも言うたらあかんの?」
「あかん。」
「よっしゃ、あたし誰にも言えへん。」
「言えへんのやな? ホンマやな? 絶対やぞ、絶対。」
「絶対、絶対。死んでも言えへん。」
紀美子の瞳はずっと好奇心で輝いていた。紀美子の気性からすれば彼女も相当ときめいていただろうが、そんな紀美子を見る私の心臓もドキドキいっていた。
「よっしゃ、じゃあ教えたるわ。神社行こ。」
そう言って、紀美子を促しながら私は駆け出したのだ。
 真昼よりも随分太陽の色が濃くなっていたから、三時頃だったと思う。木は春の香を含んだ風に機嫌よくサワサワと揺れていた。木の前に立ち止まると、私はその相変わらず濃く太く荒々しい幹をじっとみつめ、木肌に触れて紀美子に振り返った。
「触ってみ。」
「え?」
「木の幹触ってみ。木にも温度があるんやで。」
紀美子はおずおずと手を伸ばすと、手の平をピッタリ充て、「あ。」と小さな声を上げた。
「ホンマや。」
「な、ホンマやろ。」
そうして私は楠を見上げた。
「木もやっぱり生きてるんや。」
それから木の幹に手をかけ、楠の横に立っている石に足をかけて、うんせと登った。太い幹の別れ目に腰を降ろして紀美子を見ると、彼女はまだぼんやりと木の幹を見上げている。
「紀美ちゃん、登っといで。」
私がこう声をかけると、紀美子は少し困ったような顔をして私を見上げた。
「登られへんわ。高いもん。」
「大丈夫やて。手貸したるから登っといで。そこの石に足かけて。」
紀美子は私と石とを交互に見た。それから意を決したように手にぐっと力を込めると、木の幹に足をかけて登り始めた。幹と石に足をかけて突っ張っている所に手を貸してやってぐっと引き上げると、ようやく木の上にのることが出来た。三方向に別れた幹の一つは私が体を寄せていたので、紀美子は向かい合わせになった幹に体を寄せて、残った幹に片足をかけてバランスをとった。サワサワと吹き寄せる風に、紀美子はピタリと動きを止めて、木陰から見える日向をみつめた。すべてを拭いとらられたような清々しいまでの驚きを秘めた表情をしている。その動き、表情とも、私には覚えがあった。その時、紀美子がどんな感動に襲われているか私には容易に想像出来た。何故なら私が初めて楠に登った時も、そうだったからだ。たかだか一メートルあまり視点が上がっただけである。それなのに、その視点は随分美しく新鮮なものなのだ。地上の光が木陰の中に反射して、まわりを輝かせて見せる。階段や何かにのって見るのとはまた違うのだ。木の上にいるせいだろうか、それとも、緑やこげ茶の色のせいだろうか、どこか、一種独特の安らぎみたいなものを感じるのだ。私はこの感覚が好きだった。この幹の上でこんなふうにして心をくつろがせるのが好きだった。
 やがて紀美子が幹に体を安定させるのに慣れて来ると、上を見たりしながら幹を観察していたが、ふと私に目を止めてこう言った。
「お父さんみたいやね。」
私は紀美子の言葉に「ああ。」と思った。楠にピッタリの形容だ。思わず私は紀美子をじっとみつめた。紀美子の言葉に関心すると同時に、何かたまらなく嬉しくなったのだ。
「お父さんの木や。」
紀美子は見上げながら続けてそう言った。
「うん。」
「これからお父さんの木って呼ぼう。」
そうして紀美子はその楠に名前をつけたのだ。今考えてみれば、紀美子は日ごろ父親のことを「お父ちゃん」と呼んでいたのに、その時は「お父さん」と呼んだ。それは決して自分の父親に楠を重ねていたのではなく、イメージとして名付けたのだろう。
 かくして楠は私と紀美子の間では「お父さんの木」と呼ばれた。同時に、この楠のこの場所は、私と紀美子二人だけの秘密の場所となったのだ。
 しかし今よくよく考えてみると、子供の頃はよく「秘密の」とつく場所や道をつくったものだった。実際はいろんな人が見たり通ったりして知っているはずなのだが、他所の子供が知らない自分達だけの特別のものには必ず「秘密の」とつけたのだ。「秘密の」という言葉は、子供にとってどこかときめいた響きを持っていたのだ。「秘密」だから、絶対仲間以外に言ってはならない。カブト虫がよくとれるくぬぎの木も「秘密の場所」、みかん畑を抜けて通る学校への近道も「秘密の道」。数え上げればキリがない。そして私があの女  なみと出会ったのも、その「秘密の道」の一つだったのだ。
