第七章

 子供のはしゃぐ声が聞こえる。乗り物の動く音や、その音楽も平日にかかわらず少し騒々しい感があった。
 遊園地―――。
 一番はしゃいでる恵理と須美恵が、バイキングに乗り終えて、葉子たちのいる屋外カフェテリアまでかけてくる。
「どうだった?」
「そんごいすんごい。あったまぐらぐらしちゃって…。」
「ちょっと休憩。…でも久しぶり。遊園地なんて。」
二人ともゴトゴトとイスを出して腰をおろした。
「一番来たがってたの、須美恵だもんね。あたしも小学校以来だわ。」
と、葉子の隣にいた中川が言った。
「あたし来たことないわ。」
「え? あるだろ? 成美が小学校の時に一度―――。」
「記憶喪失になる前のことなんて覚えてるわけないでしょ。…なれないなあ、成美って。」
「でももし籍が戻ったら田崎は堀川成美になるんでしょ? じゃ、いつまでもこのままじゃ…。」
「案外葉子よりも成美って呼んだ方が効果あるかもね。」
「…そっかあ、堀川さんと葉子ちゃんって、兄妹なんだ。」
机に頬杖をついてポツリと須美恵が言った。何となく一同が顔を見合わせる。
「そう…か。お兄さんなんだ。」
葉子はぼんやりとした目で堀川を見た。
「え…え…ああ…。」
「何たじろいでんですか。」
 そう、たしかに彼女を捜し出すまでは行方不明の妹だという意識が強かった。しかしいざ見つかってみると、十七歳の少女なのである。十歳の少女とはまるで違う…あどけなさもすっかり抜けてしまっていて…。
「今度はお父さんはいないけど、お母さんはいるんでしょ? 嬉しい? お母さんって呼べて。…お母さんって呼んでたんでしょ?」
「ああ、前の母親と区別してね。前の母親をママって呼んでたから…。」
思い出したように恵理が葉子に向き直った。
「でも葉子、田崎のおじいさんはまだいい返事してないんでしょ?」
「うん。おじさんたち、毎日来てる。熱心…。」
と、葉子は堀川を見た。堀川は異様に後ろめたい感じがした。
「亜雄くんは? あの子すごいお姉さん子だったんじゃない? 葉子ちゃんお母さんみたいだったし…。何も言わない?」
「うん…あの子は、別に…。」
「明後日試験でしょ? …そっか、それどころじゃないっか。」
葉子はガタンと席を立ちあがった。皆が驚いて彼女を見た。
「あの、あ、えっと、あたしおトイレ行って来る。」
「あ、じゃ、あたしものど乾いたから、自動販売機に…」
須美恵が立ち上がろうとした。
「あ、いい、いい、あたしついでに行ってくるから。何がいい?」
「えっと何でも…。」
「皆は?」
「炭酸以外のなら何でも…。」
「みんな一緒でいいよね。分かった行ってくる。」
とてとてと急いで葉子はかけて行った。
 亜雄――あの後どうなったかというと、悲鳴を上げた葉子の所へ叔父夫婦が駆け上がって来た。二人は事情もきかず「葉子はまだ病気なんだから興奮させてはいけない」などと言って、亜雄を外へ連れ出したのだ。それ以来葉子はずっと亜雄をさけている。
「どうしろって言うのよ。一体…。」
 自分が本当は田崎の娘でないことを知って以来、幼い頃から両親がいない亜雄をかわいそうだと思って出来る限り気をかけてきたのは事実である。田崎よう子が七つで亡くなった時、亜雄はもう六つであった。その姉の葬式に出たことを記憶していないのは不自然だし、十の頃、いきなりまた死んだはずの姉が現れるのもおかしい。この不自然さに気付かないわけがないのである。
『でもやっぱり弟は弟じゃないか。』
 葉子の心からはそんな考えがどうしても消せない。消そうとする気も毛頭ないが…
