エミコはまだ薄目を開けていました。エミコはマサトに話し続けます。
「子供の時に見たテレビやマンガだったら、こういう時、正義の味方がやってきて、助けてくれるのよね。でも、実際はそんな都合よくいくはずがないし、例え今出てきてくれたとしても、やっぱり助けられないわ。だってね、森の外が、どんなのか、私達には想像もつかないんだもの。この森がただの森でないように、外だって、ただの外じゃないはずよ。この森が意味を持つように、森の外も何か意味のあるものじゃなきゃ、いけないはず。出口を求める以上、あたし達がその外を考えなきゃいけないのよ。」
「エミコ、なるべくしゃべらない方が…。」
「ううん、いいのよ。そう、あたし、いつもそうだったわ。いつも人に頼ってばかりで、人のせいにして。この森を壊そうともしたけど、この森だけが悪いんじゃないわ。ここまで導いてしまったあたしが、悪かったのよ。自分が、自分で何とかしようと思っていれば…。いつも…いつも…。」
またエミコの目から涙があふれます。声も震えて、呼吸も荒くなっています。
「昔ね、アフリカの子供達が飢えて死んで行くのを見て、何も出来ない自分に歯ガミしたの。食べれる自分が申し訳なくて、絶食しようとしたのよ。向こうの政府は何をしてるんだろうって、怒ったりもしたわ。でも、それよりも何よりも、あたしはいきなきゃいけなかったんだわ。死んでしまった子供達のために、こうして生きてこられたあたしが、せめて、いきなくちゃ…。あの子達にはまだまだ可能性があったのに、生き続ければ、いっぱい可能性があったのに。こうして生き残ったあたしは、自分で自分の可能性をつぶしてたんだわ。それで、結局こんな死にかた…。」
エミコの声が途切れました。震える両手で涙をぬぐいます。呼吸がうまくできなくてゴホゴホと咳をしました。それから大きく息を吐き出します。
「眠りの森。本当に、不思議ね。これが夢だなんて信じられないくらい。本当に苦しいんだもの。でもやっぱり夢ね。本当なら、上に飛べれば脱けだせるはずだもの。本当の樹海でも、さ迷うのは中だけ。」
エミコの表情がふとやわらかくなります。
「同じ海といっても、本物とは大きな違い。本物…なら、あそ…こは、総ての生き物…の出発点だけど、…ここはまるで、行き止まりの…死の…うみ…。」
エミコの言葉はそれで切れました。エミコは静かに呼吸を整えます。目が、その光を失おうとしています。森は静かです。恐ろしく、静寂につつまれています。
ところが、この間際になってマサトは何か突然、ひっかかりを感じたのです。「エミコ」と叫ぶでもなく、泣くわけでもなく、この最後になって、マサトの頭はフル回転で動きます。
でも、エミコの目は閉じようとしています。静かにピッタリと、その生気を失うように、目が、閉じられていきました。
「エミコ!」
瞬間、再びぱっちりとエミコの目が開かれました。その目がマサトの目と合います。2人の目が異様に輝いています。
「わかった。」
同時でした。二人が「わかった。」と同時に言ったのです。お互いがお互いの言葉を疑いました。二人はしばらく輝いた目のままで、お互いの目をじっとみました。そして、マサトがエミコの体を抱えるのが早いか、エミコがマサトの首に手を伸ばすのが早いか、マントに飛び乗り、浮かびました。物凄いスピードで進んで行きます。
「マサト、マサト――ッ。何がわかったの?」
「君こそ何がわかったんだよ」
二人の顔は自然と笑っていました。声も弾むような大声です。エミコは直接答えずに続けます。
「この眠りの森が樹海の構造をしているのが鍵だったのよ。ここに迷い込んだあたし達みんなに与えられた、これがチャンスなんだわ。〃眠りの森〃をキーワードに考えていけば、行きつく先はきっと―――。」
「そうだ。後少し走れば出れるはずだ。出口は、外は与えられるものじゃないんだ。僕達が考えて、答えを求めて、そして創造するんだ。」
彼らが「わかった。」と言ったのは、眠りの森の外のことだったのです。前途揚々、輝くような目で先をみつめる二人です。しかし、エミコのタイムリミットは近付いているのです。エミコは体が恐ろしく重いのを感じました。それは抱えているマサトにもわかります。
「マサト…いそいで…。」
消えてしまう。森がまるで磁石のようにすいついて、体を、魂を欲しているのです。わずか数秒が、なんと長いことでしょう。