 私の家のあった新坂地区は山辺という地区の隣にあった。隣りといっても山深い田舎のことだから、山の尾根一つ挟んだ隣りなのだ。しかもそのなだらかな尾根の終わりにおまけみたいに小さい山がくっついていた。新坂地区から山辺地区に行く場合、そのなだらかな尾根と小さい山をぐるっとまわった道を行かなければならず、山辺に住む学校の友達の家に遊びに行く場合、往路だけで一五分くらいかかった。ところが田舎には必ずと言っていい程裏道というのがあって、たいていは車が通れない広さの道で、人間にとっては近道になる道があるのだ。新坂から山辺の間にも、舗装のされていない、人一人が通れるくらいの山道が通っていて、どちらも入り口あたりはみかん山があるので、車一台通れるくらいの道があるのだが、それを抜けると林の中を縫うように細い道がずっと続いている。我々はそれを「秘密の道」と呼んでいた。人に会うことはめったになく、私が記憶しているだけでも一度か二度ぐらいではないかと思う。そこに道がある以上、誰かが使用しているはずであるが、とりあえず同じ地域でも仲間以外の者は知らなかったであろうし、当然他所の人も知らないはずであったろうから、その道はまるで「知っている自分達の特権の近道」のごとく、「秘密の道」と呼ばれたのだ。途中、どこかの家のたんぼがあってその畦が舗装道路に通じていたりするが、そこがぽっかり平けている以外はたいてい木が茂っていたり山の斜面がせまっていたり、木が生い茂っていたりするので昼でも暗く、近道だと言っても夕方あまり遅くなるとおっかなかったり足元が危なかったりするので、結局その道は通らず、舗装道路を必死でかけて帰ったりした。
 その秘密の道の途中にあるたんぼのそばに、小さな小屋があった。季節によってはトラクターなどの農業機械がおいてあったりするのだが、大方はわらや筵が敷いてあるだけなので、農家の人が農作業の休憩所にするために立ててあったのだろう。私がそこに行く時にはめったに人がいたことがなく、いつしかそれは私たちの「秘密の道」の「秘密の小屋」になっていた。
 さつきの花も終わり、新緑の美しい季節になった。長袖のTシャツ一枚でも寒くなかったから、五月の中頃のことだろう。あの日は学校が終わって、私はまっすぐ家に帰らずランドセルを背負ったまま、山辺の友達の家に遊びに行ったのだ。と、いうのも、その友達は塾に行かなければいけないので一時間ぐらいしか遊べない、と言うので、時間短縮のため私が直接その子の家に行き、その子が塾に行くのと一緒に私も家に帰ることにしたのだ。何をして遊んだのかなんて今更覚えていないが、すぐに彼の母親が呼びに来た。まだ時間があるという彼に母親は、そんなことを言っていつも時間ギリギリで遅刻するとかなんとか言ってしぶる彼を無理に家に連れて入ってしまった。彼の母親は私にごめんね、また遊びに来てねなどと言っていたが、そんな言葉でせっかくの遊びを妨害された気持ちが晴れるわけもなく、私はくさくさした気分で家路についた。舗装した道はあまりにさっぱりし過ぎておもしろくないので、私は「秘密の道」から帰ることにしたのだ。
 棒切れを握って、辺りの草を凪いだり木をたたいたりしながらだらだらと歩いていた。「秘密の小屋」まで来ると、その粗末な木造の小屋の、細い柱も勢い余ってカツンとたたいてしまった。すると誰もいないと思っていたのに、突然中から声が飛んで来たのだ。
「誰?」
そんなに大きい声ではなかった。私ぐらいの背丈なら、何とか聞き取れるが、大人では、耳をすましていないと聞き取れなかっただろう。入り口の戸は閉まっている。辺りはたんぼがあって平けているので、小屋は日向にあった。人通りもめったになく、妙に静かだった。そんな穏やかな日向で、聞きなれぬ、押し殺したような女の声は、理由もなく私を不安にさせた。背中に寒気を覚え、足が硬直するのがわかる。
 怖い――もし、もし、ヤマンバやったらどうしよう――!