「はぁ――――…」
彼女は深いため息をついた。
 ―――――――――
「何かいまいち気ぃ遣ってるとこない? あいつ…。」
中川が葉子の行ったほうを見ながら、カリカリと頭をかいた。その言葉を聞いて須美恵と恵理は静かに中川をにらむ。中川はおそるおそる振り返った。
「あ、あれ? 何か不穏な空気が…。」
「考え過ぎだよ。中川ちゃん。」
「そうだよ。葉子ちゃん、もともと優しい人だもん。」
「う…。」
責めたてるような二人の態度に言葉なく中川がたじろいだ。会話を聞いていた堀川がつと言葉を発する。
「もともと…というよりも…もともとというよりもむしろ、癖になってるのかもしれない。」
「じゃ、葉子ちゃん、優しくないって言うんですか?」
「いや、確かに優しいんだろうけど…。んーと、つまり彼女にとっては、まわりじゅうが敵なわけだ。」
堀川がボツボツと考えながら言った。三人が顔をしかめて「え?」と言う。
「ちょっ、ちょっと待って堀川さん。話が見えない。」
「うん、ああ、ごめん。つまりだな…敵っていう表現は適切じゃないかな。例えば、君らが社会で生きて行くようになるだろう? そうすると、頭を下げたくなくてもさげなきゃいけない相手っているよな。」
「上司とかのこと?」
「うん、まあそれとか、取引先の相手とか…。でも何で頭下げたくなくても下げなきゃいけないのか。」
「そりゃ…、だってそうしないと、会社とか首になっちゃうじゃない。」
「うん、何で首になるんだ?」
「社会不適応者からじゃない?」
恵理が言う。中川がそれに被いかぶせるようにして続けた。
「だからこういうことでしょ? 悪印象を相手に与えたら、自分の立場や会社の立場が危うくなるって言うんでしょ? 処世術のこと言いたいの?」
「そう、処世術。相手に嫌われたらその世界ではやっていけないからね。」
「それと田崎と何の関係があるのよ。」
「まあ、急ぐなって。だからそういう処世術って普通、気の置けない相手に対して使われるんであって、友達とか、肉親に対しても使われるもんじゃないよな。肉親や友達の世界って、社会でいるほど、気を遣わなくてもいいんだよ。大方自然にやってれば、世界にいずらくなるなんてことはないんだから。ところがもし、ある人物や家族や友人にぐだぐだに疲れるほど気を遣ってるとしたら…。」
「それって葉子のこと?」
恵理が言って、一同が沈黙する。
「じゃあ、田崎はまわりじゅうが敵ってこと? 朝から、晩まで?」
「いや、だからそこまで酷くないにしても、気を休められる場所は少なかっただろうね。あの子の優しさってのは結局護身の道具にしか過ぎない。…と言っても、これはたぶん成美一人が思い込んでるんであって、俺が知っている限りじゃ、いい子だよ、とても…。」
中川が無意識にうなずく。恵理は中川の様子を垣間見ながら言った。
「でも、どうしてそんな風に思い込んだり、…周りじゅうを敵だなんて思ってしまうのかしら。」
「『観察者としての他人』ってのを知ってるからじゃない?」
中川がうつむきかげんでボソボソと言った。突然ムツカシイことを言ったので、須美恵と恵理は驚いて中川を見た。
「女に多いね。あたしは大っ嫌いだけど…。近所のおばちゃんとか、クラスの女子とか。放っておけばいいのに他人のことあれこれと…。でも一番そういう奴、嫌ってたのって、田崎じゃないかな。」
「でも亜雄くんやおじいさんもその…あー『観察者としての他人』に入るわけ? 家族じゃん。何を遠慮なんて…。」
二人の会話を遮るように堀川が口を出した。
「つまりね、普通の人だったら、そんな風に思わないけど、あの子の場合記憶を失ってる。」