すると目の前に、さびた鉄のように赤い光が飛び込みました。あれだけ飛んでなかった出口が、今現れたのです。
「頑張れ、エミコ! もう少しだ!」
逃げろ、逃げろ、生きるために――。
苦しい…あとわずか、もう少し、そこを抜ければ――――。
エミコの荒く息をする呼吸の底に、鼓動の音が響いて来ます。ああ、知っている、この感覚…遠い昔に、確か…
心臓の鼓動を知らせる計器の線が、ピ――…と音を立てて流れていきます。
オカアサンはどうすればいいのでしょう。オトウサンはどうすればいいのでしょう。何故誰にも何も出来なかったのか。何故運命は何もさせるチャンスを与えなかったのか。
それでもセンセイは、マッサージをする手をとめません。しかし計器は、何の反応も示さないのです。
何故エミコは逝ってしまわなければならないのか。
エミコが一体どんな罪を犯したというのでしょう。
残酷だとわかっていても、センセイは集中治療室を出て、オカアサンにそのことを言わねばなりません。この部屋は何故もっと明るい照明ではなかったのでしょう。何故このことを言うのが自分でなければならなかったのでしょう。センセイは運命を呪いました。しかしどんなにあがいても、センセイは、その事実をオカアサンに告げなければなりません。それが彼の二人のために最後に出来るたった一つのことなのです。先生はゆっくり口を開きました。
その時です。「センセイ!」と叫ぶ声がきこえました。後ろの計器が、また、ピッ…ピッ…と音を立てて動き始めたのです。歓喜と安堵が部屋の中にあふれました。センセイは急いでエミコのところに飛んで行きます。
「そんな…奇跡だ…こんな…。」
脈拍、血圧、すべて正常に戻っていきます。目は覚めませんが、エミコは再び息を吹き返しました。センセイはエミコの体を調べて、夢中になってオカアサンに告げました。
「もう、もう、大丈夫です! もう…!」
夢ではないかしら。夢ではないかしら。オカアサンは目の前に一筋の光が降りるのを感じました。もし、もし、何かに祈ることが許されるなら、この世に存在するありとあらゆるものに感謝したい気分でした。そしてオカアサンの涙は今、さっきのものとは打って変わって、喜びの涙となってあふれだしました。
ああ、ああ、奇跡だ――――!
エミコとマサトが予想したよりも多い光が目の中に飛び込んできました。まぶしい。前がはっきり見えません。ただ体で、心で、はっきり感じる、それはどこまでもどこまでも広がる世界――解放感でした。
広い―――
そして幻惑が治まり、目の前に飛び込んだ景色――それは海でした。広い広い、どこまでも続く大海原。そして空。
そこは可能性の海。
総てが生まれいづる場所。水平線の果ての、行方は知らず。数々の可能性が、無限に眠っている、永遠の場所。
マサトは波打ち際の手前でマントを停めて降りました。
見渡す限りの海は、夕日に染まっていました。潮のにおいのまじった風が、二人の髪をかきあげます。
波がザ…ンと音を立てて、まるで鼓動のように、寄せては返し、返しては寄せます。
二人はマントから降り立つと、無言でしばらくその景色をみつめていました。言葉にならない感動が胸をよぎりました。あの森の中の、空気の死んだような静寂と、ここの静けさは、全く違ったものだったのです。ここの空気は、いきています。人の胸をうつだけの、力があるのです。
景色を見ていたエミコの目から、涙がこぼれました。
「きれい…。」
「うん。」
「変ね。今まで景色にこんなに感動したことなんてなかったのに…。」
二人はつぶやくように言葉を交わします。
ザ…ンと波が寄せては返し、返しては寄せます。海は夕日の光を反射して、キラキラと輝いていました。
穏やかでした。二人はどこまでも、穏やかでした。ただ景色にみとれ、景色を美しいと感じました。果たしてそれは、今までに見たこともないようなすばらしいものだったのでしょうか? いいえ、違います。それは、カレンダーでもテレビでも一度は見たことのある景色です。子供の頃から一度は見た景色なのです。しかし今、彼らは感動し、涙までこぼしているのです。
ザ…ンと音を立てて波が寄せます。さらさらと引いて、またザ…ンと音を立てて、波が寄せます。
ふーっとマサトが溜め息をつきました。
「何かまだ嘘みたいだ。出られたなんて。」
「うん、もう駄目かと思った。ギリギリの限界で助かったって感じ。」
