時をはらむ女


 翌日授業の終わった後、私は友人達の目を盗んでこっそり図書室まで走った。図書室の鍵はいつも下校時刻までは開いている。昼休みでないと貸し出しは出来ないが、その時の私には必要がなかった。
 図書室には誰もいなかった。静かで薄暗いその部屋で、並んだ棚の一番下の段を探した。薄く大きなその本を見つけると、私はしゃがんだまま、床の上にそれを広げた。急いでページをくっていくと、真ん中あたりでなみがあらわれた。私は「ああ、やっぱり。」と思って嬉しくなったのだ。私はしばらくそのシーンにみとれていた。目を閉じて祈るマリア像。キリスト生誕の物語ではなく、宗教を題材とした物語の一場面に登場するマリア像の挿絵であった。
 本を閉じてまた同じ位置に戻すと、こっそりと誰にも見つからぬように図書室を出た。私は胸がいっぱいになりながら、放課後の誰もいない廊下をかけぬけた。ランドセルのガチャガチャいう音と私の足音だけが高く廊下に響いている。走りながら私はなみの事を考えた。そして会いに行こうと思った。昨日と違って頭の中は話したいことでいっぱいだった。
 家には帰らず、まっすぐ小屋に行こう。
 ランドセルを背負ったまま、私は「秘密の道」をひた走った。小屋の前まで来ると、小屋の戸は閉じられている。私はそれをノックしたが返事がない。それでソロソロと戸を開けると、中には誰もいなかった。
 なみは「明日」と約束したわけでもなく、毎日来ているはずもない。私は日の光を背中に浴びて暗い小屋の中をみつめながら、ひどく落胆したのだ。待っていてもなみが来るという確信もなかったし、何故かランドセルがひどく重く感じたので、その日はそのまままっすぐ家に帰ることにした。
 小学校六年生というのはなかなか多忙な学年だった。木曜日にはクラブ活動があったし、委員会活動も金曜日には行われた。私は放送委員で週二回は放課後の当番に当たっており、その他に班活動があったりと、午前中の水・土曜日を除く四日は下校時刻の四時に帰る日が多かった。だからなみに会うとすれば四時以降か、水・土曜日に限定される。私が最初になみに会ったのは月曜日で、偶然何もなかった日だった。火曜日になみはいない。果たして水曜日に行ってみても会えるかどうかわからない。
 しかしあの時、私はひどくなみに会いたかった。なみに会ってどうしたかったのかというと、別に特別なことは何も考えていなかった。ただ、私はなみと話がしたかった。いや、話をきいてもらいたかったのだ。いろんな話をきいてもらいたかった。彼女でなければならないという理由はなかったが、彼女にきいてもらうのが一番的確のような感じがした。
 それで私はとにかく翌日の水曜日にもう一度行くだけ行ってみようと思った。家に帰ってから昼ご飯を食べると、この前の月曜日の時間を見計らって出掛けて行った。
 行く道すがら、私は少しドキドキしながら歩いていた。またいなかったらどうしようという思いと、いたらどうしようという思いが入り交じる。小屋が見えて近づくにつれて、足のしんがしびれるような思いにかられた。
 小屋の前まで来ると、閉まっている戸を軽くノックした。中から小さな声で、
「誰?」
という声が飛んできた。
「ボクや。波広や。」
「波広? 波広か? 入っといで。」
ガラリと戸を開けると、この前と同じ様子で中になみが座っていた。
「お姉ちゃんまた来てなとか言うて、いつ来たらええんか言えへんかったやろ。」
「ああ、そやったかな。」
「そや。今日ボク暇やったから来たけど、いつ来るか言うてくれんな、ちゃんと会われへんやんか。」
そう言いながら戸を閉めた。
「ごめんごめん。あたしもいつ来るかなんて決めてないからな。じゃあ今度からいつ来るかはちゃんと言うわ。」
「うん。」
こうして、なみが別れる間際に次はいつ来ると言うことで、私となみとの密会は習慣づけられた。習慣づけられたといっても、なみと私が最初に会った時には、もう臨月に入っていたようなので、その密会も一月の間のことだった。
 私はいろんなことをなみに話した。家のこと学校のこと、村のこと。なみの知らない場所や、そのおもしろさなどを、私は夢中になって喋ったし、なみも楽しそうに聞いてくれた。彼女は聞き上手だった。話す内容は、確かに私の一方的なものであったが、私が一方的にべらべら話すのではなくて、なみが私から話を引き出すという感じだった。ただし、聞くばかりで、私が時には親や友人の悪口を言っても、彼女は特に自分の意見を言ったりもせず、本当にただ静かに私の話を聞いているだけだった。しかしその無言さえ、私はなみの魅力に思えたのだ。