皆が「あっ。」と声を上げた。
「そう、つまりその時点で、全てが異世界だったんだよ。自分の立場を強いられて、心の底から記憶喪失の自分の不安を理解してくれないし、まして家庭内の…均衡をとるための秘密だから立場上君たちにも、おじいさんにも亜雄くんにも話せないだろう? 不安な心を安心して置ける場所がなかったんだから、周りじゅう、他人も同然だ。そう、『観察者としての他人』とも言えるかな、いろんな意味で。」
皆の空気が沈黙した。少しして須美恵がカクカクと首を動かす。恵理がソワソワとして周りを見まわした。
「葉子遅いなあ。何やってんだろ?」
「いや、今そこの自販でジュース買ってるよ。」
と、恵理の斜め正面に座っている堀川は恵理の後ろを指差した。恵理は指につられて振り返り、しばらく振り返ったままの格好でぼんやり葉子の姿を見ていた。須美恵も中川も何となくぼんやりしてしまっている。と、思い出したように恵理が向き直った。
「さっきの話、優しさが護身の道具って思い込んでるって、どういうことですか?」
堀川はちょっと苦笑いした。
「きれいすぎるんだよ、心が。みんな変わってしまったけど、あんな所だけ汚れずに残ってるんだ。ちょっとした事でも傷つくし、罪悪感も人より大きいんだ。だから心の中で他人を非難しているのに、表では優しくふるまって…本当はいい子じゃないのに、いい子って言われる。彼女にとってはそんなことでも罪なんだ。俺たちにとっては当たり前のことなんだけどね。」
「うん、葉子はきれいな目をしてる。見られると時々ドキッとするの。目って心の鏡だからね。」
恵理は微笑みながら言った。
「…周りじゅう他人だなんて、何か哀しいね。」
今までろくに口をきかなかった須美恵がポツリという。
「うん。孤独だね。でも一生今の気持ちが続くとは限らないよ。あの子は強い子だしね…。心が解ければ、普通に振舞える日も来るかもしれない。」
 自動販売機から葉子が缶ジュース五つ抱えて陽気にかけてくる。
「おまたせー。何話してたの?」
「おっそいなー、下痢でもしてたんじゃないの?」
「げ…、遠いのよっ、ここからっ。」
「ワシントンクラブまで?」
「そう。」
答えながら葉子がケラケラと笑う。
 葉子は妙に明るい。中川も妙に明るい。何となくはしゃぎたくなる、そんな心持ちのする昼下がり…。
 

 彼女らの行った遊園地は市街なので少し遠かったが、夕方には家についた。葉子は亜雄が受験したにもかかわらず、この4、5日遊びまわっていた。普段の彼女なら、誘われていてもそんなことはしなかっただろう。まして、一週間もすれば、連れ戻されるかもしれないのである。――そう、遊びに来る程度でいいと山本周一は言ったば、向こうに行けば復籍させられるのは目に見えている。それなのに家に留まっていない、ということは…
 窓の外の街頭の明かりだけの薄暗い部屋の中で、葉子は窓辺に立ち尽くしたまま、ぼんやり外を見ていた。その時、静かにドアをノックする音がする。ビクリとしてドアの方に振り返った。
「誰?」
「…オレ、入っていいか?」
 葉子は返事をしない。
「…入るぞ。」
カチャリとドアを開けて亜雄が入ってきた。
「何だ、真っ暗にして。」
「……何?」
平静を装っていた亜雄と葉子の空気が緊張している。
「夕飯ならテーブルの上に置いてあるでしょ?」
「葉…。」
「近づかないで。」
亜雄が一歩踏み出しただけで、葉子は可能な限り窓際に近づいて行った。
「何でだよ…。」
 今二人の間には、微かな光と沈黙しかない。