「ああ! よかったなあ。助かって。」
マサトがのびのびと背伸びをしました。そんなマサトを見て、エミコはいたずらっぽく笑います。
「さっきまでは、あんなに悲壮な顔してたのに。」
伸びをして降ろしかけた手を止めて、マサトはエミコをチラリと見ました。
「そっちだって、ボロボロ泣いてたじゃないか。」
「あー、こっちはだって、死にかけてたのよ。キトクだったんだから、しょうがないじゃない!」
二人はちょっと赤くなりながら、すねたようににらみあっています。
エミコは思わずふき出しました。
「何がおかしいんだよ。」
「ううん。本当に、助かったんだなぁって思って。」
マサトの表情がゆるんでいきます。エミコをとてもまぶしそうに見ます。
「うん。」
エミコもフッと息をついて、また夕日をみつめました。夕日はさっきの位置のまま、一向に沈む気配がありません。それでもエミコはじっとみつめていました。
「あたしね、本当のこというと、楽しかったんだと思う。」
「え? いつ?」
「さっき、眠りの森の中で。限界のギリギリの、もう死ぬかもしれないって時にあたし、心のどこかで楽しんでた。一生懸命出口を探してる袋小路の状態で、ずっと楽しんでたの。もっとも、今だから言える言葉なんだけどね。」
「そうだな。小さな冒険みたいだったもんな。」
「そうね。服も薄汚れちゃってる。森の中ではきれいな白だったのに。」
「僕のは最初からこうだったけど?」
言われてエミコはじっとマサトの服を見ました。二人共どこか薄汚れたような色をしています。
エミコは自分が変わっているのだな、と思いました。どう変わっていくかわからないけど、きっといいように変わっていくのだな、と感じました。
「現実に帰ったらね。」
「うん。」
「とりあえず何かしようと思うの。本を読んでもいいし、勉強するのでもいいし。あたし今まで勉強って試験の為にやるものとばっかり思ってた。でも、きっと違うね。さっきのだって、生物を習って、人のレキシとか地球のレキシとか知らなかったら、出て来なかった答えかもしれない。やるからには何か意味があるはずなのよ。シソウもレキシも、ゲイジュツも。でなかったら、今までずっと受け継がれてきたはずないもん。」
「レキシ…かぁ。」
「何?」
「いや、僕も何度か、何であんな過ぎ去ってしまったことばっかり勉強するのかって、不思議に思ってたんだよね。未来に役立たせるためだっていう人もいるけど、僕ら個人には関係ないことじゃない? でも、眠りの森にいて、何となくわかったような気がする。」
「わかった? 何?」
思わずエミコは身を乗り出してききました。マサトはちょっちためらって、照れくさそうに続けました。
「あの森は時間の経過ってのが、わかんないよね。」
「そうよ。必要ないもん。あたしマサトが声かけてくれた時、記憶がなかったのよ。ううん、声かけてくれるまで、自分さえもなかった。」
「そう、つまり、死んでる状態と変わらないってことだよね。だから、レキシは、本当は今自分がどうしてここにいて、それから今レキシを刻むために、やるもんじゃないのかな。それから人間のレキシを見て、自分を知る。僕は今そんな気がする。」
自分が、自分達が存在する理由。
「今ないものを現在に蘇らせるロマンでもあるんじゃない?」
「それもあるな。人間ってすごいよ。頭の中では一億年前でも、一億光年の彼方までも飛んでいけるんだから。――ロマンだね。」
「ロマン。」
「うん。」
エミコがクククとこらえ笑いをします。はぁ、と大きなため息をつきました。
「でも本当、凄い確率なのよ。今あたしがここにいるの。海からはじまって陸に上がり、変化して人間になって。途中飢餓とか戦争とか乗り越えて、やっとここまでたどりついたのに…。」
波が寄せます。寄せては返し、返しては寄せます。繰り返し、繰り返し、寄せては返し、返しては寄せ…。
「いきなきゃね。あたし、毎日がつまらないって思ってたけど、つまらなくしてたのは自分自身だったんだ。よく考えてみたら知らないことだらけ。カガクもセイブツもレキシも、人の心も。つきつめていけばどれもキリがないのに。」
エミコは水平線の上に浮かぶ夕日をみつめながら話します。