自分でもどこからどうきて「ヤマンバ」なんて思いついたのだろうと思うが、おそらく、あの頃クラス会の劇のネタ集めに読み漁っていた「日本昔話」のせいだと思う。
 樹木がザッと音を立てて風が吹き抜ける。全身に冷や汗を感じながら、私は逃げようと思った。ヤマンバに食われたら困る。舗装道路はここからは見えないが必死になって走っていけばすぐ見えるようになる。運が良ければ誰か人が通っていて助けてくれるかもしれない。しかしそんな時に限って硬直したように恐怖で足が動かないのだ。
 すると突然、ガッと目の前の木戸が開いた。私は思わずチビるかと思ったぐらいだ。でもこらえられた。ゆっくり見上げると、ヤマンバではなく、見慣れぬ体型をした若い女が私を見下ろしていた。
「誰やあんた、見慣れん顔やな。」
女は不遜な顔をして私を見下ろしていた。青い妊婦服を着たその女が、私の記憶の中に宿る女、なみであった。
「こんなとこで何してるんや。子供の遊ぶような所やあらへんで。早、行ってしまい。」
「あ…あし…。」
ようやく絞り出した私の声は震えていた。訴えるように私が女の顔をじっと見ると、女は怪訝そうに眉を寄せた。
「足が何や。」
「足…動けへんのや。」
「動けへん? 何で動けへんのや。」
「だって、だってヤマンバ出て来ると思ってん…。」
なみは意味がつかめないというようにまた眉を寄せた。
「ヤマンバって何や。」
「いつも人いてへんのに声するから…」
私は一生懸命答えたつもりであったが、後で考えても今考えても、あまり正確な答えではなかったと思う。もう恐怖は去ってしまっていたが、それまでの硬直からの解放で返って動けなくなってしまったのだった。
 なみはしばらくじっと私を見下ろしていた。が、突然、ようやく意味が分かったというようにおもいきり笑い出した。それはこちらが呆気にとられる程のウケかただった。私には何故なみが吹き出したのか分からなかった。だから、
「何やあんた、変な子ぉやなぁ。」
と彼女が言った時にはカチンと来たのだ。
「変ちゃうわ!」
私は彼女をにらみあげた。
「変や変や。」
目の端に浮いた涙を手で拭いながら、ようやく彼女は笑いを押さえた。
「何でこんなトコにヤマンバなんて出てくんの。あー、おかし。」
女はそう言い切ったが、その頃の私はまだいろんな空想のものを信じていたのだ。雪山に行けば雪女がいると思っていたし、山奥にはウシオニがいて、ウシオニが訪ねて来たら、必ず鬼切り歯を持っていると言わねばならないと信じていた。
「あんたどこの子や。ここらで見いひん顔やな。」
「新坂。」
「ああ、山の向こう側の。こんなとこで何してんや?」
「何してようとオレの勝手や。」
「何や、生意気な子やな。あんた何年生や。」
「六年生…。」
「名前は。」
「な…波広。」
「ふうん、あたしの名前と似てるなあ。」
「波広いうんか?」
「違う。なみや。ただのなみ。」
後にも先にも、それがどういう字を書くのか彼女はとうとう教えてくれなかった。ただ自分の名前から単純に、わたしはその時小さな山小屋を前に果てしない大海原を思い浮かべたのだ。多分彼女のもつ印象のせいもあったのだろう。彼女のゆったりした動作とさっぱりした容姿、そしてよく似合う青い色は、子供心に透き通るような大きさを思わせたのだ。
「波広、暇やったら入って話していけへんか。」
なみは無遠慮にそう言った。
「え…。」
私は一瞬ためらった。素性の分からない年上の女と一体、何を話すというのだろう。それに、私にとってなみという女はそばにいてひどく照れ臭い女だった。
「何ためらってんや。さてはあんたまだびびってるな。」
なみはからかうようにそう言った。私には彼女に馬鹿にされまいという思いがあったので、ムキになって反論した。
「何もびびってへんよ。」
「嘘や。小屋ん中入るの怖いんやろ。」
「そんなことないわ。そんなん言うんやったら入ったろやないか。」
「よしよし。入り入り。」
売り言葉に買い言葉とはこういうことをいうのだろう。思えばあの時、なみが何故私をあの小屋の中に招じ入れたのか今でも判然としない。それだけでなく、何故私と話をしようという気になったのかもわからない。しかし彼女は何度となく取り交わす会話の中で、しょっちゅうこんな田舎は退屈だ退屈だと話していたので、案外私をその退屈しのぎの一つにしようと思って招きいれたのかもしれない。
 小屋の中はガランとしていて、あるのはなみが用意したと思われるざぶとんと、ござが数本、それだけだった。中に入って戸を閉めると案の定、あっちこっちの板の透き間から光が幾つも差し込んでいる。その透き間や、板の真ん中に開いている丸い穴から外を覗いて基地ごっこをしたこともあった。