「何で? 何でだよ…オレ…オレが嫌いなら嫌いで…別にそれでもいいよ…。でも、でも何でそんな避けられ方されなきゃなんねえんだよぉ!」
亜雄の影が握り締めた手を微かに震わせる。葉子は亜雄を見ていられなくて、わずかに視線を落とした。
「別に嫌いってわけじゃないわよ…。」
「じゃ、じゃあ、好きなのか?」
葉子は答えない。わずかに唇を噛んだだけで微動だにしない。
「葉子!」
「…あたしたちは兄弟よね。そうでしょう? あたしはずっとそう思ってた。六年前、おじいちゃんがあたしを連れて来てあんたに言ったわよね。『亜雄、お姉ちゃんが帰ってきたぞ。うれしいだろう?』って。それからあんたしばらくして笑いながら『うん。』って言ったじゃない。」
「そんなこと嘘だって分かってたよ! オレだって死んだ姉ちゃんのこと忘れてなんかなかったんだから。似ても似つかない、葉子が全くの他人だって、分かってたよ。葉子が来た時オレ幾つだよ? 分かんない方がおかしいだろ!」
「―――大声ださないで。」
「ああ、そうだよな。やっぱりあいつの方がいいんだな。あの堀川って奴の方が…」
「なんで堀川さんが関係あるのよ! だいたいね、ずっと小さい頃から両親がいなくって、だからあたしは寂しいだろうから、お姉さんになってあげようと六年前…。」
「ああ、寂しかったよ! おじさん達はオレなんかちっともかまってくれなかったしな! でもあんたは優しかったから…オレ…。でも、弟としてしかオレを見てないって知ってたんだ! だけどいつかそういう時が来て…話したら、ゆっくりでもいい、分かってくれるって思って…、でも、あいつが現れたから…あいつ…堀川って奴。」
「あの人は何も関係ないって言ってるでしょう?」
亜雄が葉子に歩み寄る。
「とぼけるのよせって、言ってるだろう?」
亜雄が葉子につめよる。
「とぼけてなんかないって…。」
目の前にたちはだかる亜雄を…まさに今、六年前よりも成長して葉子の背丈をとっくに追い越している亜雄を、葉子は見上げた。
「違うだろう?」
「違わないわよ!」
「違う! あんた気付いてないのかよ! 違うじゃないか。オレやじいちゃんやら恵理さんとかと、あいつに対する態度とか話し方とか目つきとか全然、違うじゃないか。あいつの方だって…。恵理さんに聞いたよ。あの堀川って奴と葉子と、義理の兄弟なんだって? でも、でも、あいつの葉子を見る目は、兄弟を見る目なんかじゃない絶対に!」
瞬間、葉子の頭の中は真っ白になった。この間からずっと堀川に対して感じていた、『兄』という言葉の不適切さ。初めて会った時から一ヶ月も経つのに彼は「成美」という以外、彼女を身内の人間のように呼ばない。
「葉子…?」
彼女はまるで金縛りにあったかのように目を見開いて、微動だにしない。
「よ…。」
「出てって。…お願いだから、一人にして…。」
亜雄はしばらくその場にたちつくしていた。が、やがてドアに向かい、一度葉子に振り返って、静かに出て行った。
 ドアの閉まる音と共に、ガタガタと葉子が崩れ落ちていった。
 

 そこは霧の中だ。
 混沌とした闇の中でもない。
 薄明かりは感じられるのに、大方周りが何も見えない。前に進もうとしても、何もない。後ろに帰ろうとしても、足跡がみつからない。誰もいない。何もきこえない。
 彼女は幼い姿のまま、泣いている。
 怖いよ…怖い。助けてぇ。もう動けないのに…。連れて行って、一人ぼっちは怖いのよ。誰か…誰か…誰でもいい…。誰か…! 誰か! 誰か!
 …お、…お母さん、助けてよ! お母さん、お母さん、おか……!
