第四章

 彼女が目を覚ますと、そこは田舎の、どこか古ぼけた感じの部屋だった。黒い板張りの天井、少しすすけた壁、障子…。彼女の寝ている布団の片隅には老人が一人――彼女の目覚めに気付いたその老人は、ぼろぼろと涙をこぼした。
「ようこぉ、目が…覚めたのかー。良かったのぉ、良かったのぉー…、なあ、恐かったろうなぁ…。」
 老人は泣き顔を幸福そうにほころばせた。そして首からかけてあるタオルで、ごしごしと涙を拭いとった。
「待っておれ、何か食うものを持ってくるからの。」
 老人はその老いた体を、さも重たいものを持ち上げるかのように、よっこらしょっと立ち上がらせた。目覚めても未だに事態を理解出来ないでいた彼女はしばらくボーとしていた。
「待っとれよ。」
 老人が白い襖を開けて出て行くと、彼女は寝ていた布団の上に上体をむっくりと起き上がらせた。辺りをキョロキョロと見回す。――覚えがない。何が何だかわからないのである。そして、自分の名前すら、自分が誰なのかさえ、思い出せない。
 両手で彼女は頭を抱え込んだ。
「どうして…」
 霧がかかったような頭の中、考えれば考えるほど、白い色は濃くなっていく…、と、ともに、頭にズキッと激痛が走った。
「痛っ…。」
 誰も、いない部屋。彼女はたまらなく不安になっていた。
 

 そうして記憶を失った彼女はしばらく何の疑いもなく――疑うはずもなく――自分は田崎葉子だと思い、田崎葉子として生活した。それから葉子は一年近く老人に、「お前はまだ小学校に行くのは無理だ。」と言われ、家庭教師をつけられる。その春から、地元の小学校に編入される予定となった。ちょうどその頃である。彼女は何の事もなく、そしてほんの偶然に、祖父に呼び出されていた叔父夫婦の会話を、立ち聞きしてしまったのである。つまりその会話に出てきた、明らかに彼女に対する言葉であろう、「得体の知れない娘を養女にするなんて――」…が、彼女にその家の娘でない事を完全に理解させてしまった。――
 とは言っても、まだまだ少女の彼女にいったい何が出来たであろうか? 目覚めた時以降の記憶しか持たず、またその記憶を取り戻そうとすらしなかった。いや、出来なかった。彼女にとって「はっきりとしない、よくわからない状態」から抜け出ることは、この上もなく、原因もよくわからないのに、恐ろしいことであったのだ。そして彼女は、自分を解放してくれたこの老人に、逆らうことなど出来なかった。まして彼女を彼の孫以上にかわいがってくれたのに…。しかしそれよりも何よりも老人は、彼女が赤の他人であることを知っているはずなのに、その身内を少しも捜そうとしなかった。――そんな中で彼女が「田崎葉子」でないことを知って、一体何が出来たであろうか――?
 それからである。彼女は自分という人格を、自らで抑え込めてしまった。
 つまり田崎老人に与えられた“記憶”の中身を家でも外でも忠実に守り、その状態を保つために、彼女なりに行動することを始めた。いわば、かごの中に閉じ込められ、尾羽を切られた小鳥のようなものであろう。確かに遠い過去、大空を飛んだこともあっただろう。だがその記憶を失い、与えられるままに身をまかせ、かごの中でもって美声を保ちつづけているのだ。
 しかし彼女が鳥と違っていたのは、彼女が感情を持った人間であるということだった。老人に強いられるように、田崎の家で養子として暮らしていかなければならなかったのは事実である。しかし、「どうにもしようがない」と言いつつ彼女は自分から一度として、本当の自分の素性を探るなどということはしなかったのである。それは多分に他のある意味でもって彼女が、葉子が、まだ十三歳の少女であったことに原因があったのであろう。――老人に強いられている――自分では何もしていないということをわかっていたにせよ、それは一体、どの程度の意味を持って、どれくらいの大きさで、十三歳という彼女の心の中に響いていただろうか? そうして必然的に彼女の心の中に、ある一つの疑問が生まれてきたのだ。誰もがみな一度くらいは考えはしなかっただろうか――?
