あとがき

 このあとがきを書いているのは二〇〇〇年八月です。「霧中」本編を高校の文芸部誌で脱稿したのは一九八八年の十一月だったはずですから、もう十二年の月日がたとうとしています。元の脱稿時に書いた「あとがき」も実際には存在するのですが、掲載誌の性格上、学校の判別がつくような個人的な内容も含まれておりますし、当時を振り返るという意味からも、今回改めて十二年後の今日の「あとがき」を記させていただきます。
 当時、とにかく時間がありませんでした。
 学生として忙しい、ということもあったんですが、「卒業までに書く」というタイムリミットがあったために、余計に時間がありませんでした。「卒業までに書かなければならない」という法律が別にあったわけではないんですが、そこは学生ですし、やはり一つのものを仕上げたい、という気持ちもあったんでしょうね。さらに、幸か不幸か、毎回連載に続稿を待っている人が何人かいたもんで、どうしても書き上げねばならない、という気持ちがあった。それが「卒業まで」というタイムリミット、となったわけです。
 で、「霧中」の連載自体が始まったのが、高校二年生の新入生歓迎号から、正確に言うと、高校一年の終わりからでした。ですから、二年以内に無理矢理にでも終わらせなければいけないということが最初からわかってスタートしました。部誌が発行される予定は、多く見積もって、春(正確には初夏)、文化祭、秋(正確には初冬)、新入生歓迎号、春、文化祭、秋、卒業記念号、計八回でした。実際には二年生の秋号は発行されておりません。原稿がなくて発行されなかった(それは私)、という確かそういう理由だったと思います。
 しかも四人の部員全員が書かないと体裁が悪い。で、一人の持ち枚数が確かB5で十枚、それを切ると貧相になり、あまり越えるとホッチキスが止まらない、ということで、この枚数はなるべく厳守、ということだったと思います。
 最初は手書きでしたね。ワープロがまだ高価な時代でしたから。
 で、清書がわりにワープロを使うようになったのが、その年の文化祭号からだったと思います。
 当時はノートパソコンなんて夢にも思わないし、ワープロも持ち歩きはできませんから、下書きはもちろん手で書いていました。原稿用紙では重いです。しかもお金がかかります。で、持ち歩けて安いもの、ということで、ルーズリーフを利用してました。人によって字の大きさが違うのですが、私の場合、片面で原稿用紙相当枚数二枚半、両面で五枚という計算で書いていました。
 で、時間がないのは、卒業までに時間がない、というのとあわせて、締め切りまでに時間がない、というのもありましたが、とりあえず本当に時間がかかるにもかかわらず、無情にも締め切りはやってくる。原稿用紙換算枚数トータルで二百枚ばかし、残された時間は二年、どうしてそんなに時間がなかったかというに、登場人物が何考えてるかよくわからない、というのがまず一点、さらにせっかく答えが出ても、それだけの枚数を費やせないというのがもう一点でした。
 今なら魔法のように出てくる登場人物の心理、当時はすごく時間かけて「考えていた」んです。ストーリーが出来ているからといって、ではなぜ登場人物はそう動くのか、逆にいうと、そこまでストーリーを動かして行くのに、登場人物にどう考えさせればいいのか、それがちゃっちゃと出てこない。人は動くとき、いつも何某かの理由がある、小説の世界では理由がないことすら理由になる、その登場人物たちの心理の膨大な組み合わせの中でストーリーは進んで行く、ということを、この時初めて知りました。で、しかも主人公は記憶喪失という、心理面に大きく関わる上に、悪いことに人物たちはみんな自分と似通った年齢で、どうも客観的に見にくく、「何となくはわかるんだけど、どう表現していいかわからない」というのがあって、書きずらい。
 当時この問題をクリアするために、友人たちに何気なく会話の中に問題提起して、取材をするということもよくやりました。「自分は一体何のために生きているのか」とか他者の目とか。そういう話にきちんとのってくれる友人連がいただけ私は恵まれていたんですが、回答のない答えもかなりあって、「この年頃のこの問いに対する正解は解答がない、というのが正解」と結論づけたものもありました。今から考えるとそういう内容って大人になっても「回答がでない」がほとんどなんですね。
 で、やっと登場人物が何考えてるかわかってきても、展開上それをすべて書くわけにもいかないし、また丁寧に書くには枚数も全然足りない。そこで何を入れて何を抜いていいか選択しなければいけないのだけど、そこの基準がまたわからない。
 ということで、確か私の原稿が上がらなくて大事な残り少ない部誌が出せなかったということがありました。ストーリーは中盤にさしかかる前だったと思います。
 で、その頃「どう考えてもこれは終わらんで」と残された発行誌の数と、残された内容を見て思ったのですが、「よし、解決しないところは卒業して続編を書こう!」ということで、進めることになっちゃいました。だから、本編中で書ききれなかった亜雄や、成美の母親堀川涼子を殺害するに至るまでの山本周一の背景など、解決できていないサスペンス部分なども全部、割愛で、続きがスタートしたんです。結局その続編は今日に至るまで書いていません。
 枚数が足りない分は、行間を詰めて字を小さくして、一枚に入れる字数を増やすなど姑息な手を使っておりましたが、ラストの方は結局十枚を越していました。
 そう、大難産だったんです、「霧中」は。そこから学んだものは膨大なものがありますけれど。
 