 ガバッ!と音を立てて葉子が飛び起きた。ひどく汗をかいている。ついでに気分も悪い。
「いやな夢…。」
何か頭にひっかかる。何だかわからないけれど…。
は――――――――…と葉子はため息をついた。
「夢さえ見なければ、ずっと目が覚めないままでも良かったのに…。」
葉子は無意識に目を閉じて耳を抑える。
 声がきこえる。
 誰かの、声。
 

 ………崎………田崎………田崎………
 田崎…、田崎葉…子? いいえ違うわ。私の、名前は…は…
「田崎! 何回呼ばせんのよ! 田崎!」
はっとなって葉子は気がついた。
「あ、ごめん、ぼーとしてて。」
「まったく、今日何も約束なかったはずなのに、いきなり来るから…どうしたのよ一体。」
「ごめん、迷惑だった?」
「怒るよ、あたし。」
中川の言葉を聞いて微かに安堵の色を見せて、葉子は再び沈黙した。
「ま、いいけどね。家にいずらくなったか何か…。あ、そういえば今日亜雄君の試験があるんだっけ? あの子の試験があるから発表まで出歩くのやめるって言ってたのに、いいの? こんなとこにいて。」
「ん、うん。いいの。」
 笑顔を作ろうとした顔が微妙にひきつっている。今の言葉を言うのに少し葉子は緊張していた。葉子の様子がおかしいような気がするが、何となくそれを言えない雰囲気であった。
「ほ、堀川さんが今日いればよかったんだけど…。」
ビクッとなって、また葉子の周りの空気が張り詰めた。今度は中川もびっくりした。
「あ、あたしお茶でも入れてくる。待ってて。」
「あ、いいのに。」
葉子の言葉も聞き入れず、中川が出て行った。実際葉子は堀川に会いに来たのだが、別に何もどうしようというわけでもなかった。…亜雄の言った事を確かめたかっただけなのかもしれない…確かめてどうしようというのだろうか? 会った所でどうしようもないのだ。正直、堀川がでかけているときいて、葉子はほっとしたのだ。手持ち無沙汰で部屋の中を見回していると、中川の勉強机の片隅にある写真に気がついた。葉子はギクッとして、それからじっと写真をみつめた。
 これは…。
 中川がカチャカチャと音を立てて来るのにも気付かず、ドアを開けられて、慌てて後ろを振り返った。
 驚かれた中川自身、驚いてしまった。
「何?」
「あ、写真見てて…。」
「あ、びっくりした? それ。あんたそっくりだもんね。お母さんだって、亡くなった方の。でも実際これ見せてもらってから、あの人の言ってた事が本当なんだって、納得したもん。」
「うん…。」
さっきまで葉子が前にすわっていた机の上に、運んできたカップを並べると、ついと葉子の方にやってきて、写真を手に取った。
「田崎よりもちょっとほっそりしてるけどね。」
「うん…。」
 違う、これは…この間見せてもらったのとは…。どうして? お母さんの写真は幾つも持ち歩いてるのに、どうしてあたしの子供の頃の写真なんかは一枚もないの? それとも、持ってきていて見せてないだけ…?
「帰る。」
「え?」
「帰るわ、あたし。」
葉子は提げて来たカバンをついと取ると、ドアの方へ歩きだした。
「ちょっ、ちょっと田崎…!」
 中川は葉子の腕をつかんだ。葉子はひどく虚ろな目をしている。
 様子が変だ。
 中川の真剣そうな目に気がついた葉子は、にっこりと微笑んだ。
「大丈夫よ、中川ちゃん。前みたいなことしないから。ちょっとし…考えたいことがあるの。ごめんね、せっかくお茶入れてくれたのに。」
 心配です、と、モロに中川の顔に書いてある。クスッと葉子は笑った。
「なんならついて来る? うちまで。」
 何となくほっとして、中川は手を離した。
「またね…。」
「うん。」
 静かに、葉子は出て行った。
 「おじゃましました。」と言って葉子が中川の家を出る。門を抜ける。小道を離れ、国道に出た。
 ボロボロと葉子の頬を涙がこぼれる。
 落ちて行く。
 今日は晴れていて、雨など降っていない。…悲しいほどに、いい天気。ただ少しばかりの暖かい風が、歩く彼女の頬をかすめて涙と共に吹き抜ける。
