第八章

 晶子は元来、気性の激しい方だった。堀川涼子も多分そういう面はあったろうが、それをあまり面に出さない人でもあった。
 さて、その頃の晶子と言えば、夫と離婚して間もない頃で――そして彼女は新しい何かを求めていた。後から振り返ったなら、本当に後悔するほど、くだらないことだったかもしれない。そんなことすらも、冷静に考えられない彼女でもあったのだが。
 彼女は今涼子を脅している。本来なら反対の立場かもしれないが、堀川寿樹の妻の涼子に、寿樹と別れてくれと、脅しているのである。もちろん口調は「お願いしている」ものなのだが、彼女は涼子の娘の成美を人質にとっているので、完全な「脅迫」なのである。
「成美をどこへやったの?」
自分をじっと見る涼子の顔を見ながら、晶子はクスクスと笑う。
「…あなた、正気?」
ふと、晶子が笑うのを止めた。
「もちろん。…私はね、涼子さん、あなたなんて大嫌いなのよ。あなたみたいに恵まれすぎた人なんか…。」
「私が? 何言って…。私のことなんてどうでもいいわ。成美をどこへやったの! …あの子の身に何かあったら…。」
「…大丈夫よ。薬がきいてて、明日の朝まで起きないわ。」
「信じられないわ。」
「あの子には何もしないわ。あの子に何かすれば、不利になるのは私ですもの。」
 二人は沈黙した。涼子は少しだけ安堵する。
 涼子は今ソファの上に手足を縛られてすわっている。晶子はそんな涼子を見下ろす形で猟銃をかまえていた。成美を連れてきたのも、涼子を縛りあげたのも、もちろん晶子ではなく、実家山本の家の部下がやったものだ。
「おとなしく、言うことを聞いた方が利口じゃないの? うん、と言わなければ、明日の朝は海の底よ。」
涼子は背中を汗が伝うのを感じた。
「私もいいかげんね」晶子は続ける。「社長と秘書との隠れた関係なんてやめにしたいのよ。…それに、私の実家と堀川が手を組めば、山本の家にも都合がいいってものよ。」
涼子はうつむいたまま首を振る。
「だから私は、お義父さまに、山本なんて男とは早く縁を切った方がいいって…。」
「そうよ。だからあなた邪魔なの。」
ぎっと涼子が晶子をにらみつける。その視線に晶子はたじろいだ。
「お、お…怖。気の強いこと。堀川の家も今は半分以上、あなたが取り仕切っているそうね。普段は淑女面しているくせに、本性は…。」
「あなた本当に堀川と…。」
「そうよ。そしてあたしが欲しいのは堀川だけじゃないわ。あなたの持っているもの…すべて。」
 この女――――――――――!
 

「あとは俺の…母親が再婚する前の家族の家庭の状態ってのが、あんまり良い環境じゃなくってね、母親は母親で仕事を持っていてめったに家にいることなんてなかったし、父親は父親で仕事仕事。三人そろって夕飯を食べるなんてめったになかったんだ。そんな中で、両親が不仲になるのは当然と言えば当然だったな。俺が十歳くらいの時に、離婚した。」
「じゃあ、あなたの本当のお父さんって生きてるの?」
「ああ、もちろん今でも元気に仕事してるよ。」
「ふうん。」
堀川圭吾と葉子はバス停についた。しかしまだバスは来ない。時間がある。
「それで二年後にき…妹の父親と再婚したんだ。新しい父親も忙しい人だったけど優しい人で、母親も仕事をやめて家にいるようになったんだ。」
「何で再婚したくらいでお母さん仕事やめちゃったの。」
「堀川家っていうのが結構大きな会社を幾つも経営していてね、その総帥たる人は妹の祖父なんだよ。そんな家で勤めに出る方がおかしいじゃないか。…まあ、以前勤めていたのは、親父が仕事仕事っていって、めったに家にいなかったせいもあるな。」
 