 なみとは結局話しをしたのは七、八回だった。たまに私の方でも用事があっていけないことがあったからだ。それでもなみのことはほとんどと言っていい程きかなかった。山辺の一体何という家に住んでいて、その家がどこにあるのか、家族構成はどうなのか、全くと言っていい程彼女は話さなかった。また私自身、きいてはいけないような気がしたし、きくのが怖かった。全てがぶち壊しになるような気がしたのだ。なみはいつも私より先に来ていたし、いつも私の姿を小屋の所から見送った。田舎では五時になると役所がサイレンを鳴らすのだが、なみは必ずそれより先に私を帰した。だから私はなみを迎えたことも、その姿を見送ったこともなかったのだ。一度帰ったふりをしてなみの後をつけてみようかとも思ったが、気付かれた時のことを考えるとどうしても出来なかった。
 なみは気がつくといつもあの小屋にいるというふうで、それ故、私は夜、一人でなみの正体などを考えていると、怖い考えに襲われる時もあった。
 そんなふうにして時は経ち、六月のある日、私はふと、最近楠に会いに行っていないことを思い出した。天気がよい、時間のある日は楠に会いに行くことにしていたのだが、なみと知り合ってからその時間がたいがい彼女のために潰されたので、会いに行けなくなっていたのだ。
 会いにいかなければいけないと思った。楠をそっちのけにしておいたら、彼に嫌われるのではないかと思ったからだ。でもそれに気がついたのが、なみとの密会の日だった。しかしその日を逃したら、班活動に委員会にと予定が詰まっていて、到底私の理想とする時間に楠に会いに行けそうもない。私はそれまでにも二、三度あったように、なみとの約束を一方的に破棄することにした。楠との会合は、学校の用事同様、大切な用事なのだ。
 私は学校が終わると楠のもとへと走った。すると、境内に向かう階段で、ちょうど紀美子に呼び止められたのだ。
「波広君。」
「きみちゃん。」
「お父さんの木に会いに行くんか?」
「そうや。」
「あたしも一緒に行く。」
「うん。」
境内の隅にある楠にかけよると、私はその木を見上げた。楠は一番美しい季節を迎えようとしていた。私はその瑞々しく清々しい青さにみとれた。
「こんにちは。」
私がこう声をかけると、楠はその声に答えるようにザワザワと揺れた。そんな私と楠の様子を見ていた紀美子は、嬉しそうな顔で同じように楠に向かって、
「こんにちは。」
と挨拶をした。すると一度治まりかけていたのがまたザッと音を立てて揺れたのである。しかも、地上は無風に近い状態だ。これを目の当たりにすれば、木に心があるという考えも、信じずにはいられないだろう。
 私達は楠から降りて来る風にどこまでも清々しい気分になりながら、しばらくその木を見上げていた。
 いつもの様に上に登り、前のように二人左右に別れて座った。今度は紀美子は一人で、しかも上手に登れた。どうやら私より頻繁に来ているらしかった。私は紀美子と一緒に来てから一度一人で来て以来、一月近く来ていなかったのだ。まあ私は、楠に来て登るのは晴れた天気のよい日と決めていたから、そんなこだわりがなければ、もっと頻繁に来ていただろう。
「来年は中学校やなあ。」
紀美子がふと口を開いた。
「うん。」
「うちのお母さんがな、来年は中学校やねんから、もう、木とか高いとこ登りな、て言うんやで。」
「ふうん。」
「別に中学校上がったかて関係ないやんなぁ。木に登ったらいかんのやったら、『お父さんの木』にも登られへんやんか。」
「あ、そうやなあ。」
「あたしそんなん堪えられへんねん。中学校入っても絶対登ったるねんから。」
紀美子は息巻いてそう言った。紀美子は私以上にこの木を気に入っているようだった。それはそれで私は嬉しかったけど、この時何故か私は紀美子よりも、彼女の母親の方に賛成していたのだ。確かに私に同感はしてほしいとは思っていたが、もうそろそろ女の子らしくおとなしくしてほしいという思いも私にはあった。何故なら、いくら私でも、紀美子の体が変わってきていることに気付いていたからだ。私にとって、紀美子はもう昔の紀美子ではなかった。彼女は私の中で、いや、実際にも、「女の子」となりつつあったのだ。
 母親の意見に賛成だと言えば、「何故」とその理由を紀美子に詰め寄られるだろうから言わなかった。それで私はその問題には触れずにそれっきりにしておいたのだ。