 何が悲しいのかよくわからない。でも、胸を閉め付けられるように、苦しいのだ。

 その日の夕方になって慌てて堀川が訪ねてきた。
「おじいさんは?」
「今出てるけど…?」
「おと…亜雄君は?」
「いますけど…何ですか?」
ふ―――…と、堀川は門にもたれかかって大きくため息をついた。
「どうしたんですか? 一体…。」
「いや、その、様子がおかしかったって聞いて…。」
「それで慌ててやって来たんですか?」
「あ、まあ…。何か思い出したのかと…。あー。俺っていっつも似たようなこと言ってるな。」
堀川は情けなさそうに頭を抱え込んだ。葉子はにっこりと微笑む。
「大丈夫です。何もありません。」
「…うん。」
落ち着いた様子の彼女を見て、堀川はほっとした。
「それだけのために来たんですか?」
「ん、いや…。叔父から連絡があって、はっきりと二十二日、こっちに来るって。」
「そ…ですか。でもおじいちゃんはまだ…。」
「ああ、で、今おじさんとこ行って来たんだけど…、戸籍上、向こうが親になっているから…あの人達はもう承知してるからいいんだ。だから一番気にかかるのはおじいさんの…気持ちなんだな。もういざとなったら無理矢理ってことになるかもしれない。」
「……あたしが何とかします。その日までに。」
「え? でも…。」
「何とかします。何でおじいちゃんが他人のあたしにアレだけ執着してるのか分からないけど…。」
堀川はじっと葉子を見ていた。
「どうかしたんですか?」
「ん…いや。」
「それじゃあそういうことで…そろそろ帰った方がいいですよ。おじいちゃんももう帰る頃だし。」
「うん…。」
堀川はちょっと葉子を見てポンポンと頭をたたいた。
「がんばれよ。」
「なっ…。」
葉子はびっくりして退こうとしたが、ふいに止めた。
 ボロボロと涙が落ちてきた。
「わー、どうしたんだーっ、」
堀川はびっくりしたが、一番驚いたのは葉子だった。真っ赤になって泣いている。
「あれ、どうしたんだろ。今日は…。」と言いながら、涙を手でぬぐった。「涙腺が変…。」
「いいよ、泣きたいんだったら泣いてても。無理は体によくない。」
葉子は泣きながら吹き出した。大急ぎで手で涙を拭いきってしまった。
「大丈夫ですよ、ホントに。」
葉子がにっこりと笑った。
 ビッと突然堀川の乗ってきた車のクラクションがなった。
「誰か一緒なの?」
「うん。中川がね…。ああ、兄貴の方。行くっていったら何か突然乗りこんできたんだ。」
「神出鬼没の人だから。」
「うん。ああ、じゃあ、もう…。」
「ええ、大丈夫ですよ。もう帰っても。また今度。」
葉子は「さようなら。」と左手を上げた。
「うん。じゃあな。」
 堀川は車の方へ去って行く。車に乗る前にもう一度葉子に振り返って手を振った。葉子もそれを返す。出て行く車を葉子はじっと見送った。
 

「何だよ、急に。」
堀川は助手席の中川成光に話しかけた。
「いや、だからアレさ。」
「何だ?」
「堀川、お前起こってる?」
「怒ってないっ、」
堀川はきっぱりと言った。
「いや…さ、何か失恋の場面みたいだったから。」
「何が?」
「お前と葉子ちゃん。」
堀川はギギギ―――と急ブレーキをかけた。
「何だ何だ?」
成光は慌ててキョロキョロとした。
「信号が赤だ。」
「もっと丁寧に止まれっ!」
「お前がアホなこと言うからだ。」
「アホぉ? 見えたから見えたって行ったんじゃねえか。…なあ、堀川、葉子ちゃんは妹っつっても血はつながってないんだぞ。」
「それがどうした。」
「惚れるなよ。」
「惚れるも何も…妹じゃないか。
「でも、血が…。」
「お前だな、千里ちゃんの部屋から漫画持ってくの。この前俺が疑われたんだぞ。」
「な…何で知って…。いや、俺まじめな話してんの。」
「血がつながってなくても妹じゃないか。」
堀川は「何でそんなこと聞くんだ、バカバカしい」といった顔で答えた。
 妹なんだから…家族なんだから…。
 そして葉子は何かを彼に求めている。何かを…。