 お金をもらって書くわけでもなければ、自分たちでお金を出して本を出していたわけでもない。評価といっても身近な友達の声がきけるぐらいでした。ただそこにあったのは、あったのは―――なんなんでしょうね。私の場合は始めてしまった責任感というのがあったのですが、途中でないがしろにするには書くうちに書く人間としてのプライドみたいなものも生まれてきましたし、大難産だったんですけど、「魂の充実した苦痛」というのは苦痛のうちに入らない、返ってその分得るものもあって楽しいくらいでしたから、本当に純粋に、書くと言うことに向き合えたと思います。その分、葉子の苦痛なんかを惜しみなく書いて、これは読む読者にも本当に「痛い」作品だったし、今もそうなのではないかと思います。
 私がこの「霧中」を書いた後、どういう展開をたどったかというと、大勢の方はご存知だと思います。
 本来私はストーリー重視の話を作る人間でしたが、ストーリーの何を一番重視していたかと言うと、「面白さ」を重視していました。初めてこの長編を書き、ラストを書き上げた後、「これじゃあ、いかんな。」と思ったわけです。「霧中」を書く上でのテーマの一つに「『運命のいたずら』を創る」というのがあったのですが、いくら運命のいたずらでも、ここまで重なることがあるはずがない。不自然だ、と。
 でもやっぱり「面白ければいいじゃないか」と思ってましたし、実際書き上げた後、読者の皆様にも好評だったのですが、心のどこかで何か「納得がいかない」。自分で作る世界だから、現実に則さなければいけない「決まり」はないのですが、何か「違う」と思ってしまう。第一、うそ臭くないか、と思ってしまい、思ってしまった瞬間から、「面白いけれど」と「けれど」がついてしまう。結局それって失敗じゃないの? と思ってしまったところから、すべてが狂いはじめたのだと思います。
 この「霧中」以降の作品で、私がそれから始めたのは、そうした「どこまで書けば、どういうふうに書けば、現実と照らし合わせて嘘くさくなく書けるか」というライン探しでしたが、それはつまるところ、「今までの自分をどこまで修正するか」ということとつながるところがあり、精神もゆらぐし、基準が全くつかめなくなってくるし、結果として「どう書いていけばわからない」と、筆を折ることになってしまったわけです。
 小学校からずっと、そのために続けてきたことなので、言うなれば目や足を亡くしたスプリンター、声をなくした歌姫といった心境でしょうか。当時を振り返ると自分でも精神的に変でした。拠り所がない、といった感じで。
 それが研究の方面に走って、「書く」という行為を外から見たために、ある程度頭が整理され、「あ、書けそうだ」と思って書いた作品が、「箱の中」だったわけです。
 
 その筆を折った時に、「霧中」の原稿が入ったフロッピーは初期化してしまい、以降、読み返すことはありませんでした。今回ホームページ掲載にいたって、紙の原稿が残っていたのはたいへんありがたいことだと思います。それでも文芸部誌、その後書き足してまとめた個人誌はどちらも完全稿ではみつからず、つぎはぎの形での掲載となってしまいました。
 紙に書かれたものをパソコンにうちこみながら、私も読者のみなさんと同じように毎月この「霧中」をたどってきました。最終回を読み返したのは、何年ぶりでしょう。私は恵理のモノローグがあることさえ忘れていました。
 今見ると、当時思ったほどはひどくありません。生きるために総てを閉じてしまった葉子と、生きるためにつらい記憶をすべて消してしまった亜雄の、続編であった復活劇を書けなかったことが非常に残念とさえ思えます。
 読み返しながら、一度は否定されてしまったこのストーリーは、高校時代を思い返す呼吸が伝わってくるものでしたし、たぶんそこには、私だけでなく、私の周囲の人たちの呼吸も混じっていることと思います。いっぱい笑って、たくさん怒って、バカみたいに夢中になりながら、媚びない自由な勢いが、作品の中に生きているのではないでしょうか。
 高校時代、勉強は全然しなかったけど、確かに楽しかったです。私本人はかなり遅くまで大学に進学する意志がほとんどなかったので、これで最後と満喫しようとした分、余計楽しんだかもしれません。結果としてこういう形あるものが残せたことは、本当にラッキーだったと今では思います。
 堀川成美というペンネームをつけた時は、初心忘れるべからずなどと言いながら、実際のところ初心がどういうものだったか忘れていたし、この名前一生懸命考えたのに使わなかったのはもったいないから使うとか、ナルちゃんのナルはナルシストのナル~などといつものおふざけをしていたのですが、今は堀川成美と、あの頃の私に、敬意を表したいと思います。
 
 最後に、このつたない作品を最後まで読んでくれたあなたにありがとうを。
 ドアを開けて、高校生のあなたに出会えましたか?
 


平成十二年八月三十一日
堀川成美記す

(諸事情により2016年現在咲花圭良に改名しています)