 その日も雪だった。まだ三つと二つの子供達。まわり中から反対され、海外へと駆け落ちしていった息子夫婦のかたみ。一ヶ月前女の消息がつかめ、子供共々戻って来いと、帰りの旅費と一緒に手紙を送った。息子は一年前既に亡くなり、異国の土の下で眠っている。
 前日の夕方、船が着くはずの港へ迎えに出た。当日の朝早くそこで会ったのは、かわいい二人の孫と、船の中で息をひきとった二人の母親。―――過労死。
 港のそばの病院のベッドの上で、白い布を小さく細い全身にかけられて横たわっている女が一人。ベッドの脇には子供が二人。――布をめくる。母親の、青白く、頬のこけた顔。だけどどうしてこんなにも、と思うほど、幸福そうな顔をしている。どうして、どうしてこんなにも――――
 その時老人は何を思ったのだろう―――――――?
 

「つまりね、普通の人だったら、そんな風に思わないけど、あの子の場合記憶を失ってる。」
皆が「あっ。」と声を上げた。
「そう、つまりその時点で、全てが異世界だったんだよ。自分の立場を強いられて、心の底から記憶喪失の自分の不安を理解してくれないし、まして家庭内の…均衡をとるための秘密だから立場上君たちにも、おじいさんにも亜雄くんにも話せないだろう? 不安な心を安心して置ける場所がなかったんだから、周りじゅう、他人も同然だ。そう、『観察者としての他人』とも言えるかな、いろんな意味で。」
 ステナイデクダサイ。
 私という存在があるということを、忘れないでください。私はドウケシの姿で、あなたを笑わせましょう。
 キラワナイデクダサイ。
 一人遺されるのは、もういやなのです。そのためならどんなことだってします。気をつけます。あなたの機嫌を損ねないよう、あなたがほんの小さな言葉で傷つかないよう。
 だからお願いです。私をココに残さないで――。
「さっきの話、優しさが護身の道具って思い込んでるって、どういうことですか?」
堀川はちょっと苦笑いした。
「きれいすぎるんだよ、心が。みんな変わってしまったけど、あんな所だけ汚れずに残ってるんだ。ちょっとした事でも傷つくし、罪悪感も人より大きいんだ。だから心の中で他人を非難しているのに、表では優しくふるまって…本当はいい子じゃないのに、いい子って言われる。彼女にとってはそんなことでも罪なんだ。俺たちにとっては当たり前のことなんだけどね。」
 チョウのギタイ。
 でもあまり長くやっているとそれが板についちゃって、本物と偽物の区別がつかなくなってくるんだ。美しい姿は護身のため? 本当に?
 でも、何もウソをついているからって、その美しい姿までもが偽物だなんて思っちゃいけないよ。確かにギタイも必要だったこともある。だけどよく考えてごらんよ。転んだことのない人間に、その痛みはわからないんだよ。他人の言葉の端々、細かな態度に傷ついて――だから君は傷を受ける他人の気持ちも察してあげることが出来るんだ。
 哀しいね。
 その無垢な魂は、どれだけ傷つけられたことだろう。もうそろそろ羽根を休めなきゃいけない。「安心してお休み」って言って、護ってくれる人がいなきゃ。お母さんはどこへ言った。あの無償の愛はどこへ…。
 八つの魂は無垢のまま、まだあの霧の中をさまよっているのだろうか?
 