 その何かは彼女自身にもよくわからないのだ。突然流した涙の理由のように…。
 

 次の日、叔父夫婦がやって来た。以前のように毎日来るわけではないが、いいかげん老人もうんざりしていた。
「いいかげんにしろ! もう来るな!」
そう言って蹴散らす様に追い返してしまった。
「おじいちゃん。」
廊下で、後ろから声をかけたのは葉子だった。
「何じゃ、葉子。どうした?」
葉子はじっと祖父をみつめた。
「今度のね、二十二日、あたし…堀川さんちに、帰るね。」
祖父は思わず絶句した。
「な…ん、何を、言う…んじゃ。叔父さんたちのことか? ああ、あんなのは気にせんでいい。気にせんで。」
老人が無理に平静を取り繕おうとしているのが分かる。何となく酷な話かもしれない、と葉子は思った。人の気持ちなんて、お金で買えるものじゃないんだから…。
「今まで、ありがとうね、おじいちゃん。見ず知らずのあたしにこんなに親切にしてくれて…。」
「い、いかん。何言ってるんだ葉子! ゆ、許さんぞ、わしは! 勝手なことを言いおって…。」
「でも、向こうの人は無理にでもあたしを連れて帰るわよ。」
「ばか者! わしは…わしはなぁ、お前の死んだ両親に約束したんだ。お前を必ず幸せにするってな。進学も就職も、結婚も、お前の自由にしていいとずっと言ってきただろう? だのに、何で、何で…。」
「おじいちゃん、もうやめよう。それは死んだようこのためにしてあげたかったことでしょう? 他人のあたし連れてきて、一番しんどい思いしてるのは、おじいちゃんじゃない。」
「ち…ちが…何を言うか、」
老人はガクガクと震えている。見ていられない。
 でも、今どうにかしなきゃいけないんだ…!
「あたしもね、ずっとしんどかったのよ。中途半端な、とってつけたような今の立場。堀川さんが来なかったら、このままでもいいと思ってた。でも、もう、知っちゃったから、このままにはしておけないの。あたしがこれから生きていくためにも、自分が何者なのか確かめなきゃ…。あたし、堀川さんの所に行きたいの…。」
老人はガクガクと倒れ落ちた。
「おじいちゃん!」
葉子はしゃがんで祖父を揺すった。意識はしっかりしている。
「今まで…。」老人の目から涙がこぼれる。「今までわしは何をしとったんじゃ…。なあ、葉子、わしはそんなに悪いことをしたんか? なあ…。」
老人は震えている。葉子はなるべく自分の心を落ち着けようと努力した。息をすってはいて…
「おじいちゃん、あたし『ありがとう。』って言ったわ。感謝してなきゃ言えない言葉でしょう? ねえ、これで終わりになるんじゃないでしょ? ねえ、しっかりしてよ。あたし、おじいちゃんが好きよ。ね…。」
老人は自分の半身を起き上がらせた。壁に背中をもたれさせて、恐る恐る葉子を見た。
「もう、決めたんだな?」
「…うん。」
 老人のしわは初めて会った日の彼を思い出させる。いや、あの頃よりも、ずっとふけてしまった。彼女は決して、老人を捨てるとかそんな風には思ってないのだ。ただ、未来にむかって前向きに生きてみようと、六年目にして初めて、霧の出口を探し始めたのだ。自分の手で…。意志を持って、自分の力で自分の立場を手に入れるために…。
 きしっと後ろの廊下できしむ音がする。葉子は振り返った。
「亜雄…。」
泣き顔ではないのだ。怒っているのかもしれない。亜雄はそのまま何も言わずに階段をかけあがってしまった。老人は亜雄の姿を見送ると、すわり直して廊下にあぐらをかいた。ここから庭の景色がよく見える。
「おじいちゃん…。」
葉子は祖父の横顔を見つめた。しばらくの沈黙の後、老人は震える声で葉子に言った。
「勝手にせい…。」
言葉と同時に彼女は歯を食いしばった。自分は泣いてはいけない、思ったのだ。泣いたら引きとめられてしまうだろう。だから、泣いてはいけない。ここを出る時も、「またね。」って言って出てかなきゃいけないんだ。亜雄も…亜雄だって、時間がたてば自分に対する…あれはきっと恋じゃない。だから、あんなひたむきな情熱も、冷めてしまうだろう。きっと…。