「つまらないなら、未来に希望がないのなら、なぜつまらないのか、どうして希望がないのか、自分で考えなきゃいけなかったんだ。ただぼんやり毎日を過ごすだけじゃなくて、一生懸命考えて、探せばいいのよ。何もしないうちから諦めるんじゃなくて、誰かの答えを待ってるんじゃなくて。」
エミコはマサトの方を振り向きます。
「一人で悩まなくっても、いいよね。自分一人で何とかしなきゃって、思わなくても。」
みつめられたマサトは、エミコの目をじっと見返します。照れくさそうにうつむきながら、うんとうなずきました。それから、頭を上げてエミコをみつめると、
「帰ったら、まず何するの?」
「わからない。――でも、何か考えることからはじめようと思うの。前向きにね。ゆっくりと時間をかけて。」
「諦めちゃいけない。諦めたら可能性があっても終わりになるから。」
「わかってる。あの、死ぬ危機から脱け出せたんだから。―――ううん、もし例え、助からなかったとしても…そりゃ、現実でもう一度生きた生活が出来るチャンスはなくなってしまっただろうけど、あの時いってしまっても、あたしある程度満足していけたと思う。あたしあの時、必死だった。いきてたもの。」
それからマサトに向き直り、じっと彼の目をみつめていいました。
「ありがとうマサト。助けに来てくれて。助け出してくれて。」
「そんな…。僕は手助けしただけだよ。それに、外をみつける原因はエミコにあったんだし…。」
「でも、マサトが来てくれなかったら、あたしは何も知らないまま、眠り続けてたわ。最後のあの時だって、あたし一人じゃどうにもならなかったもの。あたしは意識を保ってるのがやっとだったんだから。」
エミコ一人じゃ脱け出せなかった。マサト一人でも脱け出せなかった。これはまぎれもない二人の力なのでした。
マサトがエミコを見てニッと笑います。
「じゃあ素直に、感謝されようかな。」
エミコが答えるかわりにニッコリ笑いました。
「現実に戻ったら、会いに行くね。」
「実際あったらガッカリするかもしれないよ。ぼくは、貧弱だからね。」
「関係ないよ。行く。」
マサトはちょっと照れたように笑います。
「現実に戻っても今の記憶が残ってたらね。」
「うん。忘れない。」
「だといいけど。」
ザ…ン
サラサラサラ…
ザ…ン
寄せては返し、返しては寄せ。風は潮のかおりをふくんで、二人の髪をなびかせます。夕日はさっきと同じまま、世界を赤くそめていました。
「何で沈まないんだろう。あの夕日。だいたいこんな時に夕日ってのは不思議だよね。」
「いいのよ。」
「え?」
「いいの。目が覚めたら、今までのあたしとは違うあたしになるんだから、今は夕日でいいのよ。」
そうしてしばらく二人はその赤い夕日をみつめていました。あの夕日、二人が現実に帰れば、沈むのかもしれません。
マサトが大きくため息をつきました。心の中を洗い流してしまう、そんなため息でした。
「さあ、帰ろうか。」
「うん。」
「このまま、海の中に歩いていけばいいんだよな。」
「そうよ。いつのまにか意識がなくなって、気がつけば現実。」
それが二人のみつけた出口なのです。寄せる波打ち際。先に足を入れたのはマサトでした。そうしてマサトは振り返り、エミコに手を差し出します。エミコはその手を受け取ります。
エミコがその潮の中に入ると、夕日が少し動いたような気がしました。膝までつかったところで立ち止まり、そして後ろを振り返ります。エミコにつられてマサトも振り返ります。
世界は砂浜と草原と、そしてその後方に、眠りの森がありました。
「意外と小さかったみたいね。眠りの森。」
「うん。中にいる時は永遠みたいに思ってたけどね。」
「楽しかった。――もう二度と来たいと思わないけど、小さな冒険活劇の主人公みたいだったわ。ハラハラドキドキ。」
逆光の中で、マサトがエミコをみつめています。
「ありがとう、僕も…」
エミコはマサトの言葉に「え?」と小さく聞き返しました。
「生まれて初めて、こんなに走った。」
エミコは胸の中が熱くなるのを感じました。言葉にできず、彼女はマサトに向かって強くうなずきました。
「あたしも」小さな声でエミコが答えます。
「こんなに走ったのは、初めてのような気がする。」
マサトは静かに微笑むと、
「現実に帰っても、またこんな気持ちになれるよ。」
そういって、夕日の方へと向かいました。エミコの目の端に眠りの森が映って、そして消えて行きます。
眠りの森。死の森。永遠の森。人の思いを飲み込んで、淋しいまでに沈黙が続く、永遠の森。