「成美、入るぞ。」
寿樹が部屋のドアを開けた。
「どうしたんだ。明かりもつけないで。」
カチンと部屋の電気をつける。成美のそばに行って腰を降ろした。
「どうしたんだ、こんな所にうずくまって。…ずっと部屋に閉じこもりきりだったそうじゃないか。」
「……」
「成美。」
ふう、と寿樹はため息をついた。
「ほら、来なさい。みんなが心配するだろう。お母さんだって…。」
「あの人嫌い。ママの方がいい。ママに会いたいよ。」
成美がうつむいて鼻をすすり、目をこする。最近ではいつものことだが、寿樹はやはり困ってしまう。
「成美、おばあちゃんの所へ行くか?」
成美は顔を上げて寿樹を見た。
「え?」
「おばあちゃん。ママのお母さんの所だ。五年生の三学期の途中だけど…。寒い所だが、いい所だぞ。ん?」
「おばあちゃん。」
「そうだ。パパは一緒にいられないけど、おばあちゃんの家まで送って行ってあげよう。パパもお兄ちゃんもしょっちゅう遊びに行ってあげられるし、むこうには真澄くんっていういとこもいる。年が近いから、いい遊び友達になれるぞ。」
うつむいて成美は黙り込む。
「どうだ?」
「うん。」
「よし。じゃあ連絡してあげよう。とにかく今は降りて来なさい。皆待ってるから。」
「…パパ。」
立ち上がって行こうとする父親を成美は呼びとめた。
「寒い所? 雪いっぱいある?」
「ああ。」
「温泉は?」
「…そういえばあったかな。」
成美の顔がパッと明るくなった。
「じゃあ二人で『温泉めぐり』しながら行こうよ! 同じクラスの田中さんが冬休み家族で『温泉めぐり』に行ったんだって。観光バスで行くんだよ。車でバ――――ていくなんてつまんないもん。ねえ!」
成美のはしゃぐ姿に彼は思わず肯いた。
「よし、そうしよう。」
 嬉しそうに笑う成美。
 これでおばあちゃんの家に着くまで、パパと一緒にいられるね。
 

「今まで、ありがとうね、おじいちゃん。見ず知らずのあたしにこんなに親切にしてくれて…。」
「い、いかん。何言ってるんだ葉子! ゆ、許さんぞ、わしは! 勝手なことを言いおって…。」
「でも、向こうの人は無理にでもあたしを連れて帰るわよ。」
「ばか者! わしは…わしはなぁ、お前の死んだ両親に約束したんだ。お前を必ず幸せにするってな。進学も就職も、結婚も、お前の自由にしていいとずっと言ってきただろう? だのに、何で、何で…。」
「おじいちゃん、もうやめよう。それは死んだようこのためにしてあげたかったことでしょう? 他人のあたし連れてきて、一番しんどい思いしてるのは、おじいちゃんじゃない。」
「ち…ちが…何を言うか、」
老人はガクガクと震えている。見ていられない。
 でも、今どうにかしなきゃいけないんだ…!
「あたしもね、ずっとしんどかったのよ。中途半端な、とってつけたような今の立場。堀川さんが来なかったら、このままでもいいと思ってた。でも、もう、知っちゃったから、このままにはしておけないの。あたしがこれから生きていくためにも、自分が何者なのか確かめなきゃ…。あたし、堀川さんの所に行きたいの…。」
 

 青草の広場を取り囲んだ樹木が歩道まで枝をのばしている。その枝は見事に生い茂って歩道の上に大きな影を落としていた。
「お兄ちゃーん。待ってよ待って。」
後ろから成美が一生懸命かけてくる。詰襟学生服を着た後ろ姿が振り返る。新しく兄弟になってから、まだ一ヶ月しかたっていない。二人とも兄弟が出来て嬉しい。
「お兄ちゃん。はあはあ…早くって。」
「なんだ、そんなに急がなくてもいいのに…。」
「一緒に帰ろうと思って。は―――――――。」
成美が大きなため息をついた。圭吾は成美と並んで歩く。
「お兄ちゃん、今度の日曜ね、みんなで遊園地行こうって。お兄ちゃんとお母さんとお父さんと四人で。ね、行こうよ。」
「遊園地かあ。小学校の遠足以来だな。」
「あたしもだよ。みんなで外にでかけたのは幼稚園までだもん。」
「そうか。行きたいな。今度の日曜。」
「うん。お父さん、めったに休み取れないしね。楽しみだなぁ。」
 楽しみだなぁ…。
 

「おじゃましました。」と言って葉子が中川の家を出る。門を抜ける。小道を離れ、国道に出た。ボロボロと葉子の頬を涙がこぼれる。落ちて行く。今日は晴れていて、雨など降っていない。…悲しいほどに、いい天気。ただ少しばかり暖かい風が、歩く彼女の頬をかすめて涙と共に吹き抜ける。
 何が悲しいのかよくわからない。でも、胸をしめつけられるように苦しいのだ。
 