 結局夕方までいろいろと話をしていたので、なみのもとへは行かずじまいになった。その次の約束まではしていなかったが、今までの例で、だいたいの検討はついていたので行ってみると、やはりうまい具合になみはいた。
「何や、波広のスッポカシィやないか。」
戸を開けた私の顔を見ると、なみは突然すねたようにそう言った。
「スッポカシィ違うわ。ボクにはボクの大事な用事があってんぞ。」
「スッポカシィはスッポカシィやないか。用事があるならあるで最初かから言うとったらええろ。」
「急な用事やってんぞ。ボクかて忙しいんや。何や大人気ないな。」
普段「年上の女」である彼女も、こんな所は子供じみていた。
「急な用事って何や。」
これは予想もしない問いだった。今までは「急な用事」で全部片付いていたのである。なみはどうやらこの間の約束を破ったのに随分腹を立てているようだった。
「だから…。」
私は突然の事に頭の中で用事を探した。まさか「楠に会いに行った」なんて言ってもなみは納得しないだろう。
「正直に言い、正直に。」
なみのこの言葉は、十二の私には痛かった。嘘の言い訳をしてもなみはすぐ見破ってしまうだろう。私は腹を決めた。それで、
「楠に会いにいかんならんかってん。」
と、正直に言った。
「楠って誰?」
「楠って言うたら、楠やんか。神社にある…。」
「それやったら、会いに行くんやなくて、見に行くやろ?」
 なみは訝しげに私の顔を覗きこんだ。とたんに、私は何故か楠のことを話すのが無性に恥ずかしくなってきたのだ。私には、楠に心があるということに、これ以上はないという程の自信があった。ところが、なみの前であってはそんな自分の考えがひどく滑稽に思えたのだ。また、あのヤマンバの時みたいに大笑いされるのではないか、そんな危惧もを覚えた。
 私は顔を真っ赤にして俯いた。答えられずにモジモジしていると、なみが、
「どうしたんや。」
と不思議そうに声をかけてきた。私は声がつまって答えられない。それで逆に、なみの方が悪いことを言ったと思ったのか、困ったように、
「何や、会うと見るを言い間違えたぐらい、そんな気にすることないやんか。なあ、そんな、サボったことなんて気にしてないし…。」 
 逃げ出したかった。すぐそこを飛び出して、走り去りたかった。恥ずかしい恥ずかしいという思いが頭の中に反復して、私は目が潤むのがわかった。
「どうしたんや、波広。なんかいやなことでもあったんか。」
「ううん。」
「ううんって…。」
「何もあれへんのや。いいからほっといて!」
「波広!」
 とうとう私は小屋を飛び出してしまった。一目さんに駆け出すと、真っすぐ家の方には行かないで、秘密の道のみかん山に駆け込んだ。みかんの木が立ち並ぶ、草ぼうぼうの斜面で私はぜいぜいと膝をついた。
 今度は恥ずかしさと一緒に、どうしようもない自己嫌悪にかられた。何て馬鹿なことをしてしまったんだろう。
 何て馬鹿なことをしてしまったんや――!
 私は地面を両手で何度もついた。目に潤んだ涙を払い、気分が落ち着くまで長い間その斜面に寝転がっていた。
 起き上がって秘密の道へと引き返しても、もう小屋に行く勇気はなかった。私はそれでも気になって、ずいぶん長いこと山辺の方を見ていたが、結局そのまま家へと向かった。 その日を最後になみは姿を見せなくなった。私は出来る限り、四時に学校が終わってからも小屋をのぞきにいったのだが、なみは全く姿を表さなくなった。
 怒らせたと思った。嫌われたと思った。だからなみは姿を見せなくなったのだと。その、人の気配のない寂しい小屋を覗きに行く度に、私は激しい後悔に襲われ、そして自分を責めた。何故あの時引き返さなかったのかと。同時に、なみは一体何者だったのかという疑問が、また強く頭にもたげた。そして、自分にとってなみは何だったのか、なみにとって自分は何だったのか、考えるようになった。あの女は、本当に妖精か何かではなかったのか。日がたつにつれて、あの女の実在さえ疑問に感じるようになった。
 同時に、私は楠にも会いにいかなくなった。なみと私をさいたあの木は、もう忌まわしい存在でしかなかった。
 なみがふいに姿を消して一カ月もすると、週に一度ぐらいは念のため覗きに行ってみたが、以前程足しげく通わなかった。それは諦めにも近かった。もうなみは来ない。二度と来ない。そんな予感が頭に過りながらも、それでも私はもう一度だけでいいからあの女に会いたかったのだ。あれではあまりにも後味が悪すぎる。一言なみに謝りたかった。山辺の友達の所に遊びに行っても、外で遊んでいる時は始終キョロキョロしていた。その年の女の人を見かけると、ドキリとした。しかし、なみはどこにもいなかった。