「自分は一体何のためにうまれてきたのだろうか?」と…
 

 葉子は車の窓から外ばかりを見ていた。隣に座っている恵理は、何も言わない。学校を出発してから十五分程たった頃、恵理は口を開いた。
「あ、あたしの家この辺だから、停めて下さると嬉しいんですが…。」
「ああ。」
堀川は車を停めた。降りる際に恵理は、「どうもすいませんでした」と言ったきり、ドアを閉めて振り向きもせず行ってしまった。堀川が車を発車させると葉子が口を開いた。
「田崎ようこの戸籍…どこで調べたんですか? 市役所?」
「…ここに来る前に調べておいたんだ。きみもどうやら知ってたみたいだしね。」
「じゃ、記憶喪失ってことは? あたし病院なんて行ってないわよ。」
「推測だよ。――きみがいると知った時点で、何故事故のあった当時無事なら無事で連絡してこなかったのか。」
「何故?」
と葉子は聞き返した。
「二つほど理由が考えられる。一つは本人に連絡する意志がなかった場合。もう一つは本人が何らかの事情で連絡できなかった場合。」
 葉子はゆっくり視線を落とした。『何らかの事情で連絡できなかった場合』――
「死んでしまっていれば連絡なんて出来ないでしょう?」
「そりゃあ…。でも生きてる線で考えるなら、記憶喪失になってるって考えるのが自然だろう? 第一、きみの年齢と妹の年齢とじゃ、年がずれてるんだよな。」
「どういうこと…。」
「妹は今年の春、四月で十八歳になるはずなんだ。ところがきみは今十六歳ということになっている。年から見ても、記憶を失って、誰かに違う記憶を教え込まれたって考える方が、すんなり納得出来る。」
「推測…か。いいかげんなものね。」
「確かに…でも血液判定って手もあるんだよ、最近では。」
冗談じゃない、と言おうとしたが葉子は黙った。道はバスの通りから、葉子の家に向かう細い道に入っていく。
「さっきの道を二時間ほど行くとね。」
堀川は言う。
「事故のあった場所に出るんだよ。もう六年も前のことだから、事故の後なんて少しも残ってないけど。」――
 家の門扉に着けられた車から、葉子が降り立った。
「送ってくれてどうもありがとう。」
バタンとドアを閉め、葉子が少し歩き始めてから堀川が叫んだ。
「成美!」
葉子はビクリとして少しの間動かなかった。次の瞬間、大急ぎでその後ろ姿を前へ返らせた。
「葉子。」
葉子は彼を見据えて言った。堀川はクスリと笑い、それから真剣な眼差しに変わった。葉子が一瞬ドキリとする、目。
「きみは今、幸せなのか?」
「ど、どうして?」
「一人でいると、すごく疲れているように見えるから。」
「余計なお世話です。」
 じゃあ、と、頭を下げて、車窓から見送る彼を振り切って、葉子は家へと入っていった。
『年がずれてるんだよな。』
 その時、心臓が凍り付いてしまうかと思った。
 彼女は人より背の伸びるのが早かった。
 この家に来た時、既に生理もあった。
 ――彼女は、思い出してみたいと思った。ほんの少しだけ、思い出してみたいと、思った。
 

 太陽が西の地平線に隠れようとしていた頃に、中川千里は客間の前に立った。
「堀川さん、あたし、入っていい?」
「どおぞぉ。」
 千里は戸を開けて入っていった。堀川は西日のあたる中、窓に向けられた机に向かって座っていた。
「何やってんですか?」
「何してるように見える?」
「何って、解らないからきいてんじゃないの。」
堀川は振り返った。開け放たれた戸の前に立っている千里に、「まあ、入れよ。」と声をかけた。千里は黙ったままで戸を閉める。
「今隠したの、何ですか?」
「え?」
「今こっち向くとき、机の上の紙をひっくり返した。」
「ああ、これ…。」
彼はわずかにためらいながら、隠したものの上に手を置いた。
「別に隠したわけじゃないんだけど…。写真だよ。見るか?」
と、千里にその写真を差し出した。古い写真で若い女の人が写っている。何気なく受け取った千里は、写真を見てはっとなった。
「これ、ひょっとして…。」
「そう、義妹の死んだ母親、堀川涼子さん。当時二十歳。」
以前堀川が、妹の母親が葉子そっくりだということを証明するために、葉子に見せた写真。似ている、と千里も思った。