「亜雄! 亜雄!」
家の中から老人の呼ぶ声が聞えてくる。入って行くと、廊下におじいさんと少女が並んで立っていた。一体何だろう?
「亜雄、お姉ちゃんが帰ってきたぞ。おじさんの所から。」
 え? と亜雄は思った。
 何言ってんだろう、じいちゃん。姉ちゃんはずっと前に死んだんだよ。
「どうだ、うれしいだろう?」
でも…きれいな女の子。これからずっと暮らすつもりで…。
「どうだ、うれしいだろう?」
 亜雄は笑って「うん。」とうなずいた。
 姉ちゃんの、身代わりにするんだな。

 
  葉子が玄関へついたら、そこには「大学生ぐらいの男の人」が、外を見て、つっ立っていた。葉子はしばらく、彼をじっと見ていた。すると、彼が葉子の視線に気がついたのか、彼女の方を振り帰った。
「田崎…葉子さん…ですか?」
男がきいた。
「ええ、そうです。…あなた、誰ですか?」
葉子がにらみがちな目で言ったので、男は多少ためらいがちに答えた。
「はじめまして―――とは言いがたいんだけど、僕は堀川圭吾と言います。」
 恵理と中川がちょうどそこへ降りてきた。しかし葉子は全く気付かないようだ。
「その、堀川さんが、私に何の用なんですか?」
「ずっと、君を捜し続けていたんだ。」
「?」
「―――君は、成美だろう? 大きくなって、感じは少し変わったけど…」
 圭吾は葉子に近づこうとした。葉子は、後ずさりして、言った。
「な、何わけのわからないこと言ってるの? 成美――ですって?」
「! 本当に記憶を失っているのか?」
「?」
葉子は表情をかたくして堀川を見上げた。…―――――――――。
 

 朝早く、まだ薄暗いうちから、辺りには霧が立ち込めていた。車の通りのほとんどない早朝、だからこそ、涼子は気を緩めていたのかもしれない。この通りから右の細い通りに入ると家に近づく。急がなければ。いつ追っ手がやってくるかもしれないのだ。白い、霧の中、涼子は気付かない。その通りに入る二人を、横から車で待ち伏せしている山本周一に…。山本周一と晶子の利害は一致している。遠方の電灯の影に二人の姿が浮かび上がると周一は車のエンジンをかけた。車の音が近づいてくる。だからといって、涼子は何をする余裕もなかったが…。
 やがてライトが涼子を照らす。そのすぐ後にキキ―――という嫌な音が辺りに響いた。良子の体が宙に舞い上がり、その次の瞬間、地面へ叩きつけられた。
「どこ? ママ、怖いよ。成美を一人にしないで。」
 いきなり離れた母親の手を探していた成美は、うす暗い、霧の中、ライトの反射の中に微かに浮かび上がる山本周一を見た。蛇のような、目。口元に薄く笑みを浮かべた、ひとでなしの顔をしている。その目の視線に従うまま視線を動かすと、三メートルもはなれていない所に、母親をみつけた。
 彼女にはしばらく何が起こったのか解らなかった。ドアの閉まる音。逃げて行く車。
「見られていたかもしれない。」
アメリカに逃げて行った山本周一。
 

 ――――――…
 自分自身のことを言われているのに、それは全く自分の知らない事。自分の知らないことなのに他人は知っている。…昔から彼女はそうだった。いつもそれにどうしようもない不安を感じ、恐怖に襲われる。そして彼女は逃げ出した。他人の言葉を口実に…
「わからない…恐い。」
布団の中に入り、「もう考えてはいけない。」と思う。だけど、眠れない。
 やがてまどろみの中で、繰り返し、繰り返し、つぶやくのだ。
「眠らなきゃ、眠らなきゃ、夜明けが来てしまう。」
 ――――――
 