 そうこうするうちに、なみがいなくなってから、そろそろ二カ月が経とうとしていた。夏休みに入り、八月の始め頃のことである。夕方、家に帰るといつもおとなしい祖母が不安気な様子で玄関にいる私に近づいて来た。そして紀美子が例の神社の楠から落ちたという話を聞いたのだ。
「紀美ちゃんが?」
「そうやて。お前が帰って来るちょっと前にお医者連れていかはってな。」
「そんな大きな怪我したんか?」
「詳しいことはよう分からんけどな、濡れたゴム草履で楠に登ろうとしたんやて。石の上に足かけてな、木の幹に足移そうとした所を滑って落ちたみたいやで。あごのトコからようさん血ぃ出してやったわ。頭打ったから言うて念のため病院連れていかはったらしいで。ホンマ大丈夫かいな。」
 私はガクガクと震えた。暑い盛りに、全身から血の気がひいてドッと冷や汗が出た。
 オレのせいや。
 オレのせいで紀美ちゃん死んだらどないしょう。
私が楠のことを教えなければ、紀美子は楠にも上らず、怪我もせずにすんだのである。いや、あの時、紀美子が木に登ることを母親に注意されたと言った時、せめて素直に自分も反対だと言っておけば――。
 当時私は、怪我で病院に行くということをとても大事のように思っていた。その夜、紀美子が何事もなく帰ってくるまで、私は気が気ではなかった。母親が家に帰ってから様子を聞きに行った所、縁側で隣の様子を聞いていたら、玄関先でおばさんの「お騒がせしました。」という明るい声が飛んできて、ようやく私も胸をなで下ろしたのだ。
「紀美ちゃんどうやったって?」
家に戻って来た母親がちゃぶ台の横に座ると、私は大急ぎで正確な様子を聞き出そうとした。テレビの横で寝そべっていた父親も、「どうやった。」と上体を起こした。
「大したことないて。顔やらようさん擦りむいて血ぃようさん出てたからびっくりしたけど、て。」
「大事ないて?」
夕方ひどく動転していた祖母が心配そうに尋ねた。
「そうやって。顔の擦り傷も跡残れへんて言うてはったわ。」
「そりゃ良かったなぁ。」
母親はうちわをとって扇ぎながら、
「それでも、紀美ちゃんもええ年して、ゴム草履なんか履いて木ぃなんか登るさかい…。最近女の子らしなってきた思たけど、相変わらずのおてんばやな。」
「違うで! 違うで! あの木ぃ登るの教えたん…。」
母親が呆れた口調で言うのに、思わず弁解の言葉が口を衝いて出た。黙っておけばすむことであったし、母親がこんなことを言わなければもちろん黙っておくつもりであった。ところが私のせいで、紀美子が悪く言われてしまう、そんな罪悪感にかられて私は思わず口走ってしまったのだ。
 私はしまったと思って、慌てて口を押さえた。そんな私に両親も祖母も容赦なく私の顔を見た。
「波広。」
母親はじろりと私をにらみつけた。
「お前、何したんや。」
「ボク、ボク何もしてない。」
「嘘言いなさい。今何か言おうとしたやないの。何や、紀美ちゃんにあの木上るの教えたの、あんたか。」
母の威圧に、私は小さくなった。堅くなって俯きながら、自分のドジを責めた。
「波広、黙ってても分かれへんやろ。どうなんや。あんたか?」
「うん。」
「ホンマ、しょーもないなー。あんたがいらんこと教えるさかいに、こんなことなるんやないの。大事なかったから良かったもんの、紀美ちゃん女の子やのに、顔に傷つけてとれんようなったらどうするつもりやったんや。」
「ごめんなさい。」
「お母ちゃんに謝ったかて仕方あれへん。明日一番でおばちゃんに説明して謝ってきなさい。紀美ちゃんえらい怒られてやるで、きっと。」
母親の言葉はするどく、無駄がなかった。外に出ぱなっしの母親も、こういうことにはいつも厳しかった。元々彼女は妊娠してから私が幼稚園に入るまでは、育児休暇をとって専業主婦を努めていたのだ。潜在意識の時代を教育されたためか、母親の言葉は私にとって絶対であったし、彼女はいつも無表情でいるか、私が悪いことをしたら叱ってばかりいるかどちらかだった。いや、仮にそうでないとしても私の中の母親の印象はそうであったのだ。だから、私にとって彼女程恐ろしい生き物はなかった。その厳しさに、陰でこっそり恨んだこともあった。それで、その時も私は黙って俯いて座っていたが、母親に対して「こんな時ばっかり母親面しやがって。」という感じで、軽い反抗心を心の中に抱いていた。でも幼なじみに負わせた傷に対する罪悪感の方が強かったので、結局母親の言う通り、翌日朝一番で私は紀美子の家に謝りに行くことに決めたのだ。