 中に入るとなみはござの上に私を座らせ、自分も用意しておいたざぶとんにすわった。あの日したのは専ら私の家の話ばかりだった。というよりも、あの日に限らず、話す内容はいつも私のことばかりだったような気がする。とうとう私はなみがどこに住んでいるか知らなかったし、彼女の名字や出身地さえ分からなかった。話題がそちらの方に行こうとすると、なみは上手に話題をそらせたのだ。
 なみと最初に話をした日、なみの質問に答えながら、私はぶしつけな程彼女の腹を見続けた。それは生では初めて見る不思議な形だった。胸の下から徐々に大きくなっていき、ふっくりと丸く円を描きながら、股間で収まっている。決して肥満などではなく、ほっそりとした体に不似合いな丸さが伴っているのである。
「波広には兄弟いてへんのんか?」
「いてへん。」
「弟も妹も?」
「おれへん。ボク一人っ子なんや。」
「そうかあ。それやったら妊婦さん見るの、初めてやろな。」
「うん…。」
見ていたことを咎められたようで私はドキリとした。でも言ったなみは意外と平然としている様で、私の答えににっこり笑った。
「どや、珍しいやろ。」
「うん。」
「実を言うとな、あたしもはじめはけったいな感じしてんで。自分のおなかの中に子供がいてるなんて。今やったらあたり前のことやけどな。」
「ふうん。」
「妊婦さんて、波広はどんな感じするん。」
私はドキリとした。どんな感じときかれても、別にこれといったイメージを抱いていたわけでもない。それでも私は頭の中を必死になって探した。あれだけなみの腹をじっと見ていた後ろめたさからかもしれない。その時、小屋の外から板の透き間を通って差し込む光を見ながら、学校の図書室で見た絵本の一場面を思い出した。
「マリア様。」
私がこう言うと、なみはずいぶん驚いた様子だった。それからちょっと困ったような表情を見せた。
「マリア様って…あの、キリストのお母さんか?」
「そうや。」
「ホンマに?」
「ホンマや。」
なみはあの困ったような微笑を口元に浮かべたまま、
「へえー。」
と言って目をウロウロさせた。
「珍しいこと言うな。あたしの友達なんか気色悪いて言う子もおるのに。」
「別に気色悪ないよ。」
「ふうん。でも、波広はちょっと発想がかわってるんやな。」
「そうかな。」
「うん。」
私が頭に浮かべたのは、絵本の挿絵だった。キリストに関係のある本だ。水彩で描かれたそれは、子供心にもたいへん清いイメージがあった。なみにその清さがあったかどうかは今考えると少し疑問であるが、その水彩画のマリアが持つ全体のイメージと、なみの持つイメージはたいへんよく似ていたのだ。
 果たして、なみがその時どんな気持ちで私の言葉を受け取ったのかは知らない。彼女はその絵本のことなど知るはずがないし、彼女には彼女のマリアのイメージがあるだろう。ただ私が見たところ、彼女は相当動揺していたように思うのだ。会話の後に少し沈黙が出来ると、なみは「さあ…。」と言ってゆっくり立ち上がった。
「波広、そろそろ帰った方がええんちゃうか?」
「ああ…うん。」
言われて私も慌てて立ち上がった。別に急いでいたわけではないが、そこに長々と座り込んで行くつもりもなかった。
 なみはガッとまた戸を開けた。暗い小屋の中に光と一緒にそよ風が吹き込むと、私は少し目を細めた。
「ええ天気やなあ。」
外を眺めながらなみが言う。私が彼女のそばを擦り抜けると、彼女は慌てて私の名前を呼んだ。
「波広。」
「何。」
「また来てな。あんたおるといい退屈しのぎになるわ。」
「うん。いいよ。」
「あたしのことはみんなには内緒な。」
なみは私の頭の上に手を置き、腰をかがめて私の顔をのぞきこんだ。
「誰にも言ったらあかんで。二人だけの秘密な。」
「わかった。」
私が行こうとすると、なみは「バイバイ。」と手をふった。それで私も「バイバイ。」と声を返すと、一目さんに駆け出したのだ。心が妙にときめいて、走る足が地についているかどうかもわからぬ心地だった。とても歩く気にはなれなかった。その必要もないのに、心のどこかで「走れ走れ」と命令する声がする。わけのわからぬ感情の高ぶりは、私にとって初めてのものだった。子供にとって年上の者はよりふけて見えるものだが、後できいたところ、その頃のなみは私と十しかかわらなかったのだ。既に私はあの頃のなみを追い越してしまったが、なみという女は、大人になった今考えても、とても不思議で魅力的な、でもくせのない、精霊のような女だったのだ。