 葉子は自分がいなくなったらきっと、今でさえ広いこの家は、もっと広く感じるんだろう、などと思いながら、老人と並んだ廊下でぼんやりと天井を眺めた。
 

 二十二日、一台の車が、葉子たちの所に向かっていた。山本周一と、堀川圭吾の母親の、堀川晶子の二人を乗せた車である。
「……どうしたんですか? さっきから黙りこくって。」
晶子は答えない。
「…そんなことでは、向こうについた時成美が変に思いますよ。」
「…あなたは何も感じないのね。」
「何をですか? 何を感じるんですか? …今更、八年以上もたって、今更何を感じるんです。罪悪感ですか? あなたらしくもない感傷だ。」
「…私は思ったのよ。あの日、堀川が死んだときかされて、これは天罰だと…。私がこれまで犯して来た罪のせいだと…。」
「だから成美に会うのが怖くなったというわけですか? あの女にそっくりに成長した成美に会うのが…。」
「…そうかもしれないわ。」
「成美が行方不明になる前のあなたたちの親子仲は、あまりよくなかったらしいですね。表面ばかりを取り繕って…。大人の世界を強要するには成美は幼すぎた。精神的に病気になって、母親の実家に預けられることになった。そうしたら、あの事故が起こったんですね。雪山の…。」
「やめて…もう、やめてちょうだい…。」
晶子は声を絞り出すように言った。周一は不敵に笑う。
「まあ、いいでしょう。でもね、お姉さん、終わってしまった事をいつまでも気に病んでも仕方のないことですよ。苦しんで、堀川氏が生き返るわけでもあるましし…。」
そしてそれから又、晶子は黙り込んでしまった。
 

「もうついてもいい頃なんだけどなあ。」
堀川は時計を見た。葉子の家から少し行った別れ道に車を停めて、堀川圭吾と葉子と、中川、恵理、寿美恵はじっと立ち尽くして車が来るのを待っていた。
「もう、堀川さんは帰ってこないんですか?」
恵理がきいた。
「いや、まだ二人で遊びにこさせてもらうよ。春休み中にもう何回か来なければいけないし。」
田崎の家の方ばかりを見ていた寿美恵は、思い出したように口を開いた。
「ねえ、葉子ちゃん。おじいさん何で見送りに来ないのかしら?」
「うん…。」
葉子も家の方に振り返った。
「でもあたしわかるような気もする。送りに来ないんじゃなくて、来れないのよ。」
多分、堀川にも葉子にも、老人にも、わりきれない思いがあるのだ。老人は今何をしているのだろう。ぼんやり、あの庭を眺めているのだろうか?
「亜雄くんは?」
「さあ、ここ二、三日、顔見せてないのよ、あの子。」
「学校受かったんでしょう?」
「うん…。」
こういう別れの場面は嫌い。先に進むことで過去のすべてを置き去りにするようで…。
 二、三日ろくに姿を見せなかった亜雄は、亜雄は家の門先まで来ていた。ただし、見送りに来ているのではない。手には、祖父の猟銃を抱えて、追い詰められたような顔をしているのだ。
「渡すもんか…あいつなんかに…。」
堀川が前方から来た車に気付く。
「あ、来たみたいだ。」
その言葉にみんな無言で近づく車の動きを見ていた。堀川の車の前に停まると、最初におじさんが、それから女性が一人、降り立った。
 その時だった。突然亜雄が、猟銃を抱えて飛び出して来たのだ!
「ほりかわあああああああああっ!」
その声に驚いて皆が彼の方に振り返った。
「亜雄!」
あまりにも突然のことだった。確実に動きをとらえていたのは、亜雄の標的の堀川の、母親である晶子だけであった。
「圭吾――――――――――っ!」
晶子が駆け出す。猟銃は発射された。弾は、弾は…かばう晶子の頭を貫いた。
 そこにいたすべての者は、目の前で何が起ころうとしているのか、何が起こったのか、理解できなかった。
―――多分、亜雄自身も―――
 晶子はゆっくりと倒れて行く。
『私は思ったのよ。あの日、堀川が死んだときかされて、これは天罰だと…。私がそれまで犯して来た、罪のせいだと…。』
―――運命の構図だ。罪が誘発させた、これは罰。