「…田崎の写真なら、あたし持ってるけど…。」
千里は黙った。じっと堀川を見ている。
「何だ? 何か用があって来たんじゃないのか?」
「堀川さん。」
「え?」
「今日も田崎のとこに行ったんですか?」
「あ、ああ。」
「いやがられませんでした?」
「それほど――ああ、俺不思議に思ってたんだけど、何ではじめて会った時、あんなにいやがられたんだろう?」
「いやがられたというより、半分恐がられてましたね。」
「だからなんで…。」
千里は軽く頭を抱えた。
「あのね、堀川さん。知らない人にいきなり、『お前の正体は、本当はなあ…』なんて言われてみなさいよ、誰でも不気味がりますよ。」
「…そうか?」
「そうですよ! 例えば道を歩いてていきなり知らない人に『お前もらい子だろう?』なんて言われてみなさいよ。」
堀川が眉をひそめた。
「きみひょっとして…。」
「違う! あたしじゃない、例えばって言ってるの。」
人をからかう時はタイミングをよくみはからないと、怒らせてしまう。
「ああ…。」
「まあどっちにしても、全然予想だにしてなかったのに急に『お兄さんだよ。』なんて言われちゃ、誘拐か何かの疑いって見られても仕方ないと思いますよ。場合によればね。」
「…きみがそう思った類の人だね。」
「まあ、そうだけど…。で、その後だったのね、あたし結構…かなりショック受けたのが。」
ショック…
「何が?」
「だから…堀川さんが来た次の日、やっぱりあの子の真実ってのを知りたくて、きこうとしたのよ。そしたらあの子、あたしに何って言ったと思う? 関係ないって言ったのよ。ひどいと思わない?」
「そりゃあやっぱりきみは他人だから…。」
「そこよ!」
「え?」
千里の声の勢いにおされ、堀川の顔は間が抜けたようになった。
「そうよ、そこなのよ! 知ってた? 堀川さん。あたしあの子と付き合い始めて一年になるのよ、一年! ところがあたしってば、あの子の家がおじいさんと弟と三人家族だってことすら知らなかったのよ。恵理は知ってたのに! 何であたしはそんな事さえ知らないの? あたしには関係ないって、関係ないって!」
「ま、まあまあ落ち着いて、落ち着いて。」
中川は肩で息をしながら、なだめる堀川をにらみつけた。視線を落としながら大きくため息をつく中川。
「普通はね、一年も経てば友達って認めてくれたっていいと思うの。格好のいいこと言えば、友達って何でも話せる間柄じゃないの?」
「女の子の場合はそれが単なるおせっかいになりがちなんじゃないの?」
「………だからよ。だからあたしはあの子だったら普通の友達づきあいってのが出来ると思ったのよ。だから…なのに、何で? ねえ堀川さん、あの、あの、関係ないって言った次の日からの田崎の態度知ってます? あたしに気ぃ使うんですよ! 気いいっ!」
バシバシバシッ! と大きく床をったいた。堀川はどうしてもこの中川の勢いに勝てない。
「わかった。わかったから落ち着けって。俺に怒ってもしょうがないだろう?」
千里ははあっと息をついた。それを見た堀川はほっ、と安堵のため息をもらした。
 ほっとなった堀川は何か変な感じがする。
「…変じゃないか?」
「何が?」
「何でどうでもいい人間に気なんか使わなきゃいけないんだよ。変だろ?」
「…変なの?」
「変だよ。どうでもいい人間なら、けんかしたその後関係がまずくなろうが、どうだっていいことだろう?」
「そういえば…。」
堀川は右手で軽く頭を抱え込む。
「…何か、ひっかかるんだよな。きみら見てたら。知り合った順番に彼女に“事情”をきかされてるだろう? てことは、だんだん言いたくなくなった理由が何かあったせいかもしれない。」
「理由って…。」
「そりゃわからないけど… 第一何で今まで記憶喪失だってことをわざわざ隠してきたんだ? たいてい人間って今の状態が気に入らなかったら、他に逃げたいって思うよな? 三人家族で家事一切彼女がやって、成績だっていいし…友達に気まで使って…。一度も逃避願望がわかなかったっていうのは不自然だ。彼女には記憶喪失という逃げ場があったんだから思い出したいと思ってもいいはず…。」