「ねえ、パパ。」
成美は隣の席に座っている父親に声をかけた。寿樹は娘の望み通り、観光バスで団体温泉旅行をかねて、その母親の実家へと送っていくのだった。今走っている雪山を下りきったら、駅でタクシーに乗り換えて、祖母のうちまで送っていく予定である。
 成美の声に、寿樹は娘の方に目をやった。バスの中の他の乗客は、旅の疲れかほとんどの人が眠っていた。
「あたしいつまでおばあちゃんの家にいるの?」
娘は視線を父親に移しながら、言葉を継いだ。
 父親は困ったような顔をして、その娘の目を見つめ返した。
「いつまでって、そうだなあ、成美が帰ってもいいと思うまでかな。」
成美はまっすぐな瞳を父親に向けている。しばらく父親の顔をみつめた後で、彼女は視線を前に戻した。
「パパ。」成美は言葉を継いだ。「晶子さんはいつまであの家にいるの?」
寿樹はギクリとした。それから戸惑うようにはにかむと、
「晶子さん…って、お母さんのことかい?」
「あんな人お母さんじゃないわ。あたしのママは死んだママだけ。あんな人、母親じゃないわ。」
もうすぐ十二歳になる娘は、最近時折ドキリとするような生意気な口をきくことがあった。寿樹は成美をたしなめようと、彼女の肩に手をかけようとすると、ふいに成美はこちらを向いた。
「ママを殺したのはあの人よ。」
寿樹はギクリとした。
「ママを殺したのは、あの晶子って人よ。あたし、ママが死んだ日、あたしおじいちゃんのお迎えって、男の人達に連れて行かれて、眠らされてた。でも、覚えてる。何度も違うと思ったけど、あたしきいたもの。あの人の声を。ママが死んだ日のことは、何も覚えてないけど、でも、その前の日、ドア越しだけど、確かにあの人の声きいたのよ。最初、会った時、まさか違うと思ったの。でも考えれば考えるほど、そうなのよ。あの女は、ママになりかわりたくて、ママを殺したのよ!」
成美は押し殺した声でしゃべり続けている。それでも、寿樹は周囲に気配を配った。
「成美、成美、根も歯もないこというもんじゃない!」
寿樹は声を落として成美をたしなめる。
「根も歯もないことじゃないわ。あたし」
ふいに、成美の脳裏にぼんやりとした霧が霞めて、「ああ!」と声を上げた。
 成美の体が激しく痙攣しはじめた。汗がどっとにじんで、寿樹にしがみつく。
「あああああ! ああ!」
寿樹は成美を必死で抱きしめた。娘はまだ痙攣を続けている。荒い息の中で、彼女は汗と涙でびっしょりの顔を上げた。
「パパ、パパ、あの女を追い出して。でないと、あたし一生帰れない。一生、一生…。」
「成美、成美、落ちつきなさい。そんなこと言うもんじゃない。お前もいつか大きくなったら分かる日が」
「来ないわ!」
「そんな日、永遠に来ない。絶対来ない! あたしはいつまで、我慢すればいいの? あたしはいつまで」
 成美は座席の上に立ちあがった。そして、バスの窓をこじ開けようとした。
「成美やめなさい!」
「もういい。もう…!」
前で休んでいたバスガイドが立ちあがり、「お客様、お客様、外は風が強くて危ないですから、窓を開けないでください。お客様」と声をかけた。「お嬢ちゃん」と声をかけたところで、車はカーブを曲がるところだった。ガタンと窓が開け放たれ、ひどい突風と共に、雪が激しい勢いで吹き込んできた。
 「お客様、おやめください!」とバスガイドが叫んだ時、バスがグラリと大きく揺れ、途端にバランスを失った。「キャー」と室内に響き渡る悲鳴、風の音―――。
 瞬間、フタリ、と、彼女の視界が、ファインダーを閉じるように、閉じられてしまった。
 

 目の前の晶子が「どさり」と音を立てて倒れる。誰も、動かない。誰も、動けない。
 葉子はゆっくり晶子に歩み寄る。
―――オマエ ナニ ヲ シタイ ノ ?――――
分からないわ。
―――オマエ ハ ナニ ヲ ドウ シタカッタ ノ―――
考えたくないのよ!
 晶子の頭部からは、まるでビンの底からインクがもれるように、血が地面を赤く染めていく。
『一人はイヤ。誰かそばにいて欲しい。』
 涼子は動かない――晶子は動かない。辺りには沈黙しかなくなった。十七歳の彼女は…彼女は迷子になってしまった子供のような目をしている。ゆっくりと口が開けられていく。
「ままぁ―――――」
置き去りにされた、一人の子供。
――――――それは、霧の中―――――――