エミコは振り切るように、前を向きました。そしてマサトと2人、海の中へと歩いて行くのです。
「マサト?」
「ん?」
「離さないでね。手。意識がなくなるまで。」
「うん。」
「一人で行くには広すぎて、ちょっとこわいから。」
「うん。」
夕日が沈んでいきます。歩き進むエミコの目から、ハラハラと涙がこぼれます。
「変ね、哀しいことなんて、何もないのに。」
「ここと、オワカレだからだよ。」
マサトがまるで幻のように、言葉を告げます。海の中へと進む彼女の耳に、森の中の言葉がこだまします。
――そうだよ。まだ、可能性はあるかもしれない。脱出出来るかもしれない――
信じよう、シンジヨウ…
白い景色の中で、薬品のにおいがほのかに漂っている。ぼやけた視界で誰かが彼女を呼んでいた。
「…美子。絵美子!」
最初に彼女の目に飛び込んだのは、母親の嬉しそうな顔だった。涙でぐしゃぐしゃの、母親の嬉しそうな顔。
「お…母さん?」
彼女が小さくつぶやくと、母親はほっと肩を落として目を細め、大きなため息をついた。「あ、あ、良かった。良かった。あなた。」
母親は、ベッドの向かい側にいる父親に視線を注いだ。
「お父さん」
彼女はその父親の姿を認めると、小さくつぶやいた。彼女は自分が横になっているベッドの周りを目でたどっていった。父親がいて、母親がいて、看護婦がいて、医者がいる。病院なのだ――彼女はまだ覚めやらぬ心地の中で、そう思った。
「どうしたの? 何であたし…。」
「ああ、お前、一箇月近く眠りっぱなしだったのよ。途中危篤状態に陥って、一度心臓も止まったのに、何とか助かって。もう、どれだけ心配したことか。」
絵美子は驚いて目を大きく見開いた。
一箇月眠りっぱなし? 心臓が止まった?
それは彼女にとって、すぐには飲み込めない出来事であった。しかし確かに、目の前の母親はハンカチで涙を拭っている。それは確かな事実だった。彼女は、今まで母親の泣いた顔など見たこともなかったのである。
「ごめんね、お父さん、お母さん。お父さん、お母さん…。」
母親は涙でぬれた顔で、微笑みにならない微笑みをした。父親の目にも涙が浮かんでいる。すると彼女の両目からすー…と線をひいて、涙がこぼれ落ちた。なぜ、どこから沸いたのかわからないその途切れない滴に、戸惑いを感じながら、
「変ね、哀しいことなんて、ないのに。」
あれは何だったろう――覚えていない。けれどそれは、胸の熱くなる、そんな夢―――。何も思い出せない。でも、その気持ちは忘れてはならない。あれは何だったろう――
涙で濡れた顔で、ウフフと作り笑いをする母親をみつめながら、彼女はぼんやりと、そんなことを考えていた。
結局、検査や体が元の状態に回復するまで、その後十日程彼女は病院に留まった。
「良かった、本当に。絵美ちゃんが元気に退院してくれて。」
退院の日、担当の看護婦は嬉しそうにそう言った。彼女は今年一年目、絵美子とそう年がかわらなく、まだ慣れないせいもあってか、この十日間よく彼女の話相手になってくれたのである。
「学校にも戻れるわね。起きれない間、戻りたくてウズヴスしてたんでしょ?」
「えー、どうかなあ。もう一箇月遅れてるってので、本当に焦りまくってるんだから。もう、地獄ですよ。忙しくなるなーっ。」
「とか言いつつ嬉しそうよ。」
「え? そうですか?」
二人でケラケラと笑った。横で見ていた母がほほえましそうに、
「絵美子、入院前と変わったみたい。」
「え、どこが?」
「うーん、雰囲気がね、明るくなったかな。」
母親が、先生に挨拶するといって、一度病室を出ていった。母親が行ったのを確かめると、看護婦はそっと彼女の耳にささやいた。
「おもしろい話してあげようか。」
「え? 何?」
彼女は内緒と小さく言って、
「病棟は違うんだけどね、病名も。一週間程眠り続けてて、絵美ちゃんと同じ日同じ時刻に目が覚めた子がいるのよ。」
一瞬、彼女の背中に稲妻が走ったようだった。自然と、鼓動の高まるのを感じた。
ああ、思い出さなきゃ。約束したのよ。誰だったかしら? 忘れないわって言ったのよ。眠っている私に声をかけたの。あれは――――。
「誰? なんていう…」
「東海林正人っていう―――。」
可能性の海。
終
(一九九〇年九月十日 初回稿 一九九一年五月 個人誌にて発表 一九九七年十一月二十九日 改稿)