 日はとっくに地平線の彼方に沈み、部屋の中が薄暗くなっている。堀川は手の届く机の上のスタンドに振り返って、電気をつけた。
「思い出したくなかった。」
中川の言葉に堀川がぱっと顔を上げた。
「どうして。」
「し、知らないわよ。…でも今に原因がないなら、昔にあるかもしれないわよ。言いたくない理由も。…ところで田崎って記憶がなかったってこと、認めてるの?」
 堀川は今日葉子と話した事を思い返していた。
『じゃ、記憶喪失ってことは? あたし病院なんて行ってないわよ。』
――――――
「ああ…。」
 言いたくない理由、思い出したくない理由を堀川は考えた。言いたくない理由は別として、思い出したくない理由とはなんだろう? 記憶喪失後にその原因がないとすれば、記憶喪失前だろうか? しかし堀川に思い当たることはまるっきり見当がつかない。集められた資料ではとても解決できる問題ではない。
「彼女が記憶を取り戻そうとするか、取り戻してくれるのが一番いいんだが…。」
中川千里は堀川の顔ばかりを見ていた。それから何の気なしに膝の上の、自分の手を見る。
『理由』
千里は少しばかり不安な気分になった。
 

 翌日、堀川はまた葉子の家に行った。と言っても時間的には結構遅かった。が、真冬と違って三月上旬のこの頃のこの時間では、日が高い。家の前の道路脇に植えられている背の高い木々の向こうにひろがる田畑も、真冬の弱い陽の光をあびて、少し色褪せた景色がキラキラと…。堀川が門扉に手をかけた時、学生服姿の亜雄に気がついた。「やあ。」と声をかけたが亜雄は思い出せず首を傾げた。
「あの…?」
「覚えてないかな。四、五日前にも一度来たんだけど…。」
「あ…。」と微かに声を上げた亜雄の顔が、たちまちのうちにくもっていった。  
 ふてくされたような顔つきの亜雄は半分にらむような目で堀川に言う。
「何ですか?」
「えっとお姉さんに話があって…」
亜雄は黙った。動かずに突っ立っていただけだったが、歩き始めて口を開いた。
「姉は今日いません。」
「え? いないって、どうして…。」
「今日は昼から買い物に行くと言ってました。急ぐんでしたら僕から姉にあなたが来たと伝えておきます。」
 亜雄は門扉を押して入って行った。亜雄の行動に唖然としていた堀川は、はっとなって我に返り亜雄を呼び止めようとした。
「きみ!」
 亜雄は『伝えておく。』と言ったくせに何もきかずに「それじゃあ。」と、扉を開けてスタスタと入って行った。
 亜雄が玄関に入ると、玄関に向かってくる葉子とはちあわせた。亜雄は慌てて閉めかけた扉をピシャリと閉める。
「おかえり。どうしたの?」
「え、別に…。た、ただいま。ど、どこか行くのか?」
葉子は鞄を抱えている。玄関に下りると靴を履き始めた。
「ちょっと買い物に行ってこようと思って…。」
「い、今から?」
「うん。あんたに留守番しててもらおうと思って、帰ってくるの待ってたのよ。おじいちゃんに遅くなるかもしれないって言っといて。」
と、靴を履き終えた葉子は扉に手を、かけようとしたが亜雄が邪魔をする。
「何してんのよ、あんた。」
「い、いや。」
扉を背中と両の手で抑えつけて、若干顔がひきつっている。
「何、何も、今から行くことないだろ? もうすぐ暗くなるし危ねえよ。あした…あした行けば? あしたもあさっても休みなんだろ?」
「暗くなったってスーパーは開いているんだし。心配だったらあんたが迎えに来てよ。それに今日じゃなきゃ安くないのだってあるんだから。ほらほら、のいて。バスの時間に間に合わなくなる。」
亜雄はがんとして動かない。
「変な子。…そういえばさっか誰かと話してなかったっけ? 何? 彼女でも連れてきてるの?」
嬉々として葉子は亜雄を押し退けた。『ガラリ!』
 …そこにいたのは…
「あれ? 堀川さん?」
中から聞えてくる話し声を呆然として聞いていた堀川が、門扉の向こうに立っていた。いまいち状況を把握出来ていなかった葉子も、扉をつかんだまましばらくそこに立ちつくしていた。口を手で押さえて肩をすくめていた亜雄は、靴を脱いでそろそろと廊下を歩く。
「やあ。」
彼女の姿を認めると堀川はにっこりと微笑んだ。
「亜雄。」
葉子が振り返ると同時に亜雄が走り出した。
「あんたはー。あたしのとこに来る人を勝手に追い返さないでって、いつも言ってるでしょー!」
奥に向かって叫んだが、バタバタと足音がするだけで返事はない。
「全く。」
『ピシャン』…と力強く扉を閉めた。
「今日はどうしたんです? 堀川さ…何笑ってるんですか。」
門扉にもたせかけた体を震わせながら、彼はクスクスと笑っている。
「いや、意外だなって思って…。」
「何がです? 亜雄がですか? あたしがですか?」
「きみが…。いや、意外って言うか、微笑ましいって言うか…。」
「何言ってんですか。」
何だかてれくさいのをごまかすように、少し呆れた口調で、堀川の言葉をさえぎった。
「ちょうどいいわ、堀川さん。乗せて行って下さい。買い物行くんです。」
「あ、ああ、いいけど…。」
「ここにいると厄介なのが帰ってきますよ。」
「厄介なの?」
「おじいちゃん。」
 葉子は亜雄が開け放した門をついと通って行く。堀川は運転席に、葉子は後部座席に載り込んだ。堀川が前後を確認して車を出した。
「車って便利ですね。あたしもバイクの免許取ろうっかしら…。」
 しばらく沈黙が続いた。『夕ごはんに間に合うように帰らなくっちゃいけないな。』なんて思いながら、葉子は窓の外を見ていた。
「堀川さん。」
「え?」
「今日何しに来たんですか?」
「あ、ちょっと…。俺の顔見てるうちに何か思い出すんじゃないかと思って…。」
「…暇ですね。」
「しみじみ言わないで欲しいな…。」
「こんなことしてるより、どっかに遊びに行ってるほうがいいんじゃないですか? こんな田舎にいてあたしと顔つきつけ会わせてたって、おもしろくも何ともないでしょう?」
「…そーかな? きみは?」
「え?」
「きみは俺の顔見てるの、うっとおしいか?」
意味もなく視線を落として道路の脇を、目で追った。
「…別に…。」
「また二人は黙り込んでしまった。堀川が言おうかどうしようか少し迷ったあげく、口を開いた。
「中川くんがね。」
ビクリとして葉子が頭を上げる。
「嘆いてたよ、きみが彼女には何も教えてあげてないし、おまけに彼女には何も関係ないなんて言って突き放したりしたから、友達だって思われてないんだって。」
「…そういうわけじゃないわ。」
「でもほら。あの子、何ていったっけ、髪の短い…。」
「恵理?」
「そう、あの子だって昨日車の中で一言も口きかなかったじゃないか。現にきみのいない時のことだけど。きみが転校生だってのを知らなくて、ずいぶんショックをうけてたみたいだったよ。」
 葉子はうつむいて何も言わない。暇な事をきくと思っているのかもしれない。
「何かわけでもあるのか?」
「いやだったの。」
「え?」
聞き返した堀川に葉子からは何の返事も返ってこなかった。
―――いやだったの。たまらなく、いやだったのよ…。もう、これ以上―――
 

 葉子が家の近くのバス停に着くころには、どっぷりと日も暮れていた。六時半をとうにまわり。ぽつりぽつりとある家々の明かりと、何十メートルおきかにある電柱の明かりぐらいしか、あかりはなかった。月も出ず、雲に見え隠れする星々がわずかに空を明るくしていた。はっきりいってこの土地を日が暮れてから歩くのは、ものすごく、寂しい。葉子は買い込んだ荷物を下げて、祖父に車で迎えに来てもらえばよかったと後悔していた。
 一人になるといろんな事を考えずにはいられない。堀川の事、中川たちの事、自分の事…。正直言って本当は何も考えたくないのだが、むしょうに一人になりたくなる時もある。…今の彼女の姿。薄暗い道の上をおもたそうに荷物を抱えて歩く姿――どこか彼女の今の状況に似たところがないだろうか?
 孤独の中に自分を追い込む必要などないのに…。
『一人はいや。だけど誰かそばにいてほしい…。』―――
 黙って歩く彼女の後ろ姿は、抱えた荷物を持ち直す。その時だった。後方でバスッと音がした。次の瞬間、彼女の右腕を微かに裂いて、銃弾が、彼女の横を通過していった。彼女の落とした荷物の「バサッ」という音を残して、辺りには再び静寂がよみがえる。
「…どうして…。」
 信じられない現実を右腕にうけて、彼女はその場にガクガクと崩れ落ちていった。